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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第一章 国際貿易都市ホールムスク
4/60

2)商業組合ミール

「あの、すみません。新規登録はどこでしょうか?」

 細長い受付台(カウンター)と思しき場所に立つとリョウはその奥の机に座る官吏風の男に声を掛けた。同じような生成り色のシャツに黒の丈の長い【ジィレェート(ヴェスト)】を着て、書類を手に何やら眉間に皺を入れて難しい顔をして机に向かっていたのは、細面の男だった。

 男は、顔を上げると取って付けたような笑みを浮かべて見せた。リョウは、もしかしたら忙しいから他を当たってくれと邪険にされるのではないかとひやひやしていたのだが、男はそのまま机に書類を置いて、受付台の所にまで歩み寄って来てくれた。

「こちらのご利用は初めてですね?」

「は、はい」

 どこか緊張気味に頷いたリョウに官吏は鷹揚に微笑んで見せた。どうやら気さくな男のようだ。

「どちらへの登録をお望みでしょうか?」

「私は術師なので、術師もしくは薬師としての登録をお願いしたいのですが」

「紹介状はお持ちですか?」

「いえ。そのようなものが必要なんですか?」

 思ってもみなかったことを聞かれて、リョウは内心どぎまぎした。

「いいえ。勿論、無くても構いませんが、紹介状をお持ちになる方もいらっしゃいますので、その場合は、手続きの流れが若干異なりますから、こうして確認することが規則になっているのです」

 そこで官吏は人好きのする笑みを薄らと浮かべた。

「では、術師もしくは薬師への新規登録ということですね?」

「はい」

「こちらでは術師、薬師、共に二つの組合がございますので、其々個別に登録をしていただく形になります。通常、両方の資格をお持ちの方は、先に【術師】の方に登録をし、必要があれば【薬師】の方にも追加登録をするという形をとる方が多いようですが、どうなさいますか?」

 官吏の男は思いの外、丁寧に説明をしてくれたのだが、リョウはその質問に少し考えるように首を傾げた。

「あの、今更なのですが、登録にはお幾らかかるのでしょう?」

 初期登録は有料だという話をここに来る前、引き継ぎの為に残っている第六師団の事務方に詳しい兵士に聞いたのだ。だが、幾らかかるかという正確な金額は分からずじまいだった。リョウはそっと上着の内側、ベルトの手前に下げた小さな革袋に入っているお金を確かめた。手持ちの範囲で足りると良いのだが。

「はい。事務的な手続き料として一件に付き、25メーラチィ を頂いております」

 その返答にリョウはほっと胸を撫で下ろした。


 この国には金貨(ゾーラタ)銀貨(セェレェブロー)銅貨(メーディ)という三種類の貨幣(コイン)とその下に【メーラチィ】と呼ばれる小銭類が流通しているが、専ら庶民たちが日常生活で利用するのは、銅貨と小銭【メーラチィ】で、銅貨一 枚は50枚の【メーラチィ】にあたる。この国の物価を考えれば、25メーラチィというのは、やや高い気がしないでもなかったが――8メーラチィもあれば十分食事が出来るくらいだ――別段、法外な金額と言う訳でもなかった。リョウが財布として使っている小袋の中には少し多めにお金が入っていたので登録料は十分払えた。


「先程、術師である場合は、薬師への登録をしない場合もあるとのことですが、術師だけでも十分という場合が多いということですか?」

 リョウは慎重に言葉を継いだ。疑問点はあらかじめ明らかにしておきたい。

 リョウは最初、術師と薬師の双方で登録をした方が、巷には出回り難い薬草の入手や、逆にこちらから希少価値の高い薬草を持ち込み買い取ってもらう際に都合がいいのではと思ったのだが、その辺りの事情はどうなのだろうか。薬師での登録が無ければ薬草関係の問屋や店に融通が利かないということであれば、そちらも必要だが、術師としての登録だけで済むならば、それに越したことはないだろう。術師と薬師で組合が二つに分かれるということは、其々に規定やら雰囲気の違いもあるであろうし、なるべく簡単に済ませたいというのが本心だった。

