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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第六章 残火の散華
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9)呼び笛


 遥か上空を小さな影がゆっくりと弧を描いて飛んでいた。山の方からやってきたそれは、瘤のように突き出た半島を左手に見下ろしながら緩やかに曲がり、やがて港から川に沿って遡上する。眼下には人の営みが所狭しと並ぶ石造りの建物の中に広がっていた。玩具のような橋や通りを荷馬車や人々が行き交う。その間に時折戯れるように高度を下げては、また上空へと羽ばたいていった。


 当て所なくというよりもどこか探るような様子でそれは飛んでいた。人の世界とは距離を置く、完全なる傍観者であるはずのそれは大きな羽を持っていた。広げれば優に人の背丈ほどにもなるその羽は、空を自由に羽ばたくものの証だ。


『はて…面妖な』

 大きな鷹は小首を傾げた。

『懐かしき音がしたと思いしが……』

 そんな囁きは直ぐに海からの風に掻き消えて行った。

 川を中ほどまで登り、川べりに近い開けた土地のぐるりを屋敷林が囲む建物の辺りを一周したかと思うと鷹は方向転換をし、進路を丘の方へと取った。


 鷹がたどり着いた場所は、丘の上の開けた土地にある軍の宿舎だった。この街に駐屯する騎士団が暮らす場所だ。質実剛健を体現する石造りの宿舎の脇には、厩舎、馬場と鍛練場があった。兵士たちの任務は当番制だ。街の中心部に詰める人員と街中を巡回警備する人員、宿舎で待機する面々も不測の事態に備えて日頃の鍛練は怠らない。

 鷹は迷うことなく宿舎と厩舎の間に建てられた小屋まで降り立つと、外に向かって開け放たれた扉の中へばさりと羽音をさせて舞い降りた。

「うわっ」

 突然のことにか、まだ若い男の驚く声がした。

『これは! リューリクではないか!』

 鷹が降り立ったのは伝令に使う猛禽類を休める為の小屋で、鷹匠の任に就く兵士が詰め、世話を焼いていた。

 室内に設えられた宿り木にいた第七師団の伝令、鷹のイサークは先ほどの若者よりは落ち着いた声を上げたが、その羽は驚きに大きく風を含み膨らんだ。

『おぬし、王都にいたのではないのか。かような所までいかがいたした?』

 リューリクはその昔、王都で任に就いていた古参の伝令だった。二十年前の大戦で相棒となる兵士を失ってからは、軍との契約を結ばずにいたが、それでも王都を離れることはしなかった。その鷹が遠路遥々ホールムスクにまでやってきた。

 イサークは木のテーブルの端に羽を休めたリューリクに詰め寄った。

『なに、偶には気まぐれに旅もよかろうと思うての』

 リューリクは好々爺のように低く笑った。

『されど随分と思い切ったことを』

『さようか? なれどこなたには知った顔もある』

『それがしに会いに来たわけではあるまいて』

『ハハ、まぁそうさな。そなたの顔を拝みに来るには、ここはちと遠い』

『つれないことを言う』

 イサークはやや不貞腐れたように言ったが、リューリクは戯れを軽く流しただけだった。

『それよりも、リョウはおるか?』

 その言葉にイサークはようやく合点がいったように頷いた。

『なんだ、おぬし、リョウに会いに来たのか』

『そうさな。森の長からも言伝を預かっておる。まぁ物見がてら羽を伸ばしに来たまでよ』

 そこでリューリクはようやっと思い出したように小屋の中にいるまだ若い兵士を見遣った。

『して、リョウはどこにおる』

「……リョウ…ですか」

 鷹匠のキリルはどこか拍子抜けしたような声を出した。顔見知りとはいえ、下っ端の兵士がそうそう団長の妻の挙動を一々把握しているわけではない。キリルは記憶を巡らすようにやや険のある眦を眇めた。

