6)不可視の痛み
失ったはずのその場所が、時折、思い出したように疼いた。ジクリ、ズクリと。まるで忘却を拒む亡霊のように囁くのは、今はあるはずのない鈍い痛み。記憶を唆し、作り変えて、深く深く意識の奥に刻み込んでは、素知らぬ振りをする。そして、忘れたはずの痛みは、いつも思いがけない所から煙のように立ち上り、あるはずのない実体を持って揺さぶりをかけてくるのだ。
***
「いいか、誰でも目を見りゃぁ、そいつがどんな奴かってぇのは大抵知れたもんさ」
どこからともなく酔客の間からそんな言葉が聞こえた。
独り、酒場の隅に座ってちびりちびりと琥珀色の酒を舐めていた男は、背を丸め肩の間に首を埋めて、染みや汚れが飛び散った粗末な木のテーブルの角に添えられた己が手に目を止めた。
たっぷりとした長衣の末広がりにだぶついた袖から覗くのは、節くれだち血管の浮き出た男の手だ。ただ、その形はやや変わっていた。その先、通常五本あるはずの指は三本しかなく、人差し指と中指の部分は、付け根の少し上辺りからようやく盛り上がるという具合で歪な形をしていた。
静かにグラスを傾けていた男の眉根が寄った。不快感たっぷりに。何かを堪えるように、男は元より開いているのだか分からない細い目を閉じた。
指先が疼いて仕方がなかった。もう存在しない人差し指と中指が。
体の一部を失っても尚、脳が、記憶が、この身体が、かつての痛みを覚えている。痛むはずのその場所は、もうとうの昔にこの手を離れたというのに。
記憶は厄介なものだ。ただのしみったれたテーブルに内なる痛みを生むくらいには。
痛みは厄介なものだ。過去という名の隠れ蓑に埋もれて、忘れていたはずの傷を引きずり出すくらいには。塞がっていたはずの傷口はいつの間にか開いて、じくじくと腐った血を流し続けた。
再び生じたズクリと刺すような痛みに息を静かに細く吐き出す。開かれた瞼の下に覗いた男の瞳は、色素がとても薄く、薄闇の中でもやけに白っぽく見えた。
それから男はグラスを一息に呷ると舌先に残る安酒の痺れで内なる痛みを誤魔化そうとしたが上手く行かず、忌々しげに舌打ちをした。
「よぉ」
そこへゆらりと長い影が差した。男が座っている場所は酒場の角で、色濃くなった暗がりの合間に溶け込むように男は背を丸めていた。じっと息を潜めて、まるで万物の法則に導かれて高くなったり低くなったりを繰り返す酔客の下らない戯言や下卑た言葉を、無関心を装って聞き流していた。
「どうでぇ、調子はぁ」
男の前に一人の男が立っていた。手にした酒瓶をだらしなく呷る。緩んだ口元から零れ落ちた酒を「もってぇねぇ」とぺろりと舌で舐め取った。
男はちらと絡んできた酔客を見た。知った顔だった。ここに来てから三月ほど、時折仕事を回してもらっていた仲介屋だった。
ここは奴の縄張りだ。
船を下りてすぐ、久し振りの港町に感傷を抱く暇もなく、かつての記憶を胸内に反芻させながら、あてどなくぶらぶらと歩いた。勘を頼りに入った裏通りで、軒先にひっそりと古ぼけた柄杓の看板を掲げる酒場を見つけた。鼻先を掠めるどぶの臭いが淀みに溜まった酒の匂いに混じるしけた界隈だが、場末というほどでもなく、盛り場の片隅、どこにでもあるような酒場だった。
まだ日没までには間があったが、店内にはぽつりぽつりと客がいた。発光石の明かりを灯す前、通りに面した小さな窓から複雑に屈折反射した西日が店の床板に伸び、その僅かな光りがまた折れ曲がって、染みの付いた石壁に仄明るい影模様を散らしていた。
男は日に焼けた赤ら顔の店主に合図を送り、酒を頼んだ。店にいた客がチラチラと見慣れない新参者に刺すような視線を向けるが、値踏みされるのも構わずに主が手にした器から、まるで儀式の型のような恭しさで一つまみの塩をテーブルの上に置いた。酒のアテにする為である。男は、指に付いた塩を舐めると受け取った酒に口を付けた。
