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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第一章 国際貿易都市ホールムスク
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5)しらふの酔いどれ術師 後編

 その後、トレヴァルの動きは無駄がなかった。リョウは痛み止めの入った小瓶を男の鼻から吸引させた後、その足元に回り、足首を台の上に抑えつけた。ヴァトスと名乗った仲間の男に患者であるエスフェルの肩を抑えておくように頼んだ。痛み止めの効き方を確認する必要があるし、全く無痛という訳にはいかないであろうから、念の為細長く丸めた小振りの布を男の口に入れて噛ませた。


 トレヴァルは鍋の中で煮沸消毒させた細い小刀のような器具を手に患部を切開した。瞬く間に滲み出る膿を拭いながら、リョウは男の身体内から悪しき毒が早くでるようにとトレヴァルの邪魔にならないよう気を付けながら男の肌に触れ、祈祷治癒の文言を低く唱え続けた。

 トレヴァルの手が動く度にエスフェルは呻き声を上げたが、高熱で意識が朦朧としているようで、痛み止めが効いていないという訳ではないようだ。その肩を太い腕と厚みのある(たなごころ)で抑えていたヴァトスは明らかに顔色が悪かった。まるで怖い物を見るように横目で仲間の足元を見て、そしてぎゅっと目を瞑る。口ではもごもごと海の男マリャークたちが信仰する海の神ペレプルールの名を唱えているようだった。喧嘩は日常茶飯事の荒くれ者のような風貌だったが、たとえ医療行為だとしても仲間の身体に刃物が入るのは耐えられないのかもしれなかった。

 ―ゴースパジィ パミルーィ ゴォースパジィ~

 リョウはガルーシャが残した覚書の中から見つけて会得していた人間の体内から毒素を出す為に人本来が持つ自然治癒力を一時的に高める為の呪いを唱えた。これは元々、その仕事の過程で毒を吸い込む鍛冶職人たちの病を治療するための試みでもあった。悪しき毒素が一早く元の体内から去り、全てが元の流れに戻るように。

 神経を集中させる。掌がじんわりと温かくなってきた。そして微かな光がリョウの手を取り巻いたかと思うと低くうねるように男のぶす黒くなった足の回りをゆっくりと巡り始めた。


 ―ダグナーチ フセェ グノーイ イ ドゥーシ プラヒーイェ……プレヴラティーチ フショ ヴ ルーチィシェイエ ウマリャーユゥ~

 緩やかに巡っていた光は、男の患部に吸収されるかのように萎んで消えた。

「よし。こんげなもんか」

 それを合図にリョウは温かい湯で浸した布で足から出た膿を綺麗に拭い去った。萎んでぐしゅぐしゅしている傷口にたっぷりと軟膏を塗った油紙を張り付けた。その時、しみたのか刺激からか、エスフェルの足がぴくりと動いたが、抑えるようにして手際よく薬を塗り、そして包帯を加減しながら巻きつけた。トレヴァルを見やれば、そのまま続きをするように目線で合図をされたので、リョウは続けて傷口が塞がる為の呪いを止血の呪いと交えながら唱えた。

 ―ラスターイ イ ザクローイ


 静寂の中で、全ての施術が完了した。時折、カタカタと窓枠を不用意に揺らす風音を耳に聞きながら、リョウは大きく息を吐いた。緊張と集中の為にかいた汗が額際を薄らと流れた。

 後は大人しく寝かせて、煎じた薬湯を飲ませて様子を見るしかないだろう。上手く毒が抜けてくれればいいのだが。脚がその後も使いものになるかいなかは、早くて今日の夕方か遅くて明日の朝方には判断が付くのではないか。

 リョウは、トレヴァルに処置が終わったことを告げた。そして、ずっとエスフェルの肩を抑えていたヴァトスにも手を放していいと促した。それから汚れた布や使った器具類を片付ける為に立ち上がった。薬湯も煎じなければならない。まだまだやることはあった。

 汚れた布はそのまま釜の火へとくべた。桶に入れた水で器具を洗い、沸かしていた湯にくぐらせる。それから洗った小さな鍋に水を入れて発熱石の竃の上で湯を沸かした。これは薬湯を煎じる為のものである。

