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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第一章 国際貿易都市ホールムスク
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4)しらふの酔いどれ術師 前編

 その日は、朝からぐずついた天気だった。鈍色を幾重にも重ねた雨雲がずっしりと天を塞ぐように圧し掛かっている。上空、流れる灰色の雲に乗って時折小雨がぱらつき、いつもは青くきらきらと輝いているはずの海原も一転、厚く垂れこめた雲を映すようにどんよりと濁っていた。穏やかな波間もこの日ばかりはどこか荒々しい。まるで本来の猛々しさで侵入者を拒むかのように。

 海から吹きつける風は強く、気紛れで、前屈みになりながら道を急ぐ人々の外套を弄ぶようにはためかせ、その体温を奪って行った。建てつけの悪い窓ガラスがガタガタと震えた。鎧戸が煽られて高い音を立て弾み、錆ついた蝶番の軋んだ音が響き渡った。小路のどこからか桶がカラカラと転がっていった。

 港では帆を畳んだ大型船が一艘、出港を待つ為に停泊していた。暗い空の下、荒れ狂う波間を耐え忍ぶように、そこには大きな船がじっと蹲っているように見えた。これから嵐がくるのだろうか。今朝方までの早い時間にはまだ順次出航が行われていたが、その後、海が本格的に荒れ始めたことから船出は延期されたようだ。いつも今頃は、荷降ろしをしたり、反対に荷を積み込んだりと忙しなく働く人足の姿や野太い声で指示を出す親方衆の姿、その近くには帳面を繰って積み荷の確認をする商人(あきんど)たちの姿があるのだが、この日の港は心配そうに空と海とを眺める(おか)に上がった船乗りたちの姿がちらほらあるだけで、やけに静かだった。


 街の中心にあたる繁華街からは外れた港に程近い所に石造りの粗末な建物がぽつんと立っていた。天気が良い日には眩しいほどに白く日差しを照り返す外壁もこの日は灰色に沈んでいた。

 時折、思い出したように降り注ぐ小雨は冷たかった。一年を通じて比較的温暖な気候であるこの地域でも春の始めはまだ冬がその名残りを惜しむように揺り戻しをかける。この日、街全体は陰鬱な影に包まれていた。

 その建物は、小屋と呼ぶほどみすぼらしくはないが、通りの向こうに並ぶ商業地区の建物よりは小さく外観も簡素なものだった。


 そこに一人の男がいた。室内には明かりが灯っていない。薄暗がりの中、椅子に座っていた。

 中は雑然としていた。まず目に入るのは、粗末な剥き出しの木の寝台のような脚の付いた長い板が二つ。そこにシーツと思しき布の塊が丸まったまま端に寄せられている。枕のようなクッションも無造作に転がっている。壁際には高さの異なる棚が不規則に並び、そこには小さな茶色い瓶が収まっているのが見えた。

 閉め切った室内は籠っている所為か独特な匂いがした。正直に言えば、それは思わず顔を顰めたくなってしまうような酷いものだった。()えたような(かび)の匂いに薬草の青く苦みのある匂いと薄く清涼感のある匂いが混じる。それから男の汗がこびりついた匂いに湿った泥の匂い。そして極めつけは、酒の匂いだった。それを証明するかの如く、使い古された木のテーブルの上には、空になった酒瓶が転がり、安っぽい木製の盃には琥珀色の液体が並々と注がれて揺らめいていた。こうして様々な匂いが混ざり合い、この一室に低く淀んでいた。

 暗く灰色に沈むしみったれた部屋。そのような中で、男は一人背を丸めて静かに座したまま窓の外を眺めていた。

 ガタガタと軋む硝子窓の外は吹き寄せる風と共に黒い雲が走り、時折、打ち付けるように音を立てて、雨脚が強くなった。

「こいつぁ、荒れるか」

 男は、そう独りごちると傍のテーブルにあった木の椀を手に取り、その中身を一息に呷った。グビリグビリと太い喉元を嚥下する音がして、みっしりと生えそろった白髪交じりの長い顎髭に零れ落ちた酒が伝った。男の髭からはいつも酒の匂いがした。




 その日は、朝からどっちつかずの空模様だった。今にも雨が降り出しそうに厚い雲が垂れこめていたかと思うとパラパラと小雨が降り出し、それから直ぐに雨脚が強くなった。そしてまた暫くすると止んで、薄らと雲間から光が一条差し込んでみたりする。だが、それもほんの束の間のことで空は依然として厚い雲に覆われている。

