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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第五章 消えない傷痕
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7)けぶる狼煙

狼煙は「のろし」 その昔、乾燥させた狼の糞を燃やして煙を出していたので、この漢字が使われているそうですね。


 その日、街のあちこちで、同時多発的に見えない煙が静かに立ち上った。


 大勢の男たちが徒党を組んで通りを歩いていた。粗末な服に手には剥き出しの刃物が握られている。得物を見せ付けるように男たちの歩みに合わせて鈍い光りがチラリキラリと陽光を反射する。

 男たちは道の真ん中を堂々と歩いていた。通りを行く人々は目を伏せ、関わりになることを避けて、道の端に退いた。そして、どこか不安げな面持ちで通り過ぎて行く集団を控え目に見ていた。

 異様な光景だった。まるで闇の中から淀みが表に抜け出て来たかのような。肩で風を切る男たちの目付きは鋭く、その出でたちはゴロツキや無頼漢と変わりがなかった。手首に巻かれた茶色の布と額から頭を覆う生成りの布。そこに染められた型抜きの紋様を見て思い当たる節がある者もいるだろう。橋向こうの一角を統べる徒党の証だった。


 こんな日の高いうちから、しかも集団で、どこへ向かおうと言うのだろうか。しかも物々しい出でたちだ。まるで殴り込みをかけに行くかのようだ。男たちの足取りは確かなもので、当て所なくぶらついている訳ではないようだ。

 先頭を歩くのは、人目を惹く丈夫の輩だ。堂々として猛々しき(おのこ)だ。その左右を影のように付き従う目付きの鋭い男たち。彼らが醸し出す雰囲気から一目で堅気の者ではないと知れる。

 ―ピュタクの(かしら)だ。

 誰かが囁いた。その囁きは、通り過ぎる男たちの流れに合わせて、先触れのようにさやさやと広まって行った。

 前方から一人の男が駆けてきた。物見に行っていた手下だろうか。男は集団に合流すると腰を低くしたまま頭目に二言三言、声を低く告げた。

「手はずは万事整ってぇおりやす」

「御苦労」

 頭が小さく頷くと男はさっと脇に退き、小路の影の中へと走り去った。

 そして再び、数多もの配下を従えた男は、道のど真ん中を悠々と歩いて行った。



 それから程なくして、物々しい男たちの姿は、とある店先にあった。繁華な大通りに面した立派な店構えの商店で、軒下に紳士淑女と思しき男女の絵姿の看板がぶら下がっていることから服地などに使う織物を商う大店 であることが分かるだろう。


 カウンターに寄り掛かり、男は手にした拵えの見事な短剣(ナイフ)に付いた飾り紐を弄んでいた。

「よぉ、旦那、こちとらぁ約束の期限をきっかり守ってぇもらえりゃぁ、それでいいんだ。なぁにも難しい話じゃぁねぇ。そうだろ、おい?」

「へぇ、全くもってその通りでございます。手前どもと致しましても、お約束を果たしたいのは山々なんでぇございますが、何しろあの一件で大きな損を被ってしまいまして。それはもう、日頃からお付き合い頂いております先さまへもお願いに上がりまして、支払いを待って頂いている塩梅でして。次の商いにはきっと用立ててお返しいたしますんで、どうかもう暫く、ご猶予を頂けないでしょうか」

 店の主は平身低頭、しきりに揉み手をして相手の御機嫌を窺っている様子だった。顔には狡猾な商売人らしい薄笑いが浮かぶ。

 だが、その表情の下に隠れるこの商人の本心をよく理解していた男は、微かに笑った。

「そういうわけにはいくめぇよ。俺はぁ決めごとはきっかり守らなきゃぁダメな性分だ。こんだ(今度)の分は、利息も合わせてきっかりもらっていくぜぇ?」

 男の冷ややかな視線が主を射抜いた。

「ですが、再三申し上げておりますように、うちにはお支払いをしたくても、先立つものがございません。本当にどうしたものかと弱り切っておりまして……このようなことは初めてで……」

