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春休みも終わり、新学期に張り出されたクラス名簿から、大輝や佐藤の名前よりも、まず安奈の名前が書かれていないかを探した。ただ、名字を覚えていないので、結局探しようは無かったのだが、気持ちは急いて、探さずには居られなかった。クラス全員の名前を二度三度と眺めたが、それらしい名を見いだせなかったので、期待していたつもりはなかった筈なのに酷く落胆した。
教室に入り、席に着くと羽野と河合の姿を見つけた。残念ながら、佐藤と大輝の姿もなかった。羽野は僕を見つけると、嬉々の表情を浮かべ声を掛けてきた。河合も気を使っているのか、また剣道の見学に来ないかと気軽に話を振ってきた。どうやら、二年生の時のように孤独を感じることだけはないようなので、落胆しても恐怖は薄らいだ。いや、誰と一緒になるかより、高校受験が差し迫っているため、大多数は勉強一転等だったので、参考書を片手に一人になっている生徒も多く、例え僕が二年の時の様に一人だったとしても、生徒はおろか先生も気に掛けなかっただろう。
羽野と佐藤はまだ付き合っており、いや、付き合っているからこそ、羽野は僕に佐藤のことをよく話し、また彼のことを聞いてきた。今では羽野の方が佐藤のことを知っていると思うのだが、それでも彼の話題に飽きはこないようである。惚気というものは、繰り返して聞き続けると、誰の事であっても不快な気持ちになるとそのことから学んだ。河合からは大輝の近況を聞く事が出来、文化祭の時に付き合っていた彼女と別れ、一学年下の新しい彼女が出来たと話していた。どうやら、大輝は僕が思うよりも女子に人気があったようだ。もう昔のような関係に戻れないことは分かっていたので、彼らのことよりも安奈のことに関心が向けられていた。残念ながら、羽野も佐藤も安奈と交友関係が無かったので、彼女情報を耳にする事は出来ず、僕は廊下の窓に目を向け、彼女が背筋を伸ばして凛として歩く姿を眺めるばかりだった。あれほど個性的で且つ妖艶な雰囲気を纏っているのに、どうしてあの姿に目を奪われないで居られるだろう。それを当然だと思う程、僕は彼女に夢中だった。きっと、これが恋というものなのだろう。そうであるならば、いかにして彼女を手に入れ、恋人に出来るのだろうかと何度も思案した。だが、やはり僕は男だと思われていないようなので、正直一徹の態度で告白しても、冗談と流されるだけだ。せめて、友人になれるよう、一言声を掛けたいと望もうと、他人に対し、事務的な連絡すら億劫になっている僕に、気楽な声掛けが出来ようはずもない。思い患うばかりで、結局誰に相談することも出来ないまま、彼女の姿を眺めるだけで数カ月経った。勉強など他の事でも忙しく月日が流れた筈だが、頭の中で残ったものは、彼女の凛とした立ち居振る舞いばかりだった。
夏が来て、プールの授業が始まり、女子と男子は交互にプールを使うことになっていたので、人数の関係から、他のクラスとの合同授業になった。一組と二組の合同で、僕は安奈と一緒に授業を受けることになったのだ。授業は、同じ更衣室で着替えをするため、僕は安奈に対する好奇心に、恥ずかしながら胸が躍った。入ってすぐに部屋の一番角に逃げ込み、タオルで全身を隠しながら女の水着に着替えていると、前の授業の終わりが遅かったのか、隣のクラスの女子が駆けこみながら入ってきた。最初は気づかなかったが、その中に安奈もいたようで、彼女はタオルで体を隠すことなく、服を服とも思わぬのか、汚いものを捨てるように脱ぎ捨て、一応籠の中に放り込んだ。一糸纏わぬ姿を皆に曝したと思う間もなく、淀みの無い動作で黒の水着に着替え、肩に波打つ黒髪をゴムで乱雑に結び終えると、誰よりも先に授業へ出て行った。何とも豪快なその姿に、邪心も失せるほど魅入ってしまった。
彼女だけが黒の水着の所為か、肉付きの良い女子はいくらでもいるはずなのに、彼女以上に魅力的に映る者は他にいない。学年一の美人と評判だった女子でも敵わなかっただろう。そう思うと、すぐにでも誰かにかすめ取られてしまいそうで、何としても彼女と近しくなりたい衝動に駆られた。名前を呼ばれたい、紅く艶めく唇から、僕の名前だけを呼んで欲しい。
