13) 水面下の算段
「オフリートという名に聞き覚えは?」
その声は鋭く長い針のようにエンベルの喉元に突き刺さった。魚の小骨が喉を掠める不愉快さとは比べ物にならない。一突きで急所を捕らえ、それと気が付かぬ内に相手を死に至らしめる。そういう暗器を仕込まれたような気分だった。
無意識に吸い込んだ息が気道を塞ぐ。まるで息の仕方を忘れてしまったかのように。
オフリートは酒造組合に属する組合員の一人だ。
「確か……ミールに…似たような名前の男がいると…聞いた覚えがある」
曖昧な答えになったのは身内が禁を犯していることへの後ろめたさだろうか。それをよりによって外部の人間に、一番知られて欲しくない王都の手先―騎士団に暴かれる屈辱故だろうか。
「所属は?」
ミールには取り扱う商品毎に無数の組合がある。長のイステンはどうだか知らないが、エンベルとて全ての人間を把握している訳ではない。父親の供で組合の会合に顔を出したりはするが、そもそも自警団として関わるのは市井の、どちらかといえば酒場に屯しているような男たちだ。
エンベルはゆっくりと考えを巡らすように顎に手を当てた。
ここで誤魔化しは通用しない。適当なことを言ってはぐらかしても、直ぐに喉元を押さえつけられ、正直に吐かされるだろう。この男たちならばそのくらい躊躇いはないし、それを相手にさせるというのも己の仕事柄、向こうに与すると決めた手前、漢らしくないと思う。
最後にオフリートの顔を見たのはいつだったか。組合の集まりがはけた後の酒場でか。記憶の中に身なりに気を使う洒落者の姿がちらついた。
「…煙草か……茶か…酒か」
生活必需品というよりも嗜好性の高い品を扱う者だ。その嗜好を突き詰めて、欲望の上澄みを掠め取り、溜め込んだ澱を別のものに変えれば……。そう、春をひさぐ女も、男も、突き詰めれば嗜好の一つとなる。
「武器商人ではないのか?」
矢継ぎ早の問いかけにエンベルの思考が一時飛んだ。オフリートの側には大抵武器商人の姿があった。ミシュコルツという糸のような細い口ひげを生やした男の顔が眼裏に浮かぶ。羽振りの良い名うての商人だが、取り扱う品物の性質上、その周りには絶えず黒い噂が靄のようにまとわりついていた。
騎士団の詰所は広場を挟んだだけの距離であるのに、その雰囲気は自警団のそれとは異なった。王都の煌びやかな空気が鼻に付くかと思いきや、内装は至って控えめで質実剛健、実用性重視の作りだった。エンベルの背が居心地の悪さにむず痒くなることもない。ここよりももっと豪奢で華美な作りの部屋はホールムスクにはいくらでもあった。
初めて足を踏み入れた騎士団長の部屋には、副官の他に生真面目そうな武官と得体の知れない男の影があった。姿形はエンベルからは見えないが、色濃い気配を感じた。殺気とは紙一重の鋭敏な刃物のような空気だ。影の中に潜む男の声は若さを失ってはいたが、老い枯れたという訳でもなく、まだまだ現役の匂いがした。
エンベルはその男を騎士団が長年飼っている情報屋だろうと踏んだ。自警団にも組合にも裏事情に通じる男たちがいる。ここで顔を出すのは仕事上都合が悪いのだろう。そして騎士団の連中が意に介していないところを見るとそういう約束を取り付けているのやもしれない。余所者がホールムスクの情報を少しでも把握するには、それなりの伝手と労力、資金力がいる。情報屋は金になるとみれば、旨味を求めて擦り寄り、どこにでもネタを売る。ここにも独自の伝手があるだろうことは想像に難くなかった。
「いや、どうも武器商人の方は競売を仕切ったやつで、まぁ繋がりはあるようだが、間に入ったみてぇだな」
影の中から男の飄々とした声が低く響いた。
「では、リョウをさばいたのはオフリートという男か」
酷薄そうな男の横顔が声の方に向けられた。
