3)術師組合のシェフ
そうやって 何故か和やかな空気が部屋の中を満たし始めていた時のことだった。
不意に微かなノックの音がしかたと思うと同時に入り口の扉が開いた。リョウは薄らと口元に笑みを浮かべたまま、そちらを振り返っていた。
音もなく入って来たのは、膨らんだ紙挟みを小脇に抱えた怜悧な顔付きの男だった。やけに険しい表情をしていて眉間に深い皺が刻まれている。男は室内に居たリョウとその対面で呑気に微笑むミリュイをギロリと睨みつけたような気がした。
男の剣呑な視線をものともせずにミリュイがのんびりと口を開いた。
「あら、フェルケル、早かったじゃないの」
笑みを消したリョウは小さく会釈をした。
「お邪魔しています」
「新入りか?」
ぼそりと抑揚のない声で男がリョウを見下ろした。
「そうよ。またとない掘り出し物なんだから!」
何故か弾むような声で節を付けてミリュイが答えた。
「ほう?」
フェルケルと呼ばれた男は立ったまま、興味深そうに目を細めた。その右の口角が微かに上がる。
「それはとんで火に入るなんとらや……だな」
「ええ。シェフも喜ぶとは思うわ」
「そうか。それは良かった」
「……あの?」
勝手に進む話の方向性が見えなくて、リョウが訝しげにミリュイともう一人の男を見やれば、
「なんでもないわ。こっちの話」
明らかな白々しさでミリュイは含むように笑った。そして、もう一人の男も淡々と顔付きを変えないまま、こう言った。
「気にするな。ここは万年人材不足でな。猫の手も借りたいほどだ。新しい登録者が増えることは歓迎だ」
リョウは、何故か途轍もなく嫌な予感がした。だが、それは余りにも漠然とし過ぎて問い質すことは出来なかった。
「あ、ねぇ、フェルケル。シェフは? 今どこ? 会議が長引いているのかしら? この子、リョウと引き合せておいた方がいいと思うんだけど」
リョウは立ち上がると男に対して名乗り、挨拶をした。
「はじめまして、リョウです」
「フェルケル・タチだ」
抑揚のない声が返って来た。
「シェフはじきに戻るだろう。その前に、ここの説明は済んでいるのか?」
「あはは。まだ。これから」
誤魔化すように笑って脚を組んだまま長椅子から見上げたミリュイをフェルケルは不機嫌そうに睨んだのだが、相手がちっとも悪びれていないのを見て取ると、雑念を振り払うように頭を振り、小さく息を吐いて不問にした。それから室内を大股で横切ると机の上に手にしていた厚い紙挟みを置いてから、再びリョウの前、ミリュイの隣に腰を下ろした。
「ここの仕組みはどれだけ知っている?」
どうやらフェルケルがミリュイに代わって登録後の組合の活用法を教えてくれるらしかった。
最初の質問にリョウは静かに言葉を継いだ。
「何も。この街に来たのは初めてですから」
「そうか」
それからフェルケルと名乗った堅物で気難しそうな男は、淡々とこの組合に登録した際に発生する義務や権利、この組織の利用法を簡単に、だが、的確に教えてくれた。
それによるとこうだ。
このミールに登録した術師は様々な恩恵を受けることが出来る。一般に余り出回らない薬草や鉱石の類が必要な場合、このミールに所属する各組合の然るべき店を紹介してくれるということだ。その受付は、まず自分が所属する組合に申請書を提出して、了承印をもらった後、繋ぎを取りたい組合の元へ行き、紹介をしてもらうのだ。ここで紹介料のようなものは発生しない。ミールに登録した時点で、この組合に名を連ねている全ての業種と繋がりを持つことが可能になり、ミール管轄下の施設などに出入りが自由になるとのことだった。その代わりにミールや各組合から然るべき要請があった場合は、それらに優先的に応じることが求められる。職の斡旋をしてもらった場合は、仲介料をその仕事先か紹介をもらった者が払うことになるということだ。この負担は、各組合によって違うらしい。
