12)黒と白の駆引き
腕にはめられた白金の飾りをほっそりとした指がそっとたどる。彫り込まれた繊細な文様に色とりどりの貴石を嵌め込んだそれは装飾品としては純粋に美しいものだった。
だが、その見かけに騙されてはいけない。いかにお金をかけたものであろうともそこに込められた技と魂は醜いものだった。
ピリッとした刺激が指先に移る。それを契機に文様から歪んだ古代文字が煙のようにゆらゆらと立ち上った。術師の口からはぼそぼそと低い抑揚をつけて馴染みある言葉が紡がれてゆく。それは知った言葉であるのにどこか遠く、よそよそしく聞こえた。
込められた術式は、強い思念で組まれていた。怨念に近いそれを慎重に外側からゆっくりと炙り出し解いてゆく。どす黒い澱みを自らの気で覆い、練りこんで揉み込んで、その黒さが薄まったところで昇華させる。相当な集中力が要るのか、術師の額には薄っすらと汗が滲み始めていた。やがて細い指先から青白い光が波紋のように同心円状に広がり始めた。心拍に似たそのリズムはやがて腕輪をすっぽりと覆い、それがつけられた肘の先まで、青白い光をたたえた水の中に沈んでいるようだった。たぷんと触れたら音がしそうな気がする。
―痛みはある?
囁きに乗せた小さな問いも、
―いや。
その初めて見る不可思議な現象とほの青い光の美しさに半ば陶然と見惚れていたため、耳に入っていたかすら怪しい。
術師は薄く微笑むと再び唇を引き締め、目を閉じた。再びまじないの詠唱が始まる。白金の腕輪を両手で覆うように掴む。術師がフッと息を吸い込んだ瞬間、ゆらゆらと踊っていた光の水が一気に腕輪を掴む手の内に流れ込んだ。集約した光の眩しさに思わず目を瞑った瞬間、カチリと耳の奥で何かが外れる音がした。
ふっと身体の力が抜ける。傾いだ上体は同じ色の衣に包まれた腕に支えられていた。衣を通して伝わる他者の体温は、じんわりと熱を持って、今この時、生きている実感として迫ってきた。
―お疲れさま。
どれだけ前後不覚になっていたのか。気がついた時には、全身にあった気怠さと腕にあった重さが消えていた。
不思議に思って袖をまくると、だが、そこには相変わらず白金の腕輪がはまっていた。
どうしたことだろう。まだ鈍い思考のままぼんやりとしていると、
―気分はどう?
同じゆったりとした衣服に身を包んだ術師が目の前で微笑んでいた。
―ああ。
答えになっていない反応だが、相手は気に止めることなく傍にあった水差しを手にした。カップに注がれた水を差し出されて、反射的に受け取り口をつけると喉の渇きを覚えていたことを身体が訴えた。本能のままに中身を全て飲み干せば、やっとひと心地ついた気がした。
***
段々と赤みの差してきた頬を見て、リョウはようやく安堵の息を吐き出した。
「もう、大丈夫だと思う」
これで簡単に外れるはずだ。
そっと腕を持ち上げればたっぷりとした袖がするりと下がる。露わになった男らしい骨ばった骨格を辿るとその手首には同じ白金の腕輪が鈍い光を放っていた。
ただこれはこれまでとは違う。呪いの込められた枷ではなく、単なる装飾品に成り下がった。
今しがた、ユリムの腕輪にかけられていた術を解いた。リョウとユリムを買った男が術師に作らせたという隷属の腕輪。逃げ出そうとするとこれをはめている人間に害をなすという。そのことを聞いた時、俄かには信じられなかったが、反射的に逃げようとしたユリムが目の前で突然もがき苦しみ出したのを見て、その威力を信じざるを得なかった。ここに込められているのは強い呪縛の思念だ。従わない者を力づくでねじ伏せ、言うことを聞かせようとするもの。
時として人の想いが形を持って具現化するこの世界。それはけして良い方向だけに作用するものではないことを初めて知った。元々、人ならば皆持っているはずの潜在能力だ。それを引き出す術がいつのまにか忘れ去られ、今ではその力を使える人は少数となり、術師という難解な言葉で区別されるに至る。日常生活を少しだけ便利にする力、人助けになる技が、このように人を貶め苦しめる方向にも使われるということにリョウは少なからず衝撃を受けていた。この力は薬にもなるが毒にもなる。その事実を改めて思い知った。この力を巡って先の大戦では術師が多く渦中に巻き込まれたという。その意味をやっと実感を持って理解した気がした。隣国ノヴグラードでは術師の力を軍事目的に利用する研究が進んでいるという。これもその手のものなのだろうか。
