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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第七章 それぞれの正義
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5)流れの術師


「この度は、色々とご迷惑をおかけいたしました」

 深々と下げられた頭部に合わせて緩く束ねた黒髪が馬の尻尾のように跳ねて揺れた。耳元を彩る三連の青い貴石は艶やかな照りを返し、一瞬だけ頬にほの白い光を散らす。思っていたよりも血色の良いリョウの顔を見て、ミリュイ・ツァーブは密かに安堵の息を漏らした。

「ほんっと、よかったわねぇ。心配したのよぉ。あんたんとこの団長さんがこーんなにおっかない顔して乗り込んできたと思ったら、間を置かずに診療所の酔いどれが血相変えてがなり込んできて、もうびっくりしたのなんの。危うくそこら中、血の海になるかと思ったわ。それにしてもトレヴァルがここに来るだなんて、こっちはなんの天変地異の前触れかって思っちゃったわよ。それだけあの偏屈に気に入られてるってことなんでしょうけれど。ね、フェルケル、あんなの初めてよね」

 紅く縁取られた艶やかな唇から淀みなく流れる低い声に合わせて、彩色の施された鮮やかな爪がひらひらと揺れる。同意を求められた同僚のフェルケル・タチはほとんど表情を変えることなく言った。

「ああ、中々に見ものだった」

 そこで口角がほんの僅かに上がった。

「無事で良かった」

 すっと細められた眼差しの奥に(いたわ)りの情が読み取れて、今更ながらに心配をかけたことを申し訳なく思うと同時に自分がそれだけここに受け入れてもらえているようで嬉しくもありがたくもあり、じんわりと心に染みた。

「どうだ、多少は勉強になったか」

 相変わらずの飄々とした声音へリョウは静かに顔を向けた。どっしりとした机の向こうには術師組合の長、リサルメフが胡散臭い笑みの切れ端を口元にぶら下げていた。ただこちらを見つめる瞳には、自分の浅はかさを遠回しに突きつけるような冷たさがあった。

 似たような目を知っている。既視感に記憶が疼けば、王都での出来事、影の諜報機関チョールナヤ・テェニィの(アタマン)に会ったときことが思い出された。ガルーシャの親戚筋だというあの男は、顔つきこそ故人に似ていたがその目の色は全く違った。己ですら気付いていない心のうちの奥底に眠る感情まで暴かれてしまうような、そんな恐ろしさと薄ら寒さがあった。ガルーシャは人間不信の隠遁者のようでいて、その実、ギリギリのところで他者への期待を失っていなかった。それに反してアタマンは情を欠片も感じさせない冷えた目をしていた。信じるものは己のみで、他人は当てにしない。そういう突き放した乾いた眼差しだった。

 術師という職業柄なのか、リサルメフも中々に捻くれた性格をしているが、その指摘は的確だ。人の感情など気にせず、躊躇いもなく急所をえぐるので息が止まりそうになるが、それも図星であるので痛みはそのまま飲み込むしかない。

「はい」

 リョウは笑みを作ろうとして、だが、喉元に細い刃が刺さったような気分で口元が歪んでしまった。

「わたしが見たのはこの街のほんの一部、断片でしかないとは思います。それでも知らないよりは知れてよかった。たとえそれが…苦い経験だったとしても………と言っても、売られるなんて初めてのことで随分と肝が冷えましたが」