「そうですねぇ」

 そこで細面の官吏は手を(おとがい)に当てて少し考える風な素振りをした。

「術師の認可をお持ちでしたら、その資格で薬師関連の方へも色々と融通は利きますので、無理に一度に登録をしなくてもよろしいかと思いますよ」

 そこで不意に声を低くした。右手の人差し指がピンと上向きに立ち上がる。

「ああ、勿論、これは(わたくし)のごく個人的な意見に過ぎませんがね。これでもこの場所でそれなりに長いこと働いておりますので」

 そう言って口角を得意そうにくいと上げた。

「そうですか。それでは御助言通り、最初に術師の登録をしたいと思います。その後、必要性を感じた場合には、薬師への登録も考えるということで」

「ええ。その方がよろしいでしょう」


 取り敢えずの登録先への心積りがついたところで、そのまま手続きの方もその受付台(カウンター)で行うかと思ったのだが、官吏風の男は徐にほっそりとした腕をリョウの背後の方へ指示した。リョウもそれに倣い顔を後方へ向けた。


 この建物は、入ってすぐ、三階までが吹き抜けになっており、外観の重厚さとは反対に開放感溢れる設計になっていた。正面の窓は小さいながらも十分に採光がされている。玄関の大きな木材の両扉から直ぐ、右と左の端に階段があり、それらを上るとこのホールを囲むようにコの字型に廊下が走り、各組合の事務所へと通じる扉が廊下に向かって整然と並んでいた。扉とは逆の廊下の一方には壁が無く、階段の石造りの手すりが人の胸下辺りの位置にあるので、この階下の場所からぐるりと上方を見上げると三階までの全ての部屋の扉が見えるという何とも分かりやすい作りになっていた。こうしている間も、三階の隅の廊下を物静かに歩く男性が一人、そして二階の廊下を足早に歩いて扉の中に吸い込まれてゆく二人組の姿が見えた。


 官吏は入って右側の階段を示していた。

「では、あちらの階段から一つ階段を上がりまして二階、ここからちょうど反対側のあの隅の部屋が、術師の登録を行う組合の事務所になりますので、続きはそちらでどうぞ」

「あの、こちらで登録手続きをするのではないのですか?」

 思わず疑問を口にすれば、官吏は器用に眉を片方上げてから目尻に皺を寄せて鷹揚に微笑んだ。

「ええ、ここは専ら総合案内所のようなものですね。この建物にはこの街で活動する商業組合の全てが入っておりますから、こうしてこの場でこちらを訪ねる皆さまの個別のご要望をお聞きして、必要な窓口へとご案内差し上げているのです」

「そうだったんですか。御親切にどうもありがとうございます」

 丁寧に謝辞を述べたリョウに受付台にいた官吏は笑みを深めてから持ち場に戻るべく背を向けた。

 そしてリョウは、今度こそ登録をする為に術師組合の事務所が入っているという二階の部屋を目指すことになった。


 階段を上り、二階に上がると直ぐ左側に今しがたまでいた正面入り口の受付台が見えた。そして先程の官吏が再び訪いを入れた別の男に案内をしていた。忙しくしているようだ。リョウがちょいと下方を見ようと顔を覗かせた時、先程の官吏の男と目があった。小さく会釈をすれば微かな笑みと共に頷き返された。

 そして再び体勢を戻すと教えられた通りの部屋を目指した。回廊には落ち着いた臙脂色の敷物が敷かれていた。廊下に向かって並ぶ同じ形の扉を幾つも通り過ぎる。これらの扉は全く同じように見えた。其々、違う組合が事務所として使っているのだろうが、その占有者を示す表札の類が全くなかった。これではどこに何が入っているのか、下の総合案内所の手引きがないと分からない訳だ。これでは初めて来た者には不便だと思いながらも、それだけここには中の状況を良く知る内輪の人間しかやって来ないのかもしれないとも思った。