そうして小さな盛り場の片隅に身体を預けて暫く、男は先程から執拗に見られていることに気が付いていた。ここに入ってからこっち、観察するような眼差しが寄ってくる羽虫のように煩わしかった。
さり気なく目の端で先方の顔を拝んだ。まず目に入ったのは、皺の寄った長い衣とそれを留める太い腰帯だ。帯は真ん中に幾何学文様のような刺繍の入った凝った作りだった。この街で多くの住人が信仰している海の守り神の意匠だろう。身なりは悪くない。そこそこ羽振りは良いようだ。帯の合間には小さな革袋が手挟まれてぶら下がっていた。小ざっぱりとした印象はなかったが、かといってうらぶれて薄汚れている訳でもなく、着古して身体に馴染んだ衣は、この店のように年季が入っていた。
ふと男は向こうから自分がどのように見えているだろうかと思った。男の出でたちは旅装だった。長旅の末薄汚れていて、まるで萎びた菜っ葉のようだった。外套の下には、上半身を斜めに太い革の帯が回る。そして腰と繋がる部分には小刀が収まっていた。長く伸びた髪を後ろの低い位置で緩くくくる。髪を束ねた紐には、異国のものだろうか、小さな丸い硝子玉が飾りとして付いていた。焦げ茶色の髪には所々白いものが混じっていた。
時折観察するようにこちらを見ていた男が声をかけて来たのは、日が完全に落ちてからだった。縄張りに入った余所者が、旨みをもたらすかどうかを確かめる為だろう。交易の拠点であるこの街では、酒場は情報交換にもってこいの場所だ。飛び交う異国の話は酒の肴や商いの種に変わる。男は淀みに集まる魚の群れの中から獲物を狙うようにひしめく客の間を泳ぎ回った。
旅の男はこの瞬間を待っていた。
「おめぇさん、見ない顔だね。旅のお人かい?」
流れの術師だ答えた男に、口入屋のような事をして糊口をしのいでいるらしい仲介屋の男は舌なめずりをした。きっと頭の中で今ある仕事の依頼一覧を帳面のように繰っているのだろう。
それから少し話をして、試しにと二、三の仕事を受けた。報酬は全額前金でと条件を提示した男に仲介屋はあからさまに渋い顔をしたが、仕事の内容が相手を選ぶものであった所為か、最初の件については要求を飲んだ。まぁ金額が大きくなかったということもある。
始めは、ごく簡単な仕事だった。文書に印封をかけたり、それらを解除したり。術師が使う古代文字の解読など。回を重ねる毎に少しずつ難易度が上がって行ったが、男にとっては造作もないことだった。仲介屋は男のことをそこそこ使えると思ったようだ。それは男にとっては願ったり叶ったりだった。こちらの知りたい情報を得る為には、まず信用を得なければならない。
そして今では、仲介屋は仕事の世話する得意先の一人として男を認めたようだ。男が縄張りである酒場にこうして顔を出すと待ってましたとばかりに必ず挨拶に来た。
「この間のがんは上手くいったらしいぜぇ。先からの評判も上々だ」
港町特有の訛りで、声を低めて、だが、どこか得意げに言った仲介屋を男は鼻で笑った。
先日受けた依頼は、先方が望む少し特殊な印封を小さな木札に施すものだった。この街の取引は商業組合ミールが一手に取り仕切っており、売買は必ず組合を通さなければならない決まりになっていた。通常取引にはミールのお墨付きとして各組合が発行する木札を品物に付けることになっていた。特に大型商船を使った貿易では、関係諸都市、諸外国との取引には、スタルゴラド本国によって、もしくはミール独自の基準によって、輸送や売買に税がかけられ、流通量の定められた品や取引の禁じられた品物の取り締まりや管理が行われていた。
だが、全ての商いがこの正規経路を通る訳ではない。ミールのかける税金を逃れる為や少々厄介な品物を扱う場合など、地下経済を支えている抜け道はいくらでもあった。地中に細く張り巡らされたモグラの街道のように。
そして、この仲介屋の下に集まるのは、そういう類の表に出てこない商いの伝手だった。
