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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第六章 残火の散華
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5)三人の虜

 それからどれくらいの時が経ったのだろうか。ガタンと大きな音を立てて馬車が止まった。車輪が軋み、ざりざりと乾いた地面を踏む複数の足音が囲んだ。やがて幌が開けられて、大きな影が乗り込んできたかと思うと太い腕が伸びて、むんずと腕を取られた。ガチャガチャと金属の枷がぶつかる耳障りな音がする。ずっしりとした重みが手首と足首の自由を奪う。リョウとユリムの二人を引っ立てていたのは、粗削りな雰囲気の人相の悪い男だった。


「大人しくしていろ」

 男はリョウとユリム、二人の華奢な腕を棒きれでも掴むように軽々と引っ立てた。ユリムは始め抵抗するような素振りを見せたが、リョウから低く名前を呼ばれて制されたということもあるが、同時に男からも騒ぐなと掴まれた腕に力を込められて小さく呻いた。リョウはたわんだ薄布(ベール)の下から静かに首を横に振る。無駄な抵抗はしない方がよい。今は、その時ではないと。リョウの瞳の強さにユリムも唇を噛み締めて口惜しさを堪えた。


 品評会に入った頃は日が中天を指していたが、辺りは薄闇に包まれていた。西の空はぼんやりと夕暮れの赤みを残していたが、東側はすっかり夜の闇が迫っていた。どこに連れられて来たのだろうか。馬車での移動であったからさほど遠くまで来たわけではないだろう。ただ、リョウもユリムもホールムスクの町は不案内だった。土地勘がないながらもどうにか手掛かりがないかと周囲に目を走らせるが、薄い被きを通して目に入るものは、赤茶けた土壁に小さく灯る明かりと水の音だった。足元すら覚束ないくらい暗い。


「ほら、こっちだ」

 リョウとユリムを両手に引っ立てた男は苦も無く乾いた土の上を歩き、どこに入り口があったのか、見計らったかのように目の前で内側に空いた扉の中へ足を踏み入れた。土壁の狭い回廊を半ば引きずられるように歩かされた。中からはむんと生暖かで微かに甘い香りが鼻についた。ほんの少しの苦みのようなものがある。水煙草の香りだろうか。点々と灯された弱い発光石の橙色の光に白い煙が月明かりにたなびく雲のように伸びていた。


 廊下を一つ、二つ曲がったところのどん詰まりで、男は立ち止まり、持っていた鍵で錠前を開け、木の扉を開いた。黒い闇が口を開ける。

「ここで大人しくしていろ」

 男は入り口でユリムとリョウをぞんざいに放り投げた。

「…ッ」

「…クッ」

 枷の重みに取られて二人はたたらを踏み、折り重なるようにその場に崩れ落ちた。ガシャン、ガツンと枷から伸びる鎖と床がぶつかり合って大きな音を響かせた。

 扉が閉じようとする直前、

「待っ…わ、私たちをどうするおつもりですか! ここは一体……?」

 リョウは殴打して痛む体をそのままにどうにか肘で体を支えながら声を張り上げた。

「ふん」

 だが、男は嘲るように鼻で笑うと何も言わずに扉を閉めた。ガチャリと無情にも錠が閉まる冷たい音がした。

「……っつう」

 妙な具合にしたたかに膝を打ったようで痺れが走る。真っ暗な中で痛みを堪え歯を食いしばれば、

「リョウ? 大丈夫か?」

 ふわりと風が動き衣擦れと共に微かな温もりが傍に寄った。

「うん。ユリムは?」

「ああ。大事ない」

 それから二人は埃っぽい感じの室内で息を整えた。放り投げられた時には真っ暗と思えた室内も目が闇に慣れてきたようで、少しづつおぼろげながらの輪郭が見えてきた。高い壁の上の方に換気の為か小さな明り取りのような窓があり、格子がはめられていた。そこから微かな月明かりが漏れていた。中は圧迫感を感じないほどに広く、物がないのが幸いだった。


 それから程なくして、再び錠を開ける音がしたかと思うと扉が開き、向こう側から大きなずた袋のような細長い塊がどさりと投げ入れられた。リョウとユリムは壁際にもたれていたが、足先に柔らかな布の感触がして息を詰めた。微かなうめき声が聞こえてきて、リョウは慌てて体を起こした。重い手首をどうにか動かして懐を探ると小さな発光石を取り出し、「明かりを(ルーチ)」と呪いの言葉を囁く。抑えられた青白い光が辺りを照らす中、くるまれた布の切れ端をそっと捲れば、おぼろげながらも人の顔らしき輪郭が蒼黒い闇の中に浮かび上がった。