 上空を強い風が吹いていた。物凄い速さで雲は形を変え、集まり、そして散りながら流れて行く。寸分も止まっていることを惜しむかのように。


 リョウはこの日、雨避けの外套を着こみ、上から共布の頭巾(フード)を目深に被っていた。雨避けと言ってもかつて慣れ親しんだ石油化学製品のように優れた撥水性をもったものは“こちら”にはない。紡いだ糸に水を弾くと言われているとある木の渋を染み込ませて織った生地を使い仕立てたものや通常の生地にある種の撥水膜を作り出す鉱石を砕いて溶かした溶剤を塗ったものぐらいだろうか。だが、これらも長時間の雨や土砂降りの雨には有効ではなかった。


 この国は年がら年中雨に見舞われている訳ではない。気候としては比較的温暖で陽光に溢れている。雨季と呼ばれるような長雨が続く期間はなかったが、春先、冬から季節が移ろう時には、大地を潤すかの如く雨がよく降った。そして秋の終わりから冬の初めにかけても雨がしばしば降った。乾いた風が吹き下ろす冬の前に、全ての重荷―水分―をここで落として行ってしまおうとでもするかのように。

 この国の人々は、雨が降っていても気にせずに出歩く。傘のようなものはなかった。雨は天からの賜りものだ。まるでその恵みを浴びることは草木と同じく人の体にも滋養となるかのように、雨を厭い防ごうとする発想自体ないようだった。それに特殊な雨避けとして特別に加工された代物は高価なものでもあるので一般庶民には手が届くものではない。少し厚めの外套や荒く紡いだ大きな布を雨避け用に上から羽織るくらいが精々だった。

 この日、リョウが身に着けていたものも普通の外套に毛が生えたようなものだった。雨が日常的に降る訳ではないので、特別加工されたものは持っていなかった。ユルスナールのような兵士たちは基本的に雨が降っても気にしないし、上流階級の奥方たちはそもそも頻繁に出歩いたりせず、それにたとえ出掛けたとしても馬車を使うだろう。貴族の奥方としては、リョウは滅法型破りな方だが、この時点でそこまでの用意はしていなかったのだ。


 その日は朝から雨が降っていたので、無理に出掛けなくてもよかったのだが、そうは言っていられない事情がリョウにはあった。その為に出来る限りの対策はしてきた積りだ。春に入っているとはいえ、この時期の雨はまだ冷たい。

 上着の隠しポケットの中には幾重にも油紙に包まれた封書が入っていた。昨日、商業組合ミールの術師組合でシェフ()から直々に渡されたものだ。ひょんなことからこの封書をとある男に届けるようにと伝令(messenger)の役を負ってしまったのだが、この用事を早く済ませてしまいたかったのだ。


 昨日、帰宅したユルスナールにミールへ術師登録をしたことを告げれば、ユルスナールは言葉少なに「そうか」と微笑んでから、少しだけ考える風に顎に手をあてた。リョウが組合へ登録をしたいと申し出た時、ユルスナールは特に反対をしなかった。術師として本格的に活動をしたいと思っている妻をユルスナールなりに支持してくれるようだった。ただ、昨日、出掛けることを事前に告げておかなかったので、その点に関しては苦い顔をされたというのは蛇足だが。


 そのような訳でリョウは一人、小雨が降ったり止んだりする中を足早に歩いていた。

 リョウの手元にある情報は、古代エルドシア語でしたためられた宛名と港近くにあるミールが管轄しているという小さな診療所、この二点だけだった。だが、リョウ自身、この二つさえ分かればすぐに目的地は見つかるだろうと楽観視していた。


 ミールなどの立派な建物が並ぶ広場の中心地から更に港へと続く通りを下る。雨が降っている所為か昨日に比べて人通りは少なかった。すれ違う人々は、頭からすっぽりと頭巾(フード)のついた黒っぽい外套を羽織り、俯きがちに足早に歩いていた。石畳の上を馬車がガラガラと音を立てて走り抜け、薄く張った水溜りの泥水を跳ね上げて行った。リョウは深く被った頭巾(フード)の為に視界が利かなくなったこともあり、かなり慎重に絶えず周囲に注意を払いながら濡れて滑りやすくなった石畳の上を歩いた。