「ここ数日、顔を見てはないけれど、今頃だと、大方、港の治療院辺りじゃないか」

 一応、こちら側の宿舎に暮してはいるが、術師として働くリョウの行動範囲はキリルのそれより広いだろう。顔を見たらああいるなというくらいの認識しかキリルにはなかった。

『なんと、薄情な』

 その答えにリューリクは不満げに喉を鳴らし、首を傾げた。

『こなたに来る途中、懐かしき音を聞いたと思ったのだが。何やら切羽詰まったような音であったため、不測の事態かと急ぎまいったが…はてはて面妖な』

『なんと! まことか』

 リューリクの言葉にイサークがずいと身を乗り出した。

『まるでそう、先の戦のようであった』

 思い出すように目を細め、ゆっくりと息を吐いたリューリクにイサークは途端に落ち着きをなくした。

『これはいかに。リョウになにかあったのではないか。キリル、おぬし、尋ねてまいれ!』

「え、俺が?」

『他に誰がおる! こわっぱめ!』

 突然、理解不能な只ならぬ雰囲気を出し始めたイサークとリューリクの二頭にせっつかれて、キリルはなんで俺がと渋い顔をしながらも仕方なく小屋の外に出た。そしてできる範囲で目に入った仲間の兵士を取っ捕まえてはリョウの居場所を聞いてみたが、案の定、誰も知るものはいなかった。皆、口々に俺が知るかという台詞を吐いて、大方港の治療院か組合の方にいるのではないかと言うに留まった。もしくは街中の騎士団の詰所の方ではないかと。

「ここにいないことは確かだな」

 急ぎ小屋に戻り報告したキリルに対し、イサークとリューリクは溜息をついた。あからさまに『使えぬ』という空気を感じ取ってかキリルの眉間に軽く皺が寄る。

『やれやれ、埒があかぬか』

『では心当たりを当たってみるか。なに、飛べはすぐじゃによって』

『そうさな。その方が早かろう』

 今にも羽ばたこうとするイサークにキリルは目を見開いた。

「おい、イサーク、待機中だろ。勝手なことをするな!」

 軍は規律を重んじる場だ。それは伝令の鷹であるイサークにも求められているのだが、イサークにはイサークの優先順位があった。

『なに、案ずるな。これも我らが務め。リューリクの勘を無碍には出来ぬ』

『では、イサーク、案内(あない)せよ』

『是』

 キリルを差し置いて二頭の鷹は話をつけてしまう。

「あ、おい、ちょ、待てって」

 開いた窓からするりと飛び立った二頭の鷹は瞬く間に上空へと高く舞い上がった。二つの黒っぽい影は空を旋回し風に乗って飛んで行く。

「……ったく、どうすんだよ、これ」

 一人残された若き鷹匠の苦々しい声を後に残して。


 二つの影は丘を海に向けて一気に下った。イサークの先導でリューリクは港までやってきた。先ずはリョウが普段厄介になっている診療所を覗いてみようということになった。

 診療所だという小さな掘っ建て小屋のような粗末な作りの建物へ辿り着くとカモメがやたらと騒いでいた。


『…ったく鳥使いがあれぇぜ、ちくしょう。ありゃぁとんだはねっかえりだ。ええとなんてぇいったっけか。ええい、ちくしょう! おうおう、トレーズビィだっけか。あんの呑んだくれの酔いどれおやじかよ。かぁーいやだねぇ。酒くせぇのは、おいらっちはあやまるんだがなぁ。ああいやだいやだ』