「そいつは前々から裏で人買いの真似事みてえなことを個人的にやってたみてえだな。で、今回、偶々、客の中にサリドの民の引き合いってのがあって、ちょうど伝手でそれらしいわけぇのを仕入れたって話が先にあったらしい」
思い当たる節があるのか、騎士団長は緩く長く息を吐き出した。いつもは隙なく撫で付けられている前髪が幾筋も額際にこぼれ落ち、疲労がその目元に滲む。
「…ユリムが捕らわれた先か」
声に苦い後悔に似たものが混じっていた。
「だろうなぁ。会場で逃げた奴が何食わぬ顔して入れ札をしようってんだ。自分から火に飛び込んで行ったようなもんだろ」
呆れの混じる辛辣な物言いにエンベルは内心ひやりとしたが、騎士団長は苦虫を潰したような顔をしただけで、別段、機嫌を損ねた訳でもないようだった。図星を突かれたのか。だとしてもこの男とは随分と気安い関係を築いているように思う。
「ではあちらは一人が二人になって帰ってきたと言って諸手を挙げて喜んだことでしょうねぇ。今回ばかりは姿形が似ていたのが裏目に出たというわけですか」
柔和な顔立ちの割に辛辣な物言いの副官が眉間に皺を寄せた。
「……なぁ、競売ってのはなんだ?」
エンベルはこれまでの会話に幾度も登場していた言葉が気になった。
「おや、ご存知ないんですか?」
あからさまに含みのある副官の声色に微かな苛立ちを覚えながらも、エンベルは大人しく頷いた。
「リョウとその連れってのが参加したってことは、ミール関係か?」
これまで父親からも親しい仲間からもそのような話を聞いたことがなかった。
「はは、お膝元でも限られたやつしか入れねぇってのはわりかしマジな話か」
「そのようだな。それだけ隠しておきたいものだったんだろう。だが、それも今回で終わりだ」
影の男の言葉にシビリークスはやや皮肉めいた風に片頬をゆがめた。それからこれまで知り得た事柄をエンベルに忌憚なく伝えた。術師組合の長、リサルメフの話では不定期で開かれる会員制の催しで、伝手がないと参加が出来ない閉じられた市場ということだ。場所と時間は毎回変わる。まるで蜃気楼のように一時、現れては消える。参加が認められれば、招待状は暗号文で送られてくる。リョウは鉱石組合の仲立ちでその情報を入手したらしい。
「しかし、そもそもなんでそんなとこに首を突っ込んだんだ?」
エンベルは単なる術師が秘匿された競売にどんな用事があったのかと不思議がった。
「どうもサリドの奴が訳ありで、大方、姫さんはそいつの力になりたかったってことだろ。相変わらず馬鹿がつくほどのお人好しだ。これじゃぁ旦那は苦労が絶えないねぇ…って、おっと、んな怖い顔すんなよ」
シビリークスにぎろりと睨まれて戯けたように影から骨ばった手がひらりと振られた。その後、小さな咳払いを挟んで、これまで集めた情報によると…と口調を少し改めて、言葉を継いだ。
それによるとリョウたちはサリドの民としてオフリートに捕らわれ売られた。売った先は余所から商いに来ている商人で、二人とも一時的に倉庫を改装した宿屋に留め置かれているが、いずれ男が国へ連れて帰るだろう。商談が早まったのか、どうも予定が繰り上がったようで、早ければ明日にでも動きがあるのではないかとのことだった。この短時間の間に随分と良く調べているとエンベルは男の情報収集能力に舌を巻いた。
「その留め置かれてるとこに他から買われた女たちがいるって話か」
ようやくエンベルが欲した情報にたどり着いた。そもそもこちら側に釣られた目的はそこだ。
「そちらの言うアリョーナという娘も、売られた先は分かりませんが、大方似たようなことでしょう」
