表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第二章 まどろみの獅子
9/60

1)時脈に埋まる火種 前編


 リョウが診療所の助手として【デェシャータク(週・10日)】に三日から四日詰めるようになってから二週間余りが経った。早ければ午前中から、遅くともお昼少し前辺りに入り、大体日暮れ近くに帰る。送り迎えには、軍部に所属する大型犬のイフィが朝夕まるで騎士のように付き従っていて、街の人々は黒い髪色のでこぼこ組み(コンビ)をその色合いから【チェルニャキー(クロすけたち)】と影で呼んでいた。

 トレヴァルは相変わらず酒瓶を片手に朝から一杯引っ掛けていたが、やってくる患者に対しては信頼のおける術師だった。その酒の出所は、どうも馴染みの酒屋から買っていることも判明した。【イ・アフルム】の蒸留所の主からのように進物として贈られる場合も多いとは聞くが。

 髭も髪も伸び放題で、辛うじて後ろで一つに括られているが、粗末なシャツにズボン、その上にくすんだ色合いの青っぽい膝丈ほどもある長い袖なしのジレェート(ヴェスト)を重ね、腰に巻かれた頑丈そうな太いベルトには、使い古された革の巾着がぶらさがっていた。たっぷりとした白髪混じりの髭にも酒の匂いが染み付いているのには閉口するが、リョウは敢えて文句を言う気にもなれなかった。


 その日 は夫のユルスナールから帰りに広場にある騎士団の詰所の方に寄るようにと言われていた。


 商業組合ミールに登録し、港にある診療所で働くことになったリョウがその出来事の一部始終を語れば、夫のユルスナールはどこか苦笑に似た笑みを浮かべて「余り無理をするな」としか言わなかった。

 丘の上にある騎士団専用の宿舎ではガルーシャの小屋から持ってきた薬草類―根ごと掘り出し、凝固処理の呪いを掛けていたものや種を採取していたものがある―の栽培も始めていた。街の中心部からは少し離れた山の手の方にある宿舎の敷地は雑木林に囲まれており広々としていた。馬場も訓練場も備えられたかなり大規模なものだ。その中にある騎士団長専用の宿舎の一角を使って小さな薬草園を作ろうと思っていた。ここはあちらとでは土の種類が異なるので上手く根付くかは分からなかったが、常時必要な薬草を持つことは術師の基本であったから。その時は肥料を考えるか、最後の手段としてはセレブロに頼んでみようかとも思っている。

 それから、後で時間を見つけて山の方にも出掛けてみようと考えていた。もしかしたら薬草関連で思わぬ掘り出し物が見つかるかも知れない。ここホールムスクは王都側から見てなだらかな山を一つ隔てた所にあるのだ。山はそれほど高くはないが、鬱蒼と木々が色濃く茂っているのをここに来る途中に眺めてきた。街道は山を挟んで北から回り込む道と南側から迂回する道があったが、リョウたち一行は南側から入った。こちらの方が、道幅が広く大人数での移動に適していたからだ。その二本が俗に言う表街道で、山の峠を越える道―裏街道―もあるそうなのだが、こちらは山を越えた麓にある集落同士を繋ぐ地元民の道で、一般的に利用されるものではないとのことだった。


 リョウの基本的な仕事は北の砦の時と比べても然程変わりはなかった。薬草園の着手の他には、軍医であるピョートルの手伝いや馬たちの世話、そして伝令の猛禽類たちとの情報交換などがある。勿論、夫であるユルスナールの身の回りの世話もある。洗濯やら繕いものやらといった細々としたものだ。

 ここに赴任が決まった時、リョウは小振りの牝馬を一頭、シビリークス家から貰い受けた。王都のシビリークス家で飼われていた牝馬でキッシャーの番いだった。名はレーリ。この国の愛を司る神にあやかっている。度胸があって気立てのいい馬だった。何よりもあの【黒き雷】との異名を轟かせたキッシャーが鼻の下を伸ばす程―こんなことを言ったら蹄で蹴られそうだが―の灰色の巻き毛を持つ美しい馬だった。これまでに仔馬を一頭産んでいて、その子はシビリークス邸で長兄ロシニョールの長男スラーヴァの愛馬になっている。