その機会は、思うよりも早く廻ってきた。中学の修学旅行は生徒主導なので、仲の良い者同士で組合っても構わないとされていた。その時に、駄目でもともとだと安奈を誘おうと思った。断られた時は、一人で行動すれば良い。気心知らぬ者たちと過ごすより、その方がずっと気楽だ。
放課後、安奈の居る隣のクラスに顔を出し、まだ教科書整理をしている彼女の傍に近づいた。初めに何と声を掛けて良いのか戸惑い、喉が詰まった。
「こ、んにちは」
彼女の瞳が僕を捉え、何とも言えない高揚感に指先が痺れた。
「ああ、確か、ミキだったわね」
「うん。あの、僕、」
人と話すことが苦手になっていたが、彼女に声をかけるだけでも頭の中が真っ白になって、言葉が上手く出てこない。他人から見ると、自分がどれほど滑稽に映っているのか、想像するに難くない。
「修学旅行さ、一緒にまわらないか、誘いに来たんだけど」
安奈の黒く底のない眼が、僕の顔に向けられた。あと一息近付けば、その瞳に僕の姿が映りそうだった。
「まるで、デートの誘いね」
「え、」
心臓が一度、どくりと動き、それきり静まった。てっきり止まってしまったものと思ったが、脈に指をあてると確かに鼓動していた。
「・・・冗談よ。ありがとう、特に親しい人もいなくて、一人で動く予定だったから、助かったわ」
「本当、」
「嘘をついてどうするのよ。あなた、なかなか面白いわね」
肩を揺らして笑う姿は、どこか模造品の様相をして、それでも彼女の美が損なわれることは万に一もない。また、見惚れてしまいそうだったが、それより前に彼女の指が僕の肩に触れて、「良かったら一緒に帰りましょう」と声を掛けてきたものだから、僕は心の中で飛び上がらんばかりに歓喜していた。
恋をするというのは、こういうことなのではないだろうか。その人の一挙手一頭で、天国へも地獄へでも投げ捨ててくれて構わない気持ちになってしまう。
僕は彼女が隣に歩いているだけで、頭へ運ぶ筈の酸素が減ってしまったと錯覚するほど、まいっていた。どうして他の生徒は、彼女が傍にいて何も思わずにいられるのだろうか。
「ミキは、男だったわね」
「え、あ・・・」
彼女がそんなことまで覚えているとは思わず、僕は考えあぐねた挙句、首を縦に振った。黒い瞳が、舐めるように僕の体に視線を這わせて、薄く笑みを浮かべた。
「まあ、いいわ。私はあなたを、男と思ったらいいの、」
「いや、えっと」
まさか、真剣に受け止められるともおもわなかったので、正直戸惑った。その戸惑いが分かっているのか、いや、敢えて戸惑わせたかったのか、安奈は意味深長な顔で僕を見ていた。
答えなければならない。答えは、決まっていたはずだ。それなのに、手が震えて、声が出せない。彼女には、自分を知ってもらいたい。誰かに自分を知ってもらうには、自分ことを伝える以外に方法はない。僕には、僕のことをよく知る人物など皆無なのだから、尚更僕自身が伝えなければならない。それなのに、どうして僕はいつもの答えが言えないのだろう。
「・・・あなたはミキ、よね。それでいいわ」
彼女は、変わった子だ。どこがどう変わっているのか巧く言葉に出来ないが、纏っている雰囲気からして他とは一線を画している。彼女の目はどこか遠く、誰も知らないところに向けられて、きっと、僕なぞ本当は瞳の端にすら映っていなかったに違いない。
どうにかして振り向かせたいが、その知恵が僕にはない。相談しようにも、大輝とは口も利かないほど仲が悪くなっている。だからと言っても、口の聞ける羽野に、このような相談など出来る筈がない。河合も同じだ。こういう話は、昔なら佐藤にしていた。けれど、羽野の手前、声を掛けて恨みを買ってしまうのは怖い。僕が佐藤に何かするわけないが、羽野の独占欲が強ければ、何をしても恨まれる。小学のとき、佐藤が爪弾きにされたことを思い出し、あまりいい反応は想像出来なかった。