「……貴様…」

 ―ブラクティス。


 ユリムが唸るように噛み締めた歯の間から息を漏らした。品評会の会場でサリダルムンドの品を出品したサリドの民。ユリムと因縁のある相手だ。

 数刻前の威勢の良さはどこへ行ったのか、荒い息遣いに震えが伝わるってくる。この男も捕まったのだ。

「……怪我をしているのですね」

 半ば無意識に伸ばしたリョウの手を叩き落として、

「触…るな」

 男が荒い息の下、牙を剥いた。鬼のような形相で睨みつけるが、それがすぐさま苦渋に歪む。

「クッツ…ハッ……」

 苦しそうに喘ぐ声がして、微かに血の匂いが掠めた。男は倒れ伏し、体を丸くしたまま脇腹の辺りを抑えていた。

 リョウは発光石を下に置くと、

「失礼します」

 男の手元から慎重に着衣を検めた。男の掌が抑えている辺りは黒く大きなシミが不格好な円を描いていた。

「深い…金創ですね? 刃物で切られましたか? それとも刺された?」

 ぬるりとした血の感触がしてリョウは確信した。

「…余計な…真似はするな」

 男は抵抗したがその息は蚊の鳴くような弱いもので、すぐに目を閉じ苦しそうに唸った。

「古傷が開いたのだろう。放って置け」

 リョウが腰につけていた巾着の中から、日ごろから持ち歩いている薬草類一式を取り出しているとユリムが冷たく言い放った。これまで聞いたことのないような硬く突き放した声だった。

「自業自得だ」

 視界の隅でユリムが怖い顔をして男をじっと見ていた。リョウは黙々と手当の準備を始めた。薬草を口に入れ噛みほぐすと油紙の上に塗った軟膏の上に乗せる。

「しみると思いますが我慢してください」

 口早にそう囁くと男の手をどけて開いているであろう傷口の上に宛がった。

「グァ…ッ…」

 痛みにか大きなうめき声に体が揺れる。それをどうにか体で押さえつけて、意識を集中させて止血と祈祷治癒の呪いを紡ぐ。右手の掌の下がほんのりと光り、馴染みのある熱がゆっくりと生まれやがて温かく包んだ。それから身に着けていた衣の袖を片側、付け根から千切ると短剣で割き、細い包帯を作るとそれを男の腹部に巻いてゆく。処置が終わると小さな茶色い瓶を開けて、男の鼻先に嗅がせた。

「少し眠ってください」

「……ハッ……馬鹿な…ことを」

 男が嘲るように息を吐き出したが、その気力も尽きたのか、やがて眠りに落ちて行った。その息が小さく規則正しいものになったことを確認すると、

「私は術師です」

 リョウはそう呟くと脂汗にまみれた男の額を拭ったのだった。


 応急処置でしかないが、それでも手当を終えると薬草や道具類を巾着の中にしまい、再び懐の中に入れた。開いた袷を整えて着衣を直す。発光石の明かりを一番弱いものにして、怪我人の表情が分かるギリギリのところに置いた。

「リョウ」

 ユリムが囁くように名前を呼んだ。

 リョウは重い体をどうにかして起こすと壁際に戻り、再び背中を持たせかけた。緊張の糸が少し切れたのか、どっと疲労が押し寄せてきた。だが、弱音を吐くことはしなかった。

「どうにかして…ここからでなくっちゃね」

 敢えて言葉にすることで自らを鼓舞した。肩越しにユリムの体温が同じ衣を通じてじんわりと伝わってくる。何よりも一人でないことが心強かった。

 リョウはそっと顔を上げた。被きを留める飾りがシャララと微かな金属音を出す。

「あそこの明り取りからなら…小鳥を呼べるかなぁ」

 ―夜が明けたら。

 懐の巾着の中、義父ファーガスの友人でもあった鷹匠ウーイマから貰った呼び笛に手を伸ばした。ツレであったオオタカのリューリクは王都(スタリーツァ)だろうから、ここでその声に答えてくれる獣がいるだろうか。分からない。でも試す価値はある。


「……済まない」

 小さく絞り出すようにユリムが言った。結局、自分の厄介ごとに巻き込んでしまったと言いたいのだろう。リョウは手首を繋ぐ鎖を手繰り寄せるとそっとユリムの手を握った。冷たくなって震える指先に薬草臭くなった自分の手を静かに重ねた。

