8)隷属の腕輪
「ウ……アァア…ア」
突如として上がったうめき声に振り返れば、ユリムが苦しそうにその場に崩れ落ちていた。左の手首を右手で掴み、堪えるように背中を丸める。
「ユリム!」
逃げようと窓辺に駆け寄ってガラス窓を開けようとしていたリョウは、慌てて蹲るユリムの元に引き返した。瞬時、左腕にぴりとした痛みが走った。
「大人しくしていた方が身のためだ」
男が冷ややかな笑みを浮かべ歩み寄ってきた。男の手が後ろの方に合図を送る。するとどこに潜んでいたのか、くたびれた旅装に身を包んだ第三の男が足音低く現れた。頭部に被った布からはみ出ているのは柔らかそうな白濁した茶色の髪と皺の刻まれた尖った顎と鼻。その上の部分は影となって表情などは窺えない。ただ全体的にくすんだ白という印象を受けた。だらりと下げた腕の下、袖から出た指先が小さな弧を描くように振れていた。血の気の薄い唇が微かに動いている。
「その腕輪は特別なものだ」
痛みを堪えるように左手首を抑えたユリムの手元から微かな湯気のような白い靄が立ち上っているのが見えた。その靄がねっとりと腕を這い上がり、首に到達すると絡みつくように回る。まるで意志を持つ蔦のようにぐるぐると頭部全体を包み始めた。
「……ッツ……」
ユリムの喉から引き攣れたような音がした。
「逃げようとすれば、そのように苦しむことになる」
これは術師が施す術の一種だ。リョウは咄嗟に理解した。ユリムと初めて出会った時にその腕にはめられていた枷も簡単に外れないようにと特殊加工をされたもので、その生成に術師が介在していた片鱗があった。これはそれをもっと高度で複雑にしたものだ。術をかけた本人か、それを上回る力量と持った術師でない限り、解くことができない。リョウの左腕にもピリピリとした感覚が走ったが、ユリムが苦しみ悶えるほどの痛みはない。自分の左手首に同じような白い気は見えなかった。
何故だ。逃げようとしたのは同じだ。この差はどこから来るのだろう。リョウは咄嗟にユリムの左腕を掴み心の中で、思いつく限りの解除の呪いを唱え始めた。
ホールムスクに来て、ミールで活動するようになってからこれまで王都で学んだ祈祷治癒とはまた異なる様々な術の使い方があることを知った。それが人の聴力や視力に一時的に働きかけるいわば目くらまし、結界のような技だった。これはリョウが知る、物を強化させるといった保存・防御の技ではない。刃の切れ味を一時的に高めるような技でもない。それよりも更に数歩踏み込んだ攻撃的な術だった。働きかける対象に人の持つ悪意を乗せる技だった。呪いと似たようなものだ。
こんなことに術師の技を使うなんて。自分が学んできたことと真逆の使用法に怒りとやるせなさを感じたが、それをすぐに引っ込めて、まずはユリムの苦しみを取り除くことに集中した。これも同じ述師の作ったものだ。素養を持つ自分にならばどうにかできるのではないか。祈りの文言を紡ぎだした瞬間、ビリリと反発するような痺れが指先を襲ったが耐えた。やがてリョウの手が触れた所から柔らかな青白い光が現れると徐々に白い靄のようなものを飲み込んでいった。苦しみに歪むユリムの表情が少しずつ落ち着いてくる。強張った体の力が抜けてきた。そうして靄が全て消えると急に咳き込み始めた。
「大丈夫?」
背中をさするリョウにユリムは喉に手を当てながら浅く頷いた。
「ほう?」
男が興味深そうな声を上げた背後で、
「術師か」
第三の男が忌々しげに舌打ちをした。
***
「ダスマス」
不機嫌さを滲ませた男の声に草臥れた旅装の男は微かな反応を示した。
「アレを完成させたのではなかったのか?」
貴金属に貴石をあしらった白銀の腕輪。あれは単なる装飾品ではなかった。身に着けたものを操り、戒める為の特別な枷だった。男の国では俗に「隷属の腕輪」と呼ばれていた。その腕輪を所有する者の意に反した行動を試みた時にそれを物理的な攻撃で戒める作用をした。
先ほど人買いを裏商いとして営むオフリートの邸宅で取引相手となった男の名はヘルソンと言った。隣国ノヴグラードの出身の元武人だ。平民出の叩き上げの軍人だったが、二十年前のスタルドラドとの戦で武功を上げ、多額の恩賞金をもらい、貴族の末席にその名を連ねることになった。今は商いにも手を出し、そこそこの成功を収めていた。ホールムスクを訪れた目的も商いにあった。