 ちょうど同じ頃、王都の術師養成所で知り合ったヤステルから共に学んだ友人たちの近況を知らせる文が届いていた。王都の伝令屋を使って小振りで威勢の良いハヤブサが飛んで来たのだ。リョウがホールムスクに無事到着したことや街の様子などを簡単に書き綴って送っていたのだが、それに対する返事が来たのだ。

 それによると、おっとりとしたお坊ちゃん風のリヒターと兄貴肌のヤステルは既に養成所を卒業し、リヒターは実家の薬種問屋で家の手伝いを、ヤステルは以前話していたように石の加工を専門とする職人の下に弟子入りしたとあった。辛辣で辛口なもの言いが特徴のニキータも同じように卒業し、第三師団内に術師として働き口を得たそうだ。ひょろりとした学者肌のアルセーニィーは、そのまま養成所で研究者の道を選んだとあった。そして最後、賑やかなお調子者のバリースは、この春に漸く最終試験への扉が開かれた所で、今、卒業に向けて猛勉強中なのだとか。バリースは卒業したら、王都の街中で活動をしている師匠である術師の下に弟子入りする予定だそうだ。

 リョウが卒業してから一年余り、一緒に学んだ年若い友人たちも其々に進路が決まり、新しい道を切り開いたようだ。リョウは当時の面白おかしくも賑やかな日々を思い出して懐かしさに心の奥がじんわりと温かくなった。そして自分も負けていられないと気持ちを新たにした。


 他に王都からは第三師団の長であるゲオルグからも手紙が届いていた。こちらは毎回、軍部専用の伝令を使ったもので堂々たる風采 の(アリョール)がやって来た。内容は術師としての公的な依頼で研究用にストレールカなどの希少な薬草を分けて欲しいとのことだった。こちらの方は定期的に王都へ送られる軍部の託送で送り届けている。


 その他にも、時折、宿舎の厨房で雑用―野菜の皮むきや洗いものなどだ―を手伝いながらここでの調理法を教わったりもした。料理に関しては基本的に専用の料理人たちがいるのでリョウの出る幕はない。そもそも貴族の奥方たちは料理をしないものだ。リョウは庶民派を自認するかなり型破りな方だが、海が間近にあるホールムスクの料理にも興味津々で第七師団のヒルデや引き継ぎの為に残っていた第六師団の料理人たちに邪魔にならないように注意しながら色々話を聞いたりした。


 リョウとユルスナールが暮らしている団長用の別棟には、新婚家庭に気を使っているのか、用事がない限り兵士たちは寄りつかない。元々こちらにも地元で採用した専用の料理人がいたのだが、食事はたとえば特別な客人をもてなすなどの然るべき用事がない限り、一般の兵士たちと同じ食堂でとることにしたので、専属の料理人には基本的に食堂の方に合流してもらっている。一応、台所には厨房と呼べるような立派な設備があった。今はまだ手が回っていないが、リョウも機会があればこれから使いたいと思っていた。夜中お腹が空いた時とか、突然知り合いがやって来た時、たとえばそのような私的な時が今後出てくるであろうから。今の所、お茶を沸かして淹れるくらいしか利用していないのだが、こちらでも出来れば料理の腕を磨いておきたいとは考えていた。自分が作ったものを愛する人に食べてもらい、美味しいと喜んでもらうことはかつての常識を引きずるリョウの中では新妻の醍醐味のようなものだった。


 食糧保管庫も台所の隣にあるが、こちらは今の所、日持ちのするものしか置いていない。穀物類を挽いた粉や豆類など常温で保存の利くものばかりだ。秋になれば【グリィビィー(キノコ)】の塩漬けを作って置いておいてもいいし、【アグレェーツ(きゅうり)】の酢漬け(ピクルス)でもいい。季節ごとに果実酒や【ヴァレーニエ(ジャム)】も作ろうかと思っている。


 今度、ヒルデが買い付けに市場を見て回りたいと言っていたのでリョウもお供を申し出ていた。軍部の宿舎には代々馴染みの商人たちが出入りをして必要な食材を卸しているのだが、それ以外に肉や野菜、果物は勿論のこと、魚市場の方に足を運んで色々と生の情報交換をしたいということなのだ。リョウも魚や貝類などの海産物には大いに興味があった。こちらでは魚を生で食べたりするのだろうかとか、小魚を出汁に使ったりするのだろうかとか、海老のような甲殻類がいるのかとか、知りたいことは沢山あった。

