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終末の音楽

作者: 西武明

 私が彼について語るときに口が重くなるのは当然だと思う。彼の運命に深く関わったものは、誰しも後で後悔することになるのだから。


 私が彼に会ったのはある街だった。その名は敢えて伏せておくことにする。十九世紀の建築様式を色濃く残した赤煉瓦の街並が印象的な、ニューイングランド地方のある街だった。私が最初、彼を見たときは驚いたものだ。美醜の基準というものは人によって異なるものだが、彼の顔を見た多くの人間が意見を一致させるに違いない。これほどまでに美しい顔を私は見たことが無い。私は詩人たちの使うような大げさな修辞はあまり好きではないが、まさしく彼はそれが似合う男だった。


 初めて彼に会ったとき、彼はその街の大通りに面する喫茶店の片隅で、静かにペーパーバックを読んでいた。

 

「こんにちは。何を読んでいるの」


 私が彼に声をかけた理由というのは、正直に言うと彼の顔に惹かれたからだった。幾分私は退屈していた(長期休暇を利用してその街に観光に来たのはいいが、二、三日で飽きてしまったのだ)。それに、故郷から遠く離れたこの地で、人恋しくなっていたのは確かだった。


「バラードだよ」


 彼はそっけなく答えた。私はそれを聞いたとき、それが作家の名前だということに気が付かなかった。私がその単語からまず連想したのはハ長調で始まる八分の六拍子のショパンの曲だった。それからドイツの詩人たち。


「それって、何かの詩なの?」


 彼は本から目を離し、胡乱気な目付きでこちらを見た。何だろう、この女は、とでも言うように。


「違う、サイエンス・フィクションだ」

 

 サイエンス・フィクション。私がその言葉から想像したのは巨大な帝国を相手取り、宇宙を舞台にドンパチやるような映画だった。私がそう言うと、彼は、そういうのはスペースオペラと言うんだ、と笑った。


「サイエンス・フィクションにもいろいろあるんだよ。サイバーパンクとか、ワイド・スクリーン・バロックとか」


 じゃあ、今読んでいるのは何なの、と問うと彼はこう言った。


「一般的には新しい波(ニューウェーブ)って呼ばれているけど、僕にはぴんと来ないな。そう呼ばれていた時代を僕は生きていた訳じゃないから、何が新しくて何がそうじゃなかったのかなんて分からない」


「でも、あなたはその人の書いた本が好きなんでしょう」


 私の言葉を聞いて、彼は少し寂しそうな顔をして笑う。


「うん。それに僕は、この風景を心に刻まなければならないから」


 どうしてなのか分からないが、私は彼にその理由を聞いてはいけないような気がした。その行為は彼の心の中に土足で踏み込むように思えたのだ。だから私は別のことを彼に聞いた。


「それって本の中に出てくる風景のこと?」


「そうだよ。どうしようもなく美しい終末の風景だ」


 そう言って彼は口を閉じた。私は彼に何と言っていいのか分からなかった。彼には世界の終わりを望む心があるのだろうか。だが、ノストラダムスの予言した年はとうに過ぎた。それを望むのは世間的には褒められたことではないだろう。しかし、だからどうだと言うのだ。私も人生に飽いてこの場にいるのではないのか。ゆえに私は彼にこう言った。


「もしも世界に終わりが来るのなら、美しいほうがいいわね」


「そうだね。本当にその通りだ」


 彼は穏やかに微笑んで私の顔を見た。私はその笑みにすっかり魅了されてしまった。

 

 それから、私と彼はしょっちゅうその喫茶店で会うようになった。彼は自分の読んでいる本の話をし、私はそれを静かに眺める。彼の話す顔を見ているだけで、私は飽きなかった。何しろこの顔だ、さぞかし女性にもてるだろうと思いきや、しばらく付き合ううちに、そうでもないことに気が付いた。彼は人と話すときに見えない壁を作っているのだ。たわいのない会話なら、彼はいくらでも話す。しかし、彼自身のことに話が及ぶと、途端に口を噤むのだった。


「ねえ。いい加減、あなたのことを教えてくれないかしら」


 業を煮やした私は、彼にそう聞いた。


「実を言うと、僕は君のことが好きなんだよ。だから僕のことを君に教える訳にはいかない」


 それを聞いた私は顔を赤らめた。それから「好き」の意味を履き違えたのではないかと思い、彼に聞き返す。


「それってどういう意味?」


「大切な人だってことだよ」


 どうやら彼は私のことを大切に思ってくれているらしかった。しかし、好きな人間に自分のことを知られたくないというのはどういうことだろうか。私なら彼にもっと自分のことを知ってほしいと思うのに。私はその次の日、思い詰めてある行動に出た。喫茶店で別れた後、彼の後を付けてみることにしたのだ。彼はその街の大通りから、交差点を渡って、裏路地へと入っていく。しばらくして、彼は足を止めた。