丘の上の邸宅のような場所から港に近い倉庫のような場所に移された。表向き小さな宿屋を模したそこには他の場所から捕らわれ売られてきたという年若い女たちがいた。その一人に街の織物問屋のアリョーナという娘がいた。
アリョーナの家は古くからミール組合員でどうやら老舗らしかったが、借金のカタに売られてしまったのだという。父親はミールの中でも有力者のようであったが、突然ならず者が店に大勢現れてひっちゃかめっちゃかにされた。今回ばかりはどうにもならなかったそうだ。父親がピュタクと呼ばれる高利貸から借金をしたのが原因らしい。ピュタクにはミールの道理は通用しない。乾いた涙の跡が薄っすらと残る頬で、アリョーナは諦めた目をしていた。
リョウとユリムは業腹だが既に買われてしまい、ここでは主人の船出を待つまでの待機として入れられた。アリョーナと他の子達も既にまとめて買われた後で、明日には船で遠くへ移送されるのだという。
他の子達も金策に困って売られたのか、その辺りの事情はアリョーナが話してくれた。吃音の気がある女の子はそれが理由で親に捨てられ、孤児院に預けられたが、そこでもらわれることが決まった。裕福な家庭や子供が欲しい家にもらわれるのではなく、孤児院にやってきたのは見目の良い女の子を求めた女衒だった。孤児院には年齢制限がある。既にそれに近い歳まで大きくなっていたその子は、言葉が少々不自由であったこともあってか、因果を含められてやってきたのだという。もう一人の小さな女の子はどうやら人攫いにあったらしかった。キレンチ川を渡った向こう側、そこはミールの法が及ばない地域で、需要と供給が合致し商売になるならば赤子でも売り買いされるのだとアリョーナは青ざめた顔で語った。
では、ミールの方で問題となっていた子供達失踪の件もその手の者達が関わっているのだろうか。ただ今回、ミール関係者が多く参加する競売でリョウ達は捕らわれた。ユリムを取引の商品として扱っていた男はミールの人間だったはずだ。となると何も川向こうのものだけでなく、ミールの中にも禁を侵す輩がいるのだ。
借金の質方であるアリョーナ達とリョウの事情は異なる。少なくとも不当に攫われ売り物にされた。このままむざむざあの男の手に陥ちるわけにはいかない。リョウはけっして諦めたりはしなかった。どうやってここから逃げるか。その算段をずっと巡らせていた。
少し前に海側で薄っすらと開いた窓の外を飛んでいたカモメを呼び、どうにかこうにか伝言を託すことができた。一番確実なところでトレヴァルの診療所まで知らせてくれと頼んだが、ヤクザなおしゃべりカモメとトレヴァルとの相性はどう楽観的に見積もっても合いそうにない。だが術師組合や騎士団へはカモメが嫌がって話にならなかった。術師の素養持ちでなければカモメの声を聞くことはできない。そうしてどうにか出した妥協点が飲んだくれの術師だった。あとはトレヴァル次第。カモメから話が伝わったとしてもそれをトレヴァルがどう取るか。いたずらか何かだと捨て置かれたらそこで終わりだ。ただその後もトレヴァルが鬼門のミールへ伝えてくれるとは思えない。うまくいけば自警団の誰かが診療所に顔を出して、そこから自警団経由で術師組合か騎士団に伝わることを祈るしかなかった。
それからしばらくして、思いがけなくもカモメに連れられて第七の伝令イサークと王都周辺を縄張りにしているはずのオオタカ、リューリクが窓辺に現れて、リョウは驚きとともに女神リュークスへ偶然の巡り合わせを感謝した。何という僥倖だろう。丘の上で吹いた呼び笛を偶々こちらに来ていたというリューリクが聞いてくれたのだ。理知的で経験豊富な二頭の鷹がいれば大丈夫だ。絶対に何とかなる。ぐっと拳を握りしめて希望を新たにした後、真っ先に考えたのは、この腕にはめられた枷だった。
