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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第一章 国際貿易都市ホールムスク
8/60

6)犬は吠えれど商隊は進む


「酷いじゃありませんか。本当のことを言って下さったらよかったのに。何も騙し打ちのようにあのような【使い】にするなんて………」

 昨日の曇天からは一転、窓の外は晴れやかに澄み渡り、紫色の光彩を薄らと散りばめた空が、刷毛で一撫でしたように浮かぶおぼろな雲の向こう静かに佇んでいた。日差しは暖かだ。まだ若干冷たさの残る風は、このような空模様には清涼で心地よい。

 淡々と落ち着いていながらも相手を非難する響きが、その声音には憚らずに滲み出ていた。不機嫌さを隠そうとはしていない。それに引き換え、目の前の大きな執務机に座る男は、にこやかな笑みを絶やすことなく上機嫌で、今にも恒例の鼻歌が漏れ出してしまいそうな塩梅だった。いや、机の上、軽やかに拍子をとりながら遊ぶ長い指先の連打(タップ)音に合わせて小さな音符が踊るように韻を踏んでいた。いずれにしても対照的な二人である。


「―――で?」

 一通り訪問者の言い分を聞いた後、男は鷹揚に微笑んだまま片手を前に差し出した。たっぷりとした衣の袖から出した、骨張った長い指先をちょいちょいと手前に折り曲げて、何かを求めるような仕草をする。

「いいじゃないか。きみの言いたいことは良く分かった。だが、万事上手く行ったのだから何の問題もない。そうだろう?」

 全く悪びれることなく持参しているものを寄越しなさいと言われて、その堂々とした態度にここに辿りつくまで道々抱いていたはずの怒りが急に萎んでしまった。ふわふわの羽毛が入った枕に大きな穴が空いて、一気に中身が飛び出してしまったかのようだ。ふわりふわりと小さな白い羽の先に色づいた灰色のわだかまりが風に乗って、気ままに浮遊しながら舞い散るかのように。「憤り」が散らばって掴み所のない「不満」未満の欠片になる。

 目の前に漂うそれらを一息に吸い込んで、体内で消化するように大きく息を吐き出した。少し芝居がかっていたかもしれない。だが、【ここ】ではそのくらい面の皮が厚くなければ太刀打ちできない気がした。

 黙り込んだままの訪問者を前に男は滑るように言葉を継いでいた。

「あの男もきみが気に入ったようだし―言っておくが、珍しいことなんだよ?―きみは今後の活動拠点を得られた。非常に実りある選択だと私は思うがね。あの男はああ見えて優秀だ。まぁ融通の利かない頑固者という難点はあるが、それはきみにとっては大したことではないだろう? 色々と学ぶといい。あそこでは様々な症例が揃っているからね。手に余る程に」

 自らの行いの正当性をあげつらうように並べられて、この男はたとえ自分が間違いを犯したとしても決して謝ったりはしないのだろうと思った。

 これ以上の反駁(はんばく)は無意味だと悟ったのか。大きな机の前に立った訪問者は、肩を竦めると懐から折り畳んだ紙を一枚取り出し、それを開いてから広い机の上に滑らせた。

「今回はこれで飲みますが、次回以降はこんなことはまっぴらごめんです。心臓に悪いですから。ワタシはそこまでの刺激を日常生活に求めたりはしない性質なので」

 暗にあなたとは違うのだということを仄めかし、最後、釘を差すように告げた言葉に男は微笑みのまま賛同した。

「ああ、勿論だとも。今回は色々と気が急いてしまってね。きみの為にとっておきの(サプライズ)を用意しておこうと少しはしゃぎ過ぎてしまったようだ。私としたことが【つい】ね」

 何が可笑しいのか喉の奥を鳴らして細められた目尻に皺が寄った。気が付けば、白けた目で微笑む男の顔を見ていた。だが、向こうはそのくらいで動じたりはしない。

 相手が一言発する度に優に五倍以上の「言い訳」と言う名の台詞が滔々と淀みなく流れ出す。思いがけず緩急を変えるその水流に足を掬われないように気を引き締めなければならなかった。


