7)渇望の色
「ああ、よく似合っている」
老いを感じさせないはりのある男の声が耳に飛び込んできた。
「実によく似合っている」
満足そうに息を吐き出す男の視線は、腕にはめられた装飾品に注がれていた。手首を掴む幅広い金属の輪。白銀に輝くその表面には草花の文様が密に描かれていた。花びらの部分には赤や薄桃、黄色の貴石が嵌められ、葉の部分には緑色の石が埋まる。一目で高価と分かる品だった。
豪華な腕輪が飾る腕は二つ。一つはやや骨ばった華奢な腕で、もう一つはそれよりは太いしっかりとした腕だった。男の視線を受けてだろうか、その二本の腕は緊張にか強張っているように見えた。一方の手首に巻かれた腕輪の先では硬く拳が握られ、もう片方はでは指先が微かに震えているように見えた。
「こちらに来たまえ」
男が鷹揚な態度で、腕輪をはめた二人に着席を促した。だが、声をかけられた方は、身じろぎ一つしなかった。一人は挑むような強い眼差しで男を見据え、もう一人は、相手の一挙手一投足を逃すまいと冷めた感のある目で男を見返していた。
「遠慮することはない、さぁ」
男は二人の頑なな態度に気分を害することなく、うっすらと笑みすら浮かべていた。
「ほら、さっさとしろ」
傍にいた別の男の方が先に痺れを切らしたようで、声を低くして叱りつけると入り口に立つ二人の元にせかせかと歩み寄り、一人の腕を力任せに掴んで引っ張った。腕を掴まれた者は咄嗟に抵抗したが、それも一瞬のことで、ぎりりと奥歯を噛み締めると相手の言うことを聞いた。
「さぁ、こちらへ。よく顔を見せておくれ」
二人を迎えた男は、陶然と微笑んでいた。
「我々をどうするおつもりですか」
一拍の沈黙の後、腕輪をはめられた一人は真っすぐにこの邸宅の主らしき男を見据えた。
緊張の抜けない浅い眠りを繰り返した翌朝、昨晩と同じ女が部屋にやって来て二人をまるで客人に対するように世話を焼いた。ユリムとリョウは代わる代わる洗面所を使い、冷たい水で顔を洗った。そうすると少しは不安に揺らぐ気持ちが固まり、引き締まるような気がした。
隣の寝台ではブラクティスがまだ深い眠りに就いていた。昨晩よりは大分穏やかな顔をしている。薬が効いてきているのだろう。全ての感情をどこかに置いてきたかのような女は、怪我人の方を一瞥しただけで簡単な朝食の用意を始めた。新しい水差しを持ち込み、パンとスープをテーブルに並べた。
「どうぞ、お召し上がりください」
「…あの、私たちはどうなるのですか」
思い切って尋ねたリョウに女はその口元にどこか困ったような笑みの切れ端らしきものを浮かべると軽く首を横に振った。出入りの度に扉には鍵がかけられ軟禁状態だった。
その後も女が口を開くことはなかった。必要以上の会話を禁じられているのかもしれない。淡々と役目を果たす中での会話は常に一方的で、相手の疑問はするりと交わされてしまうのだ。まるで耳が聞こえない人のように振舞っていた。もしかして本当に聞こえていないのだろうか。
「さぁ、冷めないうちに」
女は顔色を変えることなく淡々と勧めた。
微かに白い湯気が立ち上る椀を見てユリムが先に卓に着いた。
「リョウ」
―いただこう。
ユリムの目配せに促されるようにして約一日ぶりの食事を口にした。肉と刻んだ野菜が入ったスープは温かかったが、その味がリョウには分からなかった。
食事の後、再び現れた女の手には二人分の衣服があり、それに着替えるように言われた。渡された服は、手触りの良い上等な衣だった。色は染められていない生成りだが、地模様が浮かび上がる精巧な織物だった。昨晩二人が着替えされられたのと同じような形で、ゆったりとしたズボンに膝丈のたっぷりとした上衣を幅の広い硬めの帯紐で締めるものだった。