 途中、店先で暇を持て余すように空を眺めている小間物屋の主に診療所のことを尋ねた。

「ああ。トレーズヴィんとこけ? ほいね(ほら)うんまそこらすけ(すぐそこさ)

 主はそう言って、ずっと向こうの通りの先へ向けて片手を振った。


 この街の言葉は、王都やたとえばプラミィーシュレ、スフミ村の人々の話し言葉―リョウが長期滞在し、経験して知っているのは大体その三つの場所くらいなものだ―と比べると訛りが強かった。言葉の全体的な調子、力点(アクセント)の微妙な差、語尾、そして時には使う単語そのものが違う場合もあると言う。初めてこの街に降り立った時、耳に入って来た独特な言葉に面食らったのも記憶に新しかった。特に老人たちの話し言葉がそうだ。そのことを夫のユルスナールに尋ねれば、これはシーリスから聞いた話だと前置きして、かつて異国の地から流れついた人々は彼ら独自の母語―正確にはヴァリャーグ語の一派―を話していたそうなのだが、この大陸に流れ着き、当時、この場所で一般的に話されていた古代エルドシア語と混ざり合い、長い時間をかけて今のような形になったらしい。そのような理由から同じ古代エルドシア語を基礎としているこのスタルゴラドの言葉ともかなり近しい関係にはあるとのことだ。だから普通に理解は出来るのだが、言葉の端々で表現が多少違ったりすることもあるということだった。更に約300年前、完全独立の自治を誇る街からスタルゴラドの政治的影響下に組み込まれてからは、皆、様々な理由から、基本的に王都で話されている言葉を理解できるようになっているとのことだった。


トレーズヴィ(しらふ)?」

 リョウは老人が使った言葉を繰り返した。それは一般的には「酒に酔っていないこと」、早い話が「しらふ」であることを言い表す単語だった。まるであだ名かなにかのように使われたその言葉をもう一度確かめるように口にすれば、小間物屋の主―腰が今にも曲がりそうな猫背の老人だった―はきつい訛りで淡々と言った。

「んだぁ。トレーズヴィろ? おめぇさんが訊いたろいね」

 その後も軒を並べた店先で店番をする派手な刺繍が施された前掛け(エプロン)を付けた恰幅のよいおかみさんや山羊(カジョール)のように細長い顎ひげを生やした八百屋の男や丸い頬をした赤ら顔の壺売りの男にも訊いてみたのだが、皆、口を揃えて診療所に詰めている男のことをトレーズヴィ(しらふ)と呼んだ。そして、決まって通りの先を指示した。


 封書の宛名の名前には、術師が印封に使う古代エルドシア文字で―飾り文字のような複雑な書体である―トレヴァル・バシュコイとしたためられていた。トレーズヴィ(しらふ)とトレヴァルは音が似ているが明らかに違う。そこでリョウはもう一つの音が近い言葉「トレェヴォーガ」を思い出して、すこし気が滅入った。それは「不安」とか「胸騒ぎ」、「危険」などを表わす言葉であったから。なんとなくこの使いがすんなりとはいかなさそうな危惧に一人胸が騒いでしまった。


 そのおぼろげな不安には蓋をして。

 また、ここで老人が口にした「うんまそこ」、要するに「すぐそこ」という言葉もその実、厄介な表現の一つだった。田舎と街では「すぐそこ」で辿りつく距離感覚が全く違うからだ。たとえばスフミ村で「すぐそこ」と言えば、歩いて半日もかかるような場所もその範疇に入ってしまうのだが、王都(スタリーツァ)では通りを精々二つ三つ離れた所で済むという具合に。ここホールムスクでの「すぐそこ」はどのくらいの感覚なのだろうか。目と鼻の先にあると思って糠喜びするのだけは避けようと心の中で一人気を引き締めたのだが、他にも道々何人かに訊いてみたところ、リョウが目指す港の診療所は、この分だと然程離れているわけではないようだった。


 小雨がぱらつく中、暫く歩くと左手に大きな川とそこにかかる橋の影が見えてきた。海が近い所為か潮の匂いが吹き寄せる風に混じっている。この街には商業地区と住宅街を区切るように大きく蛇行して川が流れていた。この川はキレンチ川 と呼ばれて昔から地域住民に親しまれていた。キレンチとは古いヴァリャーグの言葉で数字の「9」を意味する。文字通り、この川は河口までに九つに枝分かれしているのだ。川幅が広く、その上を船が行き来し、交通と流通の便を担っていた。