無事逃げおおせる為にはこの枷となる腕輪をどうにかしなくてはならない。はめられたのは同じものだが、ユリムとリョウではその作用の仕方が明らかに違った。端的に言えばユリムの方が術がよく効いていたのだ。その差は何だろうか。術師であることが力の反発を生んでいるのかもしれない。そうだとしたらまだ望みはある。ユリムが苦しんだ時に咄嗟に解除の呪いを唱えたら、それがどうにか効いた。だとしたら、自分の力はあの白い男と拮抗しているのかもしれない。たとえ総合的に敵わなくても、瞬間的に枷にかけられた呪いが解ければ良い。そうして見張りが来ない時を見計らって、術の解除を試みた。
時間は少しかかったが、ユリムの腕輪はただの装飾品になった。
カチリと留め金が外れる音がして、ユリムの腕から金属の枷が外れた。表裏と触れて確かめて、術の名残が消えたことを確認するとリョウは再びその腕に装着し直した。
何故ともの問いたげなユリムの視線に小さく笑う。やっと心に少しだけ余裕ができたようだ。
「目くらましになるでしょう? 油断させたままにしておかないと。いざという時動けなくなるから」
向こうの隙をつくにはそのままの方が良い。
そう答えたリョウに、
「そうだな」
ユリムも少しだけ口元を緩めた。
「…それにしても、…ジュツシ…というのはすごいものだな」
感嘆のため息混じりにユリムは再び装着された腕輪の表面を撫でた。窓の向こうを飛んでいたカモメを呼び寄せたのにも驚いたが、その次に現れた鷹と普通に会話をするのにも驚いた。軍関係の犬や鷹と話をするのは知っていたが、それは獣の方が特別に訓練されているからなのだろうと思っていた。
リョウは獣の言葉が分かると言った。それは一方通行ではなく双方向で、互いに意思の疎通ができるのだと。
「向こうにはいなかった?」
サリダルムンドはキコウ石の有名な産地だ。鉱石をキコウ石として作り出すには鉱石処理を行う術師がいるのかと思ったが違うのだろうか。
「石の声を聞く者はいた。それから森の声、川の声を聴く者も」
「そう。多分、その人達なら同じように獣の声が聞こえたのかも」
素養持ちであれば基本は同じだが、術師としてくくるにはその能力は幅広く多岐に渡る。人によっては得手不得手があり、薬師の道に進む者、鍛治の道に進む者と様々だ。リョウの脳裏には王都の学校で学んだ仲間達の顔が過った。家業を継いだ者、弟子入りした者、それぞれが目指す分野で今も己が技を磨いていることだろう。
「聞いたことはない?」
リョウの問いかけにユリムは首を横に振った。
「かの者たちは特別な力を持っていた。近づくことは憚られた」
「隔離されていたの?」
「…カクリ?」
「ええと…そうねぇ、例えば、そういう特別な力を持つ人たちは、普通の人たちが近づけない所に離されていて、気軽に話ができなかった?」
「そうだな。かの者たちの務めは崇高とされていた」
「そっか。純度の高いキコウ石を作る技は秘匿しておきたいものね」
サリダルムンドでは元々鉱石の質も高いのかもしれないが、鉱脈を掘り当てる技など門外不出の技術も独自に確立されているのだろう。そのために技が大事に継承されてきた。
「そういえば、あんたも石の声が聞こえるのだな」
不意にユリムが訊いた。競売の資金作りにと市場近くの裏通りで二足三文で売られていたクズ石を純度の高いキコウ石に変えてみせたことを言っているのだろう。あの時、リョウはユリムの目の前で鉱石処理を行い、ユリムには加工した石を取り出して磨く作業を手伝ってもらったのだ。
「私は偶々そのやり方を教えてもらったから。学校で、術師になるための、ね。今回は上手くいったけれどね」
「学び舎があるのか」
「そう、この国の中心、王都にね。全国から素養持ちの子供を集めて、色々学んで得意な力を伸ばすことができるの。この国で術師と名乗るには資格が必要で、その学校で最終試験に合格すると術師になれるの」
「じゃぁ、あんたもそこで?」
「そう、もうすぐ二年になるかな。当時は十以上も年の離れた子たちに囲まれて…といってもあの子たちからは同化してたって言われるけど」