 二の足を踏むようにゆらゆらと波の上を飛びながら、やたらめったら悪態を吐くカモメがいる。その周りでは仲間のカモメが好奇心半分、我関せずと言った風に風に乗っていた。


『そこな、かもめ衆、ちとものを尋ねたい』

 突然、上から降ってきた影にのんきに愚痴をこぼしていたカモメがギョッとして飛び退いた。

『うっひゃぁ、なんでぇ、おめぇは、オオタカじゃぁねえか。見ねぇ顔だなぁ。山のあんたが、こんなぁ海っぺりまで来るたぁ、どういう了見さ』

 軟派なカモメのおしゃべりもなんのその。リューリクはすぐさま要件を切り出した。

『リョウという者がこなたに勤めておると聞いたが、知っておるか』

『ああ? リョウだってぇ? 誰だそりゃぁ。ここに術師の人間がいるのは知ってっけどよぉ、名前までは知らねぇよ』

『愛らしいおなごじゃ』

 その言葉にカモメは胡散臭そうにリューリクを見やった。

『あ? 雌だってのか? おいらにゃぁ雄だか雌だか、人間の区別がつくかよ』

『うぬはこの辺りの者ではないのか』

『おう、普段はまぁ川向こうの辺りにいるんだがよ。きょうびは偶々使いを頼まれちまってよぉ。運がわりぃぜ。あんま気乗りはしねぇんだが。まぁ成り行きってやつよ。おお、そうだ。忘れる所だったぜ。ちょいと失礼するよ。先にこっちを済ませちまわねぇとな』

 そう言ってカモメが小屋の窓の方へと近づいた時だった。

 突然、大きなガラス窓が開き、中から男の酒焼けした唸り声が響いてきた。

「さっきから、ぎゃぁぎゃぁうっせぇぞ! このやろう」

 片手に握った酒瓶を脅すように大きく振り上げて、窓から身を乗り出した男の相貌は野卑の一言に尽きた。経験上様々に「むくつけきおのこ」を見慣れているはずのリューリクさえも顔をしかめたくなるような有様だった。

『やれやれ、ほんに、リョウはこやつの下で働いているのか』

 窓の側、屋根の上に降り立ってぼやいたリューリクの言葉を男は聞き咎めた。ぐびりと手中の瓶の中身を呷ってから、挑むように睨み上げた。男が獣の言葉を解する素養持ちであることは不幸中の幸いだろうか。

「ああ? 見ねぇがんだな。第七の鷹か?」

『リョウはおるか?』

「あ? リョウだぁ? 今日はいねぇぜ。出直すんだな』

 興味が削がれたようにふいと片手を振ってそのまま奥に引っ込んだ男を追いかけて、リューリクはふわりと大きく開いたままの窓枠に降り立った。

『どこにおるか、知っておるか?』

「ああ? んなの知るかよ。おれはあいつの子守じゃねぇぞ。そういうがんはおまんとこ(第七騎士団)で聞け』

 ふんと鼻息を荒く鳴らしてどっかと粗末な椅子に座った。

 そこへ不意にカモメが口を挟んだ。

『おやっさん、あんた、トレーズビィってんだろ。おめぇさんに言伝があんだよ。すっかり忘れるとこだったぜ』

「ああ? カモメが俺になんだってんだ」

 トレヴァルは訳が分からんと顔をしかめたが、カモメはそのまま続けた。

『おめぇさんとこの…ああと、なんつったかな…ええと…なんだ、名前、忘れちまったじゃねぇか。わけぇのがいるだろ。そうそう、黒い眼をしたやつがよ』

 カモメの脳裏にはやたらと必死な黒い双眸が思い出されていた。日の光を浴びて時折煌めくそれは鈍い鉱石の輝きのようで、あんな真っ黒なもんがここいらの人間にもあるもんだなぁと不思議と記憶に残ったのだ。その目に気を取られていたせいか、その他、例えば顔立ちのことはほとんど覚えていなかった。

「黒い目?」

 話半分聞き流していたトレヴァルの顔が不意に窓辺へ向いた。カモメはそれに促されるように記憶の断片をどうにか搔き集めて少し前の出来事を思い出そうとした。ぼんやりとした輪郭に所々はっきりとしたものが混じる。

『おうおうそうだ。真っ黒の目と……髪もそうだったか、なんつーか、しゅっとしたやつ。鼻ぺちゃ…だったか、平たい感じの。分かるかい? そいつがええと…なんだったっけか』