 小路が切れる辺りまで来ると目の前には港が広がっていた。作業小屋のような屋根だけの建物や港湾関連と思しき建物がぽつんぽつんとある。昨日は穏やかだった海には波飛沫が上がり、空と同じ灰色の濃淡の中に沈んでいた。

 その手前に小振りの石造りの建物があることに気が付いた。川に近い左手の方だ。その奥の方には雨けぶる中、遠目に橋の橋梁が垣間見えた。建物の壁には先程通り過ぎた強い雨が染みを作るように灰色の線を矢の如く斜めに描いていた。

 商業組合ミール本部の時と同じように表に看板や表札の類はなかった。確信はなかったのだが、この辺りだろうかと見当を付けて扉を叩いた。


 訪いを入れたものの返事がない。その間に雨が再び降り出して来た。リョウは外套の頭巾(フード)を取っていたのだが、玄関口には庇がないため、瞬く間に頭部が雨に濡れた。湿った髪をそのままにもう少し大きく声を上げて戸を叩いた。だが、暫く待ってみても戸口に人影が現れる様子はなかった。

 留守だろうか。リョウは辺りを見渡した。この近辺にはこの場所以外それらしい建物は見当たらなかった。そうこうする間にも雨脚が徐々に強まって来る。煽られるように吹きつける風は強さを増し、このままではずぶ濡れになりそうだと内心思った。


 少し戸口の前で立ちすくんだ後、駄目元で扉を押してみた。するとキィーと錆びた蝶番が軋み、扉が動いた。どうやら鍵がかかっていないようだった。

「こんにちは! すみません! どなたかいらっしゃいませんか?」

 声高に訪いを入れながら恐る恐る中を覗くと室内は発光石の明かりが付いておらず、暗く闇に沈んでいた。

 留守なのだろうか。そんなことを思いながらもリョウは顔を顰めていた。何とも言い難い不快な匂いが鼻先にまとわりついたからだ。薬草の青い草の匂いは術師になった今、リョウにとっても落ち着く香りになってはいたが、ここにはそれだけでなくて黴のような匂いに()えた匂い、そして北の砦の食堂や鍛練を終えた兵士たちが集まる風呂場と同じ男の汗の匂いがした。極めつけは酒の匂いだった。これらが一緒くたになって混じり合い、耐えがたい臭気の混合物を作り上げていたのだ。無意識に吸いこんだらむせること必至。

 リョウは思わず鼻先を手で覆った。日頃から第七師団の兵士たちの間に混じっているのでそれなりに男臭さに対しては耐性が付いているとは思っていたが、ここはそれ以上の酷い有り様だった。仮にも診療所というのは清潔を是としなくてはいけない場所だ。このような酷い臭気を発する場所が治療院であるはずがない。いや、あってはならない。もしかしなくとも場所を間違えたのだろうと思ったのだが、薄い暗がりに目が慣れてくると室内の様子が見えてきて、リョウはなんとも言えない気分になった。リョウにとっても馴染み深い作りのものが目に入ったからだ。患者を寝かせるのだろう簡易的な木の寝台が二つ。テーブルには薬草を調合する為の小振りのやげんのようなもの、小さい鉢。壁際に置かれた高さの違う棚の中には茶色の小瓶が些か乱雑に並んでいた。その上には使いかけの油紙が置かれ、包帯や布が無造作に放置されている。流しの上には大きな盥。その奥にはかまどと思しき区画が黒っぽく沈んでいた。


「何の用だ?」

 室内の様子をぐるりと見回していた時、どこからともなく低い男の声が耳に入った。

 目を凝らすと影が色濃くなった中、次の間へと続く戸口の木枠に寄りかかった男の姿が見えた。腕を上方に掲げて、体全体で敷居際に持たせかかるように気だるげな様子で立っていた。やや前屈みに背中を丸めて男が突然の闖入者を睨みつけていた。