「そして、これはここ術師組合に特化したことなのだが」
そこでフェルケルは言葉を区切るとリョウを真正面から見据えた。
「はい」
リョウも同じように真剣な顔をして頷いた。室内の空気がほんの少し引き締まった気がした。
「ミール管轄下の治療院を始めとする施設で、週に一度から二度で良いのだが、奉仕活動に手を貸してもらいたい。単に手伝いで構わないのだが、時節柄、人手が足りなくてな。勿論、これは強制ではなく、あくまでも各自の事情を鑑みて、その自主性に任せた依頼となるのだが」
フェルケルは役人らしい勿体ぶった表現を使ったが、要するに組合の恩恵を受けるのならば、ミールが求める対価―この場合は労働力―を払えということだろう。
リョウは少し考えてから諾と頷いた。
「はい。構いません。都合がつかない場合もあるかもしれませんが、そのくらいならば。無論、ワタシの出来る範囲になりますが」
「ああ。それで十分だ。助かる」
そこでふとフェルケルが声音を変えた。
「きみは、職を探しているのか?」
「ええと。そうですねぇ。今すぐという訳ではありませんが、少し身辺が落ち着いたら、術師として働きたいとは思っています」
言葉を選ぶように考えてからきっぱりと言ったリョウにフェルケルとミリュイは無言のまま目を見交わせて一つ頷いた。両者の間には何らかの合意が見られたようだった。その内容は、当然のことながらリョウには皆目見当がつかない。
そこでミリュイがとっておきの秘密を明かすように楽しげに口を開いた。
「リョウはね、新婚ホヤホヤなのよ。ね?」
「いえ、もうすぐ一年になりますから、そこまで新鮮味はありませんよ」
どうやらミリュイはリョウの身の上話を掘り下げたくて仕方がないようだ。
「まぁ、まだたったの一年じゃないの! 初々しい新妻に決まってるわ。だって、ねぇ。ふふふ。あのペンダントが、あんなに……」
そう言って口に手を当てて含むように笑う。ミリュイはまるで井戸端で集まって洗濯をする噂好きの女たちのように一人想像を逞しく膨らませているようだった。
「いえ、そういうわけでは」
微妙な気持ちのまま肩を竦めたリョウの前で、
「…………新妻?」
何故かフェルケルが動きを止め、少し目を見開いたかと思うと胡乱気な顔をしてリョウを見た。その視線がゆっくり頭のてっぺんから下、長靴の爪先に行き、そしてまた戻る。
「……なんでしょう?」
穴が開くほどの不躾な視線がリョウに降り注いだ。リョウは居心地が悪くなって、ゆっくりと首を傾げた。相手が何に引っ掛かりを覚えたのか分からなかったからだ。
だが、そこで助け船を出したのはミリュイの方だった。
「ああ、フェルケル、勘違いしないでね?」
「勘違い?」
リョウがミリュイの言葉を鸚鵡返しにした反対側で、フェルケルは長い袖の中に隠れていた骨張った手を頤にあてて、「ふむ」と鼻から息を出した。
「リョウだったな」
「はい」
暫し、躊躇うような沈黙が落ちた後、フェルケルが口を開いた。
「きみは、ミリュイと同類じゃないのか?」
その問いはリョウを脱力させるに十分なものだった。
「……………………は……い?」
同類とは何を意味するのだろうか―と思って、そこで辿りついたとある仮説にリョウは半ば何とも言えない気分になりながら、どこか不服そうにフェルケルを見た。ミリュイはニヤニヤと愉しそうに微笑んでいるが、口を挟むつもりはないらしく傍観を決め込んだようだ。
「もしかして……ですね。ミリュイさんの故郷と同じ慣習をワタシの故郷が持っていると仰りたいのですか? それともワタシがミリュイさんと同郷と言うことですか? それとも………」
「違うのか?」
