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 夏が来て、女子の何人かが水泳を見学するようになり始めたが、僕はその理由を知らないと思いこんだ。少し考えればわかることだったが、まだその知識がないと押し込んだのだ。大輝は女子を見ながら、「もったいねぇ」と自由時間泳ぎながら言っていたのを聞き、彼もまだ知らないのだと思い、僕も「そうだね」と返し、何分息を止めていられるかを測る死体ごっこで遊んでいた。子供が子どもであろうとするのは、人が思うよりもずっと難しく、外から見れば何とも楽しげに見えるのだ。いかにバカになるか、自然な本心のような言葉を選ぶかを頭で考えなければならない。どの程度の知識までを知っているふりをすればよいのか、どの程度の愛嬌が一番自然に映るか。ともわれ、子どもらしさを微塵も疑われたことがなく、「悩みが無くて羨ましい」とまで言わしめたので、演じることには長けていた。そうして、僕は子どもにも大人にも、どの程度の子どもであるかを伝えていた。もちろん、子どもに対しても、物事を円滑に進めるために、徐々に女子とも会話をすることを試みていた。なにしろ、修学旅行があるので、誰と同室、同席することになるのかわからない中、当たり障りなく友人の一人として過ごさなければならないのだ。

 修学旅行、これは本当に嫌なものだった。多くの顔のない人の間、知らない土地を班になって、先生の指示通りに行動する。いや、それは格別苦痛ではなかった。決められた班分けにより、一人になる苦痛はないが、問題は、常に誰かと一緒にいるということだ。女子だけのグループで、僕はその中で一人浮いた存在に思えた。僕は同じ服を着ていながら、まるで女装した化け物のようだ。

 初日は遺跡を眺め、午後からはグループになって街を歩いた。遺跡の時は一人で眺めて楽しかったが、班行動になると歩きまわるので、どうしても手持無沙汰になり、女子同士の会話が繰り広げられてしまう。居心地の悪さととばっちりを避けるために、僕は少し後ろに下がって周囲を眺めていた。どの大人も顔がなく、俯いて歩いている。空は青い色で、何もせずにただ立っているだけでも十分に思うが、皆何を食べるか何を見たいか、人の造り出したものに夢中だ。このままこの班から離れて、空を眺めて一日過ごしたいものだが、それでは迷惑がかかるので実行するわけにもいかない。

 「どうしたの、」

 誰のことを言っているのか、しかし、女子は僕の顔を見ている。目の前の女子の名前を思い出せず、制服の名札を見て「羽野」と確認した。

 「何でもないよ」

 「そう。それなら、次に何がいいかな」

 そう言って僕に見せたのは、観光者向けの地図だった。別に見たいものなど無く、「どこでもいいよ」と首を振った。それでは駄目だったのか、羽野はもう一度地図を広げて、僕に渡した。

 「だって、せっかくの修学旅行なのに、私たちばっかり行きたいところに行ってもさ」

 善意から言っているのはわかるが、何か適当に言い繕わなければ、今後の班行動に支障をきたす。羽野の視線を避けるように地図を眺めて、取り敢えず一番ここから近い寺院を指差した。何の寺かなどわからないし、興味もなければ、神も仏も信じていない。いや、信じるというか、信用していないというほうが正しいかもしれない。

 「なら、次はここに行こうね」

 羽野はまた地図を取り上げて歩き始めた。僕は視線が離れたことに安堵し、後ろについて歩いた。行きたい所など無い、修学旅行などこちらの意向を無視して、学校側が勝手に目的地を定め、制限された時間と空間内を移動させるものだ。親しくもない人間との旅ほど、退屈なものはない。早く時間が過ぎてしまえばいい、たった二日、けれど、二日も他人と常に行動しなければならない。一人の時間がない、これは思った以上に苦しい。

 夕食の時間は自由だったので、佐藤を見つけて彼の隣に座った。夕食はすき焼きで、他に前の席に二人女子が座ったので、佐藤は少し居心地が悪そうだった。今の彼になら、僕のこの苦痛が伝わるかもしれない。