「何の用だ?」

 男の手には酒瓶が握られていた。瓶の口を逆さにして口元に近づけると中身を飲み、そして袖でぞんざいに拭った。その途端、酒の匂いが強烈に鼻についた。

「トレヴァル・バシュコイ殿ですか?」

 極力表情を変えないまま背筋を伸ばして、リョウはその場で軽く敬礼をした。男は気だるそうに壁に寄りかかったままで、その問いには答えようとしなかった。

「ミールの術師組合から伝令で参りました」

 リョウは淡々と用件を告げると懐から幾重にも油紙が巻かれた封書を取り出し、その中身を出した。

 男はあからさまに嫌そうな顔をしていた。そして、また瓶に口をつけて所謂ラッパ飲みをしてから、げふっと息を漏らした。

「術師組合の長、メェレジェディク・リサルメフ殿からの書簡です」

 シェフの名前を出した途端、男の顔が歪んだ。リョウは敢えて無表情を貫きながら手にした封書の宛名を上にして男に向かって突き出した。


 朝から酒を引っ掛けている酔っ払い。何がトレーズヴィ(しらふ)だ。いや、これは痛快な当てつけか皮肉なのだろう。しらふの酔っ払い。いつも酔いどれているからそれがしらふの状況で。そう当てこすったあだ名だとしたらと深読みしそうになる。術師は変わり者が多いというのが世間一般の認識ではあったが、酒飲みの術師というのは、リョウ自身出くわすのは初めてだった。

けぇってくれ(帰ってくれ)

 封書を差し出したままのリョウを男はけんもほろろに突き放した。封書には全体的に薄らと青白い光が膜となって覆っていた。それが男の苛立ちに触れるかのように揺らぎ、萎んでは膨らむという不可思議な現象を生み出していた。

 リョウは諦めずに淡々と顔色を変えることなく続けた。

「こちらを直々、貴殿にお渡しするようシェフより言い使っております」

 そして封書を差し出したまま相手を静かに見据えた。

「僭越ながら申し上げます。ワタクシはこの中身を知らされてはおりませんが、ここに強固な印封が施されていることは明白。これは大事の封書。受け取って頂かなければワタクシの役目が果たせませぬ」

 その口上に男はフンと酒臭い息を吐き出して白けた顔をした。

「んなこたぁ、この俺にゃぁ関係ねぇやんだ。ミールんとこのあのいけ好かねぇリースカ(きつね)野郎からの封書なんざぁ、ろくなことがねぇに決まってろうがね。俺にゃぁ受け取る義務はねぇろ」

 ―けぇってくれ。

 まるで餌を強請るようにうろつく野良犬を追い払うようにしっしと片手を邪険に振られて、リョウは、内心途方に暮れた。こんなことは初めてであったから。

 それにしてもここまで嫌悪感を顕わにされるとは思わなかった。一体、あの術師組合の長は何をやらかしたんだろうかとあの煮ても焼いても食えなさそうな強かな男とこの目の前のしらふ(トレーズヴィ)とあだ名される酔いどれ男の間にどんな確執が―というか経緯があったのかと下世話なことだがそちらの方が気になってしまった。


 少し待ってみても男の態度は頑ななままで変わらなかった。

 仕方がない。受け取りを拒絶されてしまえば、単なる|伝令であるリョウにはいかんともしがたかった。これではまるで子供の使いだ。馬鹿げているとは思うが、ミールに引き返し、運が悪かったと思う他ないのだろう。リョウは、シェフとこの男の間の事情には首を突っ込む積りもなかった。

 ―この方が、都合がいいからね。

 昨日、何かを含むように目を細めた長の顔を思い出して、リョウは密かにこの世には思い通りにいかないことがままあるのだ。いや、もしかしたらその方が多いのかもしれないと老獪なシェフに面と向かって零してみたくなった。


 それから、リョウは少し観察する風に男を見た。封書は相変わらず差し出したままである。もしかしたら気が変わって受け取りはしまいかという淡い期待を抱いてみたが、それはあえなく崩れ去った。手にした酒瓶を時折呷りながらゆっくりと室内を歩き始めた男は、こちらには関心を払うことなく、この場所の主らしく悠々と、いや堂々としていた。

リョウは小さく溜息を吐いた。再び封書を油紙に包み、それを懐に入れた。そして、改めてぐるりと室内を見渡した。

「あの、こちらは診療所なんですよね?」

 男はどっかりと粗末な木の椅子に腰を下ろすと話を変えた訪問者を嘲るように見上げた。

「あ? それいげぇのなんに見えるこってね」

 フンと鼻を鳴らして男が言い放った。酒臭い息がリョウの鼻先に吹きつけられた。

 リョウは心の中でとっぷりと溜息を吐いた。こんな酒臭いゴミ溜めみたいな臭気の淀んだ場所が、あのミールが管轄する治療院だなんて俄かには信じられなかった。いや、信じたくなかった。窓を開けて空気を入れ替えたら少しは違うのかもしれないが、今日は生憎の雨模様だ。外は強い風が吹いている。仮に風通しを良くしたとしても、そこらじゅうに薄らと積る埃を見れば、それは気休め程度なのかもしれない。いずれにせよ掃除をした方がいいに決まっている。