 街の中心にある広場に繋がる場所にある市場(リィナク)はいつ行っても賑やかで今までに見たことのないような珍しい食材が手に入るのだと言う。香辛料の類が特に豊富で海の向こうから運ばれてやってくるものも多いと聞いている。


 そのような訳で、リョウはホールムスク着任後も中々に目まぐるしく充実した日々を送っていた。毎日何らかの発見があり、それがすぐさま驚きに変わったり、笑い話になったり。必ずしも良いことばかりであるとも限らないが―時には失敗もする―刺激に満ちた日々だった。


 ユルスナールからこの街と王都の間に存在するある種の緊張関係についての話を聞いたのもこの頃だった。第一陣に遅れること暫く、シーリスがホールムスクに到着したことも関係しているだろう。北の砦へ新しく赴任してきた第八師団への引き継ぎを粗方終えたシーリスは、残りはヨルグに任せることにして早々にホールムスク着任を果たしたのだ。事はスタルゴラドの歴史的背景に及んだので、専ら肉体派で小難しい政治的事情が苦手なブコバルはともかく、歴史が余り得意でなく、込み入った話になると口下手な所のあるユルスナールも話をやり難かったようで、以前と同じようにシーリスを教師として教えを受けることになったのだ。


 約一カ月ぶりに出会ったシーリスは、長旅の所為か顔中埃まみれになっていたが、元気そうだった。開口一番、この街は隅々まで潮の香りがすると言って丘の上の宿舎の坂から海の方を眩しそうに眺めていた。

 そしてピリリと辛口なシーリス節も相変わらずで。

 リョウは顔を合わせるなり、「おや、リョウ。日焼けしましたか? 顔にシミが増えていますよ」等と女性としてはかなり喜ばしくない軽口を投げかけられたのだが、久し振りに愛情の籠った毒舌を耳にしてリョウは擽ったそうに笑った。

 やっぱりシーリスはこうでなくてはならない。欠けていた欠片がぴたりと隙間に埋まるような充足感がこの時リョウの中に芽生えた。それは他の兵士たちも同じであっただろう。シーリスが合流して兵士たちの浮かれていた気分も幾らか引き締まったと感じたのは気の所為ではない。やはりあるべき人があるべき場所に収まっていないとしっくりしないのだ。それだけシーリスはこの第七師団に欠かせない中心的存在になっていた。

 この時、シーリスと共にやって来たのは、ミーチャ、オットー、ヘクター、ロッソ、そしてグントの五人だった。臨時の小隊編成である。先遣隊でユルスナールに付き従ってきたオレグは、やっといつもじゃれあいをしている相棒のグントがやって来て―因みにセルゲイは既に着任している―本来の調子を取り戻すことになるだろうか。早速、仲間の到着を耳聡く聞きつけて集まって来た兵士たちの中にオレグの大きな図体が見え隠れして、リョウは漏れそうになった笑いを一人噛み締めた。




 その後、シーリスが到着してから休息の為に中一日挟んだ夜、騎士団長専用の別棟の一室に、リョウとユルスナール、シーリスにブコバルを加えたいつもの面子が顔を揃えていた。歴史関係の難しい話をするのでブコバルは来ないかと思ったのだが、どうもちゃっかり酒を飲みに来たようで、【スビニーナ()】の脂身を塩漬けにした保存食【サーラ】を酒のつまみに【カルトーシュカ(ジャガイモ)】から作った蒸留酒【ヴォートカ】を手に持っていた。これまでに街をふらついて早速美味しい物を見つけてきたようだ。この街の市場では異国から持ち込まれた豆類も豊富で、煎ったものは手軽なおやつ代わりに幅広い層に人気があり中々に美味だった。ブコバルは殻付きで売っている物を懐に忍ばせて、気が付けばポリポリと齧っているのだ。甚だ迷惑なことに殻をそのまま捨てるのでブコバルが通った後には、煎った豆の殻が点々と落ちている。リョウは廊下に散らばる殻を摘んではブコバルに廊下に捨てるなと注意をしているのだが、案の定、ブコバルはどこ吹く風、捨てておいてくれと言う始末。