 「佐藤はいいね」

 「え、何で、」

 前の女子は隣の同じグループの子との話に夢中で、こちらのことも鍋のことも目が行っていない。楽しくて仕方がないと、声に出さずとも表情でわかる。先生たちも同じ席で鍋を食べながら、「ビールが飲みたい」と言っていた。そんなに飲みたいなら、子どもなぞ気にせずに飲んでしまえばいいのに、教育者とはおかしなものだ。彼らがどのような人間に育てようと努力しても、その結果がこの世にいる大人たちになる。酒飲み、暴力、殺し、奪い、嘆いて過去に帰りたいと願うものばかり。

 「・・・変われるものなら、変わってほしい」

 「班の人が苦手なのか」

 「そうじゃない。けど、風呂とか、同じ部屋で寝るのとか、着替えとか、僕は・・・」

 酷い言い方をすれば、吐き気がする。食事中に言うことではなく、また、女子がいるので言いにくい。僕の言葉に、佐藤は苦笑した。

 「オレも変わるのはちょっと嫌だな」

 「そうだよね」

 「そんな落ち込むなよ。気にしない、気にしない」

 佐藤はすき焼きに手を伸ばし、おいしそうな牛肉を卵の中に浸して口に含んだ。生まれる筈だったかもしれない卵、命を終えた肉、混ざり合って誰かの糧に変わる。もともと生まれない筈の玉子だったかもしれないが、その黄身の中に肉をつける気にはならず、卵は鍋の傍に追いやった。

 「・・・でも、僕は」

 「気になるなら、眼を閉じるとか、時間をずらすとか、出来ることはあるように思うよ」

 「人ごとだと思って・・・」

 「だって、オレには何も出来ないよ」

 申し訳なさそうに苦笑する彼に、それ以上悪態を吐くわけにもいかず、また、女子が鍋に気づいてしゃべりながら箸をつけるので、食べられてしまう前に食べなければならない。人がご飯を食べる姿はなんて醜いのだろうか、味付けのための黄身がたっぷりついた肉、白菜、それをすすり取るように口を大きく開けて呑み込む。すする音、奥歯で引き裂きこぐ音、くちゃくちゃと唾液とまざった食物の入った口で会話をする人間。僕も同じ姿をしているのだろうか、嫌悪があるわけではない、生命活動を維持するためには身体が欲するのだ。それを否定しては人間というものは成り立たない。喰わなければ生きていけない、生きていけるとしたら、現代科学によって無理やり栄養を与えられる状態になればいい。僕はそこまでして生きたくはないし、きっと、ほんとうにそこまでして生きたいと思う人は少ないのではないだろうか。それでも生かされているのは、周囲の人の欲望、喪失への恐怖でしかない。

 すき焼きを食べ終わると、デザートにフルーツの切り身が回された。甘辛い肉汁のあとに、さっぱりとした酸味、後味がよいが、良いことによって僕は喰らってしまった命のことをすべて忘れて行く。

 「おいしかったね」

 「うん、」

 たぶん、上の空だ。普段ならそこまで気にかけない、きっと、現実逃避をするために、必要以上に些細なことを深く悩み、現実を薄めてしまっているのだ。身体と精神は必死になって、僕を明日も生きられるように作用し続けている。僕の身体も精神も一つでやっと存在しうるので、それが失われると僕の消失、同時に身体と精神の消失になるのだから、生かすように生きるように向上させていくのは当然だ。

 佐藤は同じ部屋の男子たちと部屋を出て、僕は一人、女子たちに気づかれないように廊下に出た。このまま走って逃げ出せたら、どんなに良いだろうか。実行はしない、それで解決出来たとしても、その後のことを考えれば面倒が多すぎる。逃亡を空想するだけで、僕はそれきり考えるのを止めて部屋に戻った。布団の準備は終わっており、狭い部屋の中に六つの布団が並んで敷いてあった。


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