4)落とし穴
カタカタカタカタカタカタ……………。
微かな振動が全身に伝わり、肌の表面を舐めるように見えない波動が足先から頭の天辺に抜けて行った。振動は不規則な揺れに規則性のある大きな波と小さな波が複雑に絡み合うようにして繰り返されていた。命が育まれる前からずっと途方もない時間をかけて、まるで永久と錯覚するが如く絶えず打ち寄せる波のように。
海からの潮風がツンとした独特な香りを運んで来ていた。海藻が朽ちる滅びの匂いは、初めは顔を背けたくなるほどに不快感を抱いたとしても、慣れてくるとそれが何故か癖になる常習性を帯びている。遥か遠く、この瘤のように突き出た僅かな土地をぐるりと囲む青い水面は、ぎらついた夏の太陽光を細かく砕いた鏡の欠片のように反射して、陸に暮らす人々の目を眩ませた。
ガタン…ガコ…ン。
一際大きな揺れに体全体が揺さぶられて、暗闇に沈んでいたリョウの意識は唐突に浮上した。
「…っツ……」
刺すような痛みが側頭部の奥に響いて思わず眉間に皺が寄った。網膜の裏側がじわじわと視界全体がぼんやりと灰色の靄がかかったようになった。飛蚊症のように黒い影が点となってちらついた。深い影の中にちらちらと光が浮かび上がっていた。
「大丈夫か?」
すぐそばで聞こえた囁きにリョウは身じろいだ。片側にあるほんのりとした熱を辿ると柔らかな白い布が見えた。次にベルトから伸びた飾り紐が目に入る。
―ほら、素敵でしょう? これ見つけるのに苦労したんだから。
男性にしてはやや高めの柔らかな絹のような声が蘇った。弧を描く艶やかな唇も。
拳二つ分を横に並べたほどもある太い帯には、細かい刺繍がびっしりと施されていた。本来あるべき貴石の縫い取りこそなかったが、金糸銀糸を巧みに使ったその意匠はリョウがこれまでに目にしたことのないような変わった幾何学紋様だった。贅沢な手仕事の品だ。
そうだ。これはミリュイが用意してくれたものだ。ミール連中が陰で関わっているという特別な品評会に参加する為にユリムと二人でサリダルムンドの主従を装って出かけたのだ。
「っ…ユ…リム?」
我に返ったリョウがハッと飛び起きようとした時、再びガタンと大きな横揺れが襲って体の平衡を崩した。転げそうになった体はすぐ脇から伸びてきた腕に引っ張られたが、腰と肩、膝裏の辺りを硬いものに強かに打ち付けていた。乾いた殴打音が響いて体の節々に痺れに似た痛みが走った。
リョウは木の板の下で尻餅をついていた。掌をざらりとした砂の感触が掠める。訳が分からないままぼんやりと辺りを見渡せば、粗末な木製の壁が四角く空間を切り取っているようだった。板の間の隙間から差し込まれる光が辛うじてその場を照らす。目が慣れてくると漸く状況が認識できるようになってきた。
カタカタカタカタと小刻みの揺れが尾てい骨から這い上がってくる。不安定な揺れに体が平衡を求めているのが分かった。
とても狭い箱型の空間に押し込められていた。ガタガタとした規則的な振動が尻の下、足元からも伝わってきた。落ち着いてくれば車輪が回る音がする。馬の蹄の音も。鞭が虚空を切るひゅんとした風の音も。
「……馬車?」
何故、どこに向かっているのだ、ここはどこなのだと頭に浮かんだ問いを口にしようとした矢先、
「行き先は分からぬ」
ユリムの平坦な声がして身体を浮かしかけたリョウに座るようにと囁いた。辺りを漫然と見渡せば、この場にはユリムとリョウの二人しかいないようだった。暗くなった隅の方に幌をかけたような荷が置かれていた。
なぜこんなところに二人で押し込められているのだろう。何がどうなっているのだ。ぽつりぽつりと湧水が砂地から湧くように疑問が浮かんでは消えた。
今朝方、伝令と共に迎えに来たのは立派な内装の馬車だった。それがどうだ、今は荷駄を運ぶには小さい、粗末な箱型の馬車のようなものの中にいた。
立ち上がろうとして足首と手首にずしりとした重みがあることに今更ながらに気が付いた。ゆっくりと視線を下に動かした所、黒ずんだ金属の枷と鎖が服の合間に覗いていた。堅さと冷たさを唐突に意識した。
「か…せ?」
拘束されているのか。いまいち状況を把握できていないリョウにユリムが事もなげに言った。
「囚われた。あの男と」
―再び、奈落の底に…な。
光が辛うじて届くか届かないかの薄暗がりの中、表情を消して淡々と口にしたユリムの瞳は仄暗い諦観に彩られているように見えた。その黒い瞳に怒りが火花のように散り、生気を奥に吸い込んでいった。