 それから【リースカ(きつね)】の如く目を細めた男は、差し出された書類の一番下にある署名欄を確認するとトントンと指先で机の上を叩いた。拍子を取るように不規則な連打音が小さく響いた。

「相も変わらず神経質そうな字だ。顔に似合わず」

 そんなことを呟いたかと思うとどこか皮肉めいた風に片頬を歪ませた。

「で、いつから入るのかね?」

 書類を裏返すと男はペンを取り、そこに裏書きをした。これでこの書類は正式に発効したことになった。訪問者はその様子を静かに眺めていた。

「いつからでもと仰ってました」

「へぇ、それはまた」

 さらさらと署名を終えた後、小さく笑いをかみ殺すように喉の奥を鳴らす。そして紙をすぐ脇にある書類箱―決裁済みの方―の中に入れると机の上で両手を組んだ。

「まぁ、具体的な日数や労働時間等はあの男と相談して決めればいい。それからきみにはこちらから手当てを出そうと思っている。通常は日数と賃金を取り決め、正式に雇用契約を交わすんだが、あの男はそういった事務手続きを殊の外嫌う。ああ、勿論、不当な程に低賃金でこき使おうだなんてことはこれっぽっちもない。それはこの私が保証しよう。きみが望むならば、この組合と契約を交わしてもいい。ああ、文書として残すにはその方がいいかな。で、だ。この間、告げたように(デェシャータク)に数日通うとみなして、基準の手当てに少しだけ色を付けてあげようか。それならばいいだろう? これでまぁ、試しに一カ月やってみて、異議があるようであれば申し出てくれて構わない」

 ―――ということでいいかな?

 相手の言い分は十分理にかなったものであったので反対する理由はなかった。

「ええ。ではそういうことで」

 具体的な契約云々は、隣の部屋で事務手続きを行うと言われて、訪問者は軽く一礼すると、淡々とした所作でその場を後にした。




「―――で、どうだった?」

 扉一枚隔てた取り次の間に戻ったリョウに執務机で頬杖を突いていたミリュイは顔を上げると人差し指同士を軽く打ち合せるように弾いてみせた。シェフ()との一戦はどうであったかという意味だ。

 リョウは、大げさに肩を竦めて見せてから傍にあった長椅子に行儀悪くどっかりと腰を下ろした。まるで操り人形の糸がたわんで切れたようだ。

「あららら。随分と御機嫌斜めねぇ」

 ふふふとまるでどこぞの淑女のように笑って、ミリュイは爪を磨いていた細長い板のようなものを左右に振った。その対面で書類に向かって黙々とペンを走らせていたフェルケルは、ちらりと長椅子の方へ視線を走らせたが、表情を変えることなく再び手元に目を落とした。

「どうぜお二人ともご存じだったんでしょう?」

 リョウは恨めし気に机に座る対照的な二人―一人は真面目に書類に向かい、一人は爪磨きに余念がない―を見た。

 だが、それに対する答えは、無表情と微笑み一つでかわされてしまった。それも奥底でささくれだっていた神経を逆撫でた。

「それにしてもねぇ、一体どんな手を使ったの?」

 ミリュイの問い掛けにリョウは行儀悪く背凭れに体を預けながら首を捻るように顔を上げた。眉がしんなりと寄っていた。

「もう、また。そんなものあるわけないじゃないですか」

 リョウが内にふつふつとしたものを抱えながらこの扉を開いた時にもミリュイは開口一番、そんなことを言ったのだ。リョウが無事使いを終えたということはここでは筒抜けであったらしい。その時、リョウは無言のまま、だが、苦言を呈した瞳でそんな軽口を叩いた相手を強く見つめ返したのだが、ミリュイは「おお怖い」とおどけたように肩を竦めただけだった。完全に相手にされていないというか弄ばれている。

