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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第七章 それぞれの正義
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1)反省の色

 身柄を拘束された船長と商人は柿渋色の隊服に囲まれて船を降りた。船乗りは追って沙汰があるまでそのまま船内に止まるようにと言い渡され、渋い顔をしながらもそれぞれの持ち場へと散った。商人の配下や関係者は事情を聞く必要があるとのことで連行されたようだ。船内の積み荷の移動も禁止が通達された。

 甲板には辺りを警戒するように兵士が目を光らせている。白いシャツに揃いの黒い長ベスト、港湾職員の制服を着た男たちがそこかしこにいて、船乗りに指示を出したり、兵士からの報告を受けていた。

 そのうちの一人がリョウとユリムの側へ来た。柔らかな赤い髪が潮風に揺れ、蒼穹を映した淡い瞳が安堵の色を滲ませる。その顔立ちに既視感があった。兵士だろうか。たが服装が違う。騎士団の宿舎に厄介になって暫く経つが全ての兵士の顔を見知っているわけではない。

「きみたちにも事情を聞く。取り敢えずここを降りるぞ」

 相手を気遣うような声音にユリムは頷き、傍に立つリョウを促すように見た。リョウは声をかけられたことに気がついていないのだろうか、どこかぼんやりとして前方を見ている。これまで張り詰めていた緊張の糸がここで切れたのだろうか。

「リョウ」

 腰に手を回して引き寄せるようにすれば、弾かれたように同じ高さにある黒い瞳が見返した。虹彩が瞬きを繰り返して収縮する。

「降りるぞ」

 触れた場所を手のひらで軽く叩くと漸くピントが合う。少し先を行く赤髪を目線で示せば、

「え、あ、うん」

 ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく歩き出した。


 その足取りはふわふわとして危なっかしかった。心ここにあらずという風は甲板から降り口の木の橋まで続いた。このままではまずいと感じたユリムはたっぷりとした衣の下、女性特有のくびれた腰を支えるようにその腕に力を込めた。人一人分の重みを半ば抱えるようにして橋を降りた。岸の硬い石の感触を足の裏に感じて少し気を緩めたのが不味かったのだろうか、勢いを殺さずに数歩、足を進めたところで白い衣の重なりが解けて行った。離れてゆくほのかな温もりを潮風が更に奪う。ゆっくりと後方に傾いでゆく身体に咄嗟に伸ばした指先が空を切った。

 そのまま崩れ落ちるかに思われた身体は、疾風の如く颯爽と現れた何かに掬い上げられていた。黒い衣の切れ端が蝕のように白を侵す。逞しい腕が柔らかな枷のように白い衣を閉じ込める。見上げるほどの大柄な男が幼子をあやすようにその腕に抱いていた。長く伸びた銀色の髪が額を覆う。この国の眩しいほどに明るい髪色の中でも、その鋼の如き色合いは物珍しく映った。その隙間から覗いたキコウ石と同じ色にユリムはハッとした。

 男の腕の中でリョウは気を失ったようでぐったりと目を閉じていた。黒髪が縁取る薄っすらと汗の滲んだ額に触れるだけの口付けを落とし、その存在を確かめるように抱いた腕に力を込めた。その仕草はどれほど男がリョウの身を案じていたのかを表していた。

「歩けるか?」

 惚けたように見上げたユリムに声がかかる。

「あ、ああ」

「ではついてこい」

 人ひとりの重さをものともせず軽い身のこなしで足早に歩きだした男の背中をユリムは追った。


***


 ゆうらゆうらと身体が揺れる。幼い頃の遠い記憶に通じる柔らかな心地よさに溶けていた意識は、微睡に似た気怠さの中、少しづつ覚醒の時を待っていた。鼻先を掠めるのは馴染みある香りで、指先に伝わるかさついた衣とその下の弾力のある硬さに心は凪いで行った。

 ふと電源が入ったように意識を取り戻して、まず目に入ったのは見覚えのある天井と落ち着いた色の壁紙、そこに描かれた草花を模した曲線の数々。ゆっくりと身体を起こすとかけられていた柔らかな布が腹部でたわんだ。寝台代わりにも使われる大きめな長椅子に寝ていたようだ。