今回の依頼は、ミールが発行する木札に良く似せた印封をかけて欲しいということだった。正規品に偽装して売買・積み込みをする為だろう。それがどれだけ難しいことかは、仲介屋もよく分かっていた。ホールムスクで施されている印封は、ミール所属の術師の中でもごく一部の者だけが知る特殊な印だからだ。
今回ばかりは少し厄介な話だがと前置きをしてから、
「こいつに似せてくれってぇ話だ」
仲介屋は帯の合間から取り出した正規品の木札を手の中で弄ぶようにしてから酒場の隅に座る男の前へ軽く投げた。
こちらを窺い見る仲介屋の瞳には、男のような流れの術師風情に今回の依頼は務まるまいという諦めが半分覗いていた。
「品物はこれと同じでいいのか?」
札には織物組合の刻印が焼印で入っていた。そこに補強するように術師の印が施されていた。同じようなものを量産する積りなのだろう。
男は左手の残った指―薬指と小指―でその木札の表面をそっとなぞった。暗がりの中でその札が仄かな光りを放った。呼応するように痺れるような感覚が指先に走り、全身を瞬時に駆け巡った後、後頭部に消えた。
男の口元が自嘲を含むように歪んだ。そこには、ほんの僅かばかりの懐かしさとほろ苦さ、それを軽く上回る憎さ、腹立たしさが入り混じった形があったから。男自身もよく知る印。十年という時が経っているにも関わらず、いまだ同じ型に拘ろうとするこの腐りきった古い組織の頑なさに嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
―チョールトバジミー。
ズクリと痛んだやり場のない疼きに男は悪態を吐いた。
その後、男は紹介された先で、何食わぬ顔をして依頼を果たした。男にはある目的があった。その為の布石を少しずつ打っていた。
そんなことがあってから。
「なぁせんせぇよぉ、景気付けに一杯ぐれぇ奢らせろや」
前回の依頼が無事果たされたことか、それとも男が仲介屋の予想よりもずっと有能であることが分かって嬉しかったのか、既に一杯引っ掛けていたらしい仲介屋は、上機嫌に声を上げると酒場の主へと注文をした。
「これからもよろしく頼みますぜぇ、え?」
それは男の台詞でもあった。
乾杯するように持ち上げられた酒瓶に男も同じように安酒で満たされた盃を掲げた。
「これであんたの株も上がったもんさ」
仲介屋は男に恩を売った積りのようだったが、男にすればこんなことでおだてられても馬鹿らしかった。だが、男の術師としての力量をそう簡単に表に出すものではない。能ある鷹は、爪を隠すものだ。
「しっかしよぉ、あんたぁ、良い腕持ってんじゃねぇか」
仲介屋は獲物を狙う猛禽類のように目を光らせ舌なめずりをして己が手首の辺りを指で打つ仕草をした。
この間とは違う持ち上げように男は薄く笑った。
「ここは術師が少ないのか?」
この男の伝手には他に能力のある術師がいないのだろうか。この街には日々、様々な民が流れ来ては去ってゆく。元々放浪癖のある術師などすぐに見つかりそうなものだ。先の大戦の後、スタルゴラドでは術師の国家管理に乗り出したと聞いていたが、術師は政治的束縛を嫌う。この街はミールの手前、国の介入は少ないようだが、ミールという組織に縛られることに変わりはない。蛇の道は蛇。誰もが真っ当にお天道さまの下を歩いて行ける訳ではない。それは素養持ちの術師とて同じ。
男には気にかかることがあった。ミールの術師組合のことだ。あの男は、今でもあの腐りきったぬるま湯の中にいるのだろうか。くびきを枷と思わずに飼いならされることになんの疑問も持たないのか。ここに来れば嫌でも耳に入るかと思っていたが、今の所当たり障りない噂話を集めただけでは、ミールお抱えの術師の話は収穫がなかった。
今、この街を大いに沸かせているのは、やはり港で起きた大型商船の火事の件だろう。聞く所によると殆どの積荷が焼失、若しくは水没し、大損を被ったとか。積荷だけならまだしも船まで燃えたとあって前代未聞の事件と噂された。男自身も高台にある宿屋の屋根からその騒ぎを遠目に見ていた。角灯をぶら下げて走る男たちの明かり軌道が、点々と残像を引きずって伸び、路地の合間に見え隠れした。炎立つ波止場。炎に包まれた船は、まるで篝火のようだった。野次馬が蟻のように群がる。