「ワタシは不審者の上に封書の受け取りも拒否されたんですから」

 そうだ。無事役目が果たせるかどうかも分からなかったのだ。

「じゃぁ尚更だわ。あの【トレーズヴィ(しらふ)】をどうやって落としたの?」

 リョウは、この分だとその答えも知っているのではないかと勘繰ってしまいそうになったが、そのことには触れずに口を尖らせた。

「人聞きの悪いこと言わないでください。ワタシは自分の役目を果たしただけです」

 そうしたら思いがけないオマケがついていた。

「ふーん?」

 納得していない風にこちらを見たミリュイにリョウはもう一度己が主張を繰り返した。

「ワタシは【普通に】手伝いをしただけです」

 偶々、患者が運び込まれてその処置に手を貸すことになったのだ。リョウは昨日の状況を客観的に口にした。本来ならばトレヴァルだけで対処が出来たのだろうが、リョウは術師としての倣いからそれを傍観することは出来なかった。



 あの後、広場にある騎士団の詰め所に使いを出してから、リョウは夕方過ぎまで男の看病をした。伝令を呼ぼうと思ったのだが、生憎の雨であったので暇そうにしていたヴァトスに頼んでみたのだ。断られるかと思ったが、ずっと湿っぽい診療所の中でじっとしているのも堪えたようで、行き先が騎士団の詰め所であることに嫌な顔をされて文句も言われたのだが、リョウが鞄の中から古ぼけた帳面の切れ端と筆記具を取り出して短い一筆をしたためれば、ぶつぶつ言いながらもそれを懐に捻じ込んで、雨避けの外套を羽織らずに軽い身のこなしで出て行った。


 心配したエスフェルの容態は落ち着きを見せていた。膝下の壊死しかけたどす黒い部分を(あらた)めると黒い斑点が薄くなったようだった。熱はまだあったが、一晩越せば下がるだろう。薬がちゃんと効いていることを知り、リョウはほっとした。

なじらね(どうだ)?」

 近寄って来たトレヴァルにリョウは患部を見せた。

「大丈夫ですよね。これならば」

 トレヴァルは真剣な眼差しで食い入るようにエスフェルの膝下を診た。そして、詰めていた息を吐き出した。

「ああ。これならぁ切らずに済むこってね」

「よかった」

 リョウはそこで思わず安堵の息を漏らした。

 個人的な感触では五分五分だったのでどう転ぶか分からなかったからだ。そっと緩んだ包帯を巻き直し、温くなった額の上の布を取り替えた。その隙にトレヴァルは壁際へ行き、なにやら棚をがさごそと漁っていたかと思うと封の空いていない酒瓶を手にテーブルに戻ってきた。ご丁寧にも木の椀を二つ携えている。それらをテーブルの上に置くと、瓶の封を開け、栓を口で引き抜いた。空砲のような軽い音がした。そしてなみなみと木の椀に注いだ。


 トレヴァルは盃を手に取った。目線で促されてリョウも同じように手にした。揺れる琥珀色の液体は度数の強い蒸留酒―第七の兵士たちも好んで飲むズブロフカだった。薬草を一緒に漬け込んであるのだろうか、リョウが知っているものよりも少し変わった匂いがした。

 ―――エスフェルの回復を願って。

 トレヴァルが小さく口にしてから盃を一息に呷った。

 ―――ザ・イェヴォー・ズダローヴィエ

 リョウもそれに倣い、同じ祈りの文言を呟いてから、木の椀の中身を一息に飲もうとして―当然のことなのだが、喉元を通り過ぎた焼けるような熱さにむせてしまった。袖や膝に酒が茶色い芳香を放ちながら点々と染みを作った。

 小さく舌打ちして「なさけねぇ」とでも言いたげな視線を寄越したトレヴァルを前にリョウはなんだか無性におかしくなって笑い出した。荒くれ男の真似をしようとしたのがそもそもの間違いだったのだ。ユルスナールや、ましてやブコバルのようにはいくはずがない。

「ああ、やっぱりワタシには強すぎますね。これだとすぐに目が回ってしまいますよ」

 そう言って零した酒をハンカチで拭い、盃を置くとテーブルの上に残っていたお茶を飲み干した。

 びりびりと痺れるように喉が痛い。そして熱の奔流が胃の腑まで到達したのが分かった。

「張り合いがねぇな。軟弱もんが」

 トレヴァルの憎まれ口をリョウは軽く流した。

「いいじゃないですか。ここに詰める術師が二人とも大酒飲みだったら大変ですよ。いくら酒があっても足りないんじゃぁ困るでしょう? その内薬用のものまで手を出して、それこそ身代全部飲んでしまいます」