「なぁに案ずるな。金がなきゃぁ、別のもんでぇかまわねぇ。お前さんとこのやつらのように金じゃなきゃぁ駄目だなんてぇきゃぼ(野暮の最上級)なこたぁいわねぇさ。きっかりもらっていってやるよ」


 いつもなら大抵上手く言いくるめられて引き下がるはずなのに。どうしたことか、男は去ろうとしなかった。

 異変を感じ取って額に冷や汗を流す大店の主を余所に、男は口の端を吊り上げると、側に控えていた手下に合図を送った。

「おいお前ら」

「へぇ」

 主の意図を汲み取った男たちは、店内に並んだ商品を次々に手に取り、持参していた袋の中に無造作に入れ始めた。

 それに驚いたのは、この店の主だった。

「な! そいつはどうかご勘弁を。売り物がなければ、商いになりません」

 店の棚に手をかけた荒くれ者の風体の男に店の主は思わず取り縋ったが、力ずくで突き放されて、床に尻餅をついた。

「旦那さま!」

 店の隅に控えていた下男が、倒れた主人を案じて走り寄った。同じように突然現れた柄の悪い連中に驚いて、もの影に潜んでいた売り子やお針子の女たちは、益々身を縮めて、小さな声にならない悲鳴を漏らした。彼らの顔には一様に恐怖の色が浮かんでいた。

 震える店の者たちを尻目に、借金取りの男たちは悠々としたものだった。売り物として棚に置かれていた反物をごっそり奪い、他に目ぼしいものがないかと店中の棚という棚、引き出しという引き出しをひっくり返す。

「旦那、約束はぁ約束だ。守ってもらうぜ」

「…そんな」

 悲愴に肩を落とした主に、男は手の内にある短剣の房飾りを弾きながら。尤もらしく笑った。

「あんたの事情は、こちとらぁ知ったこっちゃねぇんだよ。それが商いってぇもんだろう? 悪く思わねぇでくれよ」

 商売に私情を挟まないこと。それはミールの連中が後生大事に守る鉄則だ。それをそのままそっくりお返しして何が悪い。


 ―キャァ!

 そこにか細い女の悲鳴が響いた。

「かしらぁ、これはぁどうしゃしょう?」

 下卑た笑みを浮かべた髭面の男が、うら若い女の手首を握って現れた。どうやら奥の戸棚に隠れていたようだ。

「アリョーナ!」

 青ざめた顔をして身体を震わせているのは、近所でも美人と評判の大店の主の娘だった。

「…お父さま」

「どうしてこんな所にいるんだ! かぁさんと一緒に出掛けたんじゃなかったのか!」

「それは……だって……」

 悲痛な声で怒鳴った父親に娘は目を伏せて押し黙った。

 父親はすぐに声を荒げたことを後悔した。

「あんたの娘さんかい。どれ、顔をよく見せてくんな。こいつぁ、えらいべっぴんじゃぁねぇか。ちょうどいい、お前さんも貰って行くよ」

 何事もないように淡々と言われたその言葉に店中の者がぎょっとした。

「な! 娘は商売道具じゃぁござんせん。商いには関係ないでしょう!」

「そうかい? お前さんがこさえた借金だ。お前さんが返せねぇってんなら、娘に払ってもらうのが筋ってぇもんだろうよ」

「なんですって!?」

 思ってもみないことだったのか、大店の主は喉を震わせた。

「どうか、どうかお願いです。それだけはご勘弁を。お約束分は、今日の夕方までには用立ててきっかりとお返しいたしますから。どうか娘だけは…」

 ―お願いです。

 大店の主は、顔をくしゃりと歪めて涙ながらにこの場で采配を振るう男の足元に縋りついた。先程までの尊大さはすっかり鳴りを潜めていた。

 男は主の豹変を鼻で笑った。真っ直ぐに生えそろった男らしい眉毛の下にある瞳には、相手を蔑む冷やかな色さえ浮かんでいた。

「なぁ旦那、同じ台詞はぁ、もう何べんも聞き飽きたんだよ」

 これまで幾度となくこの店に金を用立ててきたが、ミールに正式に属していない男たちの商売を【下種の高利貸】と陰で侮り、借りた金すら期日までに返さないという時が続いた。