「どうして謝るの?」

 元より危険は承知の上だった。それでもこのような展開になってしまったのは、どこかで認識が甘かった自分の所為であるのだ。術師組合のミリュイからもシェフからも、人買いの元から逃げてきたユリムが見つかって、再び囚われる可能性があると言われていた。ならばお互い様だろう。

「それよりも、探し物は…アレだったんでしょう?」

 このブラクティスと呼ばれた男が持参していたもの。あれはきっとユリムが探していた故郷の秘宝だ。あの品は、今、どこにあるのだろうか。結局、入り札は有耶無耶になって、二番手の入札者に落札されてしまったのだろうか。

「ああ。だが、今となっては…どうなったか分からぬ」

 ―あの男め。

 ユリムは悔しそうにぎりりと歯を食いしばった。あの男たちの横槍さえ入らなければ、取引に持ち込めるはずだったとここに至る直前の出来事を思い返しているのかもしれない。

「でも、手掛かりが掴めただけでもよしとしなくちゃ。少なくともまだここにあることは分かったんだから」

 リョウは励ますように握った手に力を込めた。そしてゆっくりと目を閉じた。神経が昂っていた。でも休まなくては。この窮地から抜け出す手立てを考えなくては。

「少し眠ろう」

 明け方までまだ間がある。

 リョウはそっとユリムに囁いた。

「体力温存、ね?」

 明日に備えて。

 隣を伺うとユリムはまたきつく唇を噛み締めていた。その口元が微かに開くが音にはならなかった。そこに去来する気持ちを推し量ることはできない。でも一人で抱える必要はないはずだ。リョウは空いた手を伸ばして、額際、乱れて張り付いた髪をそっと撫でてやった。自分の肩へ頭を寄せるように促すとやっと少しだけ肩の力が抜けたように思えた。ほんのりと肩口に移る他者の温もりにリョウはそっと目を閉じた。



「起きろ」

 カチャリと金属のぶつかる微かな音にうつらうつらしていたリョウの意識は浮上した。ハッとして周囲に素早く視線を巡らす。建付けの悪い扉がギィと軋みを立てて開く寸前に発光石の明かりを消した。頭上の小さな窓から覗く空はまだ暗かった。


「移動する」

 立てと短く命令をされて、リョウは同じく目を覚ましたユリムと視線を交わすと小さく頷いた。光を失って床と同化していた発光石を手探りでそれとなく掴み、伏したままの怪我人の元に歩み寄った。

「この人は怪我人です」

 なんらかの配慮がされるか分からなかったが声に出さずにはいられなかった。

「もたもたすんな」

 出ろと顎でしゃくられてユリムは先に部屋を出た。そこで待ち構えていた別の男に腕を拘束されたようだ。リョウがブラクティスの名前を呼ぼうした矢先、男の目が機械仕掛けの人形のように開いた。そろそろと緩慢な動作で体を起こそうとしてその顔が苦痛に歪む。リョウは反射的に男の懐にその身を滑り込ませると肩を貸す形で男が立ち上がるのを助けていた。

「余計な真似を…」

 忌々し気に口にされたが取り合わなかった。憎まれ口を叩けるだけでも気力が回復したとみて良いのか、ただ、悪態を吐きながらもブラクティスは自力での歩行は無理なようで、ほとんど足に力が入っていなかった。よろめきながら大きな男の体をどうにか支えて歩く。怪我の為かは知らないが男が枷で繋がれていないだけまだマシだった。


 部屋を出てすぐ、外に出た。そこは川べりの粗末な桟橋のようで、小さな手燭(カンテラ)を持った屈強な男が二人、待ち構えていた。

「乗れ」

 最低限の指示の下、古ぼけた小船に乗り移った。先導する男、ユリム、リョウ、ブラクティスに船頭が一人。それだけで窮屈になる。どうにか身を寄せ合ってバランスを取れば、足元を照らしていただけの明かりがすぐに消された。


 辺りは青い闇に包まれていた。しんと湿り気を帯びた冷たい夜気が満ちていた。夜空の星々と雲間から覗く微かな月明かりが川面に反射する。家々から漏れる街の明かりだろうか、地上の星のようにチカチカと遠目に見えた。煌々としている方角は花街だろうか。リョウは頭の中で街の地図と方角を思い出し、今いるこの場所の目星をつけようとしたが上手く行かなかった。