遥か昔、スタルドラドから袂を別ったノヴグラードでは、野心溢れる王の下、先の戦の前から、術師の力を軍事利用するための研究が進んでいた。尋問で情報を引き出す時の有効な手段として、時に苦痛を与えつつ心身を操る術を導き出したのもその成果の一つだった。ノヴグラードでは国内外を問わず術師を招聘し、様々な研究分野に金を出し協力を仰いだ。時にそのやり口は強引だったと言われているが、術師たちは対価としてそれなりの報酬を得ていた。ノヴグラードでの術師の地位はスタルゴラドに比べて高かった。術師を生業にしていたダスマスもその金に釣られてノヴグラードに渡った口だ。異国で技を磨き、金を積まれればどんな依頼でも受けた。良心だとか信念だとか、そういうものはこれっぽちも持ち合わせていなかった。そういうくだらないことに煩わされない実力主義のノヴグラードの空気はダスマスに合っていた。様々な依頼を受けるうちにダスマスの術師としての評判も徐々に上がり、その中で縛られることなく各地を気のままに放浪する流れの術師であった男が、ノヴグラードで束の間の宿り木を見つけた。それがヘルソンという男だった。そして今、ダスマスは、ヘルソンに雇われる形でホールムスクに共に来ていた。
「術はちゃんとかかっていた」
ダスマスは低く答えた。術式は完璧だった。だから二人の前であの腕輪をはめた小僧は苦しんだではないか。それをヘルソンも目の当たりにしたはずだ。
「一つ分か?」
だが、もう片方の兄の方はけろりとしていた。それどころか、なにやら怪しい光を出して術を消したようにヘルソンには見えた。
懐疑的な声に術師としての自信が刺激され、ダスマスは即座に男の言葉を否定した。
「それはない。二つともにきちんと作用した」
「では…なぜ?」
片方には効果が表れなかったのか。元武人らしく間髪入れずに急所を一刺しした雇い主に、ダスマスは奥歯を噛み締め屈辱を逃した。考えられる理由があるとすれば、あの者が術師であるからだ。それもダスマスと同じくらいの高い素養を持つ者だ。ダスマスのかけた術はそれなりに高度なものだった。並の術師ならば精々枷の硬度を上げるか、重さの負荷をかけるかぐらいなものだ。それが反発し、相殺されたどころか、弟にかかっていた術を一時的でも飲み込んだ。こんな屈辱を味わったのは、あの男以来だ。
「あれは素養持ちだ」
「ほう?」
ヘルソンの声が色を変えた。そそられたように目が細められた。その下で働きだすのは商いの勘か、それとも武人としての勘か。そうだ、この男は術師にも興味があった。有能で使える、自分の意のままになる術師を探していた。今回は、いつもの悪い癖が出て、折角ホールムスクに来たのだから何か珍しいモノが売られていないか見てみようとかつてここで曲がりなりにも術師として活動していたダスマスの伝手を使い、この邸宅を訪れた。この邸宅は表向き酒類を扱うミール所属の商人オフリートが、裏取引の為に使う交渉の場だった。ここで商われる商品は、生もの、人間だ。外見を磨かれ、専ら色子として取引される。様々な理由で富を求めてやってきた者たちの欲望が澱となって溜まった場所、そのなれ果ての姿だった。
男が買い求めたのはかねてより興味があったサリドの民だった。遥か遠い地の先、山間にひっそりと暮らす民は、このスタルドラド同様、男の国でもほとんど知られていない。庶民にとっては夢か現かも分からぬお伽話の一節のような遠い世界の話だった。ヘルソンがその存在を知ったのは、商いを通してだった。流通量はわずかだが良質なキコウ石の産地として知られていた。武器、武具の元となる鋼の生成に欠かせないキコウ石は高値で取引される。実際にサリダルムンド産と言われたキコウ石を手に取る機会があり、ヘルソンはその質の高さに目を見張った。
何がきっかけでそのような民を買い求めようとヘルソンが思ったのかは分からない。そんなことはダスマスには興味もなく、関係もないことだった。男の性癖に端から口を挟むつもりもない。物好きなものだと捨て置いただろう。だが、そのうちの一人が素養持ちで術師であったならば、話しは別だ。ダスマスよりもあの若造の方が使えるとなったら、自分はお役御免となる。