 騎士団の詰所の一室だと気づいたのは、遠慮がちに開いた戸口の向こう、案じるようにこちらを伺う菫色の瞳とかち合った時だった。

「シーリス!」

 ふわりと優しい笑みを向けられて、ああ、戻ってこられたのだという安心感が湧き上がってきた。

「気分はいかがですか?」

 小さな盆の上、差し出された飲み物を受け取ってそっと口に含めば、温かいお茶が乾いた喉を染み渡るように伝う。

「ありがとう。もう大丈夫」

 そこで唐突にこれまでのことを思い出した。

「あ、ユリムは? 他に女の子たちも…ルスランが……」

 口をついて出てくるのは支離滅裂な言葉の切れ端。聞きたいこと、伝えなくてはならないことが沢山あるのに気持ちばかり焦って口が回らない。長椅子脇の丸いテーブルの上にカップを置いて腰を浮かしかけた所、目の前に影が蝕のように差した。両肩を大きな手がさするようにしてリョウの体をやんわりと押さえた。掌の下から温かな熱が冷えた薄い肩に伝わる。シーリスはそのまま長椅子に腰を下ろすとリョウの肩を抱いた。

「リョウ、落ち着きなさい。ユリムは無事です。今、あちらで話を聞いています」

「……そっか」

 ふっと体の力を抜いたところで、今度はじくじくと胸内にこみ上げるものがあった。目の縁に湧き上がるものをぐっと押しとどめる。

「……良かった」

「どこまで覚えていますか?」

 窺うような声にリョウは緩く息を吐いて目を閉じた。


 甲板の上で、ブラクティスを前に呼笛を吹いた時、隙を見たユリムが腰の荒縄を懐に隠していた短剣で切った。そのまま手を取られて「この機に逃げるぞ」と後方の出入り口を目指したのだが、声高に叫んだブラクティスに船乗りたちがすぐさま呼応して、簡単に行く手を阻まれてしまった。それから追いかけっこ状態になった。いかつい男たちの合間をすり抜けようとするが上手く行かず、狭い甲板の上、気が付けば人気のない先端に追い詰められて、ユリムと二人、懐に隠していた短剣を抜き、威嚇しようにも男たちはむしろ嬉々としてこの状況を楽しんでいるようだった。じりじりと狭められる包囲網にこうなったら最後、海に飛び込んで逃れるしかないのかと覚悟を決めた時、周囲を囲む輪の外から中へ入ってくる者がいた。

 第一声を耳にした時、願望の余り空耳を聞いてしまったのではと思った。だが、次の瞬間、視界に現れた銀色に光り輝く髪色と酷薄そうな横顔にリョウは胸の奥がぎゅっと詰まって泣きたい気分になったのをぐっとこらえた。ユルスナールが来てくれた。早鐘を打つ心臓に乗って駆け巡る嬉しさと同時にこんなことに巻き込んでしまったという申し訳なさも先に立って、正負の感情が体の中をぐるぐると渦巻いて交互に迫り上がってくる。

 ユルスナールは隊服ではなく港湾職員の制服である黒い長ベストを身に着けていた。いつもはきっちりと撫でつけられているはずの前髪は全て額に下ろされていて、それだけで印象がだいぶ違う。腰に相棒の長剣もない。そんな簡単な偽装でも別人のように見えたのが不思議だった。

 掠めるような視線があった瞬間、分かるか分からないかぐらい浅く頷かれて、咄嗟に知らないふりをした方が良いと判断した。先に自分の短剣をしまい、ユリムにも刃を収めるように伝えた。この場をどう切り抜けるのだろうかとじっと息を潜めていると、手にした木の棒でブラクティスを諫め、堂々とした態度で船乗りに持ち場に戻るように言い渡した。人垣が緩むとユルスナールのそばには同じく港湾職員に扮したアッカ、グントの姿が見えた。騎士団の兵士を動かしてしまったことを知った。

 その後、開けた視界に騒ぎを聞きつけた船長と商人が現れた。今度は自分がしっかりする番だとユリムに声をかけて忌まわしい腕輪を外した。予想通り商人は驚き慌てふためいて、後方に控える術師に食ってかかった。それを見て少しだけ溜飲を下げた。