 そこにあったのは、まるでこの街に似つかわしくない建物だった。この街の大部分を占める重々しいヴィクトリア様式の建物ではなく、もっと近代的なビルディングだ。それでも建てられてから大分経っているのか、どことなくくたびれはてた雰囲気を醸しだしていた。それは五階建てで、剥き出しのコンクリートが印象的な建物だった。彼は躊躇いなくその建物の中に入っていく。それはどう見てもアパートやマンションのような、人が住むことを目的として作られた建物ではなかった。むしろ、オフィスビルのような雰囲気だ。私はそこで、彼が出てくるのを待つことにした。しかしいくら待っても彼は建物から出てこない。散々迷った挙句、私はその建物に足を踏み入れた。


 驚くべきことに、そのビルディングの中には誰もいなかった。随分と奇妙なことだ、と私は思う。入り口は普通に開いていたのに。こんな建物を使用せずに、放置しておくなんて、勿体無い。そもそも、入り口を開けっ放しにしておくのは変ではないのか。彼は入るとき、特に鍵を開けた様子もなかった。私は上の階に上がろうと思い、入り口近くにあるエレベーターに乗ろうとボタンを押したが、反応しない。どうやら、電源が入っていないようだった。私は奥にある階段を登って上の階へ上がった。私は彼を探し、ビルの内部を歩きまわる。しばらく歩きまわったが、彼を見つけることは叶わなかった。随分と彷徨った後、私は五階の廊下の一番奥に、ある部屋を見つけた。扉は両開きになっていて、広い部屋なのだろう、ということは遠目にも分かる。


 私は誘惑に負けて、その部屋の扉を開けてしまった。


 そこはもはやビルの一室などではなかった。天井があるはずのところには、無数の星が見える。足元は今まで踏んでいたリノリウム製の床材ではなく、湿った土だった。どこからか聞こえてくるのは、何とも名状しがたい音色だった。それに合わせるようにして歌が聴こえた。


   "Quand le poisson terrestre et aquatique (大地と海に棲まう魚が)

   Par forte vague au gravier sera mis, (激しい波によって岸辺に打ち上げられ)

   Sa forme estrange suave et horrifique, (おぞましくも甘美で奇怪なその姿をあらわすとき)

   Par mer aux murs bien tost les ennemis." (海を渡って敵たちがすぐ壁のところまで迫っている)


 その歌を歌っているのは、彼だ。それはおよそ人間の出すような声ではなかった。その後ろに流れている音色は身の毛もよだつものだったが、彼の美しい声で、何とか聴けるものになっていた。しばらくして、私に気が付いたのか、彼は歌うのを止めた。後に残されたのは慄然たる狂乱の音色のみ。それはこの世の中のどのような音にも似ていなかった。存在している楽器で、それにもっとも近いものと言えば、フルートだろうか。可聴域ぎりぎりのつんざくような音が、鼓膜を震わせる。執拗に繰り返されるのは二度と七度の不協和音。前世紀の作曲家たちが十二音技法を駆使して作りだした無調音楽のような、鳥肌の立つ旋律。寄せては返す波のような、秩序正しい混沌のメロディー。思わず私は耳を塞ぐ。


 もはや、私にとってその音を聞くことは拷問だった。無限にも等しい時間が過ぎる。ようやく、忌々しい音が途切れた。気が付けば体中に冷や汗をびっしょりとかいている。彼は振りむいて私のほうを見た。


「聴いてしまったんだね。神々の音楽を」


 彼はどこか悲しそうに言った。


「あなたは何をしていたの。そもそもあの音は、一体何なの!」


 私は彼を問い詰める。あの狂乱の音色は絶対音感を持つ私にとって耐え難いものだった。もう少し長い時間聞いていれば、おそらく発狂していただろう。


「僕は、神々の音楽を調律しているんだ。そうしないと、この惑星はすぐに滅びてしまうから」


「どういうことなの」


 私の質問に、彼は淡々と言った。


「君は水瓶座の時代エイジ・オブ・アクエリアスって言葉を聞いたことがない? 占星術の用語なんだけど」


 私はその言葉を知らなかったので、首を横に振った。


「この惑星は、およそ二万六千年かけて、歳差運動をしている。そう、まるで独楽(こま)を回したときにそれが首を振るように、自転軸を中心にくるくる回っているんだ。春分点が太陽の通り道である星々を巡っていくのに、それだけの長い時間がかかる。今は魚座と水瓶座のちょうど境目にある」