 しかしながら、男は恐らく術師トレヴァル・バシュコイその人で、この診療所の主に違いないのだろう。

 部外者もしくは闖入者であるリョウは完全に余所者で、これ以上ここにいても相手の機嫌を損ねるだけだと思ったので、早々に立ち去ろうと思ったその時だった。

「おやっさん、トレーズヴィ(しらふ)のおやっさん!」

 ダンダンと入り口の戸を力任せに叩く音がしたかと思うと、扉が勢いよく開いて男が一人雨風と一緒に飛び込んできた。バタバタと外套の裾が煽られて、戸が開いた瞬間、強い雨風が吹き込み、棚の上に置きっぱなしになっていた油紙の類や埃がぶわぁっと舞い上がり、あちらこちらに落ちた。そして霧吹きを使ったような細かい驟雨が室内をしっとりと濡らした。

「おやっさん、頼む! エスフェル のやつを診てやってくれ!」


 飛び込んできたのは体格の良い大柄な男でその背に人を背負っていた。雨避けに羽織っていた外套をそのままに木肌が剥き出しの寝台に背負っている男を下ろそうとする。頭巾(フード)から覗いた男の顔には明らかに焦りの色が浮かんでいた。

「どうした?」

 術師の男は手にしていた酒瓶をテーブルの上に置くとそれまでとは違う俊敏な足取りで男たちの傍に寄った。リョウも只ならぬ緊張を察して身体が勝手に動いていた。これも北の砦で軍医ピョートルの下で手伝いをしていた成果かもしれない。

 リョウは、足早に傍に歩み寄ると寝台に背負っていた男を寝かせるのを手伝い、下ろされた患者と思しき男の頭に端の方に転がっていた枕を宛がった。そして自らも羽織っていた外套を手早く脱ぐと目に付いた椅子の背もたれに掛け、背中にかけていた鞄をテーブルの上に置いて中を開いた。

「おやっさん、どうしよう。大丈夫だよな。助かるよな? 頼むからどうにかしてくれ」

 ―後生だから。

 男は酷く動揺しているようで上擦った声を上げていた。声だけを聞くならば今にも泣きそうな響きが含まれている。その顔は蒼白だった。

「おい、しっかりしろ、エスフェル。おやっさんとこ着いたぞ。分かるか? 今に楽になるからな」

 大きな声で仲間に呼びかけた。

「うるせぇ、ちったぁ黙ってろいや」

 トレヴァルは真剣な表情でおろおろする図体の大きな男を一喝した。そして、低く問うた。

「何があった?」

 とにかく患者の状況を知る必要がある。

「あ、いや、だからさ、俺が今朝方宿舎に戻ったら、こいつ、青白い顔しててよ。今にもどうにかななっちまいそうでさ。だから……とにかく、ただ事じゃねぇって思って………ああ、クソ! だから……」

 仲間の男は説明をしようとするのだが、気が急いているのか、動転しているのか全く要領を得なかった。

「大丈夫です。落ち着いて。あなたが焦っても仕方がありませんよ。何があったのか教えてください」

 リョウはぐっしょりと汗―多分、その殆どが冷や汗だろう―に濡れた男の背を宥めるように叩いた。

「この方はどうしたんですか? どこからか落ちて怪我をしたんですか? それとも妙な物を食べたとか?」

 リョウは男から的確な情報を引きだす為にゆっくりと言葉を継いだ。


 運び込まれた男はぐったりとしていた。苦しそうに眉根を寄せて目を閉じ、息が浅くなっている。随分と憔悴しているようで青白く頬がこけていた。額に手を当てるとかなりの熱があった。

「すごい熱だ。冷やさないと。桶は……っと」

「その裏だ」

 素早く周囲を見渡したリョウに寝台の上の男を診ながらトレヴァルが親指を後方へ向けた。リョウはその桶を見つけて引っ掴むと流し台の方へ行った。ここには水道が引かれているようで水の出る小さな樋とその弁の役割をする注水石の青い石があった。急いで石に触れるが、肝心の水が中々出て来ない。