 商人は突然間に入る形になった港湾職員に苛立ちを露にした。剣呑さを増す空気を感じ取ってか、遠巻きに船乗りがいつでも加勢に入れるようにと船長の号令を待つ。ここで囚われたと申告して助けを求める声を上げるべきか。どうしたら助けになるだろうと焦る心を宥めていると、ユルスナールが首から下げた笛を勢いよく吹いた。そこからはまるで白昼夢のような怒涛の展開だった。

 甲高い音が響いた直後、武装した兵士がどっと乗り込んできて周囲を制圧した。規律正しく歩を進める先頭にはシーリスがいて、船長と商人の二人に何かを突きつけていた。すぐさま二人は拘束され、商人の関係者も同じように囚われて連行されるようだった。そしてリョウとユリムのところにも港湾職員の格好をしたアッカが来て下船を促し、途中ユリムに支えながら船を降りた。そこまでは覚えている。その後はどうしただろうか。次の記憶はもう長椅子の上だった。

 ふと顔を向けた先、窓の外から差し込む日差しはまだ明るかった。薄く開いた隙間からは時折、思い出したように吹き込む風にカーテンが揺れる。

 思い出したことをポツリポツリと口にする。一通り聴き終えたシーリスが少し種明かしをした。

「船を降りたところで気を失ったと聞いています。どこか痛めたりしていませんか? ぶつけたりしているかもしれません」

 案じる声にリョウは立ち上がり、袖や裾をまくって腕や足を確かめた。その場で足踏みしてみたが、これといった異常は見当たらない。打ち身やあざの類もなさそうだ。

「大丈夫みたい」

「そうですか。ルスランも少しは面目躍如ということですかね」

 安堵の息を吐いた後に続いた独り言のような言にもしかしたらユルスナールが運んでくれたのかもしれないと思った。

「さて、リョウ」

 空気を入れ替えるようにシーリスが声色を変えた。

「ルスランから目覚めたら呼んでくるようにと言われていまして。話を聞くことになりますが、どうしますか?」

 もう大丈夫かと案じるように見上げる瞳は、面倒なことに巻き込んで不始末の尻拭いをさせてしまったというのに相変わらず優しい。それを申し訳なく思った。

「大丈夫です」

「それにしても、そうしていると本当にサリド人のようですねぇ」

 思わずという具合に漏れた声に、リョウは小さく笑って両手を広げて見せた。たっぷりとした衣の長い袖が温くなった夏の風をはらむ。

「普段着はだいたいこんな形だそうですよ。この生地は少し贅沢過ぎるみたいですけど」

 ユリムの話では平服はこちらと同じ色とりどりで草木染のものが多いという。白は儀式のときに用いることが多いようだ。光沢のある地模様の織り込まれた生地は柔らかく着心地は抜群で、あの男が用意したものだと思うと業腹だが、丈の長い上衣を前で重ね合わせ幅広の腰帯で締める形はここ数日ですっかり身体に馴染んでしまった。

「シーリスはサリド人に会ったことがあるんですか?」

 この街に来てユリムに出会うまで、“ここ”に自分とよく似た顔立ち、色合いを持つ人々がいるとは思いもしなかった。失ってしまった故郷に通じる欠片を思いがけずも見つけられて、懐かしさに心が疼き、勝手に親近感を持ってしまったのだ。

「いいえ。子供の頃に聞いたお伽話を思い出しましてね」

 菫色の瞳が柔らかく細められる。

「ああ、サリダルムンドのお姫さま…ですね」

 巷では物売りの口上をよく耳にした。色街にもそういう趣向を凝らした女たちを抱える店があると聞く。遠い異国の地に伝わる物語の断片、異国情緒の神秘に目を輝かせる子供もいるのだろう。シーリスにもそんな子供時代の思い出があったのかもしれない。