「ふん」

 トレヴァルは不満そうに鼻を鳴らしたのだが、別段反論する積りはないようだった。

「久々に飲むときついですね。ズブロフカは」

 これまでリョウが兵士たちのお相伴に預かる時は、甘めの果実酒である【ズグリーシュカ】か【ヴィノー(葡萄酒)】辺りが精々であったから、男たちが好む度数の強い酒は飲みつけていなかった。


 リョウは何故かトレヴァルが憎めなく思えてきた。不意に昨年の冬に他界したプラミィーシュレの鍛冶屋レントの姿が重なった。そして、少し系統は違うが、同じ術師で頑固者という所ではガルーシャにも相通じるものがある。

 リョウは「頑なな変人」と評される人々が嫌いにはなれなかった。周囲からどのような評価を下されようとも、時に陰口を叩かれようとも、自分の信念を真っ直ぐに貫き通す―その生き様はリョウにはとても眩しく見えたし、お手本としたい目標であったから。


「少し薬草の匂いがしますね。生のストレールカの搾り汁みたいな」

 そう言ったリョウにトレヴァルはテーブルの上に置いていた瓶の表面を毛むくじゃらの手でつるりと撫でた。その手付きはまるで恋人を愛でるように優しく、どこか陶然としたものに見えた。

「こいつはぁ本物だすっけな。巷で出回っているようなぁまがいもんじゃねぇすけ」

 ―――正真正銘のがんだすっけ(ものだから)

 トレヴァルが語った所によると年に20樽できるかできないかの特別な代物で、この街の山の中腹にひっそりと佇む蒸留所で熟成されているとのことだった。山から湧き出る沢の水が良いのだろう。海の近くの水脈は少々硬く鉄分が混じる場合が多いのだが、清水の源流の方へ行けば、その水質は違うのかもしれない。

「そんなにいいお酒なんですか!?」

 リョウは吃驚してまだ琥珀色の液体が芳しい香を放ちながら揺れる木の椀を覗きこんだ。

「ああ。飲ませた分の働きはしてもらうすけな」

 そう言ってトレヴァルは白髪交じりの髭の合間からにやりと人の悪そうな笑みを浮かべたのだった。

 リョウは知らぬとは言えとんでもないものを口にしてしまったのではと内心ぎくりとしたのだが。

 決して口にはしないが、商業組合ミールの術師組合から半ば押し付けられた形になった「助手」として派遣される存在を暗に受け入れた風にも取れる空気に、リョウはほんの少しだけくすぐったい気分になったのも確かだった。

「それじゃぁ飲み代分はしっかり働かなければなりませんね」

 リョウの口からも軽口が漏れていた。一体、この一瓶が幾らするのか、そして自分が口にした一杯が金額に換算してどのくらいのものなのかは、正直良く分からなかったが、この時は気に留めないことにして流してしまったのだ。


 そして、使いから戻って来たヴァトスとトレヴァルでその後、エスフェルの様子を診るということだったので、リョウは簡単に片づけを終えてから二人に後を任せて、一人帰宅の途に就いた。


 外に出ると雨は上がっていたが、しっとりと湿っぽい空気が鼻孔にまとわりつき、吸い込んだ呼気に喉奥がひんやりとした。

 日がとっぷりと暮れて辺りは闇に沈んでいた。ぽつりぽつりと灯った発光石の街灯の明かりが青白い光を放っているのが見えた。不案内の道筋で日が暮れると昼間とはがらりと印象が変わるので少々心もとなく思った。湿り気を帯びた石畳がどこか余所余所しく見える。だが、広場にある騎士団の詰め所までは単純な一本道だ。そこまでは迷いようがない。リョウは背にした鞄の紐を握り締めると冷え込んだ足先を一歩踏み出した。