―クソッ…
ダスマスは心の中で悪態を吐いた。
この街はまたしても自分に唾を吐きかける。十年前のように。脳裏にちらついたいけ好かない狐野郎の顔を頭を振ることで隅に押しやった。失った指先がまるで十年前のあの日を責めるように再び疼いた。
「それはまたとない掘り出し物だ」
ヘルソンの声が心なしか弾む。
「ダスマス、あの術を強固にできるか?」
前回のように、あれはオフリート側の手落ちだったが、途中で逃げられるなどという失態は御免だ。
「ああ」
しっかりと手懐けて反抗心の起こらないようにその心を懐柔する。人の心は厄介だ。感情というものは容易く相手を裏切る。だが、それを少しずつ手間をかけて自分好みに仕立て上げるのが醍醐味でもある。心が無理でも先に体から落としてゆくのもありだろう。人間は快楽にも弱い生き物だ。そして苦痛にも。そうして逃げるなどという気が起きないようにどろどろと甘やかして溶かしてしまえばよいのだ。ああ、あの二人はどんな素顔を見せてくれるだろう。弟は明らかに勝気で反抗心も強そうだが、兄も中々に手強そうだ。あの二人は互いを大事に想っている。そこを利用すれば案外手綱を握るのは難しくないかもしれない。
「これから忙しくなるな」
ヘルソンはこれからの予定をざっと頭の中で思い描いて乾いた唇を舐めた。一方ダスマスは、敵愾心を刺激され先ほどの術をどうやって強化しようかと思いを巡らせた。
***
厄介なことになった。リョウは自分たちにはめられた白銀の枷を暗鬱たる思いで見つめた。術がかけられている。外そうとすればそれが身に着けたものに害をなす。ここに込められているのは、呪いだ。反発するものをそれ以上の力でねじ伏せようとする悪意の塊だ。これで下手なことはできなくなった。この術を解くことができるだろうか。反発して終わりかもしれない。でもできるだけのことはやってみなくては始まらない。ただ先ほどのユリムの苦しみを見るとうかつに手は出せない気もした。
どうする。やるなら一発で決めなければならない。ここに込められた呪いを弾き返すには何が必要だ? ガルーシャの残した研究の中にこのような技についての記述ががなかったか。リョウの脳内をこれまでため込んだ情報が高速で巡り始めた。
あれからリョウとユリム、二人の身柄は人買いの邸宅から場所を移されていた。怪我をしていたブラクティスも一緒だ。昨晩から寝込んでいたが、今朝方までにどうにか傷口は塞がったようで、薬を塗りかえて包帯をきつく結びなおせば移動可能と判断されたようだった。移動には再び船を使った。船に乗り込むと両手は後ろ手に縛られ目隠しをされた。どちらの配下かは分からないが、再び用心棒と思しき屈強な男たちに連れられた。手荒な真似はされなかったが、それは三人が抵抗をしなかったからに過ぎない。
連れてこられた先は、潮の香りが強く鼻をつく場所だった。川を下り河口に近い場所に出たのかもしれない。
三人の買主となったヘルソンとは、そこで一端別れた。ホルムスク滞在は所用によりまだ続くようで、帰路に着くまではここで大人しくしていろと言われた。一緒にいた術師の男もふらりとどこかへ消えた。
先ほどの邸宅のような豪華さはない。簡素な宿屋のような趣だった。目隠しを外された場所には小振りの受付台があり、鼻眼鏡を付けた神経質そうな男が帳面を繰っていた。三人が連れられてくると何やら帳面に書き付けていた。受付が終わると腰のベルトに括り付けらえた鍵を手に受付台脇の扉が開き別の部屋へ通された。
足を踏み入れた所で男がとってつけたような笑みを浮かべた。
「室内では自由にお過ごしになって構いません。ですが悪いことは言いません。逃げようなどとは思わないことです。ま、そんなことはできませんがね」
扉が閉まると背後で鍵がかかる鈍い音がした。
中に入るとざわりと空気が揺れた。そこは鰻の寝床のような細長い作りで粗末なテーブルと椅子が数客、壁際に長椅子が二つ並んでいた。室内は窓から差し込む日差しで明るかった。歪んだ小さな四角い枠が影となって白茶けた床板を切り取っていた。長椅子には若い女が二人身を寄せ合うようにして座っていた。もう一つの長椅子では子供が寝ていた。