「では、参りましょうか」

「はい」

 立ち上がりしな恭しく手を取られて、柄にもないことをしているというむず痒さには目を瞑ることにして笑った。



***



「ルスラン、入りますよ」

 軽いノックの後、返事を待たずして執務室の中へ入ったシーリスにリョウも続いた。

 室内では、シャツ一枚、腕まくりをしたユルスナールが険しい顔つきで部下の兵士たちに相対していた。疲労の色が濃く出た目元を隠すように下ろした前髪が重くかかる。

 部屋に一歩踏み込んだ瞬間、半ば覚悟をしていたとはいえ、凄まじい怒気に晒された気がした。慣れた者でも肝を冷やすようなぴりぴりとした空気が部屋中に満ちていた。集められた兵士たちは顔色を変えていないが、居心地は悪そうだ。酷薄そうな面の薄皮一枚下には、マグマのような熱が滾る。それを知っていてもこれまで目の当たりにしたことのない激情に背筋が震えそうだった。ユルスナールは言葉にはできないほど怒っている。その理由は察して余りあった。リョウは己の短慮が招いた結末をはっきりと突き付けられた。

 元はと言えば、ユルスナールに競売のことを告げなかったからこんな事態になったのだ。完全に自分が悪い。騎士団自体も昨今の事件で忙しいところに、無断外泊する形になったばかりか、挙句の果てには囚われ売られる始末。この街の暗部を甘く見ていたせいだ。鷹匠経由か診療所のトレヴァル経由かは不明だが、知らせが届いてさぞかし驚いたことだろう。逆の立場であったら心配で仕方なくて少しでも情報を求めて駆け回るに違いない。ここにきてようやくリョウは自分本位の行動ばかりでユルスナールの立場とその気持ちを考えなかったことに気付かされた。

 まず真摯に謝るのが先だ。勝手なことをして心配ばかりか騎士団にも迷惑をかけた。それでユルスナールの気持ちが治まるとは思えないが、筋道を間違えてはいけない。

 リョウは半ば無意識にその場で膝をつくと腰を下ろし、己が考え得る最上級の謝罪の形を示した。ただこの時、このやり方が“ここ”では通じないもので、相手に理解されないだろうことが頭からすっぽりと抜けていた。

「申し訳ございませんでした」

 体を折り両手を前に付いて深々と頭を下げた。

 静まり返った中、誰かが息を飲む気配がして床を踏む長靴の音が響いた。伏せた視界の隅に革靴の爪先が入る。

「なんの真似だ?」

 冷たい声が槍の穂先となって首元に突き付けられた。意を決して顔を上げれば、能面のように表情を無くした顔にかち合った。

「勝手なことをして皆に迷惑をかけました。お叱りと罰は甘んじて受けます」

 馬鹿なことをしたと愛想をつかされるだろうか。それでもこうして自分たちの為に動いてくれた夫の気持ちを大事にしたかった。

 リョウはじっとユルスナールの言葉を待った。騎士団の兵士たちを前にけじめは必要だ。夫婦であるという私情は挟むべきではない。騎士団の一員として団長に裁可を仰いだ。

 だが、口火を切ったのは別人だった。

「リョウを責めるな」

 衣擦れの音がして背中に手が添えられる。傍らに同じ衣が膝を着いた。

「こたびの不始末、責任はそれがしにある。リョウはそれがしの為に様々に便宜を図ってくれただけだ。咎ならばそれがしが受ける」

 ユリムが真っすぐにユルスナールを見上げていた。潔さと芯の強さが伸びた背筋に現れる。その言葉にリョウは慌ててた。

「ユリム、それは違う。あなたは悪くない。協力すると言ったのは私だし、あなたを保護した以上、責任は私にあるの。今回のことは私がちゃんと伝えていなかったから」

 決してユリムの所為ではない。ユルスナールに相談していたらもっと違う形で上手く行ったかもしれないのだ。

「なれど、そなたが誹りを受けるいわれなど」

「いいえ、落ち度は私にある」

 互いが庇い合い言い募った所で、前から深い溜息が落ちてきた。リョウの肩が小さく跳ねた。

 ユルスナールはその場に膝を着くと片手でそっとリョウの頬に触れた。頬桁のあたりをゆるゆると撫でてからもう片方の手も緩慢な動作で伸ばし、顔を挟むようにして視線を合わせた。深い海底の色の向こうに情けない顔が歪んでいた。