その時になってやっとリョウの脳裏に少し前の出来事が思い出されてきた。
サリダルムンドの品だという最後の商品への入れ札を行った後、別室へと案内された先には、ユリムの知り合いである同郷の男が出品者として待ち構えていた。男の要求はユリムが宿屋の主から預かっていたはずの鍵を渡せと言うものだった。その鍵は男が手にしている大事な商品が入った小箱のもので、今回の競売にはどうしても必要なものだった。
ユリムは交渉の末、小箱の中身、つまり競売にかけられた香炉と短剣を見せることを条件に相手に鍵を渡した。その時、支配人が入れ札の入った籠と共に遅れてやってきて、買主を選別し始めたのだ。この地域で流通する金貨ではなくキコウ石を対価として記入した札に出品者が興味を持った。その札はユリムとリョウが入れた一枚だった。
あの時、順調に行けばユリムとリョウが出品者との交渉の卓に着くはずだった。突如として現れたあの男の声を聞くまでは………。
「さぁて、積もる話はそこまでにしてもらいましょうかね」
室内の扉が突然断りもなしに開いたかと思うとそこからぞろぞろと黒尽くめの服に身を包んだ見るからに屈強な男たちが入ってきた。卓を囲んで長椅子に座っていたユリム、リョウ、ブラクティス、支配人たちをゆっくりと円を描くように取り囲んだ。
そして最後に現れた男が室内に揃う人影を認識するなり皮肉気な笑いを浮かべた。
「ミシュコルツ」
男は支配人の名を呼び、目配せをした。細く整えられた口髭を摘まむように指で触る。
「商品をもらい受けに来ましたよ」
先ほど黒服の男から連絡をもらっていた支配人は合点したように頷いた。その瞳が一瞬鋭さを帯びて卓に着いたサリダルムンドの貴人に流れた。
「ああ、どうぞ。構いませんよ」
支配人は武骨な口髭の下からにっこりと人好きのする笑みを浮かべる。
闖入者の男は、つと隣に視線を流した。その眼差しはぞっとするほど冷たいものだった。男の口元が弧を描いた。口元に当てられていた指には幾つもの貴石が嵌っていたが、その中指が短いのが些細なことだが人目を引いた。
「残念でしたねぇ。そちらはやはりグルでしたか。私としたことが良いように騙されてしまいましたよ。ですが、遊びはここまでです。こちらも色々と迷惑しましたからねぇ。この間の落とし前はきっちりと付けさせてもらいますよ。もちろん利子をつけて」
男が無言で出した指先の合図に黒服が音もなく動く。
「…な…んだと?」
ブラクティスが身じろぎ小さく声を上げた隣で、ユリムは大きく目を見開いて声を無くしていた。その顔色は血の気が引き白くなっていった。
「誤解だ。俺は貴様にこいつを売り払った。取引はそこで終わりだろう」
黒服の手が伸びる中、ブラクティスが一歩前に出た。傷が癒えていない身体は思うような抵抗ができずにすぐに動きを封じられた。
「ええ、そうですねぇ。あの時は通常の取引で終わるはずでした。ですが、どうしてか逃げられてしまったんですよ。もう買い手も決まり商談がまとまっていたというのに、とんだ恥をさらすことになりました」
そう言って青白い顔を強張らせて立つ貴人に流し目をくれた。
「私には関係なかろう。商品管理ができていなかったのはその方の落ち度だ」
自分は端から関係ないとブラクティスは主張したが、
「本当にそうだとでも?」
人買いの男は疑わしい目を向けた。
「当たり前だ」
「ではなぜ、このような場で仲良く交渉を行っているのですかな?」
「それは……偶然だ! こやつに関係なく私はここで持参した品を競売にかける予定だった」
ユリムがここにこうして客人然りとして現れたことはブラクティスにとっても予想外のことだった。もとよりユリムは奴婢に堕ちて遠くにやられるかしているだろうと思っていた。元々殺す予定だったのだ。それをどうせ金になるならと人買いに売ることにした。
ブラクティスは売られたユリムが逃げ出したことに自分は無関係であると主張したが、男の心証は芳しいものではなかった。
「クソ、貴様、どうやってあの場から逃げ出した? 貴様さえ大人しく売られていれば…」
奥歯を噛みしめたブラクティスは怒り狂ったようにユリムを見た。本当は掴みかかろうとしたのだが、黒服に拘束されて身動きができなかった。
「ふん、貴様がそれを聞くか」
ユリムはあがくかつての同胞を冷ややかに見ていた。
リョウがユリムを庇うように前に立った時、黒服の男たちは小柄な二人をいとも簡単に拘束した。
「商談の途中です。どうぞお引き取り下さい」