 静かに滑り出した船は川を下っているようだった。夜が明けたら呼び笛を使おうと思っていた機会は逸してしまった。船頭は器用に舵を取り、小船を別の支流に入れた。川幅がぐっと狭くなる。目の届くところに両脇に高い壁がそそり立つように見えたので水路に入ったのかもしれない。そこから狭隘を右に行ったり左に行ったりとした。何か場所の手がかりになるようなものはないかと目をこらすが、闇の中ではどこも似たような石壁ばかりで、方向感覚は無くなっていた。


 やがて船が止まった。先程と同じような粗末な板を数枚繋ぎ合わせただけの桟橋に着く。そこから野面積みのようにでこぼこした石垣の階段を上がってすぐ、ぽっかりと口を開けた扉の向こうに押し込められた。暗闇の中、ざわりと中の空気が柔らかな壁のように揺れた気がした。


「くれぐれも妙な気は起こすなよ」

 男はそう言うと扉を閉め、鍵をかけた音が鳴った。その直後、ぎしりと微かな音を立てて、男が出て行った扉の反対側の空間が開いた。どうやらそちら側にも扉があったようだ。突然差し込んだ光にリョウもユリムも目を眇めた。

「こちらへどうぞ」

 平坦な女性の声が耳に飛び込んできてリョウは咄嗟に身構えた。早くその声の主を目で確認したいのに光に眩んだ瞳が元の視界を取り戻すまで時間がかかった。ぼんやりとした黒い輪郭が網膜に映る間、先に復活したユリムがリョウの手を取り促した。


 リョウとユリム、ブラクティスの三人が連れてこられた場所は、裏で人買い稼業をしているオフリートが取引に使う邸宅だった。各地で持ち込まれた商品を集め、その体裁を整えてから取引相手と直接交渉をする場だ。ここは単なる労働力を売り買いする場ではない。暇を持て余した貴族や金持ちの商人を相手に、様々な嗜好に合わせた余暇を提供するために作られた特殊な市場だった。商品はその価値を最大限に高めるためにここで客の好みに合わせて磨かれるのだ。


 部屋で待ち構えていた女は、この邸宅に連れてこられた商品の下準備をする役目を負っていた。あちこち汚れてよれよれになったユリムや片袖の取れた衣を着たリョウの姿を見ても、所々泥と血が滲んだブラクティスの様子を見ても顔色一つ変えなかった。

「湯をお持ちします」

 次の間で身を清め、衣類を改めるよう促された。ユリムに先に行くよう告げてリョウは怪我人の方を優先した。

 その部屋は最低限の調度類が揃った宿屋のような趣だった。ただ場末にある板張りの粗末な安宿ではない。貴族や金持ちが使うような上等な部類でもないが、そこそこ良い部屋で、それこそ買われてきた人間を置いておくには過ぎたような場所にも思えた。

 リョウはブラクティスを寝台に寝かせた。この移動は男にとっては限界であったようで、体を横たわらせるとすぐに意識を手放した。額がかなり火照っている。悲鳴を上げた体が熱を出させているのだろう。

 手早く己が身に着けていた過剰な装飾品や血で汚れた衣を脱ぎ去った所で、盥を手にした女がやってきた。

「リョウ、先に…」

 随分とさっぱりした様子のユリムが目線で女の手元を見やる。

「ありがとうございます」

 手当をするにも自分の手が汚れていたらしょうがない。礼を口にして小さな台の上に置かれた盥で手を清めようとしたところ、女がリョウの手首を掴んだ。何をするのかと思うよりも先に腕に嵌められていた囚人のような枷が外されていた。同じように足首に回っていた枷も外されてずっとのしかかっていた重みが消えた。思いがけない待遇の改善に驚いたが、それを口に出すことはせず、怪我人の治療を優先させた。

 それからブラクティスの衣服を慎重に脱がしていった。擦り切れた外套を脱がせ、既に緩められていた腰に巻かれた太い革のベルトを外す。様々な短剣がずらりと並ぶ装備類を外し、着物のように合わせになった上衣を剥き、下衣も取り去った。

 渡された布で泥だらけすすだらけになった男の体を拭いてゆく。露になった男の体は大小の傷が走り、鋼のような筋肉に覆われていた。それはリョウがよく知る男たちの体によく似ていた。この男は武人なのだろう。ユリムに付き従い共に長い旅をしてきたのだ。その目的をひた隠しにして。ユリムの話では二人の従者がいたという。一人に裏切られ、一人はユリムを守ろうと凶刃に倒れた。この男はユリムを殺そうとした。ユリムを窮地に陥れた張本人だ。それが今は共に囚われている。コイントスの如く反転した運命は随分と皮肉なものだ。ふともやもやとしたものに捕らわれそうになって、リョウは静かに頭を振った。今は、余計なことに気を取られている暇はない。