リョウはそこで大きく溜息を吐いた。精神的に酷く疲れた気分だった。思わず頭を抱えるように右手を額にあてがった。
「もう一度確認しますが、ミリュイさんは男性なんですよね」
「ああ」
ちらりと見たフェルケルの瞳は、当たり前のことを何故訊くのかとでも言っているようだった。
「どちらかと言えば、ワタシはミリュイさんとは真逆な感じですかね。この見てくれですからこれまでワタシも散々間違われてきましたが、これでも女です。最近は誤解されることもなかったんですが……」
幾らズボンを穿いていると言っても今は、その上から丈の長いチュニックを着ているのだ。その裾には細かい刺繍があしらわれている。耳飾りだって付けているし、薄らと紅だって刷いている。リョウとしては限られた中で精一杯に女として御洒落をしている積りだった。いや、この目の前にいるミリュイに比べたら、足元には及ばないかもしれないが。それでも。
「…………………」
迫力すらある笑顔で言い切ったリョウにフェルケルは声を失った。
何とも言えない沈黙が落ちたのはある意味、必然だった。
「そうか。それは済まなかった」
微妙な空気を誤魔化すようにフェルケルが小さく咳払いをした。
「いえ。いつものことではありますから」
最後は妙な感じになったが、簡単にこの場所の利用法を教わったことだし、このもらった小さな札と引き換えに登録証がもらえるということが分かったので、今日はさっさと残りの手続きを済ませて退出しようと思い、暇乞いをしようとしたその時、予想外の事態がリョウを待ちうけていた。
―人生は~なんてすばら~しい! ああ、僕に口づけておくれ~♪
重厚な扉の向こうから何やら人の歌声のようなものが響いて来たではないか。静かな室内に突如として聞こえてきた場違いな音楽の切れ端のようなもの。何だろうかと訝しげな顔をすれば、ミリュイは「ちょうどよかった」と微笑み、フェルケルは口の両端をこれでもかという程下げて、苦いモノを口にしたかのような顔をした。
その対照的な二人の態度にリョウは何だか嫌な予感がした。これもこれまで培ってきた勘のようなものである。そしてこういう場合は、不幸なことに大概当たるのだ。
これは一大事。君子危うきには近寄るべからずということで。リョウがこのまま得体の知れない部屋から退避しようとした矢先。
ノックの音も無しにいきなり扉が勢いよく開いたかと思うと室内に吟遊詩人や楽師も顔負けの朗々たる男の歌声が響き渡った。
―タラ~タララララ~ラアー キミを抱き締めよう。僕の美しいひとよ~♪
不意に落ちた痛いほどの沈黙にたっぷり一呼吸置いて。
「ごきげんよう。諸君!」
まるで舞台役者のように両手を広げた男がそこに立っていた。
リョウは、思わず開きそうになった口を慌てて閉じて、突拍子もない節回しで―といってもその歌声は無駄に素晴らしいものだったのだが―歌いながら中に入って来た余りにも奇特な男を見やった。その男は伸ばしたままの長い髪を靡かせて、ゆったりとした術師が好んで身に着けるカフタン風の長衣を羽織っていた。その髪色は、不思議なことに光りの加減で濃紺から黒っぽく変化するように見えた。男は、今にも踊り出しそうな足つきでまるで少女のように室内を軽やかに跳ねながら進むとこの部屋の一方の壁にある、もう一つの部屋への扉だろうか、同じような木彫りの装飾が施された木の扉がある前で立ち止まった。
そして、その取手に手をかけながら、同じような調子で後ろを振り返った。
「ようこそ、我らが術師組合へ。歓迎しよう!」
その男はリョウを真正面から見て不意に真面目な顔としたかと思うとくしゃりと顔面を崩壊させるように微笑んだ。のっぺりとした能面から一瞬にして顔一面に皺が刻まれたのだ。それを崩壊と呼ばずして何と言おう。