 本来ミールの組合員は、必要資金をミールの各組合、もしくはミールの管理する金貸しから調達するのが決まりだ。だが、そこでの限度額を越えてしまったのか、希望額の融資が受けられなかったようで、何に入用なのかは分からないが、この男はミール外の高利貸―所謂、闇業者―に手を出した。これまでミールの威光を笠に着て散々威張り散らしてきた男だ。男の方もミール組合員との繋ぎを得る為に、その態度を甘んじて受け入れて来た。

 だが、その我慢ももう終いだ。

 ミールの商人たちの選民意識には反吐が出る。自分たちがホールムスクを牛耳り、一番だと思っている。本来、手数料として然るべき金額を払えば誰でもミールの一員になれるはずであるのに、実際にはその仕組みは組合毎に異なる。許可証となる札―これを組合株とも呼ぶ―をもらう為に、あちこちに便宜を図ってもらう必要があり、その度に賄賂をばら撒かなければならない。その日暮らしの貧乏商人にはどうやっても手が出ない仕組みが出来上がっていた。そうしてミールのやつらは上手い汁を吸っているのだ。

この金貸しの男も苦い汁をたっぷりと飲んだ口だった。

 【流れ者】、【浮き草者】と誹りを受けてから、悔しさを胸内に火種の如く抱え、長い時間をかけてミールの者たちに対抗する体制を整え、自らの地位向上と勢力を拡大に力を注いできた。

 ここが潮時だった。


「おめぇさんは、その口で、いってぇどれほどの約束を反故にしてきた。あ? こっちが下手にでりゃぁ、いい気になりやがって。幾ら店構えがぁ立派でも、内証が整わねぇんじゃぁ、話にならねぇ。とんだ張りぼて(だな)だな、おい」

 男の挑発を受けて、由緒正しい大店の主は怒りに顔を染めていた。

「なんだと! お前らこそ、誰のお陰でこの街で商売が出来ると思っている? これまでも色々と融通をしてやっただろう? その恩を仇で返すのか? こんの薄汚いこそ泥め!」

 汚い罵り言葉に店にいたピュタクの男たちはいきり立った。

「あ? なんだと!」

「もういっぺん言ってみやがれ!」

「ぶっ殺す」

 不穏な空気が流れた外野を頭は一睨みで抑えた。

 怒りで赤くなった後、すぐに青くもなった斑模様の大店の主の顔を真っ直ぐ見据えて、ピュタクの頭は言い放った。

「あんたとの取引はぁ、これで仕舞いだ。貸した分はきっちりけぇしてもらうぜ。もちろん、あんた方がやるようにきっかり利子を付けてな」

 顎をしゃくった頭の合図に、男が娘を店の外に連れて行った。

「いやぁ、お父さま、助けて! やめて!」

 娘は顔を青ざめつつもなんとかして逃れようとするが、力の違いは歴然としており、びくともしなかった。

「おい! 娘をどうする! 返せ!」

 後を追おうとした父親は、他の手下が封じ込めた。娘の悲痛な叫び声は、店の外からも聞こえていた。

「あんたは大人しく借りた金をけぇすんだな」

 ピュタクの頭はそう吐き捨てると、仲間たちに撤収の合図を出した。

「おい! そんなことしてどうなると思ってる! 娘を返せ! 人攫いめ!」

「ぎゃぁぎゃぁうるせぇよ、クソオヤジ」

 ワーワー喚きながら突っかかってくる大店の主を手下の一人が殴りつけた。軽くした積りだったが加減が悪かったのか、主はそのままぐったりと意識を失った。

 仲間内からは嘲るような笑い声が沸き起こった。さっさと背を向けて立ち去った頭の後をぞくぞくと物々しい出でたちの男たちが付いて行く。最後、線の細い優男風の者が、ガチガチと恐怖に歯の根が合わなくなっているお(たな)者たちへ微笑みかけた。