 だが、この悪癖もシーリスが来たからには終わるのだろう。何しろシーリスは第七師団随一の綺麗好きだ。宿舎内に豆の殻が点々と落ちているなどとはシーリスの美的感覚から言って許せないに違いない。リョウの言葉には耳を貸さなくとも兵士たちの間でシーリスの言葉は絶対だ。


 それはともかく。

 団長専用の別棟、私的(プライヴェート)区域(エリア)にある居間。その長椅子にリョウはユルスナールと共に座った。隣接する一般兵士たちの宿舎内にある食堂で軽い夕食を済ませた後のことだった。テーブルを挟んで向かい側の長椅子にブコバルが収まり、その脇にある一人掛けの椅子にシーリスが腰を下ろした。

 一応人数分のグラスとユルスナールがいつも飲んでいる酒―ここ最近のお気に入りは【カニャーク 】だ―を用意して、新妻よろしく瓶を手にグラスに注いで行ったのだが、最初くらいは付き合おうと取り出した自分のグラスに最後に注ごうとすれば、ユルスナールが横からさり気なく手を伸ばし、瓶を奪って、リョウの分にもなみなみと注いだ。

「少しでいいですよ?」

「ああ。分かってる」

 ごく自然に目を見かわして互いに小さく微笑む。王都での婚儀から一年経ったといえども、まだまだ二人の間には新婚特有の甘ったるい空気が取り巻いていた。いや、もしかしたら、その段階は既に落ち着きを得て、まろやかなとろみを出しつつあるのかもしれない。漬けた果実酒が少しずつ酒に馴染んで尖った味から柔らかくなるように。

 端から見れば微笑ましい感のある相変わらずの夫婦の遣り取りであったが、常に行動を共にしていたシーリスもブコバルも慣れたもので頓着しなかった。


 テーブルの上にはブコバルが持ち込んだつまみ―脂身の塩漬け【サーラ 】―と炒り豆があった。そこに薄く切った魚の燻製 が加わった。これは港の診療所で馴染みの患者の一人がトレヴァルにと持ってきたものなのだが、リョウが興味深そうな顔をしていたのを見た所為か、「少し持って行け」とその日、帰りに持たせてくれたものだった。その場で味見として摘んだ所、かなり塩気がきついのだが脂が乗っており、燻した(チップ)の独特な匂いと相まって少し癖になる珍味だった。

 ユルスナールとシーリスは初めて見るようで興味津々、ブコバルは既にその味を知っているようで、皿に切り分けたものを出せば、「おっ」と身を乗り出した。

 そして、すかさず一言。

「これだと黒パンが欲しくなるな。それにイクラー(魚卵)の塩漬けも」

「黒パンも切りましょうか?」

 後で発酵飲料のクヴァスを作ろうと厨房で分けてもらった小さな塊がちょうど台所の棚に入れてあった。

「ブコバル、どれだけ食べる積りなんですか。こんな時間に」

 先程食堂でたっぷりと兵士標準仕様の一人前以上を平らげていたはずだった。それを知っているシーリスが呆れた風にブコバルを見やれば、

「別ばらだよ。べ、つ、ば、ら」

 どこかで聞いたことのあるような理論に出くわしてリョウは小さく吹きだした。

「じゃぁ、少しだけ持って来ましょうか。きっと塩気がきついでしょうから」

 中和するものが欲しくなるに違いない。そう言ってリョウは台所へ向かうと薄く切った黒パンを皿に乗せて戻って来た。脇には小さく【マースラ(バター)】を添えてある。

 ブコバルは待ってましたとばかりに目を輝かせると真っ先にパンに手を伸ばし、そこに同じように薄く切った脂身の塩漬け【サーラ】を乗せてぺろりと食べた。

「うまっ。こいつはたまんねぇぜ」

 ついでにぺろりと指の腹を舐めた。それを見てとったリョウは、ブコバルに手にしていた布巾を手渡した。舐めた指をそれで拭うようにと。まるで子供相手のような遣り取りではあるが、布張りの家具を始めとするあちらこちらにブコバルの指の汚れが付くよりは遥かにましだからだ。