「…これは」
服を手渡されたユリムの目が驚きにか見開かれた。
「どうしたの?」
上衣を両手で広げていたユリムの顔には困惑に似た苦いものが浮かんでいた。隣から不思議そうな視線を受けて、胸につかえた何かを堪えるようにゆっくりと息を吐き出した。
「これは我が国の衣だ」
「サリダルムンドの?」
「ああ」
ユリムは手早く着ていた服を脱ぐと迷うことなく渡されたものに手を通し始めた。
この服はユリムの為に用意されたのだろうか。相手がサリドの民だから彼らが普段着ているものをと。それは一体どんな種類の心遣いなのだろうか。各国と手広く商いをしているホールムスクにとってはサリダルムンドもその交易相手の一つだろう。だが、ここでは需要などない珍しい形の衣をわざわざ探し求めてこの館に用意しておいたのだ。その意味を知るのが怖かった。
その一方で、リョウは手の内に広げた衣の形を見て、失って久しい故郷に通じるものを感じ、なんだか胸が締め付けられるような、懐かしいような堪らない気分になった。
「どうした? 着方が分からないのか?」
手早く濃紺色の帯を腰に巻きながら、今度はユリムが動きを止めたリョウを不思議そうに見やった。
リョウはそっと微笑み、気になったことを聞いた。
「この衣の合わせ方に決まりはある? 右前とか左前とか」
「ああ。右の方を先に巻いて、左側をその上に被せる形だ」
「そう」
着物と同じ合わせ方だ。ここから遥か遠方にある小さな山間部の国。そこに住む人たちは黒い色彩をその瞳と髪に持っているという。偶然とは言え、懐かしさのようなものが蘇った。
それにそっと蓋をしてズボンをはき替え、その上に衣を重ねる。手にした帯はユリムのものよりもほんの少しだけ明るい紺色だった。こちらも艶やかな生地で地模様が織り込まれた上等なものだった。
「ねぇ、ユリム。これは普段着?」
昨日リョウたちが身に着けていたミリュイが用意したサリダルムンドの服はいわば正装で、たっぷりとした袖に下衣も生地をふんだんに使い足首で縛るようなものだった。こちらはそれよりは格段に動きやすそうな形だ。
「形は…そうだな、一般的なものだ。だが、この生地は良いものを使っている。金持ちや位の高い者が着るような服だ」
「そう、この形がそうなんだ」
不思議な巡り合わせがあったものだ。
「気に入ったか?」
そう口にしたユリムの頬はこの日初めて緩んでいた。
「うん」
幅広の帯を腰に巻き、かつて慣れ親しんだ半幅帯の時のように貝ノ口に結んだ。するとユリムが傍にやってきた。
「面白い留め方だな」
ユリムは二重した帯の端を間に挟んで処理し、残りは後ろに垂らしていた。
「この方が馴染みがあるから」
「そうか」
着替えが終わると鍵を手に再び女が現れた。その手にはお盆があり、なにかを恭しく掲げ運び入れる。小さな盆の上にクッションのような小振りの布を置き、その上に銀色に光る金属の輪のようなものが二つ並んでいた。
「主よりの贈り物です」
女はそう言うとまずリョウの左腕を掴み、その手首に素早く輪をはめた。余りにも突然のことで抵抗もできず、リョウはうろたえた。
「このようなもの、いただくわけにはいきません」
再び左の手首にずっしりとした金属の重みがはめられた。どうにか外そうと試みるが、かちりとはまったそれはびくともしなかった。
「あの、外してください。お願いします」
女は次にユリムの手を取り、同じような輪をはめていた。ユリムは同じ左の手首に輝く白銀の装飾品を見て半ば諦めたように息を吐き出した。
「困ります、こんな高価なもの」
女はリョウの懇願をまるで見えていないかのように取り合わなかった。
「リョウ」
―やめておけ。
ユリムが小さく頭を振る。
「あの者は、あれに課せられた仕事をしているだけだ」