「それと、さっきの音と何の関係があるの?」


「眠れる神々はそこ(・・)にいるんだよ。そして深淵からこちらを覗き込んで歌っているんだ。君も知っているだろう? ノストラダムスの予言を。あれは実のところ当たっていたのさ。あの時から神々は狂乱の歌を歌い続けている。僕はあれを止めるために歌わなければならない」


 私には彼の言葉がとても信じられなかった。だが、先程まで見ていたものは確かに真実だ。ならば彼の言っていることもおそらく正しいのだろう。そこまで考えて、ふと疑問が芽生えた。


「何故あなたがそれをやらなければならないの? あなたは一体何者なの」


 彼は寂しそうな顔をして私の顔を見た。 


「僕のやっていることは、あの星と同じだ」


 彼が指で指し示したのは、赤い星だった。星にあまり詳しくない私でも知っている。蠍座のS字型の、ちょうど真ん中にある星。アンタレス。彼は言葉を続ける。


「戦いの神に対抗するもの。実のところ、僕は人間ではないんだよ。この惑星が神々と戦うために生み出した抗体みたいなものだ」


 彼が人間ではなかったのだ、と知って私は愕然とした。確かに彼には浮世離れした雰囲気があった。その美貌もそうだが、言動の端々に時折垣間見える、地に足の付いていない感じが、彼をそう見せていた。だが、彼が自分の読んでいる本について嬉々として語る顔は、確かに人間のように見えた。彼は決して古い神話に出て来る異貌の神々ではない。


「僕はもうすぐこの街を離れる。だから、君も僕のことを忘れてくれ」


「そんなのってないわ」


 私は思わず叫んで、彼の腕を掴んだ。彼はそれを振り払う。その瞬間、またしても、忌々しい神々の音色が聴こえはじめる。私は両手で耳を塞ぎ、地面にしゃがみこんだ。彼はその美しい声で、再び歌い始めた。


   "Le divin verbe sera du ciel frappe, (神の言葉が天から撃たれるがゆえに)

   Qui ne pourra proceder plus avant: (彼の者はもはや進むことは叶わない)

   Du reserant le secret estoupe, (秘密は啓示によって覆い隠され)

   Qu'on marchera par dessus et devant." (人はその上を歩き前に進むだろう)


「さあ、行くんだ。人類が生き延びるために、僕は歌い続けなければならない。僕は君に終末を見せたくはない。それがたとえどんなに美しいものであっても」


 彼は私を無理矢理その部屋から出した。神々の歌う不気味極まりない旋律が扉の隙間から漏れ聴こえる。あれは人を狂わせる音だ。私には再びその扉を開ける勇気はなかった。ふらついた足取りで階段を降りて、そのビルディングを出た。


 それから私は何度も例の喫茶店を訪れたが、彼に二度と会うことはなかった。私は彼の秘密を知ってしまったことを深く後悔した。彼は自分の存在に関わるものを破滅させることを恐れて私を遠ざけたのだろう。例の建物も、この後すぐに取り壊されてしまった。私はしばらくして、もう一度そこを訪ねてみた。以前あったものが何もない。空を埋めていたはずの、無機質なコンクリート製の壁は見当たらない。そこから見える夜空に私は言い知れぬ寂寥感を感じた。例の星が見えていたのだ。アンタレス。


 私はそれからあの星を見るたびに、彼のことを思いだすようになった。そして今でも私はあの慄然たる神々の音楽に苛まれている。目の前を救急車が通り過ぎ、ドップラー効果によってサイレンの音が半音下がるのを聴くときに。あるいは短い生を精一杯謳歌して鳴き続ける蝉の声を聴くときに。あのメロディーを思い出して、鳥肌が立ってしまう。そんなときは、バッハを聴くことにしている。不思議なことに、他のどんな音を聴いても落ち着かないのに、バッハの曲を聴いたときだけは、心のざわめきが収まるのだ。かの偉大なる作曲家が美しい対位法を用いて神に曲を捧げ続けたのは、あの忌まわしい狂乱の音色を聴いたからに違いないと私は密かに思っている。

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