14) 誤算と勝機
「どうだ、気分は?」
清々しい早朝、爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んで、
「最悪…とお答えしても?」
予定調和のありきたりな挨拶を返すには心が大分ささくれ立っていた。
浅い眠りを繰り返した一夜、ここ数日緊張に昂ったままの神経が目裏に疼痛をもたらしていた。降り注ぐ日差しが徐々に力を増す。いつもならば心地よい目覚めの刺激も疲れた体には堪えた。きっと酷い顔をしているだろう。ただ、ここにはそれを指摘する者はいない。
「ハハ。ならば船の中でゆっくりと体を休めればよい」
―先は長いからな。
昨日までの商談が上手く行ったのか、男は上機嫌な笑みを見せた。今のところ暴力的な扱いを受けてはいないが、人を家畜のように売り買いすることに何の躊躇いも見せないどころか嗜好品の一種として自ら求めるような男だ。待遇はこの男の胸先三寸で決まる。それが非常に恐ろしく、少しでもこの得体のしれない相手の輪郭を知ろうと鈍くなった頭に発破をかけた。
「国に戻るのですか」
男はノヴグラードの商人だと聞いた。
「ああ。その前に二、三港に寄るが、用事が済めば直ぐに立つ」
「どれくらい…この船に乗るのですか」
船に乗ったのは初めてだった。
「なに、十日もあれば着く」
男はこともなげに言った。
その行程すらも遠いのか近いのか分からない。
気丈に振舞っているものの漠然とした不安を声色に感じ取ったのか、男が顔を覗き込んできた。張り付いた笑みは仮面のようにも見えた。
「船旅は初めてか?」
「はい」
「では楽しむことだ。案ずることはない。大人しくしていれば悪いようにはしない」
甘言が真綿にくるむように首を絞める。かさついた指先が宥めるように頬に触れた。これが自ら望んでの道行ならばどれほど良かったか。人を攫っておいて悪びれる様子もない。男はこうして己が欲望にも値段を付けて、それが手に入ったことに満足しているようだった。
今のところは。
ここで与えられる仮初めの優しさ、気遣いは、誰に対してのものなのか。思いもよらない態度に困惑を抱くと同時にその蒐集癖にも似た執着に背筋が凍った。
反抗しないことに気をよくしたのか、従順なふりに男は目を細めた。太い親指がかさついた唇をするりと撫でる。そのままずいと顔を寄せられて、反射的に背けようとするよりも先に後ろに一歩、身体を引かれた。
ここ数日馴染んだ体温がそこにはあった。力の加減ができなかったのか、掴まれた肩に指先が食い込む。微かな痛みが刺激となって歪んだ意識を正そうとした。
「解いてくれ」
平静を装った声が耳元で響いた。
「ここまで来ればもういいだろ」
―どうせ逃げ出せないのだから。
揃いの商品を繋ぐ証、腰に回った綱が目の前で揺らされる。男は邪魔だてした者への不快感を憚らずにその視線に乗せたが、一転、その挑戦を面白がる風に笑った。お返しとばかりに伸びた指が荒縄を弄ぶように引く。
「もうすぐ出港だ。後で部屋に呼ぶ。その時に外してやる」
―それまで待て。
並んだ面差しに男はうっそりと微笑むと傍にいた配下の船乗りに見張りを言いつけて、別の部下と共に船室へと下った。
夜が明けて、申し訳なさ程度の食事の後、身支度を整えると昨晩と同じ男が囚われの三人を呼びに来た。ここ数日の静養でブラクティスはそこそこ回復をしたようで、時折傷口を庇うような仕草を見せるものの他人の介添えなしで日常生活を送れるほどになっていた。