 廊下を歩いていると目の前の扉が突然、音もなく開いて、忙しい足取りで中から男が出てきた。男は手に書類と思しき紙の束を持っていて視線はそちらに向いていたので、リョウはぶつかりそうになって慌てて脇に飛びのいた。男はリョウの存在を気にかけることなく、何やらぶつぶつと言いながら足早に通り過ぎて行った。

 そんなことがあってから。言われた通りの角部屋に通じる扉の前に到着した。焦げ茶色を基調にした深い色合いの彫の装飾が入った艶やかな扉だ。一見、この内部は表に比べると地味だが、良く見ると端々に繊細な彫刻やら飾りが付いていて、贅を凝らしてある気がした。



 ノックをして扉を開けば、そこは落ち着いた色合いの調度類と大きな花の意匠を紋様風にあしらった淡い黄緑色の壁紙が四方を囲む優しい色合いの部屋だった。入ってすぐの所に大きな机が二つ向い合せに並び、その手前には応接用の長椅子と小振りのテーブルが置かれていた。正面にある窓の下辺りの低い位置にはぐるりと周囲を囲む壁に沿って背の低い棚が並んでいた。

「こんにちは」

 どんな所でも初めて訪れる場所というのは緊張するものである。それが役所の場合は特に。

 恐る恐る中を覗けば、応接用の長椅子がある場所とは反対側の壁に置かれた長椅子に足を組んで座る人物がいた。

「あら、いらっしゃい」

 静かに入室したリョウにその人が顔を上げた。組合の係の人だろうか。リョウは、やや緊張気味にぎこちなく微笑んでから来訪の目的を告げた。

「あの、術師登録をお願いしたいのですが」

「あら、新規ね? どうぞ」

 ―――うふふふふ。

 リョウは視界から入る光景と耳から入る音――正確には声――に不思議な違和感を覚えて無意識にまじまじとそこに座る人を見てしまった。

 登録係の人だろうか。その人は独特な雰囲気を身にまとっていた。浅黒い艶やかな肌に淡い茶色の髪を後ろの高い位置にひっつめにして結い上げている。露わになった耳には、細い金の地金に色鮮やかな赤い石――アルマ 石だろうか――が数珠のように連なって付いている豪華な耳飾りが揺れていた。切れ長の瞳にはその縁に濃紺の隈取り(アイライン)が施され、目尻に向かって上向きに線が引かれていた。薄い口元にはもしかしなくとも紅が引かれているようだ。

 目鼻立ちのはっきりとした細面で華やかな人だった。すらりと伸びた長い手足は、少し風変わりな柔らかな生地のゆったりとした服に包まれている。術師がよく身に着けているような丈の長い地味な色合いのカフタンとはやや趣が違う。リョウがこれまで目にしたことのないような服装だった。異国の装束だろうか。


「どうかした? さ、こちらに座ってちょうだいな」

 リョウが思わず目を瞬かせてしまう要因は、その声にあった。外見は、少し体格が良いような気がしないでもないが、ややもすれば妖艶な女性のように見えなくもないのだが、その声が余りにも低かったのだ。これまでこの国で僅かなりとも積み上げてきた経験から判断を下すならば、男性的な深みのある声色で、リョウはこれまで自分が散々少年と間違われてきたことを棚に上げて、目の前の人物が女性なのか、男性なのかとつい気になってしまったのだ。

 だが、それをこのような所で突然尋ねるのは余りにも不躾である。この世の中には詮索してはいけないことがままあることは確かだ。

「いえ」

 間の悪さを誤魔化すように微笑むと促されるままに対面にある応接用の長椅子に腰を下ろした。

「ええと、新規の登録ね?」

「はい」

「あら、少し緊張してるの? 表情が硬いわ」

 不思議な雰囲気をまとった人が、深い声音でからかうように笑った。

 リョウは頭の片隅でなんだかとんでもない場所に足を踏み入れてしまったのではないかと思った。ここは本当に術師組合の事務所なのだろうか。

「いえ。お役所は久し振りなので」

 それが適当な回答になっていたかは分からない。

 これまで役所というものには余り縁が無かったが、王都にある騎士団の詰め所であるアルセナールを初めて訪れた時も目的地に辿り着くまでに散々な思いをしたことが不意に思い出されて、そういう過去の経験から無意識に気構えてしまっているのかもしれなかった。