一風変わった挨拶を受けたリョウは、余りのことに付いていけなくて立ちすくんでしまった。これまで、それなりに奇人、変人と囁かれるようなアクの強い規格外の人々と接してきたと思ってはいたが、この場に新しく出現した男は、今までにリョウが出会ったことのないような人種だった。鳩が豆鉄砲を食らったように目の前の状況を上手く処理できない。酷く間抜けな顔をしているに違いなかった。まだまだ未知の世界が自分の目の前に深遠な入り口をぽっかりと開けている。そんな気がした。
「さぁ、麗しいお嬢さん。こちらへどうぞ」
男はそのまま次の間に通じる扉を開き、リョウを振り返ってそちらに入室するように促した。しかもミリュイやフェルケルとは違い最初からリョウを「お嬢さん」と呼んだ。
「は…い? あ……の……?」
リョウは戸惑うように立ち上がって、にこやかな笑みを浮かべる正体不明の男を見て、それから室内にいたミリュイとフェルケルを順繰りに見た。その視線は説明を求めるというよりも困惑に満ち、縋るようなものだったかもしれない。
「もう! シェフったら、飛ばし過ぎ。いやね、上機嫌なのは結構なことなんだけれど」
同じように立ち上がってから軽口を叩いたミリュイに継いで、フェルケルが至極真っ当な顔をしてリョウに耳打ちした。
「この術師組合の長、シェフだ」
リョウはちらりと遥か高みにあるフェルケルの顔を見て、それから出来の悪い機械仕掛けの人形のように目を瞬かせた。
「そう……なんですか」
少し頭を働かせれば分かりそうな話ではあるが、最初の衝撃が強すぎて、思考が一時停止状態に陥った。それが漸く動き始める。
「さぁ、どうぞ。こちらで少し話をしよう」
長は変わらず、妙に機嫌よく人当たりの良い笑みを浮かべていた。リョウは、その勢いに飲まれるように頷いて再度確かめるようにミリュイとフェルケルを見た。そして二人が問題ないと言うように大きく頷いたのを見てとってから「ええいままよ」と折り返しの付いた長靴の足を一歩踏み出した。
―さぁ、どうぞ。
手で再び目の前のソファを示されてリョウは大人しくそこに収まった。
術師組合の長、俗称シェフと呼ばれている相手は、痩せぎすの男だった。たっぷりとした袖の長い術師風の服が、だぼだぼと細い針金のような人型に引っ掛かっているみたいな感じだった。顔には日焼けからくるシミが点々と広がり、目尻にも口の周りにも細かい縮緬皺が刻まれていた。若くはないが、それほど老いているという印象もない。術師の常で、長く伸ばした髪を緩く一つに束ねている。その髪色は、少し変わっていて、濃紺のような黒のような不可思議な色合いで、差し込む光の加減によって微細に変化していた。初めて目にする色彩だった。
長い袖から飛び出た男の手には、先程リョウがしたためた申請登録の書類が握られていた。いつの間にミリュイから受け取ったのだろう。
そこで長がゆっくりと口を開いた。
「リョウと言ったね。私はメレジェディク・リサルメフ。ここの組合の長を任されている。皆からはリースカとかシェフとか呼ばれている。まぁ、きみも好きに呼んでくれて構わない。ああ、リースカというのはね。まんまリースから来ているんだよ。ああ、こんな説明を態々する必要はなかったかな。ある時、薬師組合のどうにも鼻もちならない輩がね、私を捕まえてリースに似ているなんて言ったもんだ。私は不愉快で仕方がなかったのだがね、いや、正直な話、リースカとあだ名されたことよりも、あの男にそんなことを言われたことの方が腹立たしかったんだが。だが、何故かその呼び名があっという間にここいらに広がってしまってね。気が付いたら私の名前はリースカの他にないみたいな感じになってしまったんだよ。全く呆れた話だろう? それ以来、私はリースカという訳だ」
何を思ったのか、自らのあだ名の由来を滔々と語ってみせる始末。