「リョウ、お前もやってみ。うめぇから」

 じっと観察するように見ていたリョウにブコバルが顎をしゃくった。

 隣でユルスナールも同じようにパンの上に乗せて一口齧ると小さなグラスを一息に呷った。

「ああ、中々合うな」

 どうやらユルスナールの口にも合ったようだ。リョウは昔から脂身の類が苦手で塩漬けにしてもぎとぎとした脂っぽさに変わりはないだろうと思ったのだが、ユルスナールの食べかけを横目に追っていたら、ずいと口元に差しだされたので、恐る恐る齧ってみた。

 使っている【ソーリ()】の違いだろうか。それとも擦り込んである香りつけの薬味【チェスノーク(にんにく)】があるからだろうか。獣臭さがないどころか口の中で溶けた脂はほんのりと甘く、黒パンの酸っぱさと相まっていい具合に互いを補完し合っていた。

「どうだ?」

 窺うように見下ろすユルスナールに、

「……意外に美味しいかもしれません」

 咀嚼をしながらリョウが感想を述べれば、その対面でブコバルは、「だろ?」と得意げにグラスを呷っていた。




「で、リョウ、街の様子はどうですか?」

 若干の前後はあったが、人数分のグラスに酒を注いだ後、慣例通りに仲間が無事着任したことを言祝ぎつつ、乾杯の音頭を其々が取った。度数の高い蒸留酒【カニャーク】が焼けた【スターリ(はがね)】のように喉元から一気に胃の腑へと流れ落ちる。内側からの痺れる余韻に体中の血液がびりびりするような気分を味わった所で、シーリスが徐にリョウに尋ねた。

 少しずつだが、この地で本格的に術師として活動を始めたということはシーリスにも伝えてあった。

 リョウは、ユルスナールに切った黒パンの上に薄い【カァーンバラ(おひょう) 】の燻製の切り身(スライス)を乗せて手渡しながら、穏やかに微笑んだ。

「まだそんなに時間は経っていませんが、そうですねぇ、これまで、少ない経験ながらも見てきた街や村々とは明らかに違いますね。街全体の空気感というか。上手く言えないのですが、とても雑多で賑やかで。行き交う人たちの服装も顔立ちも本当に様々ですし、飛び交う言葉も訛りが強かったり、全く耳慣れない異国の言葉であったり。この国の一地方都市というよりも別の国に紛れこんだかのようで」


 スタルゴラドの中心からは山を一つ隔てた所にあり、北からぐるり東と南を回り込むように海が周囲を囲む瘤のように突き出た場所だ。地理的に見てもスタルゴラドという国に齧りついているようにも見える。もしくは衛星国という具合に。約二年前に初めてこの港町のことを耳にして以来、なにかにつけこの場所は【特殊だ】と端々に聞いてはいたのだが、ここに来てその一端を感じ取れた気もする。他にもっと的確な言葉があるのだろうが、現時点でのリョウにも【何か違う】というくらいしか思い浮かばなかった。だが、これはスタルゴラド中央から眺めた場合の感想で、ホールムスクから見たら、その景色は全く異なっているだろうとは思う。

 そこでリョウは何かに思い付いたように小さく笑った。

「だからでしょうかね。ここではワタシ自身、違和感なく溶け込んでいる気がします」

 王都やプラミィーシュレでは目立っていたリョウの外見的異質さがここでは完全に埋没してしまうのだ。それだけこの場所には様々な民が入り込んでいる。まるで色鮮やかなモザイク画の欠片が無作為に流動しながら散らばるかのようだ。

 何よりもこの場所には活気があった。通りを歩けば物売りの口上に客を呼び込む店主たちの声。ガラガラと音を立てて通り過ぎる荷馬車。大きな身ぶり手ぶりで挨拶を交わす男たち。道端の椅子に座り込んで器用に手芸をしながら会話を弾ませる女たち。甲高い声を上げて走り去る子供に同じくらいの大声で呼びかける若い母親の抑揚の付いた声。市場に行けば、多くの人々が息をするのと同じくらいごく当たり前に異国の言葉を話した。そして商人たちは目当ての品を吟味しつつ笑顔を振りまきながらも丁々発止の値段交渉を交わし合う。