自分たちはこのような扱いを受けるいわれはないとリョウは突然現れた男を毅然とした態度で見返した。
「商談? それは面白いですねぇ」
男の細い口髭が愉快そうな笑いに震えた。
「ではそのままこちらの商談にかからせてもらいましょうか。よろしいですよね。ミシュコルツ?」
男の声に支配人は狡猾そうな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。構いませんよ」
「ではその者らを連れて行きますよ」
男の合図で黒服たちが一斉に動き出す。そのまま部屋から連れ出されそうになった所でリョウは声を張り上げた。
「ちょっと待ってください。我々をどうするというのです? この街では人身売買はミールによって禁止されています!」
正論を口にした従者風情を男は嘲るように笑った。
「おや、この品評会に参加しているあなた方がそのようなことを口にするのですか」
ここはミールであってミールではない。ミールの法規制や常識は通用しない。そのようなことも知らないのかと相手の無知さを嗤った。
「ではこの機会に教えて差し上げますよ。ここがどんな場所であるかをね」
―連れて行け。
男が指に光る赤黒い石をぺろりと舐めた。まるで血を欲する悪魔のようだった。
「ちょ……」
それからは声を上げる間もなかった。顎をしゃくった男の合図で中にいたブラクティス、ユリムも一緒に引っ立てられる形になった。もちろん抵抗したが、非力なリョウやユリムの抵抗などたかが知れているだろう。ブラクティスも抗ったが、腹に一発当身をくらい、気を失った。そうこうしている内に鼻先に眠り薬のような不可思議なものを嗅がされて昏倒したようだった。
「ユリム、もしかして………」
カタカタと歯車が軋み、小刻みに揺れ続ける中でリョウは息を殺した。嗅がされた薬の影響か頭の芯が鈍い痛みを訴えていた。
「あそこにいたのは………」
かつて旅をしてきた仲間なのか。
何をどう聞いたら良いのだろう。とりとめのない思考の中で何とか考えをまとめようと言葉を探していると、ユリムがじっとリョウを見返していた。
「あの男、ブラクティスに騙されて俺は売られた。本当は殺されるところだったんだが、あいつは金になると思ったんだろう。で、その先にあの男がいた」
あの男は人買いで、逃げ出した商品であった自分を取り戻しに来たのだろうと淡々と言い放った。
「これがその証だ」
板の隙間からやっと陽光が微かに漏れ入る薄暗がりの中でユリムが身じろいだのが分かった。じゃりと重い金属の擦れる音かする。ユリムは再び自分たちにはめられた枷を指していると気が付いた。
「…この…枷が?」
以前、リョウがユリムを助けた時、鎖は千切られていたがその手足には特殊な枷が付けられていた。術師が特別に加工を施した硬い金属で作られていて、ユルスナールたちでも壊すのは大変だった。外すにはまずリョウがかけられた呪いの解除を行わなければならなかった。これがあの時と同じようなものだとしても今は壊し方を知っている。それにリョウは術師だ。力はなくとも同じ術師が施したであろう術式は無に戻せる、いや、なんとしてでも戻してみせると心に誓った。
「ユリム、怪我はない?」
「ああ」
自分の心配よりも相手を優先させたお人好しにユリムは言葉にならない苛立たしさを感じてしまった。一人きりでないことが、その一言がどれだけ心強いか知れないのに相手の能天気さに触れると腹の中に言葉にならない苛立ちが溜まってゆく気がした。
自分が巻き込んでしまったというのにリョウはユリムを詰らなかった。どうして平然としていられるのだろう。それが不思議で仕方なかった。
堅く引き結んだユリムの口元、唇の端が薄っすらと切れているのはなけなしの抵抗の証だったのだろうか。
「そなたは?」
「ワタシ? うん、大丈夫」
怪我はないようだとリョウは微笑んだ。
「どこに向かっているんだろう?」
半ば無意識にか、ぽつりと漏れた呟きに、
「さあな」
返されたのはそっけない返事。カタカタと車輪が揺れる乾いた音が沈黙を埋めようとしていた。
人買いが「商品」を集めておく倉庫だろうか。それともこのままどこかに売られてしまうのだろうかと何とはなしに考えてゾッとする。その思いつきを否定してしまいたかったが、どう転ぶにしても状況は悪いに違いない。
不意にリョウの脳裏にミールと騎士団が共同で当たっている捜査の中に子供が次々に行方不明になっているという案件があったことを思い出した。人攫いが目立って横行してきているとのことだった。船の事件ですっかり忘れていたが、人買いで暴利を貪る地下組織があることを聞いたばかりだ。