「リョウ、思い違いをしていないか?」

「…え…」

 発せられた声は低く静かで、ひりひりと肌を刺していたはずの怒りの棘はどこかに消えていた。

「俺が何を考えているか、分かるか?」

 落ち着いた声音はすっと耳に入ってきた。真正面から凪いだ瑠璃を見つめ返した。

「秘密に進めたことを…怒ってる。行き先を告げなかったから…こんなことになって」

 今回のことにどれだけの労力を割いたのだろう。騎士団だけではない。ユルスナールが港湾組合の検査員に扮していたことはミールに協力を仰いだことを意味する。それが後々借りという形で、妙な具合に跳ね返ってこなければ良いのだが。

「ああ、それもあるが」

 ユルスナールは一瞬目を伏せ、自嘲に似た笑みの残骸を唇に乗せた。

「俺が今、一番腹を立てているのは自分に対してだ。己の不甲斐なさだ。これまで様々な困難を共に乗り越えてきて、ここにきて今更隠し事をされるとは思わなかったからな。俺はまだそんなに信用がないか? お前が黙っていたのは、俺が打ち明けるに足る男ではなかったからだろう?」

 思ってもみない言葉にリョウは少なからず衝撃(ショック)を受けた。出会ってから二年、淡々とした日常に色鮮やかな変化をもたらしてくれたのはユルスナールだ。互いを知り邂逅を重ねるうちに惹かれる気持ちを抑えられなかった。一時は諦めかけたこともあったが、その度に沈む自分を引き揚げてくれた。信頼していたからこそ心も身も預けたのだ。それは男の妻になった今も変わらない。それなのにそんな悲しいことを言わせてしまうなんて。伴侶として失格だ。

「違う! そうじゃなくって。ルスランを信用していないなんて、そんなこと……」

 リョウはそっと(かぶり)を振った。己の浅はかさが身に沁みた。

「……競売のことを黙っていたのは、ミールの内情に関わることで、言ったら絶対心配かけると思ったから…それに……きっと行くなって…止められるだろうって…思ったから」

 徐々に言葉は尻すぼみになる。これは完全に自分のエゴだ。ミールの会員であれば、仮に騙されたとしてもよもや人買いに拐われ売られることになるとは考えなかった。最悪の事態への危機意識が甘過ぎたのだ。過去、王都でもそれなりのことを経験したというのに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ように元来の楽天的な性格が目を曇らせた。段々と自分が情けなくなってきた。

「ごめんなさい、ルスラン、私のせいで、また沢山迷惑をかけて」

 それなのにユルスナールは詰る言葉を口にしない。怒鳴りつけられることも覚悟したのにその矛先をこちらには向けない。頬に触れる大きな手のひらはほんのりと温かくて、薄い皮膚を通じて伝わる優しさが、心苦しかった。幼子みたいに感情が昂って目頭が熱くなってくるのが分かった。でもここで泣くわけにはいかない。まだ肝心なことを伝えていないのだから。

「助けてくれて…ありがとう。今回ばかりは…もうダメかと思った」

 絞り出した声は涙に掠れた。

 最後は船から飛び降りようとさえ思った。夏とはいえ冷たさの残る海原に着衣のままで飛び込んで岸まで泳げるかは分からなかったが、それでもこの街を離れるつもりはなかった。

 ユルスナールは口を開かない。ほとほと呆れただろうか。この沈黙がとても長く、また恐ろしく感じられた。

 息を吸い込んでぐすんと鳴った鼻にこれ以上みっともない姿を見せられないと顔を逸らそうとしたところで、長い腕が身体に巻きついて、苦しいくらいに抱きしめられていた。額がどくどくと脈打つ首筋に触れる。そこから立ち上る男臭い汗の匂いに堪らない気分になった。

「ごめ……な……さい」

「無事で…よかった。怪我はないのか?」

 ぐちゃぐちゃになった気持ちに口を開いたら嗚咽が漏れてしまいそうで頷くことしか返せない。

「こんなことはこれっきりにしてくれ」

「は…い」

「もういい加減、遠慮などするな。迷惑をかけるだなんて思うな。水臭いにもほどがある。お前は俺の妻だろう? 術師としての仕事も止めたりはしない。やりたいことをやればいい。ただ、この国はお前の故郷とは違う。お前の想像がつかない危険なことだって起こるんだ。だから、何でもかんでも独りで抱え込むな。自分で対処しようとするな。どんな些細なことでもいい、俺を頼れ。どんな面倒なことであっても巻き込まれてやるから。その為に俺がいるんだ。いいか?」