 港から街の入り口に差しかかった所で第六師団の兵士たちが宿谷で可愛がっている大きな犬が迎えに来てくれた。広場の詰所の方に言伝を頼んだのだが、丘の上の宿舎の方からも帰りが遅いと心配をされたのかもしれない。大きな黒い毛並みの立派な犬だった。まだ若く少々やんちゃなところがあるが機動力は抜群なので、自ら確認を志願したのかもしれない。

『リョウ!』

 「ガフ」と一吠えしたイフィ にリョウは顔を綻ばせて手を上げた。圧し掛かるように勢いを殺さないまま突撃されて、リョウはよろけそうになった体をなんとか左足を後ろに引くことで持ちこたえた。

 挨拶代わりにぺろりと口の端を舐めたイフィは、降り立ってから『なにやら酒の匂いがするぞ』とリョウを胡乱気な眼差しで見上げた。

「え? もしかして酒臭い? 匂いが移ったのかなぁ」

『そなたの息からするぞ』

 うやむやに誤魔化そうとしたもののズバリと止めを刺されて、リョウは降参するように小さく笑った。

「やっぱりばれたか」

『なんだ、おぬし憂さ晴らしに酒を喰らうたか? 豪気な真似を』

「いや、そうじゃなくってね」

 リョウは軽い足取りで濡れて光るでこぼこの石畳の上を歩くとぴったりと脇に並ぶ大型犬の夜露を吸い込んでしっとりとした毛並みを撫でた。

「知らない? あそこの診療所の術師のこと」

 この街で生まれ育ったというイフィは第六師団の仲間として伝令等の諸任務に就いていた。この街のことはリョウよりも格段によく知っている。

『ああ。【トレーズヴィ(しらふ)】か』

 そこでイフィは嫌そうに鼻先を顰めた。

『あの辺りはいつも酒の匂いがする。くそうて敵わぬわ』

 酒飲み術師の名は獣たちの間でも有名であったようだ。

「今度からね。あそこでお手伝いをすることになったんだ」

『………リョウ』

 意気揚々と語り始めたリョウをイフィは半ば呆れたような眼差しで見上げていた。

『そなた……なにも好き好んであのようにむさ苦しい所に行かぬとも、丘の上で男臭さは十分でないか。なんだ、海の男(マリャーク)が良いのか? 確かにあやつらの方が臭いはきついがな。あの男にどやされるぞ』

 あの男とはユルスナールのことだろうか。その珍妙な台詞をリョウは笑い飛ばした。

「もう、イフィ、変なこと言わないでよ。誰も好き好んで男臭いとこにいる訳じゃないんだから」

 ―――もういい加減慣れたけれど。

「なんかねぇ、ミールの組合の方でワタシをあそこに寄越したかったみたいで」

 リョウはその実納得した訳ではなかったが、今回の使いの裏に隠されていた意図が何となく透けて見えたので、愚痴を零すようにイフィの背に手を伸ばした。そうして指先から伝わる温もりに再びざわついた心を静めた。




 翌日、リョウはこうして一人、まるで決闘(ドゥエーリ)を挑むような雄々しい心持で気合十分、商業組合ミールの荘厳な建物の中に収まる術師組合の扉を叩いたのだった。

 そうして半ば討ち死にした気分で、いや正しくは戦いを挑む前に戦意喪失してしみったれた【ピョース(負け犬・雄)】の如く舞い戻って来たわけだ。

 そして尋ねられるままに昨日の経緯を語っていたのだが。

 薬草の匂いがほんのりとする高そうなズブロフカを振る舞われた。そのくだりで爪磨きに勤しんでいたミリュイは、目を丸くしたかと思うとさも可笑しそうに笑い出したではないか。しかもげらげらと。その笑い方は淑女も真っ青というほどに男らしいものだった。

 余りのことにリョウは度肝を抜いた。

「あっはっはっはっは……それは…また……」

「高くついたな」

 笑い続けるミリュイの後を引き継ぐようにして、それまで黙って仕事をしていたフェルケルまでもが手を止めて顔を上げた。フェルケルは無表情の中にも不憫そうな眼差しでリョウを見ていた。