 そのような印象を静かに語ったリョウにシーリスは優しい眼差しのまま合槌を打った。

「港の方はどうでしたか?」

「そうですねぇ」

 リョウは、毎日大小様々な船が海原から港を行き来することやそこで働く逞しい男たちの印象、(かまびす)しい海鳥のおしゃべりやよく日に焼けた赤ら顔の漁師たちが籠一杯に獲れた魚を市場に運んでゆく様子、それを狙う【チャイカ(かもめ)】軍団や野良猫たちの抜け目のない駆け引きの話。


 それから、話題は自然とリョウが定期的に通うことになった港の診療所の話になった。

 診療所に詰める術師は腕ききには違いないのだが、大の酒好きでいつも酒瓶を片手にしていること。それでも患者としてやってくる人々には「しらふ(トレーズヴィ)のおやっさん」と呼ばれて慕われているということ。

 この治療院を訪れるのは、周辺で働く港湾関係の海の男たち【マリャーク】や漁業関係の男たち【リィバーク】とその家族、親戚筋の者が多かった。というのも、この診療所自体が元々港湾関係や漁業関係の組合が出資して設立され、それを本部のミールが取り仕切る形で運営に乗り出した治療院だからだ。トレヴァルは、一応、ミールの依頼に基づき術師組合から専任術師として派遣されており、給金もリョウと同じように術師組合、もっと言ってしまえば商業組合ミールから出ている。そのような事情をリョウは術師組合のミリュイから聞いていた。

 基本的に貧しい人々、その日暮らしでカツカツの人々からは治療代を取らなかった。それもこの場所が支持されている所以だろう。余裕が出来た時に薬草代として幾ばくかの値をもらう程度で、それも使った薬草類の流通価格を考えると足しにもならないくらいの微々たるものだった。

 だが、ここはそれでいいのだ。営利目的で運営されている場所ではない。ミールに所属する組合員の福利厚生の一形態として、彼らの健康維持の為に存在していた。


 そのような性質から主な患者は港の労働者が多かったが、評判を聞きつけて街の方からやってくる人々の姿もあった。ここでは特に組合関係者以外お断りというような条件も別途紹介状が必要だということもなかった。トレヴァルは訪ねる人々を分け隔てなく受け入れ、その敷居は常に低くしていた。

 その方針と診療所の在り方にリョウは感心していた。それだけミールが潤沢な資金を持つ大きな組織であることの表れでもあるのだろうが、奉仕の一環として神殿がスタリーツァ(王都)の街中で運営する治療院とそこにいた若き神官術師の姿が重なった。ただ見るからに生真面目で人のよさそうな神官であったスタースとは違い、ここのトレヴァルは名誉あるあだ名【トレーズヴィ(しらふ)】を引っ提げた荒削りでいつも酒の匂いをぷんぷんさせている男だった。


「ミールにはもう何度か足を運んでいるのですよね?」

「そうですね」

 専ら用事があるのは術師組合だけだが。

 そこでシーリスはちらりと斜め前のユルスナールに伺うような視線を投げた。

「何か…気になったことはありましたか?」

「気になったこと………ですか?」

「ええ。余計な偏見や前知識がない段階で、リョウがどのように感じたのかと思いましてね」

「そうですねぇ」

 リョウはシーリスが何を知りたいと思っているのか、その根本理由が良く分からなかったが、これまでの印象をざっと整理してみた。

「とても大きなお役所みたいな組織でしょうか。この街の顔でもあるでしょう。そして心臓部でもあり頭脳でもある。一般に広く開かれているようで、実は関係する組合員たちの内輪組織といいますか……」


 あの巨大で荘厳な石造りの建物の内部は、そこを初めて訪れる者にはどこか近寄りがたく、余所余所しく感じられるだろう。どこにどのような組合が入っているかを示す札がないのがその理由の最たるものだ。完全に関係者の為の組織。だが、この街はミールを中心に(まつりごと)が行われており、ここで生活する多くの人々が何らかの形で組合との関係を持つので、ミールに関わりの無い人々にとっては閉鎖的に感じられるかもしれないと思っても、そちらの方が割合的にはかなり少数派となる気がする。


