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夕方を通り越して夜になり、目が覚めても朝は来なかった。時計の針は間違いなく普段通りの時刻を記していたが、カーテンを開けても薄明るいだけで、陽が何処にも見当たらない。雨は深々と降り注ぎ、部屋の中に静かな無音を作り出していた。誰の奇声も聞こえない、車の音も鳥の声も聞こえない。この部屋で聞こえる音は、僕の息使いとベッドの軋む音だけだ。もしかしたなら、これは夢の中なのかもしれないが、僕の思考では想像しきれぬ細かな描写が夢ではなく現実だと僕に告げた。
血は未だ治まらない。身体が重い、吐き気もした。だが、これを誰かに伝えることなどどうして出来るだろう。試しに、「今日は学校を休みたい」と話してみたが、具体的なことを言えないので、僕の案は一蹴され、不真面目のレッテルを張られ、追い出されるように学校に向かった。合羽を着て、顔と前髪だけを濡らし学校へ向かう。いっそ台風でも来て学校が休みにならないかと空想したが、この時期に台風が来るはずもない、無意味な空想である。
まず、学校に着いたなら保健室に洗濯した下着を返さなければならない。血は流れ続けているので、オムツを学校にいる間に何度か換えなければならない。説明は受けているので、オムツの名前が一般的にナプキンと呼ばれ、女子トイレにある箱が捨てるためのものだと言うことは理解していた。
「ミーキ、おはよう」
さくらの声が聞こえ顔を上げたが、何処にも彼女の姿が無い。幻聴だったのかと首を傾げると、目の前の女子が合羽を自転車の上に干しながら「昨日早退したみたいだけど、大丈夫なの、」と親しげに声を掛けている。さくらと同じ声だが、彼女には顔が無い。クラスメイトの誰かなのだろうと思った。
「うん、まあ。ちょっと」
「なんか、まだ顔色も悪いみたい」
やけに親しげにしてくる女子で、どうすればよいのか戸惑っていると、ふと傍にある校舎の窓が視界に入り、そこには僕とさくらの色素のない象形が映っていた。
「・・・さくら、」
「何、」
返事をしたのは、目の前の少女だった。つまり、彼女がさくら、なのだろう。肌色が顔に張り付き、彼女の顔がわからない。
わからない、僕には、彼女の顔がわからない。
「ミキ、どうしたの、ねえ、」
さくらの声がするのに、さくらはいない。否、さくらはここにいる、それなのに、僕には、見えない。
見えない、さくらが、見えない。
吐いてしまいそうだった。けれど、嫌悪感が生じるだけで、吐き気を身体が抑え込んだ。
彼女にしてみれば、何とも酷い友達だろう。勝手に人の顔を忘れて、悲しんでいるのだ。しかも、それを彼女はけして知らない。僕は彼女に話すことも出来ない。否、もはや彼女のことなどどうだって良い。僕はもう、僕である理由が分からなくなった。そして、そんなもの最初から無いことを、ようやく認めざる得なくなった。
僕は男じゃない。けれど、僕は女にもなれない。しかし、女として生きなければならない。社会は、どちらかでなければ認めない。つまり、僕は僕の精神にも社会的にも認められない存在になったというわけだ。存在する理由も無く、ただ、消えてしまいたい気持ちだけが溢れる。そうすると、僕が生きるために今まで食べてきた糧、服、呼吸するたびに消えたかもしれない微生物、それらすべてに対して、今まで惰性で生き続けたことを申し訳なく思った。もっと早く僕が消えていれば、一人分のモノが救われていたのではないだろうか。僕がいなければ、あの時あの蝉が籠の中で死ぬことも無く、畑の植物は実を熟して土に還ることが出来ただろう。
長く、生き過ぎたのだ。そうだ、あの日から、思えば長く生きたものだ。生きたくて生きてきたわけではない、身体が望むままに食べて社会に適応しようとしてきただけだ。なら、これから僕が如何するべきか、自ずと見えてくる。
久方ぶりの晴天で、僕は学校の中に居た。教室で、いつものように一人で席についていた。ここに居ても何になるわけでもない、ここに僕が居ようと居まいとクラスは存続する。休み時間になって、教室を出て行った。教室のない、一番高い棟に移動し、階段を上った。二階、三階、四階、そこから先の階段に登ろうとしたが、扉が在って鍵がかかっていた。けれど、扉の傍には窓があり、こちらから開けることが出来た。一体いつから使っていなかったのか、鍵を開けても窓枠が錆びついたので、力を入れてようやく人が一人外に出られるだけの隙間を開けることが出来た。後は、ここから外に出て、そのまま飛び降りるだけで良い。そうすれば、やっと終焉を迎えられる。何も絶望することは無い、総てがただ、終わる、それだけだ。こうして考えている精神も、呼吸し心臓を動かす身体も、何もかも、終わる。
胸の奥に風が吹きすぎるような、漆黒の恐怖が足を引きとめた。それにも増して、僕は今、惰性で生き続けている事実の方が辛いと身体に言い聞かせ、屋上に降りた。すると、今度は本当の風が身体に当たって、砕け、流れて行った。見上げた空は青く、やや灰色が気味の雲がその場に留まろうとするように、ゆっくりと移動していた。
「そこじゃ、無理だ」
振り向くと、いつから居たのだろうか、大輝が窓からこちらを見ていた。彼の顔はまだ、それなりの形を保っていた。
「そんな高さじゃ、確実に死ぬとは限らない。もし失敗したら、精神病院にでも入れられて、恥さらし扱いされるぞ。学校の面子は丸潰れ、親は後ろ指さされること間違いなし」
「・・・死んだら、後のことなんか分からないよ」
「だから、この高さで確実に死ねると思うのか、」
引き留めようとしているのか、単純に死に方が気に入らないのか、錯乱状態の僕に把握出来た筈がない。ただ、彼の登場で興醒めしたのは事実で、今更教室に戻ることも出来ず、そのまま屋上に倒れた。
天高く、水を吸い込んだ空は痛いほど碧い。このまま融けてしまえたら、なんて空想してみるが虚しいだけだ。たとえ死んだとしても、物体として身体が残ってしまう。死んで全てが消えるはずなどない、そんなことは小さい頃から分かっていたことだ。
先ほどまで留まっていた雲が、緩やかに、更に何か大きなものの力で流れて、もう視界の隅にすら映らなくなった。