「あら、役所は苦手なの?」

「……いえ、その…そういう訳では……」

 些か困ったように眉が下がり、リョウの耳にぶら下がる青い三連の石が付いた耳飾りが揺れた。この青い石は小振りながらも【キコウ石】の中の希少品【カローリ()】を使ったもので、結婚祝いにと義父のファーガスから贈られた品だった。数ある鉱石の中でも貴重な部類に入る【キコウ石】の青色は、代々シビリークスの男たちがその瞳に受け継ぐとされている血統の色だ。そして、その小さな青い石を繋ぐ地金は、一族の髪の色と同じ銀だった。同じ色合いのちょっとした装飾品の類は、他にも夫であるユルスナールからも贈られてはいたが、新しく義父となったファーガスからの贈り物は、自分がシビリークスの一員として受け入れてもらえたようで、とても嬉しかったのを良く覚えている。


 リョウは背中側にかけていた鞄を前に引き寄せて膝の上に置いた。

「ふーん?」

 リョウの前に足を組んで座っていたその人は、徐に立ち上がるとリョウの傍に歩みより、同じ長椅子の空いている場所に腰を下ろした。リョウは半ば長椅子の上で後じさるようになって背中を少し反らせた。相手はそこで長い脚を持て余すように組むと前屈みになりながらリョウの顔をじっと見つめた。観察するような視線だった。

 この国の人々の身体的距離が近いのは、経験上十分理解している積りではあったが、理由もなしにこうして急に距離を詰められるとどうにも落ち着かない。

「あの………な…にか?」

「ねぇ、あなた、男の子? それとも女の子?」

「……………」

 性別不詳な相手からの思いがけない問いかけにリョウは思わず吹き出してしまった。

「登録に性別が関係あるのですか?」

 ユルスナールの妻になってからはさすがにリョウを少年扱いするような者は周囲にはいなかったので、このように面と向かって性別を問われるのも久し振りのことだった。本当はそのままそっくり同じ問いを相手に返したかったのだが、初対面でそれはさすがに踏み込み過ぎだろうかと自重した。

 苦笑するように口元を右手で覆ったリョウに、その人は飄々と小首を傾げてみせた。

「いいえ。関係ないけど。ただね。そう、ちょっとした好奇心ってやつ?」

 そう言って茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。

 そこで、その人は不意に掌を前に向けた。

「ああ、でも待って。分かった。そう。あなたは……女の子ね。いや、子供扱いは失礼かしら。そう……れっきとした妙齢の女性……どう? 当たってる?」

 その人の視線の先には、リョウの右手の薬指に光る小さな指輪があった。銀の細い地金にシードパールのように小さくカットした【キコウ石】をぐるりと埋め込んだものだ。昨年、リョウが術師養成所の講師であったイオータから原石をもらい自分で鉱石処理を施して作った大きな【キコウ石】――しかも【カローリ】だ――の指輪は、普段使いには余りにも仰々しすぎるからということで(チェーン)に通して肌身離さず首に下げてある。シャツの中に入れた胸元には、この婚姻の証である指輪がひっそりとぶら下がっていた。

 その人は、じっと何かを見据えるように切れ長の瞳を細めた。まるで獲物を睨みつける【ズメヤー(ヘビ)】のようだと思ってしまったのはここだけの話だ。

「恋人………いえ、違うわね。その様子からすると夫がある身かしら? でもまだ結婚したばかり……とか?」

 ―――どう? 中々いい線行ってるでしょう?