いよいよこの時が来た。リョウとユリムの二人は互いに目くばせすると大人しく従った。来た時と同じ受付台の脇を抜けて外に出るとまた別の大柄の男が二人待ち構えていた。一人は手にした荒縄でリョウとユリムの腰を緩く繋ぐように縛り、それを手綱にして握りこんだ。縄を引かれ促されるようにして歩き出した。ふと隣を見るともう一人のサリド人は、拘束されずに男と何やら二言三言言葉を交わしていた。やはりブラクティスはあちらに与すること決めたようだ。
港には遠巻きにぽつりぽつりと船乗りたちだろうか、人足と思しき男たちを従えて、働いているのが見えた。こうして外に出てみると港の中でもかなり端の方、船着き場に近い場所に留め置かれていたことが分かる。岸壁には商船と思しき船が数隻、点々と止まっていた。その近くでは置かれた荷を背に作業をしている者たちがいる。こうして傍から眺める分にはいつもと変わらぬ日常が始まっていた。
手綱に引かれる形で向かった先には大型の帆船が一艘停泊していた。船縁には人ひとり通れるくらいの木の板が立てかけられ人足が行き来していた。あれが簡易的に橋の役割を担っているようだ。
「踏み外すなよ」
―落ちたら面倒だ。
言外に仄めかされた言葉にリョウは顔をひきつらせた。船まではかなりの高さがある。そこをたわむ木の板一枚を頼りに渡らなくてはならないことについ尻込みしてしまった。無意識に唾を飲み込んだ横顔を見たせいか、男はからかうような色をその目に浮かべると荒縄をぎりぎりまで伸ばして、一足先に甲板へと渡ってしまう。そこで無理に縄を手繰り寄せるようなことはせずに二人が上がるのを待った。
ユリムは慣れた様子で木の板を踏んだ。リョウも同じように渡ろうとして、だが途中、予想以上の不安定さに足がすくんで続くことができなかった。
「…ッ…」
こんなところでよろけたら最後、下まで真っ逆さま、硬い岸に体を打ち付けて大怪我がをするに違いない。痛い思いをするのは御免被りたいが、ここでそれなりの傷を負えば、金で買われたこの身も単なる邪魔な荷物にしかならず、捨て置かれるだろうか。ふとそんな後ろ向きの考えさえ頭を掠めたが、前方より伸びた手に腕を強く掴まれたことで、その夢想は瞬時にして弾け飛んだ。
白い衣の袖がひんやりとした汐風に揺れる。
「大丈夫だ。下を見るな」
黒い瞳が力強く鼓舞する。なんだかすっかり立場があべこべになってしまった。出会った当初は保護者のつもりであったのに囚われてからは助けられてばかりだ。しっかりしなくては。
「ありがと」
口元に苦い笑みが浮かんだ。
眼前、刺繍の入った腰帯の上から二人を繋ぐ縄が見えた。ここで転げ落ちたら被害が自分だけに収まらないことに思い至って、心を落ち着けるように息を吐き出した。繋がれ引かれる手の強さにこのような所で諦めてはいけないのだと思い直した。
震えそうになる足を叱咤しながらそうやってどうにか不安定な木の板を渡り切った先には、
「麗しき兄弟愛だな」
諸悪の根源、数日前自分たちを買った男が待ち構えていたのだった。
そうして場面は冒頭に戻る。
リョウとユリムの二人はひとまず甲板に留め置かれたことに安堵した。船室に閉じ込められたら脱出はさらに困難になる。まだ諦めた訳ではなかった。逃げる機会を慎重にうかがっていた。幸いノヴグラードの商人は隷属の腕輪があることに安心しきっているようだった。この枷がある限り、無事逃げおおせることはできないと。その隙を突くことができれば機会はあるかもしれない。ただ、気がかりな点もあった。あの雇われ術師の存在だ。昨夜顔を出した流れの術師に少なくとも自分の呪いが解けたことを知られてしまったからだ。
それでも僅かな希望はあった。予想に反して、あの術師は術のかけ直しを行わなかった。その辺りのことを報告しているかも分からない。ただ己が雇い主に絶対の忠誠を誓っているようにも見えなかった。味方ではないが完全な敵でもない。利害が一致すれば動く。己が腕一本で方々を渡り歩く流れの強かさがあった。狙うのなら、その立場の揺れが生み出す隙だ。