 リョウはそこで息を飲んだ。

「え、まさか、そんなに高価なものだったんですか!」

 ミリュイの言ならまだしもフェルケルからの追い打ちにリョウは再び胆を冷やした。そこへミリュイは更なる追撃を行った。

「高いもなにもあの山中の【イ・アフルム 】で作られているズブロフカはね。巷には出回らないのよ。生産量が少ないってこともあるけれど、王都の王族、貴族たちがこぞって欲しがってね。まぁ顧客は国内だけに留まらないんだけれど、ミール(商業組合)を通して全部買い付けられちゃってね、市中には出ないの」

「………え」

 そんな希少なものがどうしてあんなしみったれた小さな診療所にあったのだろうか。その問いに対する答えは直ぐに明らかになった。

「あの【トレーズヴィ(しらふ)】のおやっさんはね、その昔、蒸留所の主人を助けたことがあって。それ以来命の恩人だってことで特別に毎年数本―ああ、あたしにも正確な数は分からないんだけれどね―届けてもらってるみたいなの。酒に目がない好事家は何とかして大金をはたいてでも譲ってもらおうとしたみたいなんだけれどいつも門前払い。あの人も相当の酒好きだからねぇ。てんで相手にされないわけ。だからここいらじゃぁ噂には聞くけれど、あたしは当然飲んだことがないわ。舐めたことだってない。いいわねぇ」

 しみじみと語ったミリュイに継いで、

「ああ。機会があるとするならば、是非一度味わってみたいものだな」

 フェルケルもどこか遠くを見るような顔をした。

 リョウは小さなぎざぎざした見た目からは想像がつかない程に苦い万能薬であるストレールカを擦り潰した時の匂いに似た香りを持った液体の―耐えがたい苦みとは裏腹にその香りは初夏の風のように爽やかなのだ―恐ろしく焼けるように熱い喉越しを思い出した。

 素人なので酒の味の良し悪しは分からなかったが、ミリュイとフェルケルが共に羨む程のものだとは。これはとんでもないものを口にしてしまったとリョウは一人ぞっとした。

「そうなんですか? 味なんか分からなかったですよ」

「まぁ、もったいない!」

「ああ。全くだ」

 正直に白状すれば、ミリュイとフェルケルに今度は呆れた眼差しで見返された。

 後でこっそりユルスナールに聞いてみようとリョウは思った。王都の貴族が好むとあれば本家のシビリークスでも一本くらいはありそうなものだ。ファーガスを始めとする男たちは酒好きだ。嗜みとしても飲んだことがあるかもしれない。

 リョウは一人、胃の腑をちりちりと刺激した強い酒の味を思い出そうとしながらも、火傷する位に熱くて痛かったぐらいしか覚えていなくて、複雑な気分のままに口の端をずいと下げたのだった。




 それから数日後。【トレーズヴィ(しらふ)】とあだ名される術師が赴任する港の小さな診療所に雑巾とはたきを片手に髪と口元を二枚の頭巾で覆った完全武装のいで立ちで「よし」と拳を握り締めるリョウの姿があった。

 エスフェルの熱も下がり、傷口も塞がってもう大丈夫だろうということでヴァトスを始めとする仲間数人が先程迎えに来て、戸板を使った簡易的な担架に乗せて宿舎に引き揚げて行ったのだ。

 患者がいなくなってがらんとした空間に一人立っていたトレヴァルは、折よくやって来たリョウの顔を見ると「ちょっくら出てくるすけ」とだけ言い残して、ふらりとどこかへ行ってしまった。

 一人残されたリョウは、相変わらずの惨状を目の当たりにして、この隙に掃除をしてやろうと思い立ったのだ。

 ただ出来る範囲から少しずつ手を付ける積りだった。いつ何時、ここに患者がやってくるか分からないから、その為の場所(スペース)は開けておけなくてはならなかった。


 リョウは、まず風通しを良くするために窓を全開にした。風の流れを作る為に戸口も開ける。ほんの数日前の鈍色の重苦しい空からは一転、よく晴れた青い空がたなびく雲を引き連れて柔らかな日の光を透過させていた。白い海鳥【チャイカ(かもめ)】がピィーキィーと甲高い声を上げながら―その実、その言葉はまるでやくざもののように(すさ)んだ感じではあったのだが―見てくれだけは優雅に風に乗って浮かんでいた。