「ミールの長にはもう会いましたか?」

 その問い掛けにリョウは緩く(かぶり)を振った。

「いいえ。ワタシが通うのは術師組合だけでして。近いうちに薬師組合の方も紹介してもらう予定ではありますが、そちらの方は」

 そこでシーリスはユルスナールに目配せをすると小さく頷いた。

 今の所、ミール全体の頂点に立つ中枢部との接触もないし、登録したばかりのリョウにはその必要もなかった。今後もそのような機会はあるとは思えなかった。

 そこでリョウは付け足すように組合に所属する術師たちは、その長を筆頭にかなりの個性派揃いだと口にして笑った。

「そうですか。どこに行っても術師というのは独特な感性を持った者が多いですからねぇ。群れることを厭う者たちがどうやって纏まっているのだろうかと不思議に思えなくもないのですが、彼らには彼らなりの利害関係があるでしょうし、そこはまぁ、色々とやり方があるのでしょう」

 シーリスは、ゆっくりとグラスに口を付けながら思案気に息を吐いた。

「シーリス、そこには勿論、ワタシも含まれているのですよね?」

 術師は変人奇人の変わり者が多い。一般的に流布しているその通説を口にした相手をリョウはまぜっかえすように見返した。

「ふふ。そうですね。私の目から見てもリョウは十分立派な術師ですよ」

 シーリスは、からかいへの小さな反撃を真正面から受け止め、そしてそこに変化を付けて跳ね返した。

その矛先は、

「ねぇ、ルスラン?」

「ん? あ、ああ」

 微笑みを絶やさないシーリスとその斜交いで微妙な顔をするユルスナール。

「褒められたんでしょうか?」

 鼻白んで目を瞬かせたリョウの対面でブコバルは我関せずというように燻製の切れ端を摘んで口に入れていたのだが。

「だろ? おめぇも十分変わり者の範疇だぜ?」

 今度は、自分で持ち込んだ無色透明の蒸留酒【ヴォートカ】をグラスに開けてぐいと呷ってから、ブコバルがにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。

「もう、ひどい」

 態とらしく拗ねた顔をして見せても気の置けない仲間たちとの言葉遊びは日常茶飯事で、当然怒りは続かず、リョウもじきに苦笑を返したのだった。


これより第二章の開始です。

サブタイトルの「時脈」は私の造語です。刻々と流れる時間の重なり。連綿と続く歴史の流れの中という意味合いを持たせたかったので。


食事シーンの補足を少々:

1)サーラとは豚の脂身を一週間塩に漬けてにんにくをすりこんだ冬場の保存食です。私自身は食べたことがないのですが、これが黒パンによく合うのだそうです(我が旦那談) お酒のおつまみにはもってこい。こってり脂身を食べて冬の寒さを乗り切るのですね。だからロシア人はあんなに体格がよいのだとか。


2)サーモンやおひょう(超巨大カレイ)の燻製は東側の沿岸部地域ではよく食べられています。その昔カムチャッツカの同僚がお土産に持ってきてくれたことがありました。これもお酒のおつまみには最高。脂が乗っていて塩気が少々きついのですが、ウォッカに合います。

3)カニャークはコニャックのロシア語読み。コニャックはフランスのコニャック地方で作られるブドウを原料にしたブランデーですが、ロシアではアルメニア産のコニャックが有名ですね。20年物が絶品だとか。

4)ヴォートカはウォッカのロシア語。蒸留酒一般を差します。ブコバルが持ち込んだのはジャガイモ原料のもの。今までウォッカは余りにもメジャー過ぎるからという理由で出していなかったのですが、ここで使ってしまいました。

5)イクラーはご存知魚卵のこと。日本語のイクラはロシア語からきています「赤いイクラ」が鮭やマスの卵で、「黒いイクラ」がキャビアのこと。黒パンにバターを塗ってその上にキャビアを載せて食べるのも中々です。ちょっと塩気がきついのですが、お酒のおつまみにはもってこい。

なんだか食いしん坊なお話ばかりですが。

さて、酒とつまみをテーブルにシーリス先生の歴史授業が次回も続く予定です。

ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