この長というのはまた随分と口の回る男だった。どちらかというと寡黙で堅物、融通の利かない学者肌、そして極めつけに朴念仁―術師と呼ばれる人々(特に男たち)は大概がそのような型に属する人々かと思っていたのだが、リョウはここでそれらの認識―または偏見―を改めなければならないのかもしれないと思った。
その間も長の他愛ない話は滑らかな山肌を滑空するように続いていた。
「まぁね。始めは不名誉極まりない呼称だったがね、おかしなもので、今では私自身、妙な愛着を持つくらいにはこの名前と良好な関係を築いているのだよ。だから、きみも遠慮なくそう呼んでくれて構わない」
淀みなく流れていた言葉の川は、緩やかに蛇行した。
一人置いてけぼりを食ったように沈黙したリョウを前に、
「まぁ、そんなことはどうでもいいのだがね」
拍子抜けしたようにそう結論付けるとリサルメフはとってつけたように微笑んだ。
「実はね、リョウ、きみにとっておきの話があるんだよ」
口を開こうとした矢先、リサルメフと名乗った長から先手を打たれてしまい、リョウは開きかけた口を再び閉じることになった。どうも相手の土俵で話が進んでいる。
案内された組合長室らしき部屋は、先程の一室と同じような内装だった。華美ではないが全体的に調和のとれた落ち着いた色合いで、いつこの建物が建てられたのかは分からなかったが、長い年月をかけてゆっくりと朽ちながら熟成された、滅びの終焉へと向かう一歩手前の小休止の穏やかさとでも言うべき甘やかな香りがした。
部屋の真ん中には大きな机が一つ。片側の壁には天井まで様々な種類の重厚な背表紙が並ぶ書物で埋まった本棚が設えられてあり、古い書物特有の少し乾いた紙の匂いがした。棚と反対側の壁には一面に大きな地図が飾ってあった。この大陸、もしくはこの世界の地図だろうか。これまでガルーシャの書斎でも目にしたことのなかったような複雑な形が隆起したり、うねったりと細かな線を描いてその輪郭を浮き上がらせていた。
長が座った執務机の上は綺麗に片づけられていた。脇に平たい箱が二つ置かれていて、其々書類のようなモノが入っている。その他にはインク壺とペンがあるだけだ。机の後方には、低い棚が並び、どこか原始的な雰囲気を持つ木彫りに彩色が施されたお面と同じく木彫りの置物のようなものが置かれていた。
シェフは相変わらず柔らかな笑みを浮かべていたが、リョウにはなにやら胡散臭く見えた。一見、人当たりが良さそうに思えるのだが、相手の話に全く耳を貸そうとせずに自分の言いたいことを話している。それだけで信用ならないと思ってしまった。一体、この男の口から何が飛び出すのだろうか。リョウは再度気を引き締めた。
「きみのような有能な術師に登録してもらえて嬉しい限りだ。今はとにかく色々と忙しくてね。ほら、きみも重々承知しているだろうけれど、術師という輩は縛られることを嫌うだろう? ここにやってきたと思ったら、すぐにふらふらと別の所へ行ってしまう。何とも薄情な話じゃないか」
リサルメフが一呼吸置いた所で、間髪入れずリョウは口を開いた。
「あの、なぜワタシが有能だと?」
これまでリョウは、術師としては目立った活動をしてこなかった。北の砦にいた間連絡を取っていたのは、王都の術師養成所で世話になった講師のイオータとシーリスの義兄でもあるレヌート、そしてユルスナールの実家であるシビリークス家と術師を多く抱える第三師団長のゲオルグ、あとはスフミ村のリューバくらいなものだ。リョウの世界は再び限定的な小さな共同体の中に収まっていた。
「どうして私がきみのことを知っているかって? それは至極簡単なことだよ」
そこでリサルメフはうっそりと目を細めた。リョウの背筋に悪寒のようなものが走り抜けた。口元は笑みの形を象っては入るが、その瞳は鋭利な刃物のように冷たさを秘めていることに気が付いたからだ。だが、その冷たさは一瞬にして消えていた。