あの女に何を訴えてもどうにもならないのだと達観したように言う。
「……でも」
「これは…枷と変わらんな」
ユリムが冷めた口調で言った。
これは恐らく売り物であるということの目印か、それとも売り先が決まったことを示す印なのかもしれない。貴金属に貴石をふんだんに使い豪奢な装飾品に模した枷だ。ここがそういう特殊な場所であることを示す手がかりでもあった。
リョウは何とも言えない気分で左手首にはめられた腕輪を眺めた。これが好きな男からの贈り物であったならば、喜んで身に着けただろう。サリダルムンドの衣装だという上等な衣を与えられ、腕には高価な枷がはまる。自分が囚われの身であることをいやがおうにも意識せざるを得なかった。
ふとリョウの脳裏に夫の顔が浮かんだ。ユルスナールのことだ、夜遅くになっても帰宅しない妻を案じているのではないだろうか。ユリムと共に競売に参加するという話はしておいたが、詳しい事情までは明かさなかった。危ない橋を渡ると言えば、ユルスナールのことだ、絶対に行くなと止められただろう。だから行く先はミール関連の施設だと肝心な所は濁してしまったのだ。心配をかけたくないと思ったとはいえ、そのことが大きく裏目に出た。ああ何をやっているんだろうと情けなくなる。
「……ルスラン」
リョウは左手首を右手で覆うと胸元で白銀の金属を隠すように握りしめた。リョウの右手薬指には、男の瞳の色と同じキコウ石の指輪が深い輝きを放っていた。それにそっと口づけを落として、この窮地をどうにかしなくてはと心を奮い立たせた。
リョウは顔を上げるとしっかりとした目でユリムを見た。
「なんとかして、ここから脱出しなくちゃね」
同じ黒い瞳に宿った強い意志にユリムもしっかりと頷いた。
女の目がない間、まず部屋の窓を調べた。窓の下の縁は腰の高さで、光は燦燦と差し込むが、二重窓になっており、空気の入れ替えはできても外側からは鉄格子が嵌められていた。それでも窓に鍵はかかっていなかった。
「ここなら…届くかな」
窓を開けると爽やかな初夏の風が流れ込んできた。懐を探り巾着の中から小さな呼び笛を出す。そして、口にくわえると四角い鉄格子で切り取られた空の向こうにその音を響かせた。
「何をしている?」
その様子をユリムが不可解な顔をして眺めていた。それもそうだろう。力いっぱい吹いたというのにユリムにはこの音色が聞こえなかったに違いない。これは鷹匠が相棒を呼ぶために使う特殊な笛だ。この音色は素養のある術師とそれを聞く耳を持つ獣にしか聞こえないものなのだ。この音色がどこまで届くかは分からない。近くにこれを聞き分けることのできる獣がいないかもしれない。それでも唯一の望みにかけるしかなかった。
「気付いてもらえるかもしれないから」
リョウが声を低くして事情を話せばユリムも分かったと小さく頷いたのだ。
程なくして女が再び現れた。
「主がお呼びです」
相変わらず取りつく島のない淡々とした態度で付いてくるようにと告げた。リョウはユリムと顔を見交わせるとその表情を引き締めた。
扉を出るとがっしりとした体つきの用心棒のような男が二人、待ち構えていた。ユリムとリョウの背後に回り、後ろから付いてくる。少しでもおかしな真似をすれば、その太い腕が容赦なく伸びてくるのだろう。逃げないための見張りだ。
廊下を端まで行くと階段を上がった。そこから別棟へと続く石組の渡り廊下に出た。足の下は小さな石橋のようになっていて、人工的に水が引かれ庭先へと続いていた。なだらかな傾斜の中に邸宅が建っているようだ。そこから屋内に足を踏み入れると室内の装飾が先ほどよりも豪華になった。淡い色を下地にした異国情緒あふれる趣の絨毯が敷かれた廊下を暫く歩くとやがて飴色に光る大きな扉の前に出た。女が訪いを入れれば中からくぐもった了承の声が届いた。