 間に合わせに衣を裂いて作った包帯を新しいものに替え、傷口を覆っていた部分も新しく薬を塗りなおした。途切れそうになる集中力をどうにかかき集めて、治癒の呪いを唱えた。術師としてこの男の怪我が少しでも早く治ることを祈った。それは偽りのない本心だった。

 熱に効く薬草を煎じて飲ませなくては。そういえば昼間から飲み物を一滴も口にしていない。それを認識した途端、ひりひりと焼け付くような喉の渇きを覚えた。

「どうぞ」

 まるで見計らったかのように女がコップを手に差し出していた。ごくりと喉が鳴る。一瞬、躊躇いを見せたリョウに、

「案ずるな、ただの水だ」

 ほのかに塩の匂いがするがな。

 先にコップを手にしていたユリムが微妙な顔をしていた。

「……ありがとう…ございま…す」

 かさついた喉を震わせてコップの縁に唇をつける。乾いた唇に生温いものが触れた瞬間、久しぶりの水を貪るように飲み干していた。

 次の間に備え付けられていた台所を借り薬湯をこしらえると意識が朦朧としている怪我人にどうにか飲ませた。苦いものなので吐き出されるかと思ったが、それ以上にこの男の体も喉の渇きを覚えていたようだ。何度か分けて薬湯を飲ませ、口直しに水を少し飲ませる。するとようやく落ち着いたのか、男は静かに眠りに就いた。

 それからリョウも次の間で簡単に湯を使わせてもらった。浴槽というよりも盥のような小ぶりのものだが、桶を使い掛湯をして体の汚れを落とした。用意された衣服に袖を通す。形状はユリムと同じもので、ズボンに左右の衣を前で合わせて腰ひもで留める膝下丈の上衣だった。この国で見受けられる頭から被る形の貫頭衣でないのは、何か意味があるのだろうか。そう言えばブラクティスが元々身に着けていた服に形が似ているかもしれない。

 髪を布で乾かしながらさっぱりした気分で部屋に戻れば、寝台に腰を下ろしたユリムが、隣の寝台に眠るかつての従者の姿をじっと見つめていた。この部屋に寝台は二つだけ。置かれた状況を考えれば寝台があるだけ十分過ぎるほどなのかもしれない。

 リョウは静かにユリムの隣に腰を下ろした。思いのほか柔らかな感触に腰が沈む。

「……あ」

 何かに気が付いたリョウが小さく息を漏らせば、ここに来るまでに身に着けていた服は女がどこかへ持っていってしまったとユリムが言った。

「だが、あれは無事だ」

 その視線の先をたどれば、寝台脇に置かれた机の上にリョウが衣の下に身に着けていた薬草や道具類が一式入った巾着、短剣の収まった革のベルトなど細々とした私物が置かれていた。念のため確認すると呼び笛も残っていた。

「よかった」

 大事なものが残されていたことに心から安堵の息が漏れた。それにしても妙な具合だと自分たちが置かれた状況を思う。人買いらしき男たちに連れさられたというのに身ぐるみ剥がされたわけではない。ミリュイが用意してくれた衣服、装飾品の類は持ち去られてしまったが、ユリムとリョウの首にかかるキコウ石のペンダントは奪われず、武器となる短剣もそのままにされていた。男たちはリョウたちが抵抗すること、逃げ出すことを意に介していないのか、いや、そもそも怪我人を抱えたままここから逃げ出せるとは思ってもいないのかもしれない。

 ふと窓の外の景色が明るさを帯びているのに気が付いた。黒々とした闇が青を纏い始めている。もうすぐ夜が明けるのだろう。

「リョウ」

 囁くようなユリムの声にリョウは我に返った。

「休め」

 寝台の端にごろりと横になって空いた空間を指し示す。明日もきっと長い一日になる。その前に少しでも疲れを取っておかなくては持たない。

「うん」

 まくられた上掛けの中に潜り込むと疲れた体を横たえた。緊張の糸がそこで切れたのか、リョウの意識はそこでふっつりと途絶えた。

 瞬く間に眠りに就いたリョウの傍らで、ユリムはそっと上掛けを肩までかけなおすと少しやつれた頬にかかった湿り気を帯びた黒髪を指先で払ってやった。

 ユリムも目を閉じた。そばにあるもう一つの温もりを守るように抱き締めながら。


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