リョウは懐の呼び笛を探った。吹き付ける海風にどこまで届くか分からなかったが、頭上にはぽっかりと開けた蒼天がある。この船にいることをこの間のようにリューリクか誰かに伝えられれば良いのだが。見張りの男の視線は依然こちらを向いている。相手に感づかれぬようにさりげなく笛を取り出すには、傍にあるもう一人を楯にするほかない。
「ユリム」
囁きを風に乗せて、同じくらいの高さにある耳元に顔を寄せた。交差した物問いたげな視線に口を開こうとした矢先、
「そんなに引っ付いているのなら、いっそのこと、兄弟の契りでも交わしたらどうだ?」
寄り添うように佇む二人に嘲る声が投げかけられた。
目の前にある瞳がみるみる内に険を増す。
ああ、また始まった。リョウは何とも言えない気分で溜息を飲み込んだ。
ちらと目線だけを動かせば、案の定、商人と一緒にどこかへと消えていたブラクティスが船縁に寄り掛かるようにして立っていた。同じように用意された真新しい衣は男の顔色を一層青白く見せていた。深い手傷を追い、まだ本調子には程遠いはずなのに、動けるようになったら性懲りもなく突っかかってくる。やはりこの男は鬼門だ。傷の手当など自分の首を絞めるだけであったかと、ついユリムの思考に同調しそうになるが、術師がそのような利己的な心構えではいけないと戒めた。
この男は逃げると分かれば邪魔をするだろうか。味方にはなりえない。だが、同じように金で買われた身。共に自由を得られるのならば妥協くらいはする気になるだろうか。
ぐるぐると思考を巡らせているといつのまにか見張りの男の姿が消えていた。ハッとして腰から伸びる荒縄の先を確かめれば、代わりにこのサリド人の手に握られていた。
リョウはそれを好機と取った。
「アレに鞍替えしたか。裏切り者め。精々今のうちに尻尾でも振っておけ」
売り言葉に買い言葉。予想通りユリムからは辛辣な言葉が刃となってかつての同胞に飛ぶ。
「減らず口が。こんなことになるなら、あの時貴様を始末しておくんだった」
強い怨念が隣に向かっているこの機にリョウはさりげなく体の向きを斜めに変えた。指先が古びた笛に触れる。
「全くだ。あの時、一思いに殺しておけば、こんな面倒なことにならずに済んだのにな。欲に目が眩んだ浅ましさよ」
取り出したものを口に咥える。
「なんだと!」
怒りの沸点の低いブラクティスが荒縄を苛立ち紛れに強く引いたのとリョウがありったけの呼気を笛に吹き込んだのは同時だった。
波間に浮かぶ海鳥が一斉に羽ばたき空に舞った。人には聞こえない音でも獣たちを驚かせるくらいの威力はあった。鳴り響いた信号に上空を旋回する羽が生み出す無数の影が甲板に踊るが、ブラクティスは気が付かない。力任せに縄を手繰られて体が傾ぐ。踏ん張ろうとしたが、軟弱な体は力負けして男の方にたたらを踏んだ。
「慰み者に落ちた分際でぬかすか」
「貴様とて、同じこと」
嘲りの応酬に怒りの形相で近づいてきた男の視線がふいに口元の何かを捕らえた。
「なんだそれは?」
すぐさま吐き出して手の内に握りこむがその腕を掴まれてぎりぎりと締め上げられた。痛みに顔をしかめながらもリョウはへらりと笑った。
「た、ただの玩具…の笛…ですよ。不良品で音が出ないものを貰い受けたんです」
手を開いて指で摘んで見せた。
「ほら、いいですか」