「私には親切な友人が数えるほどにはいてね」
“友人”という言葉がなんと似合わない男だろうか。リョウは密かに思った。その心の声が表情に表れていたのかも知れない。リサルメフが心外だとでもいうように片方の眉をくいと上げた。
「私にだって友と呼べる繋がりくらいはあるさ。まぁ専ら私はいいようにこき使われてばかりだけれどね。それはともかく、きみのことは小耳に挟んでいたのだよ。この街にやってくると聞いて楽しみに待っていたんだ」
その情報は一体、どこから、そして何のためにとリョウが緊張に唾を飲み込んだ所で。
「…とでも言えばいいかね?」
あろうことかリサルメフはそう言って人を食ったように微笑んだ。
リョウはどこまでが本当でどこまでが嘘なのか分からくなった。まるで煙に捲かれたようだ。この男は平気で心にもないことを口に出来るに違いない。この時点で、リョウが感知できたのは、それくらいだった。
「ワタシになんの用があると仰るのでしょう?」
無意識に低い声が出ていた。
「おや、そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
そこでリサルメフは小さく笑うと手にしていた紙をひらひらと振った。それは、リョウがしたためた申請書類である。
「この国の王都で資格を取ったくらいだ。無能な訳がなかろうて。つまりはそういうことだよ。ミリュイもそう書いている。ええと、中々の掘り出し物だとね。ああ、これはアレなりの言い方でね。別に他意はないんだよ。アレがこうして同業を褒めるのは珍しいことだからね」
そこで微かに口元を緩めた。
先程の短い邂逅の中で、自分の何が分かると言うのだろう。リョウはミリュイがどうしてそのような判断を下したのか首を傾げた。
その様子を見た長は、小さく声を立てて笑った。
「あはは、リョウ。きみは随分と面食らっているようだね。まぁ、いきなりそのようなことを言われたんじゃぁ、その気持ちは分からなくもないけれど。でもね、早い話が“ここ”が“そういう”場所だということだ」
重ねて告げられたリサルメフの言葉にリョウは益々首を捻った。一応平静は装っているものの鼓動が妙な具合に跳ね上がって、体中の血液が目まぐるしく体内を駆け巡り始めている。集中する時の常で神経が張り詰めて行くのが分かった。
この男は一体、何を求めているのだろうか。
「たとえばほら」
リサルメフの細長い指がだぶだぶとした衣の袖から覗いた。当て所なくくるくると円を描いていたかと思うとその指先がぴたりとリョウの方を向いた。まるで地質調査で水脈を探る方法を試みているみたいだった。
「きみのその細い首には、強い守りがある。きみはこういうことに鈍感なのかな。それども単に頓着しないのかな。そこにある二つの守りが幾重にもきみを取り巻いているのだよ。私には眩しいほどだ。そして性質の悪いことに実に好戦的だ。おいおい、そんなに目の敵にしなくてもいいだろう? 私はこう見えて人畜無害……とまではいかないが、友好的な人間だと心得ているがね。なにも取って食おうというのではない」
リョウの胸元、服の下に隠れているであろう二本のペンダントを指示しながら、リサルメフは飄々と嘯いた。まるでその向こうに存在する誰かに向かって話しかけているように。
リョウは思わず胸元に手を当てた。
「この石が………強過ぎるのですか?」
感覚的に言われていることの意味が良く分からなかったが、長の言葉を借りるように訊いてみた。
「ああ。それと、もう一つあるだろう? 小さな札のようなものが。そちらの方がより強い」
リサルメフは微かに鼻先に皺を寄せて嫌そうな顔をして憚らなかった。