副官の言葉にエンベルは一人唸った。父親のショフクに泣きつかれて、諦め半分、上手くいけば売りに出された所で買い取れるかもしれないと希望的観測を持ってはいたが、既に売り手がついているのならば難しいかもしれない。買った先が更なる交渉に応じればよいが、それが上手く行ったとしても取り戻す金額が跳ね上がるだろう。こうなったら「人身売買は違法」を盾に取締りの名目で強行奪取するしかないのか。だが、単独では無理だ。自警団で動けるだろうか。相手はミールの会員だ。ミールの中に違反者が出たことが公になれば団体自体の信頼性が揺らぎかねない。ピュタクを始めとする川向こうの連中が噛んでいるとすれば、強い反発を招くだろう。どう転んでもただでは済まない。柵が文字通りエンベルの動きを阻む柵となって、立ちはだかる。
「さてと、あまり時間がありませんね。ルスラン、どうします?」
エンベルの焦燥を余所に騎士団の副官は余裕たっぷりに微笑みすらたたえてシビリークスを見た。菫色の瞳の奥が好戦的に煌めく。その脇で生真面目そうな武官も上司の命令をじっと待つ。深海に似た瑠璃の瞳が強い光を発し、獰猛な笑みが口元に浮かぶ。
「もちろん、奪われたものは取り返すまで。きっちりと落とし前はつけてもらう」
シビリークスの宣言に一気に場の空気が引き締まったのを感じた。上司と部下、いや仲間たちとの意識が一つの目的に集約される。互いの信頼に基づいたやりとりはエンベルには羨ましくも眩しくも映った。
その時、シビリークスが徐に振り返った。一切の迷いが消えた瞳がひたとエンベルを見据えた。
―お前はどうする。
視線で問われて、エンベルは目を閉じ、小さく息を吐き出すと腹を括った。このまま騎士団に勝手に動かれるのも具合が悪い。こうして暴かれた不正を揉み消したり見過ごすことは出来なかった。この街を少しでも良くするために日夜身を粉にして働いてきた。父親と立場は違えどもこの街に対する愛着は人一倍あると自負している。騎士団側の動きを牽制するためにもここで出張らないわけには行かなかった。
それから夜更けまで男たちの話し合いが続いた。
翌朝、港の一角に港湾組合から派遣されたと思しき複数の男たちが集まっていた。青い上着を引っ掛けた自警団の制服もちらほらと覗く。白いシャツに膝下まではあろうか、揃いの黒い長チョッキを重ね、腰には何に使うのか、定規やら計測器のようなものがいくつもぶら下がり、それぞれの手には書類の束と筆記用具が見えた。
目の前には一艘の大型商船が停泊していた。すっくと伸びたマストとそこから伸びる梁には白い帆布が巻きついている。船の後方には大きな木の板がかけられ、ほぼ半裸の人足たちが逞しい身体を惜しげもなく晒し、光る汗をそのままに荷を担ぎ中へと運び入れていた。すぐそばにはこれから積み込みを待つ荷が行儀よくとはいかないまでもそこそこの秩序で並んで置かれていた。その周りでは積荷の数や状態、取り付けられた木札を確認しつつ男が忙しげに動き回っている。
「エンベル、こんな朝早くからどうしたんだ?」
船の方からやってきた男は決まりきった朝の挨拶を交わす前に驚いたような声を上げた。日に焼けた肌は艶やかで健康そうな照りを返していた。
「やぁ、船長、朝からすまない。あっちも忙しいようで駆り出された」
エンベルはそう言って親指で背後の港湾事務所を指した。本来なら港湾組合が行なう積荷検査に助太刀を頼まれたと事情を明かせば、
「ああ、あっちは何やら落ち着かんようだからなぁ」
先だっての積荷焼失事件のことはいまだに多くの船乗りたちの間でも噂になっていて、この船長も訳知り顔で声を潜めた。
「まだ原因ははっきりしねぇんだろう? にしても船員の火の不始末なんて冗談じゃねぇ。うちもそっからこっち輪をかけて注意してるがよ。あの船長もとんだ災難だったな。リリス商会絡みの荷ってのがまたな。今頃、保障やら弁済やらで、あっちこっちから相当捻じ込まれてるっつー話だ。そんで、お前さんとこもてんてこ舞いなんじゃねぇのか。警備も結構厳しくなってるだろ」