「今夜、リュクセンの鐘が鳴るまで待ちましょう。それを過ぎたら、そちらの大事な娘さんはこちらでいいようにさせてもらいますよ。あれだけの器量よしならば高く売れるかもしれませんねぇ。頭の寛大な御心に感謝なさい」

 男たちが去った後、商品が全て無くなってがらんどうになった店内で、残された下男やお針子や店番の女たちは、震える身体を己が腕で抱えながらも顔を見交わせた。


***


 それから 暫くして。意識を取り戻した大店(おおだな)の主の姿は、ミール本部の一室にあった。

 髪を振り乱し、いつもはきっちりとしている服装も乱れ放題、顔を真っ青にして取るものも取り敢えず乗りこんだ先は、ミール本部の中でも主が所属する織物組合の事務所ではなく、長のイステンが居る執務室だった。


「お待ちください、ショフク 殿、一体どうされたのですか!」

 扉一枚隔てた向こうから配下の声高な制止の声がして、書類に署名をしていたミールの長イステンは、その手を止めた。

 荒々しいノックの後に、部屋の主の了承の声を待たずに勢いよく扉が開く。そのまま、まろびころびつ中に飛び込んできたのは、イステンもよく知る組合員の一人だった。

 顔を上げて「どうした」ともの問いたげに視線を投げたイステンに、織物店を営む大店の主は、息を整える間も置かずに口を開いた。

「……娘が、……娘が。……アリョーナが」

 ここまで大急ぎで駆けてきたのか、左胸に手を当ててぜぇぜぇと背を丸める。隣室にいた配下の者が主の背をそっと撫で、「大丈夫か」と声をかけようとした。それをなんとか片手で制して、織物店の主は折り曲げていた背を元の位置に戻した。

 そして今度は少しはっきりした口調で長に告げた。

「娘が、攫われました」

 イステンは握り締めていた羽ペンを傍らに置き、険しい顔をした。

「エンベルをこれへ」

 配下の者に合図をして自警団長を呼ぶように伝えた。

「ショフク、まず座りたまえ」

 別の部下が水差しからカップに水を注ぎ、それを長自らがショフクの手に握らせた。ショフクは促されるままに執務室内に置かれた応接用の長椅子に腰を下ろし、盃の中の水を震える手で一息に飲み干した。口の端から零れた水が、顎を伝い、大きくひしゃげたシャツの襟元を濡らした。

「どうだ? 少しは落ち着いたか」

「う……あ……はい」

 空になったカップを返してから汗で滲んだ額を拭うように顔に手を当て呻いた。

「ああ、なんということだ。あのごうつくばりのゴロツキめが」

 悲壮感たっぷりに身体を前後に揺らし、両手で顔を覆う。


 突然の呼び出しにエンベルが自警団の事務所より駆け付ければ、そこには身体を丸めてむせび泣く商人の姿とその光景をやや持て余すように斜交いの一人かけの椅子に座るイステンの姿があった。配下の者は、扉の前に立ち、いつでも用事を言いつかれるように控えていた。

「……ショフク殿?」

 平静とは余りにも異なる風采に内心戸惑いながらも声をかければ、織物店の主はがばりと顔を上げ、自警団の目にも鮮やかな青色の上下を涙に滲む視界に認めると立ち上がり、エンベルの元へ駆け寄った。