 それでも始終一人ではなかったことが救いになった。最後は半ば冗談めかして重くなりそうな空気を軽くする。

「でも、噂には聞いてたけど、あそこでは随分荒っぽいことするもんねぇ。で、売られたって、あんたたちはなに、(せり)にかけられたの?」

 ミリュイが興味津々という体で組んだ脚の上、上体を屈めた。その赤茶色の瞳が好奇に煌く。

「いえ、商談の途中で黒づくめの男たちが乱入して捕われたんです」

 今ではそれが、オフリートとその関係者であると分かる。

 競売で扱われていたのは、様々な枕詞のついた物品だけだった。愛玩用の動物を含む生き物は見なかった。

「元々ユリムが囚われたところの関係者があの会場にいて、見つかってしまって…」

 そこは長が危惧していた通りになってしまった。

「あら、それじゃぁ目的は果たせたの?」

 痛いところを突かれてリョウは緩く(かぶり)を振った。

「探していた品物らしきものは見つかったんですが、ちょうど入れ札を行なって出品者と交渉に入る時点であんなことになってしまったので…………」

 そう言えば、あの時の品物はどうなったのだろうか。取引に用意した軍資金・キコウ石の袋もそのままになってしまった。出品者であったブラクティスも共に捕まったから、元々の所有権もうやむやになってあの競売の主催者が懐に入れてしまったのだろうか。ただ、あのサリドの武人は買われたとは言え、自らの意思でノヴグラードの商人と行動を共にしていたはずだ。出品者として品物の取戻しを主張することもできなくはないだろうがそれをするかどうか。いや、あの二人の確執を思えば、ユリムが探し求めていると知れば、あの男のことだ、益々協力などしてくれないだろう。キコウ石のことは諦めても問題ないが、ユリムの探している品はもう少しで手の届くところにあった。最後の最後、あと少しで得られたかもしれないと思うと口惜しくて、どうにかできないかと考えてしまう。

「あらら、じゃぁモノは主催者の手元ってこと? 噂ではミシュコルツだったかしら。今ごろ向こうはほくそ笑んでるかもね」

 競売が不成立になった時の流儀は分からない。でも普通ならば、プラマイゼロで競売前の状態に戻ると考えたいのだが、あそこは闇市場だ、それは認識が甘すぎるのだろう。

「やっぱりそうなっちゃうんでしょうか。どうにかして交渉の再開ができればいいんですが、どこにかけあったらいいのか」

 折を見てユルスナールに相談しようと思ってはいるが、事後処理が忙しそうでまだ話す機会を逸していた。

「あら、それならエンベルに相談してみれば?」

 ミリュイの口から思いがけない名前が出た。

「自警団長に?」

「競売の主催者はここの組合員だ。人身売買の件が明るみに出て、関係者は皆取り調べを受けている。ミシュコルツもオフリート同様、向こうで事情を聞かれているはずだ」

 それまで黙っていたフェルケルが口を開いた。

「まぁ本当は長のイステンに掛け合うのが一番なんだろうけどね。幹部連中はこの騒動で今、それどころじゃないだろうし」

「それも自警団の仕事なんですね」

 自警団の役割は専ら街の治安維持で、街中での喧嘩やいざこざ、犯罪等が起きた時に対処する荒事専門の組織だと思っていた。騎士団がここに派遣されている理由も大きく言えばそれに近いものなのかもしれないが、方向性(ベクトル)が違う。もっと外向きというか、対王都的な視点で、ホールムスク内部での反乱や独立蜂起のようなことが起きないように監視・監督するのが本来の役目だろう。

 リョウが巻き込まれたのは平たく言えば犯罪だ。だが、そこに関わっていたのはミール会員だ。組合員の不祥事はミール内で調査委員会のようなものを立ち上げて対処するのかと思っていた。

 そう思っていたことを口にすれば、

「いや、本来はミール内で済ますんだが……その……騎士団が絡んだ手前な……」

 とそこで珍しくフェルケルが言い淀んだ。もっともらしい咳払いを一つしてリョウの方をちらと見た。思わせぶりな仕草だが、皆まで口にしないのは騎士団の身内である自分の手前の配慮なのだろう。だから言いにくいことをあえてリョウは音にした。建前に隠されてしまう本音が知りたかったから。自分の立場を理由にいつまでもお客さん扱いをされるのは不本意だった。ここでは出来るだけ裏表なく腹を割って話したい。たとえそれが立場の違いを際立たせることになろうとも。

「つまり、騎士団に主導権を握られてミール内を引っ掻き回される前に自警団を立てて、少なくとも厳しく当たっている風に見せている……ということですか?」

「ちょっとぉ、その言い方~」

 珍しく辛辣な物言いをしたリョウを茶化すようにミリュイが長い指先を振った。

「でもまぁ、当たってると思うわよ。それで。だって長いこと知られて来なかった闇市場が暴かれただけでなく、組合員が堂々とこの国の掟を破ってるってバレちゃったんだもの」