再び証拠を見せるように口を付けて堂々と吹いた。人の耳にはカスカスとした空気の流れしか聞こえない。何事かと風に乗る海鳥が気づかわし気な声を上げたが、その声はこの男には届かない。そうして振り仰いだ空、はるか上空、弧を描くようにして飛ぶオオタカの姿に幸運の女神リュークスが微笑んだことを知った。
***
「おい! そっち行ったぞ。待ちぁやがれ、くそったれが!」
「ばーか、そうじゃねぇって、こっちだ」
「クソ、チョロチョロしやがって」
「よしよし、いい子にしてりゃぁ飴をくれてやるから、こっち来な」
野太い叫び声と床板を踏み鳴らす複数の足音が、突如振動となって上の方から響いてきた。船内の比較的浅い部分で積み荷の中身を確認していた男たちは、漏れ聞こえてくる騒ぎに作業の手を止めた。すぐに止むかと思えた物音はその後も暫く続いた。荒くれ者が集まる男所帯。よくある喧嘩の類だろうか。内心訝しく思いながらも男たちは顔を見交わせ、耳を澄ます。切れ切れに人の声のような雑音が響くが、何を叫んでいるかは分からない。気が散り出した所為か、傍で作業を見守っていた案内役の船乗りが様子を見るために上へ行く。
入れ替わるように別の男が降りてきて、足早に船室の脇を抜けて行こうとした所を呼び止めた。
「どうした?」
問いかけに船乗りが面倒そうに肩をすくめた。
「ああ? 恒例の鬼ごっこさ。どうもきょうびは活きが良すぎるのがいてな。なに、すぐに大人しくなる」
軽い気持ちで気にするなと片手を振った男の肩を咄嗟に掴んで止めていた。隆々とした筋肉が覆う剥き出しの肩に思いの外強く指が食い込んだのか痛みに顔をしかめる。
「あ? んだよ」
「何が、起こっている?」
急に剣呑さを増した声音に船乗りは改めて男が港湾事務所の制服を着ているのに気が付いて、余計な口を滑らせたことを悟った。すぐさま取り繕うように笑みを浮かべ、肩に置かれた手を振り払おうとした。
「あ、いや大したことじゃねぇって。身内の話だ。時期に収まる。てか、お前さんがたそっちが終わったんなら上がって報告してくれ。こちとら用事があるんだ。ああ忙しい!」
船乗りは何やら慌てた様子で捲し立てると逃げるようにして階段を降りていった。
検査官は廊下の先にある階段を睨みつけるようにして見上げた。
「隊長」
振り返った男の顔つきが変わった。
一つ頷きを返して。
「ああ。セリョーシュ、トーリャ、お前たちは他の船室を調べてくれ。どこかに女子供が留め置かれているかもしれん。アッカ、グントは共に来い」
「ハッ」
素早い身のこなしで部屋を出た大きな体が二つ、階段を勢い良く駆け下りるのを待たずして、三人の男たちも甲板へと続く階段を駆け上がった。
同じ日の早朝、自警団長エンベルの協力を得て、ユルスナールを筆頭とした兵士五人は港湾事務所の職員になりすます形でとある大型商船へと乗り込むことに成功した。目的は無論人買いに拐われたというリョウとユリムの探索・救出だ。影の男ルークとその相棒の大鷲、その他リョウと接触に成功した大鷹から得られた情報を分析するとあまり猶予がなかった。
港には大小様々な商船が停泊していたが、その中でも一際大きく目立つ船があった。世界有数の貿易会社であるリリス商会の船でホールムスクを出た後は、隣国セルツェーリ、ブルッヘを経由する北廻り航路でノヴグラードに戻るという。二人を買ったという商人がどの船を利用しているかまでは突き止められなかったが、この日、一番早く出立するという船を先に調べることにした。他に二隻、出港の予定の船があり、こちらもエンベルの口利きで、急遽配下の兵士を二名づつ港湾組合員の検査員として紛れ込ませることができた。
出立の朝を迎え、船は活気に満ちていた。甲板を動き回る船乗りは日に焼けた肌を惜しげもなくさらし、時折冗談を交えながら仲間内に指示を出している。故郷へと帰る海の男たちの表情は一様に晴れやかだった。