 港には新たなる航海に向け旅立った大きな商船が風を一杯に受けて、その白い帆を大きく膨らませていた。その手前では大きな荷物を軽々と肩に乗せて、【マイカ(タンクトップ)】一枚、いや半裸姿でよく日に焼けた肉体を誇るように晒して忙しなく働く海の男たちの姿があった。時折、積み荷を監督する親方衆からの怒鳴り声―「馬鹿野郎!」とか「そうじゃねぇ!」とか―も聞こえてくる。


 いつもと変わらぬ賑やかな港の風景だった。リョウは遠く風に乗ってこの小さな診療所まで届く訛りの強い、男たちの酒焼けした声を聞きながら、ゆっくりと室内を振り返った。

 まずは寝台のシーツやら枕カバーやらを洗って、それから流し台の脇に無造作に転がっている桶や小さな鉢、椀など薬草の青い汁や脂がこびりついたものを洗わなければならない。リョウは気合十分、シャツの腕を捲り、大きく切れ込み(スリット)の入った長衣(チュニック)の裾をからげてベルトの中へ端折った。この方が動きやすいからだ。まるで袴の股立ちを取った武士か、尻端折りをした岡っ引きみたいだと、もう二度と目にすることのない故郷との繋がりを思い出して何故か一人おかしくなった。


 ―――ハイケイ オトウサマ オカアサマ ワタシ ハ キョウモ ゲンキ デス


 息をずいと吸い込んで。久し振りに口にした故郷の言葉は、どこか暗号めいて聞こえた。

 いつかワタシもこの言葉を、この音を、忘れてしまうことになるのだろうか―不意に湧き上がった感傷に蓋をして、それらを体内に深く染み込ませるように吸い込んでからゆっくりと吐き出した。

 ―――いや、忘れない。忘れたくない。忘れてはならない。

 リョウは密かに心の中で誓った。

 それから軽く(かぶり)を振った。雑念を負い払うように。

 流し台とその上に配置された注水石が目に入って、まずは石屋か水道屋を呼ばないと駄目だろうかと思った。折角水道が届いているのに使えないのでは勿体ない。ミール経由で紹介をしてもらった方が早いだろうか。それとも馴染みの術師がいるだろうか。そんなことを考えながら、その後の算段をざっと頭の中で反芻させつつ、緩んでずり落ちた頭巾を結び直した。


 こうして。三年前、この世界にひょんなことから迷い込み伴侶を得た異邦人の本格的な新米術師としての修行が、この新しき港町ホールムスクで始まりを告げた。

 そして、あの「しらふの酔いどれ術師」の所に新人が入ったと驚きと共に街で噂になるのは、もうすぐのこと。



タイトルはロシアの諺から。

Собака лает,а караван идет.(サバーカ ラーイェット ア カラヴァン イディォーット)

日本語で言えば「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」辺りでしょうか。幾ら犬が吠えたてたとしてもキャラバンは気にせずに道を進めるという意味です。


さて、ここでやっとリョウの去就が定まりました。まだまだ始まったばかりですが一息です。

最後はほんのりセンチメンタルになってしまいましたが、異世界トリップという物語は、主人公にしてみれば不条理極まりない事態。こちら側に骨を埋める決意をしたとはいえ、失ってしまった祖国、母語への郷愁とは死ぬまで切り離せないだろうと思っています。その思いを忘れたくなかったので。


お知らせ:

つちのこ@さまが再び素敵な挿絵を描いて下さいました♪ 前回と前々回のシーンから。色々とツボを突いたさすがなイラスト。渋いトレヴァルが堪りません。イラストもさることながら毎回コメントがとても面白いのです。

公開場所はみてみんさんです:

http://3736.mitemin.net/i59054/

http://3736.mitemin.net/i59065/


それではまた次回に。ありがとうございました。

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