 ミールの監督責任が問われるだけでなく、事によっては共にグルになっていたのではとみなされても仕方がない。これを機に王都の支配権を強めようと自治権の問題がまた浮上するやも知れない。ミールとしては騎士団に弱みを握られたことになるのだ。

「そうなったら長も頭が痛いわよねぇ~」

 あっけらかんとした軽い節回しでミリュイが言った。全くもって他人事という感じだが、この距離感が群れず、長いものに巻かれずを是とする術師の在り方なのだろう。ミリュイ自身この国の出ではないから、この街への帰属意識も薄いのかもしれない。ここ数日、騎士団の方も何かと騒がしくユルスナールはシーリス、ヨルグ、ブコバル達と忙しそうにしていた。政治的な難しいことは分からないが、この件でこの街の力の均衡(パワーバランス)が揺らいでいるのかもしれない。


 リョウは応接用の長椅子に腰掛けるミリュイの隣へ腰を落ち着けた。ちょうどお茶の時間だったのか、テーブルには人数分の茶器と焼き菓子の乗った皿があった。ミリュイは淹れたお茶を長に渡し、フェルケルの執務机にも置いた。ミリュイの故郷、ヴァーングリア特産の一級品だろうか、ふわりと立ち上る華やかな香りはお洒落に余念のない国の男たちそのもののようで、ミリュイにも似つかわしかった。

 同じようにリョウもお茶を勧められて、乾いた喉を潤す為にカップに口をつけた。事件後、初めて顔を出すこの日は、お詫び行脚(あんぎゃ)と心に決めていたせいか、思っていたよりも緊張していたらしい。

「そうだ、ミリュイさん、ごめんなさい。せっかく用意してもらった服は全部駄目にしちゃったんです」

 リョウはその場で頭を下げた。

 競売当日に扮した二人分のサリダルムンドの装束はここで手配するにはそれなりの労力が必要だったろうに思う。刺繍の施された帯や貴石の付いた頭飾りなど、部族の中でも位の高い家の出であることを示すようにとけして安いものではなかったはずだ。それを全部失ってしまった。

「あら、いいのよ、服なんて。あんなのはいつでも替えが利くわ。命あっての物種でしょう? こっちも楽しかったし。久々に腕が鳴ったわ」

 ミリュイは気にするなとばかりに気前よく笑う。

「そう言っていただけるのはありがたいですが、用立てて頂いた分はこちらで弁償しますから」

 気持ちは嬉しいが親しき仲にも礼儀ありで、金銭が絡んでしまった分は少なくとも色をつけてきちんと返しておきたかった。そこはリョウの譲れない一線だ。

「ホント真面目なんだから。じゃぁいいわ、貸しにしておいてあげる。でも覚悟しなさいよぉ~? あたしが困った時には容赦なく返してもらうから。それならいいでしょ?」

「はい」

 軽い押し問答の後、着地点を見つけた所でミリュイが気分を変えるように言った。

「それよりもあの子はどうしてる? サリドの皇子さま」

 そう言えば以前ここに来た時もシェフから「一の君」と呼ばれていた。ユリムは自分を妾腹の庶子だとは言っていたが、出自や身分云々に関しては余り触れて欲しくなさそうだったから、こちらから尋ねることはしていない。ここでは肩書などいらない。ユリムという名前があれば十分だったからだ。歳は十四と言っていたが、己が身を振り返ってみても、生まれ育った環境がそうさせたのだろうが、実年齢よりもずっと大人びていてしっかりしている。

「ユリムのことですか? 今日は丘の上の官舎でゆっくりしてますよ。やっと一息つけたみたいで」

 戻ってきた直後は事情聴取やらで気の休まる時がなかったが、ここ数日はぐっすりと眠れているのか、顔つきから疲労感が消えていた。ただユリムの目的はまだ果たせていないのだ。今は束の間の小休止で、あの子が故郷(ゆかり)の宝物を引き続き探すというのならば、微力でも力を貸してやりたいとは思っていた。ユリムを目の敵にしていたサリドの武人ブラクティスのその後も気になるところだ。あのノヴグラードの商人と共にこの地を離れていれば問題ないが、あの男は抜け荷の件でいまだ留め置かれているとも聞いた。その辺りのことはもう一度ユルスナールに確認してみるのが良いだろう。それに、もし、ヘルソンがまだこの街にいるのならば、あの術師の男も同じくここにいることになる。