長椅子の方からカチカチと歯の根が鳴る囁きが聞こえた。
「あな…あな…あなたたちも……つ、つ、つれて…こられたの?」
こちらをじっと見つめる目は怯えと恐れに象られていた。
「うら…うられたの? さ…さら…さらわれたの?」
リョウは困ったようにほんの少し眉を下げた。
「……おそらく」
売られたというか、買われたには違いないか。いやかどわかされたというのが正確だが、それを自分から認めたくはなかった。
「そう」
溜息に似た囁きが漏れた。
部屋の奥の方では天井から垂れ下がる仕切りのような白い布がひらひらと揺れている。潮風が入ってきているようだ。その向こうには、木の寝台が幾つか並んでいるようだった。あそこで夜は休んでいるのだろうか。
ブラクティスが足を引きずると椅子の一つに緩慢な動作で座り込んだ。
「痛みますか?」
「ふん」
述師の顔をしたリョウを鬱陶しそうに睨みつけた。傷口を庇うように体を身じろぎさせる。気遣わしげな視線を送るリョウに、
「構うな。そいつはそんなにやわじゃない」
広くはない室内をあちこち見て回って、突き当りに洗面所などがあると配置を確かめたユリムが、ブラクティスを冷たく一瞥してからリョウの側に立った。
「窓は開いても拳大だ。窓枠には格子が嵌められている。出入口はあそこだけだ」
そう言って入ってきた入り口の扉を見やった。
「また軟禁状態か」
ユリムが小さくため息を漏らせば、長椅子の若い娘たちがあからさまにビクっと肩を揺らした。
リョウは一人窓辺に立った。
窓の外から見える景色は青い海だった。初夏の日差しを浴びて海原はきらきらと銀色に輝いている。遠く貿易船や行き来し、漁師の小舟がもやっているのが白い点のように見えた。周りを海で囲まれているのか、すぐ近くに建物らしきものはない。窓枠で切り取られた視界の端の方に緑の丘が突き出した岬のような地形が見えた。そこに風雨にさらされて傷んだかつての城壁と砦の跡が垣間見えた。ここは街の中でもずっと北の方だろうか。
「ここは…どこだろう」
「橋向のピュタクの縄張り」
ごく小さな独り言のような呟きに感情のない声が答えた。
顔だけ横を向けば、長椅子に座るもう一人の若い娘が諦めたように言った。
「ここはミールには”見え”ない」
この街にはミールの影響力が及ばない地域があると聞いたことがある。長い年月をかけて住み分けが進み、ミールは手出しをしないという暗黙の了解がある場所だ。
ここは一体どんな場所なのだろうか。この子たちも同じように売られてきたのだとしたら。出航までに商品を保管しておく一時的な倉庫、もしくは買い手の決まった商品を預けおく場所。商品は船で国外へ輸送されるのだ。
「いつからここに?」
「わた…わたしは…五日前、こ、この子は一昨日から」
「あの子は?」
長椅子で眠る子供は。
「し、知らない。いち…一時的に…あ、預けられてるって」
「そう」
さて、どうやってここから逃げ出したらよいのか。ヘルソンが用事を済ませるまで猶予は長くて二日か三日。その間にどうにかしてルスランにここにいることを知らせなくては。
リョウは徐に背後を振り返った。
「あなたは…どうするつもり?」
リョウは手じかにあった丸椅子を寄せるとブラクティスの隣に座った。売られたというのにこの男は全く動じた様子を見せなかった。武人だから単に肝が据わっているのかもしれないが、リョウにはこの男の心が全く見えなかった。元はと言えばこの男がユリムをはめなければ、こんなことにはならなかったのだが、それを突いても仕方がない。許せる許せないは別にして、この男にはこの男の事情があったのだろう。逃げるというのならこの際協力を仰いで共に策を練るのが良い。
「ふん、良い機会だ。新しい主の下で異国に渡るのもよかろう」
ブラクティスはまるで他人事のように吐き捨てた。
「国には帰らぬつもりか。王への報告はどうする? お前も裏切ったとみなされるぞ」
ユリムが嘲るようにかつての供を見返した。
「伝令と言ったか、早文で計画の成功は知らせてある。今頃、国に届くころだろう」