検査員として乗り込んだ以上、付け焼き刃でも仕事はしなくてはならない。逸る気持をどうにか抑えて、形ばかりの検査票を手に初めて乗り込む船を注意深く観察した。
限られた空間を最大限に活用するためには整理整頓といかに効率よく荷を積み込むかがモノを言う。ここは船乗りたちの意識と管理が徹底されているのか買い付けた商品の詰まった大小の木箱や樽などが、大きさ、品目、仕向け地毎に行儀よく並べられていた。
狭い船室の中での作業は上背のある男たちには窮屈だった。手にした書類を睨みながら荷札を一つ一つ確認してゆく者、梱包に不審な点はないか目を光らせる者、型通りの工程をこなしつつ室内を見渡して、他に妙な点はないか鋭い視線が船内を隈なく照射する。それぞれが役割を持ってこの船の検分を行っていた。
積荷の検査は通常、船積み前に行われる。岸壁で申告書類を元に荷に間違いがないか札を検めながら確認を行う。普段ならば通り一遍の簡単な検査で済むのだが、先日の不審火事件以来、惰性の流れ作業は改められ、輪をかけて厳しい審査が行われることになった。
検査官が出向直前の船に乗り込めたものそのおかげだ。船長としては慌ただしい時間帯に港湾事務員の相手をしなければならないのは面倒であったが、ここで断ればやましいことがあるのではないかとあらぬ嫌疑をかけられることにもなりかねない。検査を拒む方がかえって不利になると素早く脳内の天秤を揺らし、抜き打ちの査察を受け入れた。
特別警戒態勢の為か、検査官の顔ぶれが変わっても船長を始めとする船乗りたちは気に留めなかった。それも幸いして、大して怪しまれずに潜入することができた。
事前の打ち合わせ通り、この港で運び込まれた荷が納められているという船室をいくつか回り終えたところで、後は案内の船乗りをどうにか言いくるめて、更に深部、旅人や商人が客室として使う部屋や乗組員たちの居住区域をそれとなく探れればと考えていた矢先に上階での異変を感知した。
甲板を駆け上がったユルスナールたちがまず目にしたのは、腰を低くして間合いを詰める船乗りの背中だった。威勢の良い囃し立てるような声が方々からかかる。浅黒い肌と白い袖なしの着衣が立ち並ぶ隙間の向こう、尖端のマストへと伸びる床板の上、風に舞う白い衣が二つ、船縁にへばりついているのが見えた。
「おい、よせ。馬鹿な真似はするな」
「落ち着け。いい子だから」
「くそ、旦那にドヤされちまうぜ」
常の威勢を欠いて、どこか弱りきったぼやきが傍ら、一番外側の人垣から漏れ聞こえた。その向かい、もう一重内側を囲む辺りからは、けしかける声がする。騒ぎを聞きつけてか甲板の上には多くの船乗りが集まってきていた。
「おいおい、坊主、悪りぃこたぁいわねぇ。そのおもちゃをしまいな!」
「そうそう、んな細腕じゃぁ怪我ぁするぜ」
「可愛い顔が台無しだ」
「それとも遊んで欲しいのかぁ。どうせなら違う遊びがいいんだがよぉ」
「うっわ、出た。助平オヤジが」
「言ってろ」
下卑たからかいの声にどっと笑いが沸いた。周りを囲む船乗りたちには緊張感の欠片もない。
ユルスナールたち三人は目立たぬよう慎重に人垣の合間に身体を滑らせた。
「ッチ、傷つけたら面倒なのによう」
「しょうがねぇ。おい、旦那か、あの術師を連れてこい」
そんな台詞を吐いて、すれ違うように一人が身を翻す。生まれた隙間に肩をねじ込めば、抜身の短剣を手に周囲を威嚇する二人の若者の姿があった。
―いた。
黒い頭髪はこの地でも間違えようがない。探していた二人だ。