「そうだ、シェフ」

 不意に思い出したようにリョウが顔を上げた。

「隷属の腕輪…というモノを知っていますか?」

 何気ない問いかけのつもりだったが、室内に緊張が走ったのが肌で感じられた。

「どこで…それを?」

 リサルメフの視線に鋭さが増した。

「囚われた時にはめられたんです。ここに」

 捲った袖の左腕にはいまだ微かな痕が付いていた。当時は必死で気がつかなかったが、術を解いた時の反作用だったのかもしれない。

「腕輪自体は普通の装飾品だったみたいなんですが、そこに術師が手を加えていると言われて、一体どんな技だったのかと思いまして」

 ガルーシャからや養成所で教わった術師の基本には「(のろ)い」の類はなかった。薬師の延長上で人に害をなす毒物の扱いくらいだった。もしかしたら残された無数の書物の中にそういう類の話があったのかもしれないが、まだ把握出来ていない。それにガルーシャならば禁書扱いにしているかもしれない。禁書は森の王セレブロの管理であの小屋に封じられている。その他の多くは、王都の養成所や第三師団で管理してもらっていた。もしかすると第三師団長のゲオルグなら知っているかもしれない。リョウの脳裏に見かけだけは儚い麗人の顔が浮かんだ。

「術を浴びたのか?」

 リサルメフの問いかけになんと答えたものかと迷った。

「ええと……多分?」

「なんだ、はっきりしないな」

 あれば術が発動したと捉えても良いのだろうか。

「逃げ出そうとした時、私よりもユリムの方がすごく苦しんだんです。それに対処するのに夢中で、自分の方は発動したかどうか、腕にぴりとした痛みが走ったので、もしかしたらそれかと思うんですが………」

 いまいち判然としないのだ。

「それはまた中途半端な技だったのか。かけた奴の腕が知れる。命拾いしたな」

 鼻で笑ったリサルメフの言葉にリョウは目を見開いた。

「え、そんな強い発動をするものだったんですか!?」

 場合によっては生命を脅かすことも考えられるのか。言うことを聞かせる為に多少苦痛を与える…ぐらいのものだろうとそこまで深刻には考えていなかった。

 青い顔をしたリョウを見てミリュイが笑った。

「何言ってるの。それは術師の匙加減というか、腕次第よ~」

 一口に拘束具と言ってもその使い方によっては術のかかり方を手加減するものなのだ。

「ま、その辺は色々と奥が深いけれどねぇ」

「ああ、そうか、そういうことですね」

 それは術師の基本だ。一番最初に習う初級の印封もその重要度に合わせて掛かり方に強弱をつけるのが普通だ。それと同じことだと思えばいいのだ。

「で、今のお前さんの腕を見るに、解除はしたんだろう?」

「はい。どうにか力を相殺することはできました」

「へぇ~、仕組みも分からないままでやるじゃない」

 あの時はそれだけ必死だった。なにぶん我流で色々試してみたのが上手くはまったという感じだ。

「こういう力の使い方は王都では聞いたことがなかったので」

 同じ国内(くにうち)なのにここには知らないことが溢れていた。

「あれはノヴグラードで編み出されたものだ。(いくさ)の話は聞いたことがあるだろう? 元々向こうとこっちは仲が悪かったんだが、あの戦が決定的だった。この国でも術師が多く向こうに流れたと聞く」

 戦は新しい技が生まれる大きな原動力になる。先の大戦(おおいくさ)で術師の力を軍事転用する機運が一気に高まったと聞いた。隣国はいまだその研究に力を入れており、新しい技が次々と生まれている。最先端の知が向こうにはあるとあの術師の男も言っていた。