そうして向かった先では、男が二人待ち構えていた。応接室だろうか、広々とした天井の高い室内には、清々しい初夏の日差しが窓辺の薄いカーテンを通して差し込み、趣ある調度類を照らし出していた。
優美な曲線を描く長椅子に男が一人座っていた。部屋の雰囲気に似つかわしい空気をまとった壮年の男だった。瑞々しい若さはないが、円熟期手前の落ち着きを備えている。線は細くはないが武人という印象は受けない。ただ商人という風にも見えない。王都スタリーツァで見かけた文官に似ている気がしたが、それよりも身なりは良いようだった。
リョウとユリムの二人を見ると男はおもむろに立ち上がり両手を広げた。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。長い無沙汰の後、久し振りに古い友人と出会ったかのような仕草で、二人を面食らわせた。
「さぁ、こちらにきたまえ」
戸惑いを隠せずに視線を彷徨わせるとその先に、もう一人の男がいた。目が合った瞬間、男はぞっとするような凶悪な笑みを浮かべた。細い口髭を指先で整えるように摘んでいる。その顔に見覚えがあった。競売で入れ札をした時に突然乱入してきた男だ。
隣にいるユリムに緊張が走った。そうだ、この男が前にユリムを捕らえたのだ。ユリムは売られたと言っていた。この男が人買いを仕切っているのだろうか。するとこの館は男が所有する場所なのかもしれない。
「さっさとしろ」
入り口から中々動かない二人に痺れを切らしたのか、口髭の男がユリムの腕を掴んだ。ユリムが反射的にその手を払うような仕草をする。乾いた破裂音が耳元でして、リョウは我に返るとユリムを守るようにその背に庇った。口髭の男は忌々し気に鼻を鳴らし、勝手にしろと一人掛けの椅子に腰を下ろすとすぐに作った笑みを浮かべ、長椅子に座る壮年の男に囁き始めた。
「どうです? 中々な掘り出し物でございましょう? これでこの間、ご迷惑をかけた分のお詫びになるかと思いますが、いかがでございましょう」
口髭の男、オフリートは愛想よく取引相手に商談を進めていた。
「兄弟か。そうしているとよく似ているな」
つるりと頬を撫でた男の目はリョウとユリムに注がれていた。どこか粘着質で不躾ですらある品定めをする者の目だった。
「もう一人、年かさの男がおりまして、今は生憎怪我で身動きがままなりませんが、武人ですから、なにかとお役に立つとお約束いたします」
「ほう? 一人が三人になって帰ってきたか。さしものホールムスクでもサリドの民は難しいとは思ったが、さすが、オフリート殿、見事な手腕をお持ちのようだ」
男は満足そうに笑みを深める。口髭の男と話をしながらも、その目はずっとリョウとユリムの二人に注がれていた。
「いえいえ、これもほんのお詫びの印と思っていただければ」
リョウとユリムの前で取引の話が進んでいた。この男が買主なのだ。そう認識した瞬間、リョウは戸口から一歩前に出ていた。
「お待ちください」
突然割り込んできたリョウをオフリートは鬱蒼しそうに見やった。
「あのサリダルムンドの武人からこの子を買った時の値はいくらですか」
リョウは口髭の男に尋ねていた。
「そんなことを聞いてどうする?」
「この子を私が買い取ります」
「ハッ、馬鹿も休み休み言うんだな」
「あの男とあなたの間で取引は行われた。その後、この子はあなたの元から逃げた」
淡々と告げるとそこでオフリートの目つきが変わった。残忍な蜥蜴ように舌先が薄い唇を舐めた。
「ああ、だから自分のモノを取り返したまでだ」