揃いの白い異国風の衣が吹き込む風に煽られ、露わになった面立ちは厳しく辺りを睨みつけている。二人からは手負いの獣のように切羽詰まった感が伝わってきたが、一転、囲む船乗りのたちはこの予定外の出来事を偶さかの娯楽として楽しんでいる風だった。
妻の無事が確認出来たことに安堵しつつもユルスナールは状況の厳しさに目を眇めた。人目を忍んでの奪還は消えた。
甲板を駆けずり回ったのか、肩で息をする二人は袋の鼠のようにマストが伸びる先端へと追い詰められていた。岸とを繋ぐ橋がかけられているのはこの船の後方だ。そこまでたどり着くのにこの多勢の肉壁をどうにかしなくてはならない。船内の探索に二人を残したため、この場の戦力は三人。港湾組合員に扮した腰には相棒の長剣はない。代わりに小刀が一つ。まともにぶつかるには心許ない。さてどうするか。
ふと視線を流した板張りの先に棒が立てかけられているのが見えた。槍のように使うには短かく、棍棒として振り回すには細いが、使えなくはないか。咄嗟に判断すると二人の部下に目配せをして得物を手にした。
人垣の中で慎重に間合いを図る。高くなった陽の反射とその煌めきから刃先が震えているのが分かった。限界は近い。護身用に稽古をつけていたとしても二人は素人だ。この屈強な男たちを相手に立ち回りなどできはしまい。赤子の腕を捻るよりも簡単にいなされるだろう。一人でも捕えられたら状況は更に厳しくなる。ならばこの制服の立場を生かして強引に間に割り込むしかないか。リョウが己が名を呼ばずにいられるかどうか、そこは賭けではあるが、この機を逃すわけにはいかない。そう判断したユルスナールは軍で使う指文字でアッカとグントに合図を送った。
「お~い、だれか相手してやれよ」
呑気な声を出してようやく重い腰を上げた船乗りが事態の収集に動き出したのに合わせて、ユルスナールが前に出ようとした時だった。
「その必要はない」
二人の前に今度は別の白い衣が立ちはだかった。無造作に括られた黒髪が馬の尻尾のように長く背中に落ち、吹き込む海風に揺れていた。緩慢な足取りだがその身のこなしから男は武人だと見て取れた。同じサリドの民だろうか。それにしては両者の空気は変わらずに緊張を孕んでいる。
「この期に及んで逃げ回るなど愚の骨頂、男なら尋常に立ち会え」
そう高らかに言い放つと腰のベルトから長めの短剣をひらりと抜き構えた。
「…貴様」
ユリムが唸る。その一言は二人の関係性を如実に示していた。ユリムは手にした短剣を威嚇するように掲げ、憎しみの燃える目で男を見据えていた。仲間割れか。
「ここを出るというなら、まず俺を倒してからだ」
静かな挑発にユリムが一歩、前に出た。
「お、弟の方が先にやんのか。兄貴はどうした?」
傍観者を決め込んだ船乗りが興味津々に身を乗り出す。囃し立てるように口笛が飛んだ。
「二人まとめてでも構わぬ」
サリド人らしき男の声に更なる野次が飛んだ。間合いを取り始めた男との立ち合いを促すように船乗りたちは囲む輪を伸縮させた。
「お? 兄貴も出張るか、おい」
「おら、どうするんだ、やっこさんたち」
徐々に集まる熱気に不穏な空気を感じ取ってか背後からリョウが身を乗り出してきた。手にした短剣を鞘にしまい、ユリムの前に出た。
ユルスナールは己が妻の行動に内心呻いた。そうだ。リョウはそういう奴だった。己の危険など顧みない無鉄砲さを持つ。あれはユリムを庇うつもりだ。
これ以上は危険だ。ここが潮時とばかりにユルスナールは心を決めた。
「そこまでだ」
張り上げた声は周囲に響いた。吸い寄せられるように闖入者へ視線が集まる。
「双方、刃を納めろ。出港前に騒ぎを起こしては、船出の許可が出せんぞ」