「まさか……術師向けに生み出された技だったんですか?」

 当時は行方不明になった術師も多くいたと聞いている。攫う時に拘束具として用いたのだろうか。

「さぁな、詳しいことは知らんが、大方人をいたぶることに快感を覚える変態が思いついたんだろう」

「そういえばその術師もノヴグラードで色々覚えたって言ってました」

「なんだ、かけた本人に会ったのか」

 リサルメフはどこか拍子抜けしたような声を出した。

「はい。商人のお抱え術師で、白茶けた髪のひょろりとした男です」

 ここの術師組合のことを知っている口振りだったが―と続けようとして、リョウは口を噤んだ。

 リサルメフが先ほどよりも厳しい表情で空を睨んでいた。それから組んだ手の上に顎を乗せてじっと瞑目する。緩く吐き出された息には、リョウの聴き取れない異国の言葉が混じっているように思えた。

「……やはり、あいつの仕業か」

 そう言ったきり押し黙ってしまう。それから物思いにふけるように内に閉じこもってしまったシェフの様子にリョウは思わず当惑の目をミリュイに向けてしまった。そのミリュイはリサルメフの方を見ていて、珍しく苦いものを飲み込んだような複雑な顔をしていたが、リョウの視線に気がつくとぱっと表情を変化(へんげ)させて取ってつけたような笑みを作った。

「ねぇ、リョウ、その術師の名前、聞いた?」

 ミリュイの声はどこか遠慮がちだった。

 あのノヴグラードの商人はあの男のことをなんと呼んでいただろうか。ここ数日の怒涛の記憶を探った。

「ええと……確か……ダスマス……?」

 正直うろ覚えだったが、ミリュイにはそれで十分だったようだ。

「やっぱり戻って来てたのねぇ」

 独りごちたミリュイにフェルケルが音もなく席を立った。二人は何やら目配せをし合った。

「ユコス、タナトスに繋ぎを」

 どうやらあの男のとは訳ありのようだ。



***



 術師は(いたず)らに力を誇示するものではない。かつて師であった男がそう言った。


 男が素養持ちであると周囲の大人たちが気付いたのはまだ幼いころだった。その頃にはまだ子供らしい純真さを失わず、朝から晩まで働く両親に代わって寂しさを紛らわすためにか近所の犬がよくそばにいた。言葉の発達が周りに比べて遅いと心配されていたが、それが獣の言葉を解するためであるということは理解されていなかった。

 外に出ると様々な音が洪水のように押し寄せて混乱した。それが人以外の鳥や家畜、獣たちから発せられていることは何となく理解していた。家畜が屠殺されるときはそれは恐ろしいものだった。断末魔のような叫びが感情を乗せて音になって小さな頭の中をぐわんぐわんと揺さぶる。大人たちはどうして平気でいられるのだろうかと信じられない思いだった。非常に怖くて不快で耳を塞いでしまいたかった。そんな時はたいてい家の隅に(うずくま)って体を丸くさせていた。音に過敏に反応するその子を見て臆病な子だと大人たちは笑った。

 やがて初めは意味をなさなかった音が次第に言葉として認識できるようになると急に世界が広がった気がして、手あたり次第、生き物に話しかけた。声をかければ答えが返ってくる。それが子供心にも楽しかったのだ。ある時、嬉しくなってそのことを母親に話したら、疲れ切った目をした母は何を馬鹿なことを言っているのだとたしなめるだけで相手にしてくれなかった。この時、このことは大人に言ってはいけないことなのだと理解した。

 その頃からだろうか、周囲の大人たちはその子供を奇異の目で見るようになった。素養持ちのいなかった小さな寒村では幼い子が獣たち相手に会話をしている風に見えたが、それは幼い子供特有の一人遊びの延長であろうと思われていた。獣に好かれる風変わりな子。その認識が変わったのはある時、村をふらりと訪れた旅人の言葉がきっかけだった。

 擦り切れた外套を身に着けた男は一目見たその子供を素養持ちだと言った。こんなところでその才能を燻ぶらせるなんてもったいない。町に出て術師に見てもらってその子の能力を引き出してもらうのがよい。術師の所に弟子入りしてゆくゆくは一人前となれば、金儲けができると。このような痩せた土地であくせく働くよりもよほど良い実入りになる。その言葉に貧しさを苦にしていた両親は一も二もなく飛びついた。旅人は両親に幾ばくかの金を渡し、その子供を引き取った。