「薬湯はどうしましょう?」

 一通りの作業を終えて、壁際の棚を探りながらリョウは桶の水を使って手を洗うトレヴァルを振り返った。

 トレヴァルは無言のままリョウの傍にやってくると迷いない動作で引き出しを開けて、その中から三種類の乾燥させた薬草を無造作に取り出した。乾燥させた薬草類は種類ごとに袋の中に入れられて思いの外きちんと保管されているようだった。リョウは袋から少しずつ取り出して、その形状を観察しながら匂いを嗅いだ。

 一つ目はパァコーイェ―主に精神安定を目的として使われる一般的な薬草だった。よくお茶に混ぜたりする。二つ目はザーァダ―毒消しに使われるもの。そして三つ目はウメンシェーニィエ―解熱の為の薬草だ。

「配合は?」

 一応尋ねたリョウに、

「おめがやれ」

 トレヴァルは短く発して顎をしゃくった。

 リョウは大人しく指示に従った。男の体格を見て分量を決める。取り出した所定量の薬草を乳鉢で混ぜようとした所で、トレヴァルが不意に解熱の薬草の分量を少なめにするように言った。

「こいつは昔っから熱にはつぇーすけ」

 気が付けばトレヴァルは患者の枕元で存外穏やかな瞳でエスフェルを見下ろしていた。そして、再びテーブルの上の酒瓶を手に取ると呷るように口先を付けて飲んだ。


 薬草を煎じた後、エスフェルの枕辺に(ひざまず)いたリョウは、高熱で浮かぶ額際の汗を拭ってやり、小さな小鉢に移した薬湯を匙で飲ませようと声を掛けた。

「エスフェルさん。喉が渇いたりはしていませんか? 薬湯を煎じましたので少し飲みましょう」

 うつらうつらしている男の額に乗せた布巾を取り換えてから、ゆっくりと匙で薬湯を飲ませた。男は苦さに顔を顰めながらもなんとか少しずつ薬を飲み込み、それから水が砂地に吸い込まれるように静かに眠りに就いた。


 そこでそれまで黙っていたヴァトスがゆっくりと口を開いた。大柄な男の顔は、心なしか憔悴しているように見えた。駆けこんできた時の若々しさが消えて、ここで一気に老けこんだような感じだった。

「おやっさん、これで大丈夫なんだよな? エスフェルは元通りになるんだよな?」

 ヴァトスは組み合わせた手を心もとなげにすり寄せた。その声音には懇願とも哀願とも取れるような響きがあった。

 トレヴァルは無言のままヴァトスを流し見た。そうして再び乾いた喉を潤すようにぐびりと酒を飲んだ。

「今夜か、まぁ遅くとも明日の朝くれぇまでは様子見だこって」

 それから低く囁くように出来る限りの手は施したと言った。後はエスフェル次第だと。

「上手く行きゃぁ、足が繋がるすけ」

 だが、壊死の状況が改善しない場合は、切断するほかない。淡々と状況を語ったトレヴァルをヴァトスは信じられない顔で見返した。

「ウソ……だ…ろ」

 だが、トレヴァルは根っからの術師である。気休め程度にいい加減な情報を与えようとはしなかった。それよりも過酷な真実を告げることを敢えて選んだ。

「俺は、嘘は吐かねぇ。ここまでおっぽっといたエスフェルが悪い。まぁ、ここまでくりゃぁ、命があるだけめっけもんすけ。やるときゃぁ一思いにやってやるすけな」

 トレヴァルの術師としての判断にヴァトスは呻くように喉の奥を鳴らし、その口を真一文字に引いた。


 あらかた片づけを終えた後、リョウは鞄の中に入れていた茶葉を取り出してお茶を淹れた。カップとして素朴な木彫りの椀を借りることにした。というよりも棚の中で埃を被っていた茶器に使えそうな椀を二・三拝借した。勿論それらの持ち主には事前に断っているのだが、それをトレヴァル自身がちゃんと聞いていたかは分からないが。

「どうぞ」

 リョウは、自分のカップを手にもう一つの温かいお茶の入ったカップをヴァトスに手渡した。

「落ち着きますから」

 ヴァトスは無言のまま受け取って茶を啜り、小さく息を漏らした。その様子をトレヴァルが目の端で追っていたようなので「要りますか?」と訊けば、「馬鹿言え」とでも言うように片手を振られてしまった。それから案の定、手にした酒瓶に口をつけたのだが、中身は既に空で、辛うじて数滴が細い注ぎ口から男の唇を湿らせた程度だった。