そして、あろうことかあの場所で運悪く見つかってしまったのだ。ユリムのこともあってこういう展開があり得ることは頭のどこかで考えてはいたが、楽天的な気性のリョウはやはりどこかで甘く考えていた。これだけ立派な身なりをして身元も明らかであれば大丈夫だろうと、同じミールの組合員ならば妙なことにはならないだろうとたかをくくっていた。
あの時、人違いだとシラを切ることすらできなかった。あのブラクティスとかいうサリド人がいたために。しかも取引を行った当事者たちが揃っていたのだから。運の悪さ、巡り合わせの悪さ呪ってしまいそうになる。
ミール会員であるという肩書きはここでは全く通用しなかった。リョウがまだまだ新参者であるということもあるのだろうが、あそこは別の法則が動いていた。術師組合のシェフやミリュイの厳しい忠告が、今なら理解できた。と言っても後悔先に立たず。今となってはどうにかしてこの窮地を切り抜けなければならない。
さぁどうする。リョウは不安に逸る鼓動を落ち着かせようと大きく深呼吸をした。
その後も馬車は進み続けた。ひどかった揺れは収まり、潮の香りが鼻につくようになった。
それにしても手足が重い。腕を動かすのも体を動かすのも一苦労だ。これではすぐに逃げられないだろう。
―なんとかしなくちゃ。
リョウは心の中で気合いを入れるとどうにか力を振り絞って、そっと服の上から自分の身体を探った。懐の奥、常備薬の入った小袋と太ももの内側に巻き付けてある短剣を探った。
忍ばせていたものはまだ残っていた。身ぐるみ剥がされる可能性もあったが、まだ大丈夫だったようだ。大した抵抗などできないと侮られたのだろうか。それともこうして着飾っていた方が取引に好都合なのか。向こうの思惑は分からなかったが、リョウにとってはありがたかった。これがあればなんとかなるかもしれない。
「ユリム、短剣は?」
ユリムも重ねた白い上着の下にリョウが与えた短剣を忍ばせていた。万が一のために持ち主以外の手で簡単に鞘から抜けないように呪いがかけられている。
ユリムが身じろぎ懐を探る。
「無事だ」
その言葉にホッとした。
得物は取られていない。ユリムも着ているものは同じだった。頭を覆っていた薄布は剥がれ首元にたわんでいたが、額にあった留め金も首飾りのように下に落ちていた。襟元が少し乱れているが手荒い真似をされたようには見えなかった。身につけている宝飾品も無事だ。ただ、今後は分からない。
キコウ石の詰まった軍資金はおそらくあの支配人に取られてしまっただろう。そう言えば一緒に捕まったはずのあのブラクティスという男はどうなったのだろうか。出品したあの小箱は……。次々に湧いて出てくる問いを一旦封じ込めた。今、しなければならないのは自分たちの心配だ。
大丈夫。今回もきっと逃げ出す機会はある。どうにか騎士団につなぎを取らなくてはならない。いやミールの術師組合が先か。絶対に逃げ出してやる。このまま売られるなんて冗談じゃない。
リョウがこれからの方策を頭の中で必死になって探っていると、沈黙の中にユリムの低い声が響いた。
「……すまない」
「え?」
「巻き込んでしまった」
じっと暗闇の中、一点を見つめながら険しい顔をしていた。
深く沈んだ様子のユリムを前にリョウはからりと笑い飛ばした。
「そんなの今更でしょう? ワタシが自分で首を突っ込んだんだから。それを言うなら、謝るのはワタシの方。こういう事態になるかもしれないってことを分かっていたつもりなのに、それでもやっぱりどこかで甘く考えていたから」
こんなことになったのだ。これではユリムの保護者失格だ。あれほどミリュイやシェフに釘を刺されていたというのに。
「大丈夫」
リョウは敢えて自分を鼓舞するように言った。その手が微かに震え振動が枷を繋いだ鎖を鳴らしていたことにユリムは気がついた。
「このまま売られるなんてごめんだもの。絶対にどうにか逃げる方法を見つけなくちゃ。シェフだってミリュイさんだって、それにルスランだって……」
きっと心配するだろう。そのためには慌てず冷静に情報を集めて状況を判断しなくては。
「大丈夫。今度だって」
上手く隙を見つけて逃げ出せるに違いない。
言霊ではないがリョウは敢えて肯定的な言葉を口にした。重い手を伸ばしそっとユリムのそれに触れた。
「大丈夫、きっと。ね?」
「ああ」
微笑んだリョウの手を握り返した力は小さくとも確かなものだった。