 訥々と思いつくままに重ねられる言葉はまるで心の悲鳴のように切々と訴えかけてきた。

「ご…めん…なさ…い」

 リョウは自由の利く手を夫の背にそっと回した。しがみつくようにシャツを握りしめた。ユルスナールは腕の中の存在を確かめるように大きな掌で身体中をまさぐった。涙の滲んだ目元を優しく唇が伝う。高い鼻先が濡れた頬に懇願するように擦り寄せられた。

「約束できるか?」

「はい」

 小さく頷いて目を見交わせる。

「本当に心臓がいくつあっても足りない」

 最後には小さな軽口を乗せて微笑んだ。


 ただ、しんみりとした空気は長くは続かなかった。

「さて、仲直りはすみましたか?」

 パンと手を一つ打ち鳴らして、シーリスが通常運転、毒を忍ばせ朗らかな笑みを見せた。すっかり二人だけの世界に入っていた所を現実に戻されて、顔を上げてそろりと振り返れば、ヨルグ、アッカ、グント、セルゲイ、アナトーリィを始めとする第七の兵士たちが何ともいえない生温い表情を浮かべていた。羞恥と気まずさをどうにか押し留めて、リョウは救出に力を貸してくれた面々を見渡して頭を下げた。

「シーリス、それからみんなも、ごめんなさ…ううん、ありがとう。本当にありがとう。みんなのおかげで無事戻って来られました」

 謝罪ではなくて心からの謝意を口にした。

「おう」

「良かったな」

「ほんと間一髪ってやつだったぜ」

 第七の仲間たちはどこか誇らしげに白い歯を見せて笑った。

「そーいや、俺、初めて船に乗ったわ。でけぇでけぇ。あれなら船酔いなんてしねぇかなぁ」

 この中では一番年若いグントが思い出すように口を開けば、

「ああ? あんなデカブツでも海に出りゃぁ木端みてえなもんだろうよ。お前なんて半日も立たずに根をあげるだろ。ピィーピィー泣いて後悔するって」

 アナトーリィが茶化しながらすかさず突っ込む。

「ハハ、んなに気に入ったんなら、そのまま乗ってっちまっても良かったんじゃねぇの」

 セルゲイが揶揄うように笑えば、

「兵士辞めて船乗りになるか?」

 アッカも茶々を入れる。

「よせやい。あんなムッキムキのマリャーク(海の男)なんてごめんだ」

「はぁ? お前が言うなよ」

 船乗りに負けるとも劣らずの胸筋をどつかれて、どっと笑いが起きた。

 いつもの他愛無い日常が戻ってきた。慣れ親しんだ第七の空気にリョウも一緒になって笑いを漏らした。

「やれやれ、ようやく先に進めますね。ルスラン、リョウ、続きは帰ってからになさい。まだ本題にも入っていないんですよ、分かってますか?」

 さすがシーリス。手綱のさばき方をちゃんと心得ている。

 そうして一度は引き締まりかけた空気だったのだが。

「ああリョウ、私からも言っておきますが、気に病むことはありませんよ。今回のことは完全にあなたの手には余る事態でしたから。ただもう少しルスランを頼ってあげてください。勿論、我々に対しても迷惑だなんて思わないこと。いいですか。あなたが妙なことに巻き込まれるのは今更ですよ。こちらはそれ込みで動けるんですから。変なところで遠慮なんてしてごらんなさい、かえって何かあったら時に初手が遅れて、そこの誰かさんがものすごーく面倒くさいことになるんですよ。そうなったら余計な手間が増えて、我々の精神衛生上にもよくありません」

 辛辣な物言いの中にもふんだんに盛り込まれたシーリスの愛情に対して、むず痒くなった心のままに軽口を返せるくらいには浮上した。

「ううう、シーリスの愛が痛い」

「でも、好きでしょう?」

「はい」

 眩しいほどの笑顔で放たれた言葉にリョウは苦笑いを返すしかなかった。


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― 新着の感想 ―
[一言] あああああ、そうだった! 思わず誰だっけと真剣に考えてしまった。 アッカ本当に怪我よくなったなあ。あの頃が懐かしいよ。 シーリスの愛が深くて大きい。さすが副団長ですね。 ずけずけと物言うと…
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