その視線の先にあるのは、やはりキコウ石が付いた指輪と王都で取得した術師の登録札だ。
そこでリョウは不意に小さく笑った。何かを思い出すように。リサルメフが言わんとすることが何となく予想出来たからだ。長の言う“守り”というのは、きっとセレブロが残した加護の切れ端のようなものに違いないと。
ホールムスクへの異動が決まり、その準備のために北の砦からかつて自分が暮らしていたガルーシャの小屋を訪れた際、セレブロがひょっこり顔を出したのだ。小屋の裏には立派な薬草園があったのでリョウは時折その手入れと薬草の補充の為に訪れていた。
セレブロに引越しのことを告げて、ホールムスク赴任中の間は滅多にここに戻って来られないであろうから、その留守の間のことを頼めば、セレブロは何を思ったのか、リョウの顔に―もっと言ってしまえば唇に―鼻先を押し当てて、そこから若干の力を流しこんだ。くすぐったさを堪えていれば、温かい馴染みあるものがリョウの体に広がり、左胸の上に刻まれている加護の印がじんわりと熱を持った。熱伝導が終わり、どうしたのだと訊けば、リョウの旅路が恙無くあるようにとの呪いの一種だとセレブロは言った。
その日、北の砦に戻ってから、いつものように同じ寝台で休んだ夫のユルスナールから、リョウの左胸の刻印が妙に光っていると不思議そうな顔をされたのだが、翌朝には体に馴染んだのか元に戻っていた―というのは余談だが。
セレブロが守ってくれているのだとリョウは思った。相変わらず過保護な所がある魂の半身が施したのだろう呪いにリョウは何だか嬉しくなって、気分が軽くなった。大丈夫。どこにいてもセレブロはこうして傍にいてくれるのだ。夫であるユルスナールとはまた別の意味で、リョウにとって白銀の王である森の長は、温かで大いなる存在だった。
心強く思ったリョウがその登録札を引っ張り出そうとしたのだが、それをリサルメフはすかさず手で制した。
「いや、十分だ。そのまましまっておいておくれ。きみにとっては大事なものであるからね。はぁ、全くきみにはえらいもんが憑いている」
本当に眩しいのか、片手で顔を覆うようにしながらリサルメフが苦々しく言い放った。
「ええとどこまで話したか。ああ、そうそう。肝心の所がまだだったじゃないか」
リサルメフは軽く咳払いをすると机の上で両手を組み、その上に肉付きの薄い顎を乗せた。因みにリサルメフは髭を綺麗にあたっていた。
「きみに訪ねてもらいたい場所があるんだよ。とっておきの場所だからきみもきっと気に入ると思うよ」
「訪ねてもらいたい場所……ですか? どういう意味ですか?」
そして何の為に。
「この先、港の入口近くにミールが運営する診療所のようなものがあってね。そこにうちにも登録している術師の男が詰めているんだ。その男にこれを渡してもらいたい」
リサルメフはいつのまにか机の上に取り出した紙挟みの中から一枚の書類のようなものを引き抜いて、その場でペン先をインクに浸し、さらさらと書きつけた。それを丁寧に三つ折りにして、封書に入れるとリョウが見ている目の前で小さく呪いを唱えて印封を施した。青白い淡い光が一瞬強い光を放ち、拡散するようにはらはらと舞いながら細長い封書を包んだ。
そうして受け取った封書は、薄らと光の膜で覆われていた。それは、もしかしなくとも強い呪いが掛かっている証であった。それだけこの封書が重要であることを意味する。
「なぜ……ワタシに?」
どうして自分が見知らぬ場所で早々伝令のようなことをしなくてはならないのか。 尤もな疑問を呈して唐突過ぎる依頼をした張本人を見やれば、リサルメフは意味あり気に目を細めた。その顔は、あだ名通り、リースカそのものに見えてしまったのは、気の所為ではないのだろう。
「端的に言って、その方が、都合がいいからだ」
それは誰にとって?