ほんの一年半程前のことを懐かしく思い出してリョウはどこか遠い目をした。
「国を挙げて保護をしているのだな」
ユリムの感じ入った溜息にリョウは苦笑を漏らした。
「そうねぇ。保護といえば聞こえはいいけれど、囲い込みとも言えなくもない。この国もそれだけ素養を持つ人材を確保しておきたいのね」
国内の政治的な事情をここで話しても仕方がない。そこでリョウは気分を変えるように微笑んだ。
「まぁこういうのは、目には見えないから不思議なものよねぇ」
数年前の自分もそうだった。途中の現象は細かい光の粒子となって目に映る形で現れるが、元々、情念、気持ちとは不可視のものだから。この地を取り巻く大気の流れも、命の流れ、魂の在り方も。その大きな流れの表面に術師は自分の力を同調させて、そこに流れる力を少しだけ借り受けるのだ。大いなる力のほんの一部を使わせてもらうのだ。
この腕輪にかけられた術も、元は術師が施したものだからその技を解くことができるのだ。術師の力は万能ではないが、それでも上手く作用させられれば大きな助けになる。
「私もまだまだ知らないことばかりだから、これからもっと色々なことを学んで知識を増やさなくっちゃ」
そのためにはまずはここから脱出しなくちゃね。
明るい言葉で自分を鼓舞したリョウにユリムもまた少し表情を緩めると一つ大きく頷いた。
「ふん、気楽なものだな」
不意に差し込んだ冷や水を浴びせるような声に振り向けば、部屋の隅の小さな寝台―と言っても細い木の板があるだけのものだが―に片膝をついて腰掛けていたブラクティスが、皮肉めいた嗤いを口元に浮かべていた。
ぎろりと睨みつけたユリムを制して、リョウは敢えてにっこりと笑った。
「ええ。そうじゃなくっちゃやってられないもの。あなたもそこの薬湯を全部飲んでくださいね。無理をするとまだ身体に触るから」
憎まれ口を叩く威勢は戻ったが、ようやく傷が塞がったばかりだ。大人しく売られて、あの男に着いて行くとしても一番の資本である身体が動かないのでは役立たずとなるだろう。
「ふん、お前に指図されなくとも」
ブラクティスは忌々し気に言い放ったが、その視線の先にはまだ薬湯が半分は残っていた。「良薬口に苦し」とは言うが、その薬は一気に飲み干すにはべらぼうに苦く、薬師の意趣返しなのではと勘繰らずにはいられない。リョウとしては秘蔵の凝固処理を施した生のストレールカを大盤振る舞いしてやったつもりであったが、その苦さが色々な意味であの男の薬になれば良いと思ったのも事実だった。
「リョウ」
無理に関わるな。捨て置けとユリムが視線で諭す。
「平気」
この男の存在が今後どう作用するのかは未知数だ。向こうはユリムを憎んでいる。そしてユリムも。この男は武人で、他人を切り捨てることに寸分の躊躇いもない。邪魔であれば簡単に二人を殺すことができるだろう。そうすると腕輪の件も知られないに越したことはない。この男に同じ腕輪が施されてないことが幸いだった。ここにかけられた術のことは知られていないようだったから。
残るは一つ。リョウは自らの腕に光る白金の枷をそっと片手で覆った。
この日の夕方、具のほとんどない汁と硬いパンひとかけらという質素な食事を持ってきた男は、「明日、船が出る」とだけ言い残して去った。
その夜更け、一人の男が訪ねてきた。戸口から一番近い所に横になっていたリョウは床が軋む足音に繰り返される浅い眠りから目を覚ました。室内はまだ暗く闇に沈んでいる。夜明けには遠い。出立の時間が早まったのだろうか。手の届く足元には必要最低限の諸々を詰め込んだ小さな鞄が置いてある。重ねた衣の下、腰にはベルトに装着した短剣がぶら下がっている。いつでも動けるように準備は万端だ。
鍵が外される鈍い金属音に体を起こすと音を立てないよう扉近くに移動した。ゆっくりと戸が開く。僅かな明かりが影と共に入り口に伸びる。足元の長靴は数刻前見たものよりも細めで、見張りとしてやってくる男の足ではなかった。息を殺して目線を上げた先にぼんやりと照らされたのは、薄汚れた白っぽい衣をまとう白茶けた相貌だった。