 そこまで思い出したは良いが、肝心の所が出てこない。カモメはまたもや記憶を探るようにくるりと首を回した。

『よもやリョウのことか?』

 カモメの描写する人物にリューリクが反応した。

『おぬし、リョウに会うたのか?』

『ああ、そうだそうだ。なんでも人買い…っつったか、そういうがんに捕まっちまったから、知らせてくれってさ。いやぁ人間ってのはおっかねぇなぁ。ここいらの商人はえげつねぇってのはおいらも聞くがよう。売りもんになんなら何でも、おんなじ種族でもうっぱらっちまうんだからよぉ。恐れ入るぜ』

「はぁ? 人買いだと?」

 トレヴァルの声が鋭くなった。

『最初は騎士団の奴らって言われたんだけどよぉ、おいらっちには馴染みじゃぁねぇから、分かんねぇっつたんだ。そしたら術師だ、ミールがうんたらかんたらってさ、小難しいこと言いやがるから、もう訳がわかんなくなっちまってさ。で、どうにか、この小屋があったのを思い出したってわけよ。おいらだって伊達にそこらをふらふら飛んでるわけじぁあねぇってことよ、へへん。そいつを言ったらよぉ、ここんとこに詰めてるおやじに言付けてくれってさ。で、仲間のカモメがおやじのことを知ってるっつうからよ。こうして来てみたってことよ。つーか、ホントに酒くせぇなぁ。漁師のヘムじぃさんとどっこいどっこいじゃねぇか。あ~いやだねぇ』

 調子よくぺらぺらとおしゃべりを続けるカモメを他所に、

『なんと。ではやはり、先ほどの音は』

 火急を知らせるものであったかとリューリクは合点した。

『イサーク』

 すぐ傍らで控えていた第七所属の伝令の鷹を見上げ、その視線を合わせる。

『ああ。急ぎ知らせねば』

『我はこのままこやつと現場に向かう』

『それがしは第七に』

『では』

 頷き合った二頭の鷹がその羽を大きくはばたたかせて飛び立った。

『うひゃぁ、今度はなんだよ』

 それにカモメが驚いた。

『そこなカモメ、案内せよ』

『はぁ? どこにさ?』

『おぬしが言伝を預かった場所だ』

『あ? なんだっておいらっちが』

 自分の役目はもう終わったはずだとカモメは嫌そうにぼやいたが、

『つべこべ言うな。我らが同胞の一大事じゃ』

 剣呑な空気を出すオオタカの迫力にたじたじとなった。

『うわぁ、分かったって。なんだってんだ、チクショウ。そこまで行くだけだからな。その爪、しまってくれよ。ったくついてねぇなぁ。スグリのチンケな実が高くついたぜぇ。後で見つけたら差額を要求してやっか。魚くれぇ食わせろって』

 それからすぐに年嵩の鷹はカモメをけしかけるように海側へ飛び立った。それを合図に片方の鷹も真っ直ぐにモザイクが広がる広場へと向かった。

 大小三羽の羽ばたきを窓の外に見送って。一人残される形となった人間は、突如として沸いたつむじ風に翻弄されたような気分で大きく息を吐いた。

「おいおい、言いたいことだけ言いやがって。なんだってんだ」

 トレヴァルはぞんざいに髭が伸びた頬をがしがしと擦った。手にしていた酒瓶をとんと粗末なテーブルの上に置く。

「あんのじゃじゃ馬が。いらんことに首突っ込みやがって」

 ―俺にどうしろってんだ。

 ぼやきつつもこれからの算段を軽くつけたトレヴァルは診療所を後にした。 



***



 その頃、時を前後して。

 足を踏み入れた先でユルスナールを迎えたのは、当たり障りのない微笑みの下に上手く隠された物珍しさと好奇の視線、そこに僅かながらの敵意にも満たない不信感と反発のようなものだろうか。水と油はけして溶け合うことはなく分離する。そのような場所に赴いているという自覚はあった。ただ、ユルスナールにとっては周囲の感情など些末なことだ。領域侵犯ではない。用がなければ足を運ぶこともない。ただそれだけだ。