一度話し始めたら止まらないのか。おしゃべりな船長にエンベルは尤もらしく頷いた。
「まぁな。でもあっちに比べりゃぁまだマシだ」
その視線がちらと後方に注がれる。港湾組合の連中はそれこそ今回の後始末に寝る間を惜しんで当たっていると聞いている。ただ抜け荷の件は公にされておらず、ティーゼンハーロム号の一件も世間的には不幸な事故としての扱いだ。
「そうかい」
船長はたっぷりとした口髭をざらりと撫でると日焼けした顔に人の良さそうな笑みを浮かべた。そこで今気がついたとばかり少し離れたところにいる集団を透かしみた。
「で、そちらが今回の検査員か。まぁよろしく頼む。にしても、おい、随分と男前を揃えたじゃねぇか。なんだ、最近じゃぁ色男でないと雇ってもらえないのか?」
半ば冗談めかして見慣れない顔をぐるりと見渡した。精悍な顔つきの者が多い中で朝日を浴びて銀色の照りを返す髪の男に目が行った。長くなった前髪の合間から鋭い眼光が覗く。その瞬間、船長の背にぞくりとしたものが走った気がしたが、すぐに逸れた視線に男が軽く会釈のようなものを返してうやむやになった。
「ああ船長はまだだったか、最近新しく雇った奴らで、日は浅いが飲み込みが早くてな。こっちに入ってもらった。中々に頼りになる連中だってミシュコルツも言ってたさ」
「へぇ、そいつは頼もしいことで」
港湾組合長の名を出せば安心したのか、船長は細めた目尻に益々皺を寄せた。
「じゃぁぼちぼち始めさしてもらうが、いいか」
「ああ。よろしく頼む。いつも通り決まりきった荷が殆どだ。お前さん方の手を煩わすまでもねぇがよ。ま、お手柔らかに頼むぜ」
そうして船長は後方を振り返ると腹の底からよく通る声を張り上げて、船乗りを呼んだ。
「サーリィ!」
「へぃ」
「いつもの検査だ。案内を頼む」
「アイアイ」
視線と手振りで男たちが合図をする。静かに待っていた港湾組合の検査員は男の案内で動き出した。
***
同日、遡って数刻前、夜明け前に宿屋を出たブコバルとロッソの二人は、集合場所である川の中腹、桟橋付近にやってきた。人気のない暗闇の中、息を殺して足早に歩く二人の姿はさながら大きな鼠のようでもあった。桟橋には小舟が一艘もやっており僅かな灯りの下、船頭が暇つぶしに煙草を咬んでいた。
符丁となる言葉を告げれば、船頭は無言で乗れと顎をしゃくった。音を殺して巨体が二つ飛び乗ると竿を手に立ち上がった。船縁の小さな灯りが水面に揺れる。ここで拾われるのは二人だけのようで、小舟は支流から大川を経由して再び別の支流に入った。流れを分け入って進む水音と木材の軋みが唯一の音だった。
暫くして夜陰に紛れて到着したのは行きと同じような小さな桟橋で、二人が下りると舟はすぐに暗闇の中へと消え去った。行きと異なるのは他にも似たような"お仲間"がいたことだ。深海魚の如く小さなぼんぼりを吊るした舟がどこからともなく現れては漕ぎ着いた先で男たちを吐き出してゆく。そして降りた男たちは迷うことなく川縁に立つ板張りの建物の中に入って行く。ブコバルたちもそれに倣った。
中は天井の高いがらんとした倉庫のようだった。屋内はぎりぎりまで灯りが絞られており、幽鬼のように立ち並ぶ黒い人影と大小様々に梱包をされた木箱が雑然と並んでいた。箱には鉄の鎖に御丁寧に鍵まで付けられているようだった。随分と厳重だ。
影が発光石の明かりに侵食される境目にこの場を仕切る男がいて、手元にある札のようなものを繰りながら手慣れた様子で集められた男たちに指示を出していた。様々な風体の力自慢、腕に覚えのある連中が二手に分かれて粛々と荷の運び出しが始まった。やがてもれなくブコバルとロッソにもお鉢が回ってきた。
「お前らはそっちだ。台車に積んだらそのまま行け」
男が顎をしゃくった先には一台の小振りな荷車、その脇に車夫と思しき腰の曲がった男がいた。
「…行けって、どこまでだ?」