それを認めた瞬間、リョウの顔に緊張が走った。丘の上の邸宅で見た術師の男だった。かち合った瞳の鋭さに息を飲んで、反射的に一歩下がった所、微かな軋みを立てて更に開いた戸口から男が身体を滑り込ませてきた。突然のことで身体が硬直した。
「……何の用だ?」
同じように警戒を解いていなかったのか、僅かな物音に跳ね起きたユリムが素早い身のこなしで庇うようにリョウの前に立った。
「すっこんでろ、小僧。お前に用はねぇ。そっちの兄貴を寄越しな」
男は手にした小さな発光石を掲げて顎をしゃくる。
ギリと奥歯を噛み締め一歩前に出たユリムにリョウはようやく我に返った。
「私に…何の用ですか?」
ユリムの肩を大丈夫だと撫で下ろし、入れ替わるように前に出た。
「腕のもんを見せな」
リョウが答える前に男はその腕を捕らえると衣の袖を肘へと押し流した。発光石を近づけてそこに収まる鈍い銀色の腕輪を目を凝らして観察し始めた。
「………ッチ」
やがて忌々しげな舌打ちが聞こえた。
「やっぱ薄れてやがる。……あん時か」
一人納得した風に呟くとそのまま細い腕を捻りあげるようにして掴んだ。
「…イッ」
突然の痛みに顔を歪めるリョウを他所に男はそのまま踵を返した。
「来い」
「ちょ、ま……離して……くださ…い!」
力任せに引っ張られて身体がよじれ、足がたたらを踏んだ。
「おい、どこに連れて行く気だ。その汚い手を離せ」
「……失せろ…………」
掴みかかろうとするユリムに男は小さく呪いの言葉を紡ぐと開いた左手を手刀の形にして首に入れた。糸を切られた操り人形のようにガクンとその場に崩れ落ちたユリムにリョウは小さな悲鳴を上げて咄嗟に駆け寄ろうとしたが、腕を掴まれたままでは身動きが取れなかった。
「ユリム! だいじょ……」
反動を利用するように引き寄せられて、ユリムを気絶させた手で口から鼻を覆われた。
「騒ぐな。弟はねんねの時間だ」
耳元を男の囁きが生温く這った。
「じきに起きる。お前が大人しくこっちにくりゃぁ済む話だ」
耳の下辺りをぬっと舌がねぶる感触がして身の毛がよだったが、グッとこらえて男に従った。そのまま部屋を出るように促されて、後ろ髪を引かれるように振り返った先、暗闇の中、崩れ落ちたユリムの白い装束の脇にブラクティスの目が仄暗く光ったのを見た。
感覚的に十数歩。リョウは別の部屋に押し込められた。男の指がぱちりと打ち鳴らされた途端、ぱぁっと周囲に光が溢れた。それは男が手にした小さな発光石から発せられていた。携帯用の小さな石の光がこんなにも明るくなるとは思いもよらなかった。特別な加工をしているのだろうか。
余りの眩しさに目を眇めていると男が小さく笑ったのが震える呼気から伝わってきた。
「便利なもんだろう。こいつはこんなにちいせぇが使い方次第でこの部屋を真昼間みてぇに照らせる」
平坦な声だがどこか得意げで、もったいぶるように小さな石を指の間に挟んで見せた。
「……それもあなたの技ですか?」
「ああ? こいつはまだこっちにはねぇか。まだまだ遅れてんなぁ。向こうじゃ当たり前のもんだぜ?」
「向こう……というのは?」
リョウは慎重に言葉を選んだ。
「お前さんたちを買ったあの男の国だ」
それはどこのことを指しているのだろう。
理解していないことが分かったのか、男は勿体ぶるでもなくすぐに種明かしをした。
「ノヴグラードさ。あんたも術師だろう? こんなしけた国よかよっぽど良い仕事がある。金だってがっぽり稼げるぜ。そうすりゃあの男からもその身体をあっという間に買い戻せる。運がいいな」
そんなことをぺらぺらと喋り出した男の意図をリョウは理解しかねた。
「なぜ…そんなことを?」
「そりゃぁ同じ術師同士、主人も同じと来たら長い付き合いになる。上手くやってくに越したことはねぇ」
とても友好的に見えない男がそんなことを嘯いた。
「生憎、あの男に買われたつもりはない。不当に拘束されただけだ」
だから目の前の男とよろしくするつもりもない。
「はは、そうは言ってもなぁ。あんたらは商品として商いの卓に乗った。で、あの男が金を払ってあんたらを買った。そこは変えられねぇ事実だぜ。その前がどうこうってのは俺たちは関知しねぇしな」