 ユルスナールは真っすぐに総合受付へと向かった。これまでここには何度か足を運ぶ機会があったが、その時に訪問したのは最上階の大会議室とその最奥にある組合長の執務室だけで、今から訪いを入れようとしている場所を正確には把握していなかったのだ。受付台で応対に出た線の細い老年の男に術師組合の場所を尋ねれば、男は人好きのする柔らかな笑みを浮かべて、向かって右側の階段を二階まで上がりそこから角を一つ折れたところにある一室を告げた。ユルスナールは男に礼を言うと階段に向けて足を踏み出した。


 流れの傭兵に身をやつして潜入捜査をさせていたブコバルとロッソの二人から伝令となる獣の用立てを依頼されたのは一昨日のことだ。その日の内にリョウに話しを通しておこうと思ったのだが、夜になっても術師の妻は出掛けたきり丘の上にある騎士団の詰め所には帰ってこなかった。

 先の港で起きた帆船火災の折以来、ホールムスクの街はなにかと騒がしい。リョウもあの事故に術師として関わり、夜通し治療院で怪我人の手当てに当たった。あの時はユルスナール自身も騎士団長として指揮、状況把握に忙しかったが、周囲に自警団の男たち、港のミール関係者もいたためリョウの不在を取り立てて不安に思うことはなかった。翌朝その足で治療院を訪れて、己が妻の無事を確かめたのは事実だが。

 リョウはこれまでにも事情があれば必ず騎士団へお得意の伝令を使って伝言を残すことは欠かさなかった。そんな妻が何の知らせも寄こさず、一晩帰ってこなかったのだ。

 ましてやリョウは一人ではなかった。宿舎で保護し日頃から世話を焼いていたサリドの民、ユリムの姿もないという。世の夫婦の形は様々であるし、平時ならば、良い大人だ、たかが一晩くらい妻の行方が分からないくらいで騒ぎ立てるなど夫として情けないという見方もあるやもしれない。ただ今回は軍人としての勘がユルスナールに小さな警鐘を鳴らしていた。嫌な予感がすると。


 あの日、リョウは朝からユリムと出かけると告げていた。行先は術師組合だったはずだ。宿舎で共に朝食をとった後、夫の身支度を手伝いながら、夕方までには帰ると笑顔で話していた。最近のありふれた日常に続く一日になるはずだった。ユリムという弟分を得てから、なにやらここ数日は妙に張り切っている気がしないでもなかったが、術師としての足場を見つけ、少しずつこの街に馴染み始めたからこそのことだろうと深く追及はしなかった。それぞれが仕事を持ち日中は離れている時が長いからこそ、帰宅してからの夫婦の時間は大切にしてきた。この街のこと、仕事のこと、話せる範囲でお互いに情報交換は欠かさなかった。リョウは元々隠し事の出来ない性質だ。後ろめたいことがあるならば、その表情から分かったはずだ。なにか見落としていた点はなかったか。ここ数日の妻の顔を思い描きながら廊下を歩けば、目的地はすぐだった。


 述師組合のドアを叩いて訪を入れるといつぞやの宴で見知った顔が応対に出た。煌びやかで派手な出で立ちをした男と神経質で身持ちの固そうな男。対照的な二人だ。二人はユルスナールの姿を認識すると一瞬表情を引き締めて素早く目配せをした。普通なら気が付かなかったかもしれない。だが軍人として培ってきた慧眼はその変化を見逃さなかった。恐らく手掛かりはここにあるのだろうとユルスナールは踏んだ。


「突然、邪魔をしてすまない」

「あらあらまぁ、どなたかと思ったら、第七の団長さんじゃぁありませんか? どうしたんです、一体」

 以前ミリュイ・ツァーブと名乗った派手な男が、その台詞とは真逆の落ち着き払った態度で訪問者を招き入れた。もう一人の寡黙そうな男―確かフェルケル・タチと言ったか―は静かに目礼を返す。