「そうか。お前の計画の中で、俺は既に死んでいるか」
暫し考える風に目を閉じてから、ユリムは言葉を継いだ。
「競売にかけた宝物はどうした?」
硬い表情のユリムにブラクティスはどうでもよいという風に片手をひらりと振った。随分投げやりな態度だ。
「知るか。どのみちあの強欲どもが売り主のふりをして競売を成立させただろう。あのミシュコルツとかいう支配人は、とんだ食わせ物だ」
昨日のことを思い出してか、苦い顔をしたが、直ぐにその表情は違うものに変わった。
「だが、まぁこれが無くては始まらぬだろうがな」
クククと微かに喉を鳴らしてブラクティスは懐から何かを取り出した。その手の中に握られていたのは、平べったい硬貨のような形をした金属片―もとい鍵だった。
あのまま奪われるのは業腹だったので、どさくさに紛れて箱の鍵をかけてきたと言った。向こうでは今頃、蓋が開かないと躍起になっているだろう。あれは特殊な箱だ。力づくでは開かない。
「転んでもただでは起きぬということか」
「ふん、貴様のように無様な枷をはめられるほど愚かではない」
ユリムの辛辣な声にブラクティスは嘲笑を送り返す。その視線がユリムの左腕に回る白銀の腕輪に注がれた。
「似合いではないか。遊び女の子にふさわしい」
「……なん…だと」
唸るように低い声を出して一歩踏み出したユリムの前にリョウは慌てて己が身を滑り込ませた。
「ユリム、こんなところでいがみ合ってもなんの解決にもならないから。あなたも、わざと挑発するようなことはおやめなさい。子供みたいなことをして」
「はっ、とんだ保護者気どりだな」
気に入らないとばかりにブラクティスは毒を吐く。だが、だからどうしたとリョウは自らの立場を肯定した。
「ええ。だって文字通り、私はこの子を保護したんですもの。だから、あなたがユリムに仇なすとなれば、私はあなたを許さない」
ユリムとこの男の繋がりや過去のいざこざは分からない。だが、そこは譲れない一線だった。
男の口が皮肉に歪んだ。
「なら、放って置けばよかっただろう。馬鹿なことをしたものだ。敵の傷を手当するなど」
そう言って己が体に巻き付いた包帯へ顎をしゃくった。
「私は術師です」
きっぱりとした口調でリョウは言い放った。この男が敵だろうが、憎かろうが、関係ない。術師として怪我人を放って置くことはできなかった。
その余りにも真っすぐな気持ちに耐えられなくなったのはブラクティスの方だった。
「勝手にしろ」
それっきり貝のように己を閉じた。椅子に深く腰掛け背もたれに体を預けた状態で目を閉じたのだった。
それからリョウとユリムは顔を突き合わせるとここから脱出するための算段を始めた。出入口は一つしかない。窓はたとえ格子を外せたとしてもすぐ下は海だ。
「ユリムは泳げる?」
「川でなら」
「なら大丈夫かな」
ひそひそと囁きを交わしていると、
「ねぇ、まさか、ここから逃げる気なの?」
長椅子に座っていた娘の一人が驚きに似た声を上げ二人を見ていた。そのまなざしは信じられないと言っていた。
「もちろん。こんなところで大人しく売られるわけにはいかないもの」
「無理よ、出られないわ」
「どうして? やってみなくちゃ分からないのに」
「だって、パパだってどうにもできなかったのよ! ミールに頼んでもダメだったのに……」
「……あなたはミールの縁者なのね?」
なら今こうしている間にこの娘を探している親がいるのだろうか。
「パパが会員で、うちは織物問屋をやっているの。もう何代も前から組合員なのよ。ミールでも割と有名な方なんだから」
弾んだ声が徐々に尻すぼみになる。
「そんなパパでも…今回はどうにもならなかった」
膝の上で握りしめた手が服に皺を作った。
「どうにもならなかった…って?」
ミール会員がしかるべき伝手を頼って娘の救出を依頼しているということなのか。ならば自警団が動いているのだろうか。だとしたらまだ望みは捨てない方がよい。待ってくれている人のためにも。
「あたしは売られたの。パパが作った借金のかたに。だから仕方がないの」
そう言って諦めた顔をした娘にリョウはかける言葉が見つからなかった。