 少し赤みのかかった色素の薄い瞳を輝かせてその人が言った。

 リョウは思わず目を瞬かせた。

「あの……占い師かなにかですか? それとも、そういう像が視えるのですか?」

 術師であれば、人によっては先読みを得意とする者もいるし、相手が身に着けている物やその人自身からまとわりついた過去の記憶を具現化出来たとしてもおかしくはなかった。ただ、この一瞬でそれが出来たとすればかなりの素養を持つ熟練した術師であると言えるだろう。

 面食らったリョウに対し、だが、相手はにこやかに微笑むだけで、その辺りのことを口にしようとはしなかった。

「大体、当たっていると思いますよ」

 一先ず、最初の問いに答えれば、その人は、

「あは、当たった?」

 右手の指をパチンと打ち鳴らしてからゆっくりと体を引いた。無邪気な顔をしていて、なんだかとても楽しそうだ。

 対するリョウは、体を引き起こすと背筋を伸ばして、

「リョウです。はじめまして」

 ―――オーチン・プリヤートナ

 と少し強引に話の流れを引き戻した。

「まぁ、ご丁寧にどうも。あたしはミリュイ・ツァーブ。ミリュイって呼んで」

 風変わりなその人はそう言って片目をつぶった。

 リョウは内心溜息を吐きたい気分だった。


「そうそう。登録だったわね」

 そこでやっとミリュイと名乗った係と思しきその人は、掌を打ちならして、軽い身のこなしで立ち上がると、後方の大きな書き物机の中から紙とペンとインク壺を持ってきた。柔らかな生地がふわりと舞い、どことなく甘い香りがリョウの鼻先を掠めた。

「これに記入してもらえるかしら?」

「はい」

 リョウは再び対面に座ったミリュイが気になって仕方がなかったが、一旦、雑念を振り払って紙を引き寄せると書類を記入することに集中した。

 書類は一枚、薄っぺらいものだが、四つの角に特別な印封が施してあって、文面は術師が印封に使う文字である古代エルドシア語で書かれていた。正式名称、出身、術師の資格をいつ、どこでとったのか。教授を仰いだ師の名前。専門とする分野。応用可能な範囲。他に得意とする分野などを記入する欄があった。リョウは、同じように術師たちだけが使う古代エルドシア語で空欄を埋めて行った。綴りを間違えないように慎重、かつ丁寧にしたためて行く。その様子を目の前のミリュイは興味深そうに眺めていたのだが、書類に集中して下を向いていたリョウは、そのことに気がつかなかった。

 一通り記入を終えるともう一度間違いがないことを確かめてから顔を上げ、書面を相手に差し出した。

 ミリュイはそれを手にとって、インクが乾く間も惜しむように真剣な眼差しで一読した。

「リョウ、エス()エス()。これは何の略かしら? ああ、勿論、差し支えなければでいいのだけれど」

「リョウ・サクマです」

 リョウは敢えてシビリークスという新しく付いた家名を出さなかった。

 それはユルスナールから事前に言われていたことでもあったからだ。その具体的な理由については後できちんと話すと言ったまま、結局忙しさにかまけてそのままになってしまっていたのだが、本名はみだりに口にしない方がいいと言われていた。

 シビリークスは王都では名の知れた一族だが、ここホールムスクでその名がどこまで届いているかは分からない。それでも、ここの住民たちは一般的に王都からやって来た宮殿関係者とそこに仕える貴族たちには余りよい感情を持っていないということを聞いた。なので、勝手が分からぬ慣れない場所でむやみに不安定要素を作る必要はないということから、最初の内は大っぴらに家名を出すことを控えるようにと言われていた。リョウは、夫のユルスナールが言わんとするこの街と王都との歴史的背景や軋轢等を上手く理解出来ていなかったが、自ら何かを判断するには余りにも知識や情報が少な過ぎるし、自分の身は自分で守るしかないので最低限の自己保全は心得ておこうと思ったのでその言いつけに従った。