「エンベル! どうか、お願いだ。娘を助けてくれ。お礼はたんと弾む。私にできることならば、何でもする。だから。後生だから。ああ、アリョーナ。きっと今頃心細さに独り泣いていることだろう。ああ、なんてことだ!」

 おいおいと感情の振り幅のままに訴えかけられて、エンベルは探るような視線を父であるイステンに送った。

 だが、イステンは溜息を吐いて軽く首を左右に振る。どうやらまだ詳しい状況と経緯は訊いていないようだ。

「ショフク殿」

 エンベルは自分に縋る男の手を取って再び長椅子に座らせた。そして宥めるように肩先をそっと撫でながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「我々にできることでしたら、どのようなことでも力になりましょう。ですが、その前に、落ち着いてください」

「本当か!」

「はい。お約束いたします」

 涙に濡れたショフクの頬にそっと懐から取り出した布を宛がって、エンベルは無骨に微笑んだ。

「娘さんの身に何か良からぬことが起きたのですね? 何が起きたのか。詳しい経緯をお話しいただけますか?」

 逸る心を落ち着けるために、もう一杯、水を飲んでからショフクは先程の顛末を語った。


「娘さんを攫って行ったのは、ピュタクの連中ですね? 理由はなんです?」

 川向うの連中は、柄は悪いが意味もなく暴挙には至らない。あちらはあちら、こちらはこちらと縄張りがあり、街の中では明確な住み分けができていた。

 まさか横恋慕とかだろうか。あの娘を見染めたとか。いや、それはどうも違うだろう。エンベルはその考えをすぐに打ち消した。


 ショフクの店は織物組合の中でも羽振りの良い大店で、そこの一人娘であるアリョーナは、蝶よ花よと何不自由なく育てられた気立てのいい娘だ。組合内でも美人だと評判で、後継ぎとして婿に入りたい若者が大勢いる。

 エンベルは、先だって、ミールが開いた騎士団歓迎会の時の様子を思い出した。両親と娘、親子三人で宴に参加していたはずだ。すれた所のない評判通りの娘だったと思う。悪い噂も聞かない。あの娘とピュタクの連中の接点が思い付かない。

 じっとエンベルが主を見据えれば、ショフクはやや気まり悪げに眉を下げた。

「いや、その、まことにお恥ずかしい話なんですが……」

 そう言ったきり、中々話を切りだそうとしない。エンベルはちらとイステンを見た。父はこの男が言い淀む背景を知っているんだろうか。

 イステンは配下の者になにか指示を与えていた。

「ショフク殿、理由が分からなければ、こちらとしても対処のしようがありませんよ」

 やや突き放すようにエンベルが言えば、ショフクは「それは困る」と両手を握り締めた。

「実は……元はと言えば私の所為なんです」

 たっぷりと間を取ってから、ショフクは訥々と話し始めた。


 少し厄介な筋から借金をこさえてしまった。それがみるみるうちに膨らんでどうにも大変なことになった。

 その告白にエンベルは片眉を上げ、イステンは眉を寄せた。

「なぜそんなことを?」

 ミールの掟では組合員は、所属する組合、もしくはミールが管理する金貸しより資金を融通してもらうのが筋だ。何故、規則を破ってまでミールの外から金を借りたのだ。しかも法外な利を吹っ掛けられていたのだろう。

「あなたの店は古くからの大店だ。急に大金が入用にでもなったんですか?」

 エンベルの訝しげな声が執務室に響いた時、配下の者がイステンの側に寄り手にした帳面を繰りながらひそひそと何事か を耳打ちした。

 ショフクは額際の汗を手の甲で拭った。

「この間のあの事故で、私どもはかなりの損失を被りましてね。それでどうしても資金繰りに行き詰ってしまって………」

「闇金に手を出したと?」

 非難めいたエンベルの指摘にショフクは突然、激昂した。

「仕方がなかったんです! それよりもあの船の事件はどうなったんですか! まだ犯人が捕まらないそうじゃないですか! こっちはとんだ大損を被ったっていうのに! ああ、あの荷が無事だったら、こんなことにはならなかったのに。ああ、アリョーナ! 可哀想な子。父さんが不甲斐ないばっかりに……」