不当に攫われて売りものにされたら従うしかないのか。捕らわれ商品に堕ちた自分たちが悪いのか。そんなことがまかり通っていい訳がない。いかに自由な商いを謳うこと街でもこの国スタルゴラドに属している以上、そこにはきちんとした線引きがあるはずだ。男の論理は到底受け入れられないものだった。
ぐっと唇を引き結んだリョウを男が鼻で笑った。
「あの男は遣り手の商人だ。あの通り羽振りもいい。上手い具合に転がされてりゃぁ良い暮らしができるってもんだ」
それは男なりの慰めなのか。それとも買われた現実を受け入れろと諭されているのだろうか。
「そんなもの、端から望んではいない。あの男のモノになるくらいなら死んだ方がマシだ」
腹の中を渦巻く怒りにキッと男を睨みつければ、
「こりゃぁこっちの方が厄介か」
白いものが多く混じる薄茶色の髪をかきあげて小さく口笛を吹く。
「まぁまぁ、そういきりたつもんじゃねぇ。あんたは術師だ。あの男にとっても使いモンになるから言ってるんだ。じゃねぇと弟が苦労するぜ? お前さんより好戦的で反抗的だ。あのままじゃぁ好きに折檻されてすぐ死んじまう。まぁあのおっさんはそういう趣味があるっつうから、そういう意味じゃぁ良い買いもんをしたのか、へへ。ま、流石の俺も人さまの閨事情なんぞ、知らねぇがよ」
明け透けで下卑たからかいにリョウの腹の内には沸々と怒りが溜まっていった。これからも同じ人質のユリムの存在をチラつかせながらこうして無理難題を出すつもりなのだろうか。術師としてあの男に使われるということはあの腕輪と同じようなことをさせられるに違いない。いや、それよりももっと酷いことも考えられた。
飄々とした口調で次から次へと自分たちを買った男の事情を垂れ流すこの男に薄ら寒ささえ感じた。
「あなたも術師。ならば私が邪魔になるのではないのか?」
一人の主人にお抱え術師は二人も要るだろうか。
いまいちこの男の立ち位置と腹の中が読めず、含みを持たせてその真意を問えば、男の笑みが質を変え、凄みを増した。
「そいつはあんたの力量次第ってところか。でもまぁあんたはまだ若い。こういうのは経験がものをいう」
お前のような小僧にこの俺が負けるわけがないとでも言うつもりか、端から男は余裕だった。
「ならば余計にあの男にとっても荷物になるだろう」
「それを決めんのはあんたじゃねぇ。あの男だ」
「私は術師としてはまだまだ未熟だ。だから今、ここを離れる訳にはいかない。組合にも登録したばかりだし」
やっと場が整い歯車が動き出したところなのだ。
ミールの名を出した途端、男の空気が変わった。
「ふん、笑わせるな。あんな組合なんかに入ったってなんの足しにもなんねぇぜ。決まりきったことしかしねぇ古くせぇ連中だ。いけすかねぇ」
随分と感情のこもった吐き捨てるような言葉はリョウの興味を引いた。
「………ミールを……術師組合を知っているのか?」
「………」
男は忌々しげに顔を顰めただけだったが、肯定と取るには十分だった。そう言えばリサルメフたちは昔の同僚が偽札作りに加担していると言っていた。この男は何か知っているのだろうか。
「技を磨きたいってんなら尚更、ここにしがみつく理由はねぇ。ここよかあっちの方が断然いいぜ」
「ノヴグラードはそんなに術師の技が発展しているのか?」
男は流れの術師としてあちこちを渡り歩いたのだろうか。少なくともホールムスクとノヴグラードの事情には詳しいようだ。
リョウにとってノヴグラードは遠い地だった。この国スタルゴラドと敵対している国でもある。今年の始めまで暮らしていた北の砦は、その防衛上の最前線だった。騎士団員の妻としては心中穏やかでいられない名であることは確かだが、その実体はおぼろげで捉えどころがない。リョウ自身、これまでノヴグラード出の人に会ったことはなかった。
「ああ。先の戦争からこっち、かなり力を入れてる。だから待遇もここよかずっと良い」
この男はかなりノヴグラードを評価しているようだ。
「あなたには向こうの水が合ったということか。だがそれは必ずしも私にとって同じとは限らない。私にはここを離れる理由にはならない」