前に出るようにして輪の中に入れば、見慣れた黒い瞳がこれでもかと見開かれた後、去来する様々な感情を堪えるように閉じられた。くしゃりと歪みそうになって慌てて引き結ばれた薄い唇にユルスナールは小さく頷いて見せた。
短剣を手にしたサリド人はそろりと身体を開き、乱入した第三者を忌々しげに睨みつけた。
「部外者は手出し無用。邪魔立てするな」
刺された釘を片腹痛いとばかりに引っこ抜く。
「それはできぬ相談だ。こちらも仕事で来ている」
「仕事?」
男の眉が片方、理解できないという風に上がったが、輪の外からは微かな動揺がさざ波のように広がった。この男には意味をなさない港湾職員の制服も、船乗りたちを牽制する役目にはなったようだ。
その間、リョウに何かを囁かれてユリムが怒らせていた肩を下げ、短剣を鞘にしまった。それを見た武人は「怖気付いたか」と再び嘲りの声を上げた。
どうやらまずはこのやたらと好戦的な異邦人を相手にしなくてはならないようだ。
「得物をしまえ。気晴らしがしたいというなら付き合うのもやぶさかではないが……」
あえて殺気をちらつかせながら、ユルスナールは大股でリョウと男の間に入った。
「貴様が相手をすると?」
「ああ」
「ほう?」
舐めるような視線が上から下に移動するのに合わせて手にした棒を握りしめる。武人ならばこちらの本気が伝わるはずだ。睨み合うこと暫し、興が削がれたのか、はたまた分が悪いと感じ取ったのか、男が武器をしまった。
そこで手を一つ打ち鳴らすとよく通る声を響かせた。
「さぁ、余興は終わりだ。皆、持ち場に戻ってくれ」
威厳を込めて指示を出せば、周りを囲んだ船乗りの輪はそれを合図に緩んで行った。
「船長はどこだ?」
近くにいた船乗りに声をかけると 散り始めた男たちの輪の向こうからやや毛色の異なる男たちが現れた。
「お呼びですかい」
平たい帽子を被り首にチーフを巻いた男は先ほど挨拶を交わした船長だ。船長はユルスナールたちの姿を見て、したり顔で頷いた。
「ああ、港湾組合の旦那方ですね。どうです、検査は済みましたか」
日焼けした肌を覆う口髭の下に人好きのする笑みを浮かべる。
「ええ。一通りは」
その頃には、船室の調査をしていたセルゲイ、アナトーリーの二人組も甲板に上がってきていた。
「何か問題でも?」
白々しい問いかけにユルスナールは酷薄そうな笑みを口元に履いた。
「こちらで何やら揉めていたようだが」
傍らにいた白い衣の三人組を目線で示せば、船長の隣から別の男が身を乗り出してきた。
こちらは一目で上等と分かる衣服を身につけていた。荒削りの男くさい顔立ちを中和するように柔らかな絹が体格の良い体を包む。胸元に光るブローチは貴石をあしらっているに違いない。随分と羽振りの良さそうな商人だ。
「ああ、失礼しました。そこの三人はうちのものです。とんだご迷惑をかけたようで。ほら、お前たち、こちらへおいで」
口調は丁寧だが、男の声音には有無を言わせない強い響きがあった。その呼びかけに素直に従ったのは、武人と思しき一人のみ。残る二人は微動だにしなかった。
「どうした、お前たち」
形ばかりの笑みを浮かべて二人を促す商人は、この芝居が上手く行くと思っているのだろう。
その後方には控えるようにしてもう一人、草臥れた旅装の男がいた。薄汚れた白っぽい外套の裾が風にはためく中、ひょろりとした男の視線は言い知れぬ薄気味悪さを含み、この成り行きを見守っていた。
「さぁ、こっちへ来るんだ」
焦れた男が腕を伸ばして更に言葉を継ごうとした矢先、傍らの空気が拒絶に揺らいだ。
「お断りいたします」
「断る」
リョウとユリムは並び立つと揃って片腕を上方に掲げた。たっぷりとした白い袖が滑るように落ち、ほっそりとした腕が露になる。両者の手首には、意匠を凝らした贅沢な腕輪が陽の光を浴びて場違いな程の輝きを放った。