 そのまま、またぐずぐずと泣き崩れてしまった。

「で、借金の(かた)に、もしくは人質として娘を取られたと」

 感情を排除して簡潔に結論を述べたエンベルにショフクはハッと我に返った。

「そうです。このままでは娘が傷ものにされちまいます。何とも理不尽な話じゃぁござんせんか。どうか助けてください。今夜までに金を用意しないといけないんです!」

 ―お願いします。

 ショフクは縋るようにイステンを見た。

 だが、ミールの長は情に流される男ではなかった。

「借財はいかほどですかな?」

「【ゾーラタ()】で10ほど」

 エンベルが息を飲んだ横でイステンは淡々と続けた。

「それは元金ですか、それとも利息を含めてですか?」

「利息も含めてです」

「元金は、おいくらでしたかな?」

 若干の間の後、ショフクが観念したように言った。

「5ゾーラタ(金貨)

 利息だけで倍になっている。期日がどれだけだったのかは分からないが、相当吹っ掛けられたものだ。こういう問題(トラブル)を抱えない為にもミールの管轄下では適正な利を持って商いを行う金貸しから資金調達をするように徹底させていたはずなのだが。

 それを破ったのならば、主の自己責任だ。ミールにショフクを助ける義理はない。

 ふいに落ちた沈黙にショフクは恐々と息を潜めた。

「どうやら大分前から資金繰りに行き詰っていたようだな。普通に商いをしていればそこそこの儲けが出て、お前さんの店ぐらい上手く回していけるはずなんだが。この間の損失もそう酷いものでなかったとあるが」

 織物組合から提出された報告書を捲りながらイステンが言った。

 ショフクは目をしょぼしょぼさせている。

「それは、私どもの方でも色々ございまして、なんにせ不測の事態が続いてしまったので」

「ピュタクから借りねばならぬほど困窮していたと?」

「はい」

 ふぅと長い息をゆっくりと吐き出して、イステンはギロリとショフクを見据えた。

「余所でこさえた借金は、我々には関係がない。どうして我らの方でその方が勝手に行った違反の尻拭いをしなくてはならんのか」

 イステンは辛辣だった。

「そんな! これまで私も組合員の一人として、ちゃんと責務を果たしてきたではありませんか! 私を、娘を、お見捨てになるんですか? 組合員として長きに渡りミールを支えてきた私どもを切り捨てると仰るんですか! そんな薄情な。少なくとも娘は関係ございません。あの者らが行ったのは、人攫いと同じです。野蛮な行為だ。それを野放しにしておくのですか!」

 ショフクは、滲む涙を堪えて語気を強めて訴えた。

「どうか、形ばかりでもよいのです。せめて元金分くらいはこちらで用立てて頂けませんか?」

 5ゾーラタという大金を用意しろ。金貨が一枚あったら、庶民ならば一年は軽く遊んで暮らせる。そういう金額だ。だが、同時に日々巨額の富を動かすミールの勘定方から見ればささやかな額でもある。

 大店の商人だからこその金銭感覚とでも言うべきか。ショフクは、ミールがこの願いを聞き届けてくれるだろうと疑わなかった。

 しかしながら、イステンは厳しい顔付きを崩さなかった。

 そして、ミールの長として次のような決定を下した。


 必要な金は織物組合にて用意すること。交渉にはエンベルの采配で自警団員を連れて行くこと。ミールはピュタクと事を荒立てる積りはないが、組合員が取引の上で不当な扱いを受けるのであれば、見過ごすことは出来ない。

 組合員といえども違反者には厳しく。その余りにも色の無い沙汰にショフクは愕然として立ち尽くしたのだった。


これにて第五章は終わります。

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