「少し変わった音ね? 出身はどこかしら? あたし自身この国の出ではないし、この街にはもう随分と長いから、それこそ色んな国の人々を見てきてはいるけれど。あなた――ええと、リョウだったわね? リョウと呼んでも?」

 そこでリョウは一つ頷き返した。

「あなたみたいな感じの民を見るのは初めてだわねぇ」

 そこでミリュイの視線は書類の出身地の欄に止まった。

「スフミの先?」

 訝しげな声がした。それもそうだろう。リョウの顔立ちや色合いはこの国の民とは違う。それに、この国スタルゴラドの地図に記載されている最北端の村が、スフミだ。それより先は、西に方角を取れば北の砦で、北方は太古から続く【原始の森】が広がるだけだ。

「はい。ワタシは孤児で、そこで暮らす隠遁者のような人に拾われたと言えばいいでしょうか」

 真実は勿論言える訳が無いので、便宜上の設定をここでも口にすれば、案の定、訳ありだと思ったのか、ミリュイはそれ以上の詮索をこの時点でしようとはしなかった。

「そうなのねぇ。大変だったのね」

 そこで話題を変えるように小さく微笑んだ。

「術師の資格は王都の養成所で。ふんふん? ちょうど一年前ね」

「はい。それからはまた人里離れた田舎に戻って暮らしていたので、術師としてこのような組合に登録するのも初めてなんです。まだまだ未熟者の新米です」

「養成所では何を履修したの?」

「修了したのは、薬草学一般と鉱石処理、あとは祈祷治癒です」

 そこで何やらミリュイは興味深そうに頷いた。

「そう、祈祷治癒ができるのね。素敵だわ! この街は初めて?」

「はい。実はまた到着したばかりで右も左も分からない状態なんです。辛うじて家からここまでの道を教えてもらったくらいで」

「まぁ、そうなの? じゃぁ着いて直ぐにここに来たのね?」

「はい。取り敢えず、術師として活動するには、こちらに登録が必要だとさる親切な方にお聞きしたものですから」

 そこでミリュイの声音に変化があった。

「こっちには旦那さんも一緒に?」

「そうですね。仕事の都合で」

 意味あり気な目配せにリョウは苦笑いしてみせた。

「じゃぁ、暫くはこっちに?」

「はい。恐らく」

「そう」

 それで世間話のような事情聴取は済んだらしかった。ミリュイは手にしている紙を振った。

「登録用の書類はこれでいいわね。あとはあなたが術師であるという証拠だけれど……」

 そこでミリュイは何かを思い付いたというようにぽんと手を打ち鳴らした。

「そう言えば、王都(スタリーツァ)で資格を取った場合って、登録札があるんだっけ?」

「ああ。はい」

 リョウは首にぶら下げている鎖をシャツの下から引き抜いて留め金を外した。その際にキコウ石の結婚指輪が付いた方も飛び出していた。

「ワァーォ!! カローリじゃない!」

 それを見た途端、ミリュイは高い声を上げ、リョウの首元に顔を近づけた。

「こんなに大きなものどうしたの? ああ。ああ。そっちが本物の方なのねぇ」

 一人で驚いて一人で納得する。随分と忙しない御仁だ。

「ええ、なに? もしかして玉の輿? すっごい男と結婚したの? やるじゃない!」

 妙に下世話で噂好きの女みたいな勢い(ノリ)で畳みかけられて、リョウは困ったように眉根を下げた。

「いや、あの。これは婚姻の証には違いないのですが、元々はワタシが自分で加工処理をしたもので………」

「んまぁ! それでカローリを?」

「原石は養成所の先生に貰ったものでして、偶々質の良い石が当たったのかもしれませんね」

「へぇ~、それにしてもすごいじゃないの。ねぇ、触ってもいい?」

「あ、はい。どうぞ」

 リョウはもう一つの鎖の留め金を外して白銀の登録札と一緒に手渡した。ミリュイはそれを手にとって、()めつ(すが)めつ、部屋の窓から差し込む光りに透かして見た。青い光りが反射してミリュイの艶やかな飴色の肌を照らした。それから石の形と指輪の造作を見て、どこかからかうような顔をした。