「そもそも、この国で人身売買は御法度です。ミールも認めていない。ことが公になれば、ミールからの処分もさることながら最悪極刑は免れないでしょう。そこを百歩譲って目を瞑ると言っているんです」
相場なんていくらか分からない。そもそもリョウに払える金額かも分からない。それでもこの男とブラクティスの間で決まった取引価格に色を付けてユリムを買い取る形にすれば、この男が危険を冒してまでユリムにこだわる理由がなくなるのではないかと思ったのだ。リョウとしては脅しをかけたつもりだったが、人買いの男は全く堪えていないどころか、その言い分を小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「呆れた話しだ」
「はははは、君は自分の立場が分かっていないようだね」
長椅子に座った男が不意に声を立てて笑った。
「いいかい。君もその子も、あともう一人の男も、今は、れっきとした商品だ。君たちは売り物なんだよ。どんな経緯で君たちがこのオフリートの所にやってきたかは、私の関知するところではない。だが、この場は私の取引の時間だ。ここで提供されるものを吟味し、気に入ったら購入したいと思っている。それだけだ」
この場を仕切っているのは、買主である男の方で商品がそれに異を唱えるなど滑稽にもほどがあると言い放った。
腹の底から言い知れぬ怒りがふつふつと湧き上がってくるのが分かった。鋭い視線を口髭の男に向けていた。
「人をかどわかしておいて、それが売り物だと? ミールで問題になっている人攫いの件も、あなたが裏で糸を引いているのですか!」
リョウの詰問に口髭の男は答えなかった。
この男があの件に関わっているのだとしたら、ここでむざむざ売られる訳にはいかない。どうにかしてミールに、自警団に知らせなくては。頭の中を様々な思考が飛び交う。
「無粋な真似は止めたまえ」
男は徐に立ち上がるとリョウの側に行き、その肩を抱いた。背後から慣れた手つきで左手を取り上に掲げる。するりとたっぷりとした袖が捲れ、手首にはまる白銀の腕輪が現れた。
「ああ、綺麗だ。よく似合っている。私の審美眼も中々のものだろう?」
背後に立った男はリョウの肩をさすり、耳元でうっとりと囁いた。
「君の腕を飾るこれは何だと思う? 私のモノだという証だ」
ぞわりと背筋に悪寒が走った。この男は狂っている。震えそうになる声をどうにかして振り絞った。
「私たちを、あなたは買おうというのですか?」
「そうだ。ようやく分かってもらえたようだね」
「手に入れてどうしようというのです?」
人はモノではない。家畜でもない。奴隷としての言いなりになる労働力が欲しいのか。憂さ晴らしをするための玩具が欲しいのか。それとも………。
「そうだなぁ」
男は手を離すとゆっくりと前に回り込んだ。大きな手が右の肩からぐるりと首を通り左肩に落ち着く。男の掌はごつごつとしていて、剣だこのような硬さがあった。並んで立つと男は体格がよく上背があった。リョウがよく知る男たちと同じ大きな体が覆うように影を作る。男の腰に剣はない。だが、この男は寸分の躊躇いもなく相手の首を握り潰せる、そんな気がした。
だが、ここで怯んではいけなかった。誹りを受けてもなお表面上は柔らかな態度を崩さない男に底知れぬ怖さを覚えるが、それをどうにか胸内に押しとどめる。小さく息を吸い込んで、顔を上げ、しっかりと男の目を見据えた。
その瞳は深い緑がかった茶色をしていた。森の緑はリョウにとっては馴染みが深く、安らぎと恵みを与えてくれる大切な色だ。その色が自分を冷徹に飲み込み喰らおうとしていた。
男の目が何かを見極めるように細められた。
「黒というのは不思議な色だな」
脇に零れた黒髪を一筋、骨ばった太い指が掬う。