 何度か試しているとトレヴァルがにべもなく言い放った。

「ああ、そいつはぁ石がぶっ壊れてるすけ。水なら外だこって」

 リョウは桶を掴むと外に飛び出した。水場は直ぐに見つかった。同じように注水石に手を翳して綺麗な水が出ることを確認する。雨脚が先程よりも強くなってきていた。リョウは濡れるのも構わずに桶に水を満たすと中に運んだ。そして懐から冷却石を出すと水を満たした小さな盥の中に入れた。

「おい、湯、沸かせや」

 布巾の類はどこにあるのだろうと棚を漁っていると男が鋭くリョウに指示した。

「布は?」

「ああ? その辺にあるすけ」

 引き出しを見つけて探ると奇跡的に真新しい布があった。それを腰に差した短剣を使いある程度の所で切った。(はさみ)を探している余裕はない。その切れ端を冷水に浸して、傍にいた仲間の男に額に乗せるように告げる。それから流しの隣にあった発熱石を使ったかまどに目に付いた大きな鍋―これは日常的に使われているようで汚れていなかった―を置くと桶からの水を注ぎ、発熱石が最大限効力を発するように「ヴァリーチィ」と小さく呪いの言葉を紡いだ。

「火ぃも(おこ)しとけ」

「はい」

 続いて出された指示に黙々と従う。その隣に炭で火を起こす為の小振りの竃もあったので、リョウは腰の巾着から火打石を取り出すと呪いと唱えながら打ち鳴らし、着火用の藁とぼろ布を使って火を熾した。


 それらの作業を終えてからリョウが運び込まれた男とトレヴァルの傍に戻ると、トレヴァルがざっと患者を運びこんだ仲間の男から事情を聞き終えて、ぐったりとした男の衣類を肌蹴て身体の様子を検めている所だった。先程まで酒瓶片手にくだを巻いていたとは思えない程の手際の良さでズボンを脱がせた所、男の右足の膝から下がぶす黒く変色していた。よく見ると塞がっていない傷口があり、そこから緑色に変色した膿が出ている。そこが大きく腫れ上がっていた。

 腫れた傷口の状態を確かめたトレヴァルに男が低く呻き声を漏らした。

 ―これは酷い。

 声に出そうになる言葉をリョウは慌てて飲み込んだ。どうしてこんなになるまで放っておいたのか。元々は切り傷だったのだろうか。然るべき手当をせずに放って置くと化膿して悪化してしまう。これはきっとそれが酷くなった症状だった。リョウが見てきた傷の中でもかなり酷い有り様だった。そして、その細菌が血液に乗って体中に回ってしまっているのかもしれない。だから男の免疫機能が反応して高熱を出させている。もしかして刃先に毒が塗ってあって傷口が中々塞がらなかったのだろうか。リョウは約一年前王都(スタリーツァ)で起きた自分の経験を思い出して顔を引き締めた。あれ以来、解毒用の薬草プラチヴァーダは常に用意してある。


 幹部は大きく腫れ上がっていた。傷口はぐちゃぐちゃになっている。まず膿を出さなければならないだろう。黒く変色した所は壊死している箇所だ。このままでは下手をすると切断しなければならなくなる。いや、菌が体中に広まっていれば、待っているのは死だ。

 トレヴァルはどういう判断を下すのだろう。高熱の為に意識が朦朧としている男の傍でリョウは冷やした布を取り換え、余分に持っていた冷却石に強い呪いを掛けてそれを湿らせた布で巻き、男の両脇の下に入れた。少しでも早く熱を下げなくてはならない。解熱剤が必要だろうか。リョウは鞄の中に常備している薬草の目録をざっと思い返していた。その隙にトレヴァルは、竃に近づき黒い鋼の火かき棒を中へ放り込んだ。そして煮え立った湯の中に、少し小さめの先が尖った刃物を入れる。そして壁際へ行ったかと思うとそこに張り付くように保管されていた小さな手斧を取り出した。それから棚の方に行って茶色の瓶が並ぶ中から目当てのものを探し当てて戻って来た。