「んまぁまぁ。愛されているじゃない。こってり、たっぷり、ぎっちりとね」

 リョウは、そこで自分がとんでもないことをしていることに今更ながらに気が付いた。相手は間違いなく術師なのだ。だからこの指輪に付着しているであろうユルスナールとリョウの想いが――恐らく新婚特有の甘ったるい空気が――感知できるくらいには漏れているのだろう。それをつい勘の鋭い相手に晒してしまった。

「わわわわわ、すみません、色々と。もういいですよね」

 うろたえるようにリョウが手を伸ばせば、ミリュイは口角をくいと上げた。縁取りで強調された目元が、まるで【リースカ(きつね)】のように弧を描く。

「ふふふ。可愛いわねぇ。そういう所はやっぱり女の子よねぇ」

 頬を染めて恥じらう姿はどこから見ても女のそれだった。

「はい、どうぞ。どうもごちそーさま」

 ミリュイは気が済んだのか、軽口を叩くようにそう言って青いキコウ石の指輪が付いたペンダントをリョウに返した。リョウはそれを直ぐに首に着けて、シャツの中にしまった。そうしてこれは二度と人目に晒すまいと心の中で密かに誓った。

「で、こっちが登録札ね?」

 ミリュイが手にしているものは小さな親指程の大きさの楕円形の(プレート)だった。この札を作成した時の痺れるような妙な感覚は、今でも思い出すだけで全身に鳥肌が立ちそうになる。表にはリョウの印封が印として刻まれており、裏にはリョウの魂の半身とも言うべき者の姿が―――――。

「ヴォルグ?」

 そう。ヴォルグの長、セレブロの刻印が古代エルドシア文字よりも更に古い形で刻まれていた。この国の王家の紋章にも描かれている気高き白銀の獣。この世界の(ことわり)を説く天秤。

 表を見て、裏を見て、それからミリュイは、感嘆に似た面持ちで息を吐き出した。

「ありがと。もう十分だわ」

 リョウが十分高い素養を持った術師であることが分かった。そう加えて、ミリュイは背凭れに深く体を預けるようにした。そして、先程のリョウの書類にペンを取るとさらさらと何事かを書きつけた。

「ここでの登録札は、この紙を持って同じ階の北側の奥から二番目、そう、ここを出て真っ直ぐのところね。その部屋に行けばもらえるわ」

 ミリュイは小さな四角い掌に収まる程の紙をリョウに差し出した。引換券のような感じだろうか。中には術師組合の刻印が真ん中に押されていた。

「ありがとうございます」

 リョウはその小さな(カード)を手に取った。

「どういたしまして」

 そこで不意にリョウは真面目な顔をすると対峙する、ある種独特な雰囲気を持った人を見た。いつのまにかリョウの中で最初に芽生えた違和感はなくなっていた。性別など関係なく、このミリュイ・ツァーブと名乗った人物に好感を覚え始めていた。

 気安さを覚えた所為か、もう少し踏み込んでみたくなったのだ。

「あの……ミリュイさんは術師なんですよね?」

「ええ。そうよ。うちの場合、ここに出入りするのはみんな術師ね」

「ずっとこの街に?」

「ううん。ここにはかれこれ10年くらいかしら。あたしも同じように流れてきたってわけ。ここまでね。それでもあたしにしてみたら長いくらいだけれど」

「ここにはどのくらいの人が登録しているんですか?」

「さぁ、どうかしら。数えたこともないし、正確な数は上の【シェフ】なら把握していると思うけど。あたしは知らない」

「………【シェフ】?」

 聞き慣れない言葉に引っ掛かった。

「ああ、ここの組合の長のこと。【(かしら)】ってこと」

「ああ」

 そういうことか。リョウは兵士たちが自分たちの上官(この場合、団長のこと)を【シェフ】と呼んでいることを聞いたことがあった。その組織の頂点にいる者のことを指す隠語のようなものだ。