「この黒をこよなく愛する者たちがこの国にはいると聞く。君たちをその者たちに引き合わせたら、諸手を上げて大喜び、高く売れると思わないかい?」
男の声音にはからかうような響きがあった。
思いがけない言葉に思考が一瞬止まった。リョウの脳裏に数か月前の王都での出来事が鮮明に蘇った。人の命を贖いに神の信託を得ようとした神殿の暴挙は到底忘れられるはずがなかった。だが、あれだけのことが起きたのだ。神殿はもう二度と同じ過ちは犯さないはずだ。
「ユプシロンは愚かではない」
彼らが払った代償はかなりのものだった。本当は口にすべき言葉ではなかったのかもしれない。男はリョウが言わんとしていることが分からなかっただろう。あれはこの国の王都、その深部で起きた事件だ。一般人が、ましてや他国の人間が知る由もないことだ。
だが、男の反応は違った。
「そうかな? 人間の欲望はきりがないものだ」
神に仕える神官とて同じ人間だ。そう続く落ち着いた声に息を飲む。この男はあの事件を知っているというのか。神殿の神官の中に黒を欲する者がいたことを知っているのか。
「あなたは…この国の人ではないのですね」
先ほど「この国」という言葉を男は使った。突き放して客観視した表現だ。
男はリョウの問いかけに答えなかった。いや、沈黙こそが肯定を意味しているのかもしれない。
「ああ、やはり、実物は美しいものだな」
男の手が顎にかかり上を向かせた。かさついた親指が唇の下の窪みをそっとなぞる。
「この瞳を私だけのものにしたい」
浮ついた台詞が生温い囁きとなって頬を掠めた。
何故、この男はこうまでして黒に拘るのだろう。この色に何を見ているのだろう。何を重ねているのだろう。単なる物好き、変態の嗜好と切り捨てるには、その純然たる熱はやけどしそうな熱さを秘めていて不可解だった。
「この挑むような勝気な眼差しが、色に溶け、懇願に潤むとしたら。さぞかし楽しいだろうね」
嫣然と笑みを深くした男の目元に皺が寄った。その顔が更に距離を詰めてきたと思った矢先、リョウの体は強制的に数歩後ろに下がっていた。
「触るな、外道」
背後から同じ地模様の入った衣をまとう腕が腰に回りぐいと引き寄せられた。ここ数日ですっかり馴染んだ体温がリョウを支えていた。一人ではない。そのことがリョウの心を強くした。
「麗しい兄弟愛だ。だが、案ずることはない。兄同様、弟の君もたっぷりと可愛がってあげよう。二人まとめてね」
男が茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。
腹部に回されたユリムの腕に力が入った。二人に注がれた場違いなほどの熱がこもったその視線にリョウは心の中で呻いた。この男はやや特殊な性的嗜好を持っている。この男は恐らく二人を性欲を満たすための生き人形として買うのだ。さらにリョウをユリムの兄だと思っている。この期に及んでも性別を間違えられることに若干の悲哀と諦観を覚えつつも、問題はそこではないとすぐさま頭を切り替えた。
「私は、あなたのモノにはならない」
吐息に混じる微かな声は秘めた決意表明でもあった。この身も心も、既に一人の男に捧げている。
リョウは再び息を吸い込んで声高に言い放った。
「私もこの子も、けっしてあなたのモノにはならない」
きっぱりと挑戦的に告げたリョウの言葉に、だが、男はさらに笑みを深くした。
「はは、これは落とし甲斐がある。だが、勘違いしてもらっては困る。お前たちはもう私のモノだ」
―オフリート、契約成立だ。
男はそう告げると背後を振り返った。売り主である口髭の男は揉み手をして男の側に寄り、握手を交わした。
「では、商品は貰い受ける」
男の手が二人に伸びようとした矢先、リョウとユリムは弾かれたように走り出した。