「なんの真似だ」
商人が恫喝するように低い声を出したが、二人は怯まなかった。
「これはもう不要ゆえ」
「お返しします」
相手に見せつけるように掲げられた腕から、硬い音を立てて留め金が外される。外れた腕輪はそのまま落下し、ゴトリと床板に鈍い音を響かせた。
「なん…だと……?」
転がった腕輪は驚きに目を見開いた商人の足元で止まった。男はそれを拾い上げると背後を勢いよく振り返った。
「ダスマス! 何故だ。この間の術はどうした! 外せないはずではなかったか!」
激高する男に対し、呼ばれた男は気怠そうに肩を竦めただけだった。
「どういうことだ、効力が切れたのなら、さっさと付け直せ、できるだろう?」
苛立ちをぶつけながら相手の襟元へ掴みかかった商人の背に影が落ちた。
「この二人は本当に貴公のものだと?」
ユルスナールの手に先ほどの腕輪が握られていた。
「ああそうだ」
「では、これはなんだ?」
男の目の前で形を変えた金属の残骸が振られた。
底冷えするような冷たい視線をものともせず商人は真っ向からユルスナールを見返した。
「それは単なる腕輪だ。私が与えたものだ」
「これほどまでに手の込んだものを?」
その口ぶりは本来の目的を知っている風でもあった。
「何が言いたい? この街で雇った者に証として贈ったまでだ。それがどうかしたか?」
「ほう?」
商人が言葉を重ねれば重ねるほど相手へと向けられる怒りは積み増されていった。
「なんだ、文句でもあるのか」
互いの吐息が触れ合わんばかりの至近距離で、
「かどわかしたの間違いでは?」
ユルスナールは決定的な言葉を囁きに乗せた。
「何を言うか。無礼者め。きちんと対価は払ってある。そもそも貴様らには関りのないことだ!」
怒りを露に言いがかりだと主張する男にユルスナールはとある提案をした。
「どうやら互いの認識に齟齬があるようだ。詳しい話を下で聞きたいが、どうだろう?」
そのまま腕を掴もうとしたユルスナールの動きを男が跳ねのけた。
「ふざけるな。おい、船長、どうにかしてくれ。なんなんだこいつは。港湾職員にこんな権限はなかろう。これは職務違反だろう。こいつらを摘まみだしてくれ!」
「ふむ。非常に残念だが、ご協力いただけないのならば、致し方あるまい」
不穏な空気をまるで気にせず、ユルスナールは首から下げていた笛を拭いた。ピィーと甲高い音が空気を切り裂くように響き渡った。
それを合図に船の後方から武装した兵士がどっとなだれ込んできた。
呆気にとられた船員たちを尻目に騎士団の隊服に身を包んだ兵士が颯爽と現れた。
「アルバストル号船長、並びに商人ヘルソン。抜け荷と人身売買の嫌疑が上がっている。ご同行願いたい」
柔和な顔立ちを常になく引き締め、先頭に立つ兵士は手にした書状を掲げ、疑惑の二人に突き付けた。
呆気にとられた船長の傍らで、商人は「ふざけるな! 何かの間違いだ」と声高に叫び、その場を逃れようとしたが、それをむざむざと取り逃がす者はいなかった。
「二人を拘束しろ」
「なんだと!」
「抵抗すれば、関係者とみなします。皆さんも取り調べを受ける形になりますが、よろしいか」
よく通る声で響いた兵士の言にすわ一大事と拳を振り上げた船乗りたちは動きを止めた。
我に返った船長は、周囲をぐるりと見渡した。
「船長!」
「親方!」
「これはなにかの間違いだ」
ここで事を荒げることをよしとしなかったのか、船長は騒ぎの収束へと舵を切った。
「船員は持ち場に戻って待機。俺が戻るまで船を守れ」
「アイアイサー!」
大音声の掛け声に船乗りは一斉に答えた。