男は買われた事実を諦めろとその代わり新たな地ノヴグラードで未来を切り開けば良いとでも言うつもりなのだろうか。同じ術師として身の処し方を提案しているつもりなのか。だが、どう見てもこの男が親切心や好意からそのような申し出をしているとは到底思えなかった。
会話はどこまでも平行線を辿った。
「強情なモンだ」
呆れたように吐き出された息に同じ台詞が口から出かかった。
「私を懐柔しに来たのか。あの男に頼まれでもしたか」
もう一度、こんな夜更け、人目を忍んでの訪問の理由を問えば、男はうっすらと笑みのようなものをその口元に浮かべた。
だが、その目は笑っていなかった。
「いや。買われたのが術師ってんで、気になっただけだ」
色素の薄い瞳がじっとリョウを見た。それは術師の目だった。
「おめぇ、その腕の術を解いたな」
その視線がずいと下がる。白い衣の下に隠れた腕輪を暴かれるようだった。
「………」
リョウは答えなかった。だが、つい腕輪を片手で押さえていたことで肯定と悟られただろう。
「やるじゃねぇか」
皮肉げに男の口元が歪んだ。上体が前に傾ぐ。肉食獣が獲物を前に飛びかかる時を見計らっているかのようだった。
「その技、誰に教わった?」
このままだんまりを通そうかと思ったが、明かさなければ引かなさそうな気がした。術師というのは性格的に破綻していたとしても己が興味に対する執着はかなり強い。出方を間違えばこの議論は夜明けまで続くだろう。
「特に、誰かに教えてもらったというのはない。これまでの知識を総動員してどうにかこうにかしたら、偶々、上手くいっただけだ」
元々このような呪縛の術を知っていたわけでもない。
正直に言えば男の眉が片方だけ跳ね上がった。信じていない顔だった。
「では質問を変える。誰に師事して術師になった?」
「特定の師はいない」
ガルーシャの名を挙げることは躊躇われた。
「ああ? こんなとこで嘘ついたって仕方ねぇぜ。術師ってのは一人で勝手になれるもんじゃねぇ。お前はどこで術師になったんだ?」
「王都の養成所で学んだ。述師の資格を得たのもその時だ」
「…へぇ……正統派ってわけか」
男は少し考えた後で意外そうな声を上げた。
「ここで、あいつらに手ほどきを受けた訳じゃぁねぇのか」
あいつらというのが誰を指すのかは知らない。
「この街に来てまだ日が浅い。生憎、知り合いは殆どいない」
この街の術師で知っているのは組合にいる者だけだと言えば、男が嘲るように笑った。
「へぇ、あの狐野郎は知ってるってわけか」
「術師組合の長、リサルメフのことか?」
「あの野郎、今は自分がお山の大将かよ。いい気なもんだぜ。でもま、諦めな。いくらおめぇがあいつらの仲間だってったって、あいつらはおめぇみてぇなひよっこなんざどうだっていいんだ。助けなんざ来るわけがねぇ」
「まぁあの長なら自業自得だと笑うだろうな」
そこは期待はしていないとリョウが肩をすくめて見せれば、男が愉快そうに喉の奥を鳴らした。ここにきて初めて一致した意見はまんざらでもなかったようだ。
「言うじゃねぇか」
話は終わりだと言うように手にした発光石の明かりを落としてゆく。徐々に暗くなる周囲に戸口へと向かう足音が軋む。
「術を……かけ直しに来たのではないのか」
戸口が開き、ぽっかりと闇が覗いたところでリョウは気になっていたことを訊いた。
「そのつもりだったが、止めた。どうせ解くんだろ? なら無駄なことに労力は使わねぇこった」
徐々に青黒さを増す影の中で男は片手を小さく一振りするとそのまま姿を闇の中へ潜らせていった。足音が遠のいてゆく。その場が完全な闇に包まれたところで、リョウは目を閉じ、深呼吸をした。
しばらくして、目が闇に慣れた所で懐をまさぐると中に忍ばせていた小さな発光石を取り出し微かな明かりを灯した。ほのかな明かりを頼りに部屋を出る。辺りをゆっくりと見渡せば囚われていた部屋の扉はすぐ傍にあった。
部屋に戻れば、窓の外は仄白み朝焼けの光が差し始めていた。見張りの言う通りならば、今日ここから出されるはずだ。リョウとユリムにとって決戦の一日が人知れずひっそりと幕を開けた。