「おら」

 トレヴァルは手の中にあった茶色の小瓶をリョウに手渡した。中身の認識札(ラベル)は貼られていない。小瓶を振って中の液体の粘性を確かめてから蓋を開けて匂いを嗅ぐ。

「解熱剤ですね。主成分はウトラータでしょうか。で、こっちは化膿止め。ウシェールブ 、いや、サグノイですかね」

 リョウの言葉を肯定するようにトレヴァルは小さく頷いた。

ヤード(傷を塞がりにくくする)の毒が回っている可能性は?」

「それはねぇだろ」

 男の傷口には特徴的な紫色の斑点がなかった。リョウもそれを確かめて頷く。

「膿を出す為に切開するんですか。痛み止めは?」

 膿を吸い出す為の軟膏を添付して包帯を巻き、毒成分をじっくりと表に出させる手法もあったが―以前、プラミィーシュレでとある鍛冶職人に行った施術がそうだ―この患者の場合は患部の範囲が広く、それ以上に急を要した。そうなると少々荒療治になることは否めない。ガルーシャが残してくれた小さな覚書の帳面の中にも怪我の箇所と化膿の段階の見極めとその対処方法が箇条書きに書かれた箇所があった。

 リョウは戸棚から見つけた新しい布と油紙を手に戻って来ると処置の方法を尋ねたのだが、

「あ? んなもんいらんこってね。男なら耐えるしかねぇすけな」

 横たわったまま時折呻き声を上げる男を横目に見ながら、痛み止めなど必要ないと言い切った。

 リョウはぎょっとした。

「痛み止めがないんですか?」

 戦時の物資不足で薬草の供給がままならないのならばともかく、通常の治療院で在庫がないとは由々しき事態だ。

「んあ? あん中ぁ探せば一つか二つくれぇはあっかと思うがよ。いつもは使わねぇ」

 トレヴァルはそう言うと患者である男を半ば冷酷に見やった。

「こいつが悪いんだこってね。こんだけのもんこさえといて(作っておいて)おっぽっとくんだすけ(放っておいたのだから)

 そして、自業自得だと冷ややかに言い切ったのだが、リョウはその意見に賛同しかねた。


 そこで仲間を運んできた大柄の男が、ようやく幾ばくかの冷静さを取り戻したようだったのだが、トレヴァルが手にしている得物―手斧―を見て顔を青くした。

「おやっさん、ちょっ、ま…ま、待ってくれよ。まさかそれでこいつの足ぶった切るわけじゃぁねぇよな。そんなことしねぇよな? 大丈夫だろ。いつものようにおやっさん特製の薬で治っちまうんだろ?」

 男が仲間を心配して動揺しつつも口を開けば、それに対しトレヴァルは、手にした小振りの斧の柄を持ってトントンと刃の裏で厚い掌を叩いた。そこで意味深に笑って見せた。まるで悪魔(チョールト)のように。

「さぁて、どうすっけな(どうするかな)

 たっぷりと生え揃った白髪混じりの髭の合間から、ちらりと黄ばんだ歯が覗いた。リョウは内心恐々としつつも、トレヴァルは恐らく脅しているだけなのだろうと思ったのだが。

「痛み止めはワタシにも持ち合せがあります」

 リョウは自分の鞄を引き寄せると中から小さな瓶を取り出した。王都(スタリーツァ)滞在中にも使ったものだ。あれから薬草の配合と改良を重ねて、以前のような強烈な匂いは抑えられている。リョウは出過ぎた真似かと思ったが、憔悴した男にはなるべくなら痛い思いをしない方がよいだろうと判断した。体力があるうちならばいいが、そうでないと痛みに耐えるだけでも相当の肉体的、精神的苦痛(ストレス)になる。ここで消耗したら、その後の回復が見込み難くなる。

 間に入ったリョウをトレヴァルはじろりと流し見たが。

 沈黙の後、

「好きにしろ」

 と吐き捨てるように言った。

 そこでトレヴァルは至極真剣な顔をして寝台に横たわる男とその傍で見守る男を交互に見た。

「いいけ、おまんら。よく聞けや。俺はぁ(ボーグ)でもなんでもねぇ。ただの術師だ。助けられねぇもんは助けられんし、助からんもんは助からん。死ぬときゃぁ死ぬ」

 そこで言葉を区切ると顔を引き締め、横たわる男を覗きこむように見下ろした。

「これから膿を除くがな。場合によってはおまんの足をぶった切ることになるすけな。覚悟しとけ。そんでも駄目な時はおだぶつさ」

 ―いいけ?

 包み隠さず男たちに最悪の可能性を告げる。そこにあったのは紛れもなく熟練(ヴェテラン)の術師の顔だった。


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