16
始めのうちは、図書室で時間を潰し、閉まってからは放送室で過ごしていた。当時、時間は有り余るほどあって、僕は何もせずに時間を浪費するか、たまに真面目になって宿題をしていた。それでも手持無沙汰になるので、部活動の見学や小学生の時のように学校内を探検もした。もう女子トイレに入ることへの躊躇も無くなってきていたので、トイレを探していた訳ではなく、純粋な好奇心から歩きまわっていた。
校舎と体育館の渡り廊下の隣、一切使われることのないエレベーターの隣には、丁度よい形の塀があり、よくそこに上って、丸みのあるカーブした側面に身体を押し付けて空を見ていた。放課後だったので誰にも見つからずにいたのだが、いや、もしかしたら気づいていた誰かがいたかも知れないが、大輝に見つかってしまった。
「お前、制服でそんなとこ上んなよ」
大輝に見つかったのはある意味自然なことだった。体育館の下は柔剣道場になっており、彼は何を思ったのか剣道に入部していた。以前から、週一で道場に通っていたとは聞いていたが、大輝はサッカーが一番好きだと言って、いつも遊ぶ時はサッカーをしていたので、どうして一番好きなことをしないのか分からなかった。
「・・・大輝くん、くさーいです」
「てめ、人が気にしていることを!」
話しを逸らすための言葉に、予想以上に反応し、大輝は小手を投げてきた。それを掴んだところ、体のバランスが崩れて落下した。頭から落ちなかったから良かったが、両手がふさがっていたので膝からコンクリートに落ちたため、骨に響いた。痛みに涙が出そうになったが、中学生になってこんなことで泣くのは恥ずかしいと思い、奥歯を噛みしめてこらえた。
「おい、大丈夫か、」
「痛い。大輝くんのせーいーでーすー」
「そんな所に上ってるからだろう」
近づいてきた大輝からは、やはり防具に染み付いて取れない汗の匂いがした。腕の中にある小手と同じ匂いで、確かに臭いが嫌悪するような匂いではなかった。けれど、大輝が何かを気にすることが珍しかったので、悪戯心が僕にもあったのか、ただ臭いと言って笑った。
「臭い臭い言うな。これでも、スプレーしてんぞ」
「いやいや、いま汗かいてるなら意味無いって」
小手を返してケラケラ笑うと、大輝がふざけて腕で首を絞めてきた。湿った道着の袖が鼻を塞ぎ、背中に胴が当たった。
「臭し痛いよっ、」
「臭いって言うな」
「わかった、もう言わないから離してくれ」
腕を何度か軽く叩くと、大輝は苦笑しながら僕を解放した。少し、僕も彼の匂いが移ったのだろうか、離れても防具の臭いが制服から漂った。
「うわ、お前血出てるぞ」
言われて視線を落とし、膝から血が噴き出ていることに気づいた。ただ、見た目ほど痛いわけではない。血が出ているときの方が、皮膚をすったときの摩擦よりも痛みは一瞬で、永続的ではない。本当はそんなことはないのだろうが、血が出ているときのほうが安心していられた。
大輝が気にするので、すぐ傍の流しに向い、靴と靴下を脱いで流しに足を突っ込み水を掛けた。血の赤い色が水と交わり薄れ、皮膚と変わらぬ色になって排水溝に流れて行った。まるで、僕の血が消えたような錯覚だ。けど、それは薄まっただけで、血が水の中から消えてしまったわけではない。排水溝を下り、下水に溜まって、それから僕の血はどこまで行くのだろうか。それとも、本当に消えてしまうのだろうか。
「足を入れるな、足を」
大輝に頭を叩かれ、仕方なく足を流しから下ろしたが、濡れた足で地面を踏みたくなかったので、向きを変えて流しに腰掛け、血の薄まった右足を宙に浮かせて風に当てた。何がそんなに不愉快なのか、大輝は眉を潜めたまま目を逸らしていた。
「大輝は案外、細かいよな」
「・・・お前が常識外なんだよ。それに、この流しで俺らは水飲んでるんだ」
水には流れるものだというのに、気にし過ぎている。反論しようと思ったが、彼には彼の考え方があるので言うのは止めた。
「大輝、部活は何時に終わるんだ、」
「ん、ああ。いつも下校の曲が流れた後に止めてるな」
「そのあとすぐに帰るのか。じゃあ、僕と同じだな」
僕の言葉に、大輝はからかう様にニヤリと笑った。その笑い方は、今も昔も彼が親分だと分からせるものだった。
「一人で帰るのが怖かったんだろう。ミキはホントに怖がりで弱虫だからな」
「そんなことないけどさ」
口を尖らせるが、すっかり本心を見抜かれている今、意味がない。
「はいはい、わかったわかった。一緒に帰ってやるよ」
「・・・部活に戻らなくてもいいのかなぁ、」
恥ずかしさから早く練習に戻れと道場を指差すと、大輝は「やべ、休憩過ぎてる」と慌てて中に入って行った。彼が叱られる姿を想像しつつ、一人で帰らなくて済むことに安堵していた。僕は学校と家との間、外というものが未だに怖かった。明確な恐怖ではなく、見えないものに対する言い知れぬ不安だ。放課後といえば日は陰り、辺りは薄暗くなって、誰もいないと分かっていながら、その道の影から何かが飛び出してくるような空想にいつも怯えていた。
おそらく僕が、柔剣道場の傍のあの場所が気に入っていた理由の一つに、意識の奥底で大輝に気づいて欲しい思いがあったのだろうか。佐藤でも良かっただろうが、大輝ならば家が隣であり、帰り道で一人になることが無いので安心感があった。
放課後の放送を終えてから、僕は大輝と一緒に帰るようになった。放送の仕事が無い日は、他の生徒もいる中で先に一人で帰っていたが、仕事があるとしばらくはまた塀に上って、大輝が来るのを待つようにしていた。けれども、大輝が「危ないから止めろ」とうるさく注意するので、仕方なく僕は道場の端に置かれた畳の山に、隠れるよう座って待つようなった。
だが、「見ているだけなら手伝え」と大輝に言われたので、仕方なく、試合稽古の時計係りを任され、部活後のモップ拭きも手伝う羽目になった。
中学の勉強も交友関係も毎日が楽しいというわけではなかったが、数か月も経つと制服にも慣れるもので、不満も不安もほとんど忘れるか、抑圧された。それよりも、毎日新しい勉強ばかりで、駆け抜けるように一日が経つのである。だから僕は、時折響く母の怒声も、部屋に籠ってばかりの姉も、更に無口になって行く父も、全て考えないふりをしていた。そして二学期が始まってしばらく経ってから、僕は家の客間で正座し、両親と対峙する姉を見た。僕の中で、おそらく初めて見る姉と両親との対立であり、そのことがあまりにも印象的で、もっと楽しかっただろう運動会も文化祭も、それら一切の記憶がその日を境に数か月ほど消え失せるほどだった。