 薦められたソファに腰を落ち着けてそこそこに、

「単刀直入に聞きたい。妻の行方を知らないか」

 ユルスナールは切り出していた。しんとした静けさの余韻の中、低く押さえたはずのその声はよく通った。

 ぎこちない沈黙の中、ミリュイとフェルケルは素早く目配せをし合った。机から立ち上がったフェルケルがミリュイが座る椅子の隣に立つ。化粧をした男の艶めく唇からゆっくりと長い息が吐き出された。

「…リョウったら、行き先を告げなかったんですね」

―それはどういうことだ。

 ユルスナールが口を開きかけた時、

「ミリュイ、そんなところでする話でもない。ちょうどいい。こちらへ来てくれないか」

 隣の一室から男の声がかかった。よく見ると薄く扉が開いており、微かな衣擦れと椅子の軋む音が人の気配を濃厚にした。

「…シェフ」

 頭を表す隠語を口にして、素早くフェルケルと目を見交わせたミリュイは整えられ彩色の施された指先で眉間を揉むようにしてから、

「まぁ…そうよね」

 諦めたように溜息を吐いて立ち上がった。

「どうぞ、こちらへ」

 そう言って続きの間へと案内した。


「やぁ、初めてお目にかかるね。君がスタリーツァ仕込みの美丈夫か」

 ―確かに面影がある。なるほど、これは確かに女たちが放って置かないわけだ。


 立ち上がってユルスナールを迎え入れたのは、ゆったりとした長衣を重ね着した男だった。一見、穏やかなようでいて相手を突き放し高みから観察し見極める眼差しに細かい皺に縁どられた瞳の奥は冷ややかで、世捨て人のようでもあった。

 ―懐かしい。

 思わず刷いた酷薄そうな笑みに出かかった言葉は喉の奥へと逆戻り。

 その佇まいには既視感があった。かつて親交のあった述師の男がそういう雰囲気をしていた。捻くれ者で口が悪く、いつも世の中を斜めに”視”ていた変わり者と目されていた。人間(じんかん)を忌避し、諦め、人との交わりを自ら捨てた男が、最後、その懐に他人を抱え、その者の行く末に心を砕いたのは大いなる矛盾だろうか。いや、そうではないと今なら理解できる。遠ざかってもなお、心の奥底のどこかで繋がりを渇望し、絶望の中に小さな希望の火種を見つけだしたいと足掻いていたのではないだろうか。そんな男、ガルーシャ・マライの遺したささやかな望み―と言ったら、当の本人は草葉の陰で馬鹿を言うなと鼻で笑うだろうが―そのガラクタに埋もれた宝物を引き継いだのは、不肖ながらも弟子としての関りを持ったユルスナールだ。そうして手に入れた大切な存在が今、目の前で揺らいでいる。


 故人を思い出してか、初対面にも関わらず儀礼的な笑みの中に滲んだ親しみとも取れる色合いに術師組合の長として名乗ったリサルメフは器用に片眉を引き上げたが、何も言わずに握手を交わした。

 その傍らには床から天井にかけて伸びる天然の木材の形をそのまま活かした大きな宿り木のような設えがあり、二股に分かれた飴色に光る枝振りの先端にはそれぞれ見事な鷲と鷹が留まっていた。ぴくりとも動かぬ二頭の猛禽はよく出来た剥製の飾りのようにも見えた。

 不意にそのうちの一羽と目が合う。白い頭をした鷲には見覚えがあった。ユルスナールの目が対となる者を探すように部屋を隈なく照射する。すると戸棚の隅、影が色濃くなったところに馴染みある姿がぼんやりと浮かび上がった。

「ルーク」

 微かな吐息に乗せた囁きに、

「よぉ、大将、久しいな」

 応えが返ってくる。その途端、掻き消えていた気配がゆらりと影にように立ち上った。

 影の諜報部隊チョールナヤ・テェニィに属する男。元より神出鬼没だったが、どうやらホールムスクにまで足を伸ばし、ここの長とも知己のようだ。彼らを束ねる王都のアタマンもこの地を気にかけている。その事実に改めて気が引き締まる思いがした。