 トレヴァルは、忌々しそうに舌打ちした。リョウは相手にばれないように微かに笑って、余っていたお茶をトレヴァルのテーブルの上に置いてみた。

「こんな空模様ですから、偶には温かいものを口にするのも悪くないと思いますよ」

 窓の外は依然としてどんよりと曇っていたが、先程までの打ち付けるような雨は止み、雲が次々と流れて行った。

 どうするのだろうと思ったのだが、トレヴァルはそっと太い指をカップに伸ばした。中を覗きこんで匂いを嗅いだ男にリョウはどこか不服そうな声音で笑った。得体の知れないモノだとでも思われたのだろうか。

「お茶はワタシの手持ちです。妙なものではありませんよ。ね?」

 ヴァトスの方を振り返れば、男は神妙に頷いて見せた。

「ああ。普通に茶だ。ちょっと薬くせぇ気がしねぇでもねぇが」

 トレヴァルは、一口飲んで顔を顰めた。だが、その後続けて二口三口と飲んだ。酒浸りといえどもお茶の味は忘れていないようだと思い、リョウは内心おかしくなった。

 それもそうだろう。このお茶は、王都(スタリーツァ)では高値で取引されている上等品なのだから。普段は贅沢と無縁であったが、リョウはこうして自分が愉しむためのお茶を少量だが持ち歩いていた。謂わば精神安定剤のようなものである。ヴァトスが薬臭いと言ったように、これは薬草としても用いられているもので沈静効果がある。

 このお茶は、王都の南にある街フリスターリの特産品で茶葉を半発酵させてあるものだ。フリスターリは西の隣国キルメクにも近く、日照時間が長い土地でお茶栽培に適していた。キルメクの西部にある高地で栽培されているお茶もこの辺りでは有名だ。

 他には、ここホールムスク経由で王都に入る外国産のお茶も有名だった。それらはホールムスクの商人たち―茶組合―が貿易を一手に独占してスタルゴラド国内で流通させているものだ。流通量をホールムスクのお茶組合が制限しているので希少品として高い値がついたままになっていた。王都の貴族たちは、その年に新物のお茶が入るとお客を呼んでお茶会を開くのが常だった。国内外の茶葉を集めては品評会を開いたり―これは王都のお茶商人の主催に好事家の貴族が乗ったものだ―聞き茶会を開いて愉しんだりした。


 なんだかんだ文句を言いながらも淹れたお茶が口に合ったようでリョウは少しだけ嬉しくなった。だが、ここで面と向かって微笑めば男の機嫌を損ねてしまいそうなので敢えて澄ました顔を作った。

 お茶を一服して一息吐いた所で、リョウはトレヴァルに尋ねた。

「暫くは様子見ということでいいのですよね? 期限(リミット)は今日の夕方か、遅くとも夜半だと診ていますが」

 解毒の効果がどこまで表れるか。特に足の状況を判断する刻限の認識をすり寄せようとすれば、トレヴァルは深く息を吐き出した。その息をこれまでよりも酒臭く感じなかったのはお茶の効果だろうか。

「ああ、晩げか…遅くても夜明け前にはだな」

 リョウはそこで少し考える風にカップを両手に抱えた。じんわりとした温かさが久々の緊張と処置の為に冷え切った指先に伝わる。

「どうしましょう。ワタシもそれまで、ここに残っていた方が良いですよね?」

 行き掛かり上、治療に手を貸すことになったのだが、運ばれて来たエスフェルと言う名の男は、ここから暫く一人で闘わなくてはならない。


 そして、最悪の場合は―アレだ。

 リョウは、テーブルの上に無造作に置かれた手斧を見た。鈍く室内を照らす発光石の明かりの下、その刃先が艶やかに光っていた。切れ味は良さそうだが、普通の斧では人の足を切断するなど余程のことでないと難しいのではなかろうかと思ってしまう。リョウはこれまでの知識と経験を脳内でざっと掻き集めた。戦場ならともかく、ここは普通の治療院だ。術師が使う呪いで一時的に切れ味を増幅させて―それが実際、どこまで有効かは想像の域を出なかったが―コツがあれば可能だろうか。北の砦の軍医ピョートルの所には(のこぎり)と斧が壁に備え付けられていた。そこでリョウは釜の燃え盛る炎の中に差してある鋼の火かき棒を横目に見た。麻酔がない時代―もしくは地域、いや戦地などでは―切断に鋸を使う場合、壮絶な痛みを紛らわせるために焼きごてを使ったからだ。火傷の熱さで肉を挽く痛みを一時的に紛らわす―と言っても熱さも半端ないだろう―という究極の二者択一だ。態々火を熾すように告げたのはその為か。リョウは実際、その場面に出くわしたことはまだなかったが、一兵士の妻であり、今後術師として生活をして行く上では、素通り出来ないだろうと感じてはいた。