 そうして連れてこられたのは少し離れた町の孤児院だった。王都から派遣された神官が術師として駐在し、子供たちの面倒を見ていた。自分が売られたと気付いたのは、旅人が神官から謝礼として小さな袋を貰い、それを懐に入れた時だった。

「坊主、今日からここがお前の家だ。お師匠さんに学んでゆくゆくは立派な術師になれよ」

 そう言い残して男は去っていった。旅人の顔はとうに忘れてしまったというのに頭を撫でる骨ばった指の感触は今でも覚えていた。

 大きくなってから、その場所が素養持ちだという子供を金で集めて能力を開花される役割を担っていると知った。運営母体はリュークスという女神を奉る神殿だ。減少傾向にあると言われている未来の術師を確保するためにこのような施設がスタルゴラド国内各地に設立されていた。

 父母を恋しく思う気持ちはやがて失われていった。そこには似たような境遇の子供たちがいたし、言葉を交わす獣たちも数多く飼育されていた。父母の面影はもう記憶の奥底に薄っすらと張り付くぐらいでおぼろげだ。

 施設での暮らしは、長じるにつれ多少の不自由さを感じざるを得なかったが、取り立てて不満のようなものは感じなかった。いや、むしろ有意義な時間ですらあった。小さな体の中で不格好に渦巻き、時に暴発していた力が、きちんと形を整えられて均衡(バランス)を保てるようになり、家畜の断末魔を聞かずに済むようになった。無意識に聞こえていた獣の声を自分の意志で(コントロール)する方法を教わったのだ。学業は厳しいものだったが、新しい知識を得られ、それを自分の力で体現できるという喜びの方が勝った。当時から男の能力は周囲の子らと比べても高いもので、様々な教えを素早く吸収していった。その技を磨けば磨く程、新しい結果を得られて、探求心の芽生えと共にのめり込むようになった。

 十五になった時、社会勉強の為ということで施設を出て術師の男と旅に出た。各地を回り流れの術師として金の稼ぎ方を覚えた。一年から二年で再び施設に戻り、その後は神殿に仕える為の神官になるようにと言われていたが、その約束は自ら反故にした。誰の束縛も受けない本当の意味での自由の味を知ってしまったからだ。リュークスなどといういるかいないか分からない存在の為に祈らなくてよい。自分で仕事を選んで、努力すればするだけその対価が自分だけのものになる。人の為に生きるなどという神殿の教えは馬鹿らしいとさえ思った。

 それから男の放浪の旅が始まった。力ある術師の噂を聞きつけては弟子入りを志願し、教えを乞うた。そうやって流れ流れてこの街に初めてやってきたのが、十五年前だ。


 ―相変わらず呪われてやがる。


 酒場の片隅で酒をちびりちびりと舐めながら、ダスマスは再び自分に難題を吹っ掛けるこの街の空気に毒づいた。潮風と照り付ける夏の日差しが薄い肌を焼く。ちりちりとした痛みはやがて指先へと到達する。

 雇い主の商人が謂れのない嫌疑を受けて港近くに留め置かれて早五日、お抱え術師のダスマスも関係者として同じく軟禁状態にあったのだが、主が所属元のリリス商会を通じてミールに強く抗議をした結果、監視つきという条件で外出が許されるようになった。主はここ数日自警団の庁舎で取り調べを受けていたが、抜荷の件では決定的な証拠が挙がらず、事態は膠着状態にあった。人身売買の件は意図せずして片棒を担がされることになったと被害者であることを主張し、取引を白紙に戻したことでミール内で一定の理解を得られたと聞く。関係者となった騎士団の方は納得がいかないようだが、そんなことはこちらには関係ない。これ以上ノヴグラードの商人を徒らに留め置くことは、リリス商会との関係を重視するミールでは早々に問題視されるだろうと踏んでいた。

 ヘルソンは強制的に出航を停止された件でミールの港湾組合を訴えるつもりでいる。先の大戦の論功行賞で国の政治の末席に連なる貴族の位を得ており、中央にも顔が利く。無用に勾留を長引かせることは隣国との外交問題にも発展し得るだろう。ミールが何よりも重視するのは利だ。天秤が一方に傾けば、それを元に戻そうとする力が派生する。ヘルソンが釈放されるのもそろそろだろうと踏んでいた。