「どういうことですか?」
益々首を捻ったリョウに、
「まぁ、そこに行けば分かる。悪いようにはならないから、散歩がてら行ってみたらいい。この街には着いたばかりなのだろう? 明日でも明後日でも都合がいい時で構わないから」
リョウは文字通り狐につままれたような顔をして手にした封書とそこに古代エルドシア文字でしたためられた宛名を見つめた。
そもそもこのような得体の知れない面倒事かもしれない事態に首を突っ込まない為には、その封書を手に取ることを固辞すればよかったのだが、その時、リョウは気が動転していてそこまで頭が回らなかった。お人よしなところは相変わらずだ。
「さて。私の用件は以上だ。済まなかったね。手間を取らせて」
大きな執務机の上でパンと一つ手を打ち鳴らすと、それが合図であったのか、最初に通された部屋へと通じる扉が開いた。視界の隅にミリュイが身に着けていた柔らかな衣の裾が見えた。
「そろそろ時間のようだ」
徐に立ち上がったリサルメフに促されるようにしてリョウもソファから立ち上がった。そのまま背中に手を宛がうようにしてごく自然に室内から出るようにと誘導される。
敷居を跨いだ所で、
「ああ、そうだ」
リサルメフはだぶだぶの長衣の内側に手を突っ込んで何かを取り出すとリョウの手を掴み、その掌に握らせた。
「これがきみのここでの登録証だ。一緒に首にぶら下げるといい」
リョウの掌には、小指ほどの四角くて平たい、まるで木片のような札があった。とても軽い。よく見れば、細かい彫りものが施されている。その端には丸く穴が開いていて、態々ぶら下げる為の金具が通してあった。
リョウは手の中にある小さな木札を眺めながら、片方の手でポケットを漁り、中から一枚の紙札を取り出した。
「では、この引換証は?」
ミリュイの言ではこれと引き換えにここでの登録札がもらえるということであったから。
「ああ、それは向こうに提出してもらいたい。話は通してあるから」
気味が悪いことに、どうやら全てがお膳立てされていたということだ。色々と言いたいことも訊きたいこともあったのだが、それらを一先ず飲み込んで。一刻も早くこの場から去りたかったリョウは、夫や仲間たちが待つ第七師団の宿舎へと戻ることを望んだ。
「では、ワタシはこれで」
最後に軽く会釈をすれば、リサルメフのにこやかな笑みにぶつかった。今ではそれが強かさと腹黒さを隠す仮面のようなものだと容易に推測が付く。その隣には穏やかな笑みを浮かべてひらひらと手入れの行き届いた指先を振るミリュイの姿が。そして、そこからやや離れた場所には、どこか不機嫌そうな顔をした生真面目そうな男、フェルケルの姿があった。
新規登録の申請者が立ち去った室内では、それまでの和やかな空気から一転、リサルメフの顔から張り付いていた笑みが消えた。すると男の顔は、ぞっとするほどに冷めた印象に変わった。これがこの男の本質であるのだろう。しみだらけの顔に微かな笑みが浮かんでは消えた。
「で、結局、行かせるの?」
お洒落に余念がないミリュイが再び爪を磨きながら長椅子に座り、緩慢な動作で脚を組み替えた。
「ああ、勿論だとも」
機嫌良く答えた上司をミリュイは呆れたように流し見た。
「シェフのことだから説明なんてしてないんでしょう?」
その問いに対する答えは返ってくるはずはない。リサルメフは微かに口の端を吊り上げたまま、首を傾げただけだった。
ミリュイは室内にいたもう一人の相棒フェルケルと顔を見交わせると大げさに肩を竦めて見せた。
「大丈夫だ。きっと上手く行くよ。今度こそね」
リサルメフは一人、自信満々に言い切ると、その日に焼けてシミだらけの顔に微笑を浮かべたまま窓辺に寄りかかり、窓の外を眺めた。
切り取られた四角い額縁の向こうには、ぼんやりと青く滲んだ空に大きな白い雲が流れて、一時的に影っていた日差しが再度窓から室内に差し込んだ。リサルメフの長く伸ばした髪が風に揺れ、振り注ぐ春の柔らかな日差しに反射して、紺から青、そして黒、緑へと不可思議な光の帯を作り出していた。