「あんたんとこの姫さんも少しはぁ落ち着いたかと思ったんだがねぇ。ここでやってくにゃぁちと能天気が過ぎるようだ」

 ルークは見てきたように言った。

 鋭い、だがもっともな指摘にぐうの音も出ない。

「ご忠告痛み入る。ただ生来の性分はそう変えられぬものだ」

 ユルスナールの言葉に苦々しさが混じった。

 リョウが生まれ育った国はこことは全く違う場所で、血生臭いあれこれとは無縁の生活だったと聞く。たかが数年でそれまでの意識を簡単に塗り替えられるとは思わない。その代わりふらふらと迷子にならないように繋ぎ止めるのは夫である自分の役目だった。

「リョウはここで何か特殊な役目を?」

「君には全く伝えていなかったのか」

 ユルスナールの問いかけにリサルメフは意外そうな顔をした。てっきりこちらのことなど騎士団に筒抜けだろうと踏んでいたのだが、その辺りはリョウにも線引きがあったのかもしれない。それもあのサリドの一の君のためだろうか。

「行き先は術師組合だとしか」

「やれやれ、あれにも困ったものだ」

 お人好しも度がすぎると面倒なことこの上ない。それでも危ない橋を渡るという自覚はあったのか。もしかしたら心配かけまいと気を利かしたつもりなのかもしれないが結局はそれが裏目に出た。まぁリサルメフとてあの二人が無事に戻ってくるかどうかはどう楽観的に見積もっても半々と見ていた。真っ当な正義感や倫理観など通用しない。相応の覚悟があったとしてもそれを上回る狡猾さ、したたかさがなければ、あそこに渦巻く欲望にたちどころに飲まれる。そういう場所だと知っていて行かせた。

 ―先が思いやられる。

 大業とも言える呆れた溜息に生真面目な騎士団長殿は居心地悪そうに目を伏せた。妻の不手際は自分の責任と感じているのか。

「その辺りは…申し訳ない」

「あらあら、団長さんもリョウのことになるとすっかり形無しね。ふふふ」

 平生の軍人としての威厳も妻が絡めばからきしになるとからかうように喉の奥を鳴らしたミリュイにフェルケルが嗜めるようにその名を呼んだ。


 雰囲気が妙な具合に緩みかけたのも束の間、二頭の猛禽が一斉に警戒の声を発し室内に新たな緊張が走った。

 間をおかずに荒っぽい音がして向こうの部屋の扉が開いたかと思うと酒焼けしたダミ声が鳴り響いた。

「おい、リースカ野郎! いるんだろ! 出てぇきやがれ!」

 雷が落ちたかのかのごとき大音声がびりびりと決して広いとは言えない部屋中に反響する。

「ったく、くっだらねぇこと企みやがって。おまん、なにしゅうつもりだ!」

 苛立ちで顔を赤く染めた男は港の治療院を預かるトレヴァルだった。これまで一度たりともミールのましてやこの部屋に足を踏み入れたことなどなかった男が怒鳴り込んできた。

「騒々しいねぇ。なんだい突然。そんな大きな声を出さなくとも十分聞こえるよ」

 リサルメフは相手の剣幕をするりとかわして嫌そうに片手を振った。

「すっとぼけんなこんちくしょうが」

悪態をついたトレヴァルの視線が室内をぐるりと見渡す。

「あ? さっきの鷹の片割れがいるじゃぁねぇかよ。つーことは話はもう付いてんのか」

「すまないね。ヴィーにリューリク、この男は礼儀を知らない輩だ」

 リサルメフの嫌味は素通りして、その視線が特徴的な銀色の髪に止まる。

「あ? それにおまんは…リョウの旦那か。なんでぇ、やっぱり俺が来るまでもなかったってことかよ、ちくしょう。そこの鷹が人買いに捕まったなんて言うから、てっきりおまんがまたリョウをだまくらかして要らんことに巻き込みやがったかと思ったんだが……」

 ギシリと長靴の底が軋む音がした。

「……人買い……だと?」

 瑠璃色の瞳が驚きに見開かれ、すぐに細められる。ユルスナールのまとう雰囲気が瞬時にして変わった。


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