詳しい仕事内容は聞いていない。
何気ないブコバルの問いに返ってきたのは苛立たし気な小さな舌打ちだった。
「お前たちが知る必要はない」
「いや、でもよぉ、行先がわからなけりゃ、守るもんも守れねぇだろ」
今回の仕事は荷を無事目的地まで届ける為の護衛だと聞かされていた。荷の中身は当然のことながら知らされていないが、ここに来るまでに動いた金を思えば、相当の価値がある物だと予想された。そして、ここにいる男だけでも十人近く、これだけの用心棒を付けるということは、途中、なんらかの邪魔が入るか、最悪襲撃によって強奪される危険も付いて回るということだ。目的地によって道筋を割り出し事前に用心なり心構えができればそれに越したことはない。その上で必要な情報だと思ったのだが、差配人は答えるつもりはないようだった。
「はぁ~」
大業な溜息の後、さらなる愚痴が口をついて出そうになったが、
「ザップ」
嗜める声を出した相棒と不愉快そうに眉を顰めたままの差配人の顔を交互に見て、ブコバルは諦めたように肩をすくめた。
「へぃへぃ、わぁ~ったよ」
「無駄口を叩く暇はない。お前たちの仕事はこの荷を運び届ける。それだけだ。行き先はそこの車夫が知っている」
突き放した言葉を背に二人が黙々と荷を積み込む間、差配人は車夫に手にした木札を渡していた。行き先として漏れ聞こえてきた船らしき名に、これまで得た知識から港の地図を思い描く。
荷が運び終わると荷車全体に布がかけられ頑丈な鎖は見えなくなった。
「仕事が済んだら、先でこれを渡せ」
ブコバルとロッソには差配人から赤い色の付いた札が渡された。
「向こうで別の札と交換だ」
それが今回の仕事をやり遂げた証となる。貰い受けた札を口入屋に持っていけば残金が支払われる手はずだった。二人はそれぞれ手渡された札を懐にしまった。
準備が整うと腰の曲がった男が持ち場に就く。積んだ荷には相応の重さがあったはずだが、この男は難なくそれを引き始めた。差配人が手振りで合図を送る。ブコバルとロッソの二人は目配せをして、荷車の脇を固めるように歩を進めた。
暗闇の中、遠く悪戯に漏れる家屋の明かりを頼りに男たちは進んでいた。他の荷車の姿はない。目的地が違うのか、別のルートを取るのか、詳しいことは分からない。ガタゴトと地面を抉る轍の音が控えめに響く中、黙々と進んだ。車夫の足取りは迷いがない。通い慣れた道程なのだろうか。それこそ目を瞑っても辿り着けるほどに。その辺りのことを戯れに問いかけようとして、止めた。若さの欠片をその曲がった背に残した男は、二人の護衛の方を一度も見なかった。
遠く空の際が白んできた。夜明けが近い。これまで人気のない通りを進んできたが、護衛の二人は神経を研ぎ澄ませ絶えず周囲に気を配っていた。今のところ怪しい動きはない。最後の関門ともいうべきか、高い板塀の脇を慎重に抜けると開けた場所に出た。途端に潮の香りが鼻先に入り込み、吸い込んだ塩分が肺を膨らませる。水平線の向こうから強烈な閃光が目くらましのようにあふれてきた。思わず眩しさに目を逸らした先に巨大な帆船が岸壁にそそり立つようにして鎮座していた。どうやらあれが目当ての船のようだ。車夫は最後のひと踏ん張りとばかり、一層強い足取りで残りの歩みを進めた。
そばまで来ると朝もやの中、船の上から男が一人、木の橋を伝って下りてきた。車夫が懐から取り出した木札を渡すと確認するように透かし見てから頷き、別の札と交換するように手渡した。車夫の仕事はここで終わりのようだ。
次は、ブコバルたちの番だ。護衛の二人もそこで札を交換して終了かと思いきや、
「お前たちはこっちだ」
船乗りの方から積込を手伝えと言われてそれに従った。小さい割に持ち勝りのする木箱を担ぎ、護衛から人足になった二人は、渡された木橋の上を器用に歩いて行った。