 ダスマスも術師として軽く事情聴取を受けたが、相手が自警団員で術師ではなかったため通り一辺倒の取調べで大した話をせずに終わった。自警団の詰所の一室から定宿に戻されて以来、青い上着の男たちから監視を受けているが、この日、それを撒いて一人、この酒場にやってきた。

 情報は武器になる。酒場では黙っていても耳を澄ませていれば様々な話が飛び込んできた。案の定、土壇場で出航停止になったアルバストル号の件が酒の肴になっていた。抜け荷が発覚して捕まった輩がいる。禁制の品が積まれていたというのがもっぱらの噂だった。

 抜け荷発覚は先だってのティーゼンハーロム号に続き二回目だ。ヘマをした男らは恐らくもう生きてはいまい。バレた切っ掛けは偽造札だったと聞く。一体どこの三流術師が手を加えたんだか。自分ならばもっと上手くやるのに。馬鹿な話だと琥珀色の液体が揺れる小さなグラスをくいと呷った。


 不意にダスマスのいるカウンター側で人の気配が揺らいだ。また仕事の依頼だろうかとそこに現れた人影へ目をやって、たちまち眉間に深い皺が寄る。どうやら今日はついていないようだ。いや、この街に来てから運が砂のように手の隙間からこぼれ落ちている気がした。

「何の用だ?」

 低く唸るような声が出ていた。

「あら随分なご挨拶だこと」

 長い髪を高い位置で結い上げた妖艶な女だった。薄暗い室内でも照りを返すぽってりとした唇を笑みの形に象り、ダスマスの隣に腰掛けるとカウンターに肘を突いて豊満な体をしなだれかけた。普通の男なら鼻の下を伸ばそうものだが、ダスマスの表情は険しさを増す。

「ツレはどうした?」

 ダスマスは暗がりの中にもう一つの影を探った。この女の傍には必ずもう一人、男がいた。相棒かなんだか知れないが、いつも二人一組で行動しているのだ。仕事を受けるのもいつも二人で、ダスマスは半人前同士、二人揃ってやっと一人前かと内心嘲笑っていた。

 女は問いには答えずに指先で空になった男のグラスを弾いた。

「ねぇ、昔馴染みに一杯くらい奢ってくれないの?」

「馬鹿言うな。お前さんに飲ませる酒なんざねぇさ」

 女の猫撫で声にダスマスは吐き捨てるように言って、酒場の主人にお代わりを頼んだ。

「相変わらずケチくさい男。そんなんじゃモテないわよ?」

「ハッ、余計なお世話だね」

 不意に落ちた沈黙の隙間を縫って店主が空になったグラスに酒を注いだ。

「ここにいる間、随分と悪戯が過ぎたみたいね」

 女の指がそのグラスの縁を意味深になぞった。琥珀色の液体が微かに揺れる。

 そこでダスマスの白茶けた目が初めて女の方へ向いた。

「………なんの話だ?」

 唸り声は一層低くなった。

「あらやだ、とぼけたって無駄よ。ここでこんなことするのは、あんたぐらいしかいないもの」

 あちこちで証拠が上がっている。態とらしく自分の痕跡を薄く残していたのだ。まるで気づいてくれと言わんばかりに。相変わらず自己顕示欲だけは人一倍高い。相手にするのも面倒だから初めのうちは放って置いたが、周囲を取り巻く状況の変化にそうも言っていられなくなった。女はつらつらとここに来た理由を口にした。

「シェフがお呼びよ」

 最後にそう言って女が席を立つ。その傍らにはいつの間にか屈強な男が立っていた。女の片割れだ。酒場の喧騒に紛れていたが、頃合(タイミング)を見計らったようにするりと闇の中から現れた。以前に比べて気配を消すのが上手くなった。

「そういうことだ」

 視線が合うと男が低く言った。

「あ? 拒否権はなしかよ」

 ダスマスは心底面倒くさそうにぼやいたが、注がれたばかりの酒を一思いに呷った。皮肉げに歪んでいた口が薄く上がる。久しぶりに身体中の血が沸き立つのが分かった。


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