 万が一、そのような事態になった場合―現時点でのリョウの個人的感触は五分五分だった―人手はあった方が良いだろう。先程の処置で顔を青くしているくらいだから力はあって体格が良くてもヴァトスは使いものにならないと考えた方がいい。

 そのような諸々の事情を鑑みての問い掛けにトレヴァルはリョウを見返し、それから少し離れた寝台の上のエスフェル、そしてヴァトスへと視線を移した。

「人手がありゃぁ、ま、助かるにゃぁ違いねぇが。そうさなぁ」

 含むようにもう一度ヴァトスを見て、不満そうに鼻を鳴らす。

「おめは使えんすけな」

「あ? 俺?」

 急に話を振られたヴァトスは椅子の上で飛び上がらんばかりに驚いた。ぎょろりとした目を見開いてリョウとトレヴァルを交互に見た。

「事情が事情ですし、ワタシも行きがかり上、この方の容態が心配ですから。家に使いを出せば残れるとは思います」

 若干ユルスナールの出方が心配だったが、ここで都合がつかないと言って引き下がることは、術師としては出来ないと思った。

「ここからちけぇのか?」

「丘の方なので小半時くらいですかね」

「ふむ」

 思案しながらも、どこか不機嫌そうに息を吐いたトレヴァルは、そこで何を思ったのかリョウに向かって手を差し伸べた。

「ほいね」

 と言って掌を出す。何かを要求するように。

 リョウは突然のことに目を瞬かせた。なんだろうかと首を傾げる。

だすっけ(だから)、その懐のもん寄越せや」

「へ?」

 リョウは、よく分からないながらも、言われるままに自分をここに寄越すことになった要因である油紙に包まれた封書を懐から取り出した。どうして急に受け取る気になったのかは皆目見当が付かなかったが、これで用事が果たせるのであれば万々歳。大人しくそれを手渡した。

「んだ、こんげ(こんなに)しこたま(仰々しく)巻きやがって」

 文句を言いながらも太い毛むくじゃらの指が思いの外器用に包みを剥いで中身を取り出した。無造作に表、裏とひっくり返して、そこで嫌そうに眉を寄せたのだが、トレヴァルは躊躇うことなく印封の部分に触れた。すると薄らと封書を覆っていた淡い青白い光の膜が、シャボン玉が弾けるようにパッと消えた。

 トレヴァルは徐に中身を取り出した。そこには文書のようなものが一枚入っていた。


 リョウはその間、呑気にここに来る途中通り過ぎた広場に建つ第七の詰め所に居るであろう(ユルスナール)にどうやってお伺いを立てようかと思ったり、ここでやっと肩の荷が下りたと安堵の息を吐いたりしていたのだが、まさか、これが予想外の事態への招待状になろうとは思いもしなかった。

 一読するとトレヴァルはどこか不遜な態度で鼻を鳴らしてからリョウを見た。

はじけたこと(余計なこと)しやがって」

 ―あんのリースカ(きつね)野郎。

 小さく呪詛のような言葉を吐き出して。その口元が何かを思い出すように凶悪に歪んだので、リョウは内心どうしたのだろうかと恐々としたのだが―その前に発せられた言葉が理解できなかったこともある―そのすぐ後に男の口からとんでもない台詞が飛び出して仰天した。

「まぁいいろ。とりあえず認めるすけ。いつでも来いや。そんだら思う存分、こきつこうてやるすけ(こき使ってやるからな)

「は…い?」

 リョウはなんのことか分からずに相手を見返した。

「あの、仰っている意味が良く分からないのですが………」

 状況が飲み込めず不思議そうな顔をしている相手を見て、トレヴァルは、そこで初めて大きな声を立てて笑った。「ぐわっはっはっはっは」というような割れんばかりの豪快な笑い声だった。