「でも、あたしが見た所、常時いるのは20人前後ってとこかしら。ほら。術師ってのは、大抵、ひと所に腰を落ち着けない性質(タイプ)が多いじゃない? ふらりと気の向くまま、風の吹くまま。放浪するから」

 だから累積した登録数はかなりの人数に上るが、大抵、数年の内に、早い場合は数カ月の内にこの街を出てしまうので、常時在中する実際の数はかなり少ないはずだということだった。蛇足だが、ここで発行された登録札は、基本的に本人からの返上がない限り有効ということだった。

「あなたも術師なら分かるでしょう?」

 リョウ自身は別に放浪癖がある訳でもなかったが、何ものにも縛られず、自由気ままを是とした術師の鏡のような男を間近に見て知っていたから、かつての男の面影を懐かしく目裏に思い描きながら、「そうですね」と大人しく合槌を打っていた。

「ああ、でもあなたはほら、人妻だから、あたしたちとは少し違うかもね。一生独り身の自由人にはなれない……でしょう?」

 そこでリョウは恐る恐る聞いてみた。

「あの、こんなことをお聞きするのは失礼だとは思うのですが」

「うん?」

「その……ミリュイさんは、男の人……ですよね?」

「ええ。勿論。あたしみたいなのは初めて見る?」

 ―――ふふふふ。

 ミリュイはリョウの質問に別段気を悪くするでもなく、意味あり気に微笑んだ。赤いアルマ石が連なった豪華な耳飾りが揺れて、きらきらと光を放った。

 その言葉にリョウは思わず王都の第三師団にいる恐ろしく煌びやかな器量を持つ人物の顔を思い浮かべてしまったのだが、ミリュイが言わんとする【あたしみたいなもの】と言うのが、具体的に何を意味するのかを理解しかねたので、それ以上掘り下げるのは止めておいた。

「あなたの出自はともかく、この国に長く暮らしていたら知らないかも知れないけれど」

 そう言ってミリュイはどこか遠い目をして微笑んだ。

「あたしの故郷(くに)ではね、どちらかと言うと女よりも男の方がこうして身綺麗にして化粧をするの。言葉使いは好き好きでね。偶々なんだけど。あたしはこの方がしっくりするから。あそこでは、むさ苦しい男はもてないのよ」

 初めて耳にする事実に――実際、それが嘘なのか本当なのかも分からなかったが――リョウは感心したように頷いた。

「そうなんですか。男性の方がお洒落なんですね」

 リョウの脳裏にはふと鳥の世界の話が思い出された。雄の方が鮮やかで華やかな羽を持ち、雌に外見の良さを訴える(アピールする)ものだ。

「あら、あたしの話を信じるの?」

 そこでミリュイが可笑しそうに笑った。

「え、嘘だったんですか?」

 リョウとしては話の真偽を明らかにするだけの判断材料がなかったので、正直な所どちらでもよかったのだが、一先ず相手の話を信ずるに足るものとして受け入れてみようとは思っていた。違っていたらそれはそれでいいのだ。

 暫し、リョウはミリュイと真顔で見つめ合った。相手の赤みがかった光彩が興味深そうに小さく光を放った気がした。

「あなたって変わってるわねぇ」

「そうですか?」

「そうよ。でも、嫌いじゃないわ」

「それはどうも」

 組んだ膝の上に腕を乗せて頬杖をついたミリュイに、リョウも飄々と返した。



もしかしなくても暴走気味です(笑)


補足:

1.登録料の25メーラチは大体¥2,000くらい。1メーラチ¥80で換算しています。


2.【シェフ】ロシア語だと「шеф」というのは、「ボス」という意味合いの言葉です。口語・俗語に近い形かもしれません。その昔ロシア人の同僚が社長のことを話の中で(面と向かってではなく)そう呼んでいたのを思い出しました。外来語の料理人・シェフから来ているのかどうかは不明。因みにロシア語で料理人はポーヴァル(повар)です。


それではまた次回に。

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