「はっはっはっは。おっもしれぇ。おんめもとんだ間抜けさな。こんこんちきが。あのリースカ(きつね)野郎にまんまと担がれたか」

 突然、笑い出したトレヴァルにリョウは心底驚いて、座っていた椅子から反射的に立ち上がってしまった。

「うわわわ」

 その際、カップの中に残っていたお茶を零してしまった。慌てて長衣(チュニック)のポケットからハンカチを取り出して拭っていれば、トレヴァルは手にしていた書面をリョウの鼻先に突き付けた。自分で読んでみろということらしい。

 何やら嫌な予感がしつつも、その「強固な呪いがかけられていた」はずの「重要である」はずの書類を覗き込む。

 そこには端的に言えば、こう書かれていた。数行程の短い文章だ。

 文頭には大きめな文字で「推薦状」とあった。


 ―この書面を持参する者―リョウ・С(エス)С(エス)―をこの度、新たに術師組合員として認証し、ここに貴殿が管理する診療所の「助手」として派遣することを認める。相違あらば直ちにその旨をしたため速やかに返却のこと。異議なしとみなした場合、所定箇所に印封を施せば、契約発効となる。貴殿の賢明なる処断を期待する。

 術師組合長 M・L 


 役所風の勿体ぶった書き方をしていたが、要するに。

「へ? ワタシが助手!?」

 寝耳に水のことで素っ頓狂な声を出したリョウにトレヴァルは更に大笑い。半ば呆然とする相手を尻目に笑いの発作がようやく収まった所で、にやりと兇状持ちも真っ青な悪どい感のある笑みを茂った髭の合間から覗かせた。

「ま、そういうこったな」

 ここで慌てたのはリョウの方だ。

「ちょっ…ま、待ってください。いきなりそんなことを言われても………」

 後生大事に懐に抱えていた書面が自分の去就に関わることで、しかも事前の通告や打診も無しに突然「助手」として任命されるだなんて。こんな莫迦げた話があってよいものだろうか。余りにもリョウの意思を無視したやり方だ。

 腹立たしげに息巻いたリョウの脳裏に件の男の調子の良すぎる声が頭蓋骨に反響するようにこだました。

 ―きみに訪ねてもらいたい場所があるんだよ。きみもきっと気に入ると思うよ。

ゴースパジ(なんてこった)!」

 今になってやっとあの時も意味深な台詞が意味を持った。

 リョウは、何とも言えない気分で呻いた。このままなし崩し的に認めてよいものか。あの男の横暴を許していいものか。いや、でもこれは本人の同意なしに進められていることであるし、トレヴァルが了承しなければいいのだ。

 目まぐるしく思考し、その突破口的思い付きに顔を上げれば、苦い顔をしたリョウの目の前で、トレヴァルはテーブルの上の書類にどこから取り出したのかペンで何事かを書きつけていた。

「あ? どういんだね(どうしたんだ)? おめ、働き口を探してんじゃねぇやんだが?」

「いいえ、その、今すぐという訳ではありませんで。ですが、まぁ、それとは別に、週に数日、然るべき場所で手伝いをして欲しいとは言われたのですが………」

 だが、この診療所をそういう意味合いで訪ねてほしいと言われた訳ではなかった。いや、今考えると向こうはその腹積もりであったのかもしれないが。

「ま、こまけぇこたぁいいすけ。ほいね」

 リョウの目の前で、疑惑の「推薦状」が一瞬光を発したかと思うと文字から揺らぐような粒子が踊り出て、そして渦のようになりながらまた元の位置に戻った。それは術式が発動し、整った証だった。

 ―まさか。

署名(サイン)したんですか?」

 唖然としたリョウの目の前で、

「これでおめはわって(我々・俺)の助手だすっけな。俺はかまわねぇすけ、体が空く時に来いや。文句があんなら、あのリースカ(きつね)に捻じ込んだらいいろいね」

 リョウは脱力するように再び椅子に座り込んだ。耳の奥で、ざわざわと術師組合長の朗々たる高らかな笑い声が響いている気がしたのは気の所為ではないだろう。


今回、少々厳しいシーンがありましたが、リョウが術師として活動をしてゆくにあたっては避けて通れないものなので敢えて入れました。

また、以前より方言を物語の中で使いたいという思いがありまして、ついにここで手を出してしまいました。

トレヴァルの言葉は、日本のとある地域の方言を下敷きにしました。耳から入って覚えている言葉をそのまま似たような音として使ったので、分かりにくい箇所もあるかと思いますが、出来る限り今後も標準的な言い方をルビで当てたいと思っています。疑問等ありましたらお気軽にどうぞ。

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