前例のないほどの大事件ということでミール連中は慌てふためいているに違いない。男は自分の仕事が何にどこまで関わっているのかについては知ろうとはしなかった。積荷の中身や仕向け地などに興味はない。与えられた課題をこなすだけだ。もしかしたらあの札を付けた荷が、あの船にも載っていたのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
船から火が出た原因はいまだはっきりせず、様々な憶測を生んでいるようだ。男が顔を出す酒場や飯屋、宿屋でも、そのことが話題に出ない日はなかった。故意のものであったと考えているらしい自警団の連中は犯人探しに躍起になっていると聞くが、いまだ芳しい成果が上がったとは聞こえてこない。
この件では珍しく敵対関係にあると思われていた本国騎士団と協力体制を取っているらしい。複雑に見えた原因も実際は驚くほど単純で些細なきっかけから始まることはよくある。男自身大した関心はなかったが、どうせ船乗りの手落ち―火の不始末あたりだろうと思った。今日も街中を、男がうろつく裏通りまでくまなく鮮やかな海の色をまとった男たちが険しい顔付きで足早に歩いていた。時折、辺りに鋭い視線を配りながら。
―精々慌てふためくがいい。
遠くに垣間見たミール関係者らしき男たちの渋い顔付きを思い出して、いい気味だと思った。
そして、引きずられるようにして浮かんでくるのは、あの男のことだった。男の口元が皮肉に歪む。いや、あの男ならば、飄々とこの街を、あの騒動を、高みから見物しているに違いない。我関せずという面白味のない色をあの瞳に宿して。
―ツキン。薄氷の割れるような微細な刺す痛みが走った。テーブルの上、指に触れる塩の感触とは別の所で、形の無い二本の指先が疼いた。忘れたいのに、忘れることを許されない。封じ込めても封じ込めても滲み出てくる忌々しさ。掌をきつく握れば、ざらりとした質の悪い塩が食い込み、失われた傷口に沁みた。
男が脳裏に思い描いたあの男の姿は十年前のものだった。皮肉に歪められた唇はかさついていて、乾いた風が黒々とした髪を舞い上げる。リースカのような吊りあがった眦。あの時も年の割に苔生したようなじじむさい所があったが、どうせ今も大して変りがないだろう。諦めた世捨て人のような目をして、商人たちのぎらついた欲望が渦巻く中に突っ立っているに違いない。
これまでに受けた仕事の中で、男は自分なりに細工を施していた。運が良ければ、いや、そういう巡り合わせが男にもたらされるのであれば、あの男は自分がここに舞い戻って来たことに気が付くだろう。
態とらしく、あざとく、さり気なく、あいつらの神経を逆撫でてやろうと思った。十年前のささやかな復讐だ。小さいことだとあざ笑うだろうが、今、男の心は躍っていた。
だが、もう少し情報が欲しかった。あの仲介屋だけでは使いものにならない。ミール内部の術師の事が知りたかった。そういう意味では十年の不在は長すぎたのかもしれない。そろそろ別の伝手を頼ってみるか。
そんなことを考えていると、仲介屋が男のテーブルに着いた。隣から引っ張ってきた椅子に座り、そっと身を寄せて来た。吐き出す呼気はかなり酒臭かった。するりと自分の領域に入ってきた不快感に男は渋面を作った、向こうはそれに気が付かぬふりをしてこう囁いた。
「おめぇさんに新しい仕事だぜ」
もったいぶった笑みが口元に隙間を作り、やにで黄ばんだ歯がちらと覗いた。
男は興味を示さなかった。
「悪い話じゃねぇ」
「受け手は他にもいるだろ」
「そんなつれねぇこと言ってくださんな。今回はおめぇさんにとっちゃぁ良い話だぜ?」
そう言って手にした別の酒瓶を空になっていた男のグラスに傾けた。立ち上るように芳醇な香りが鼻を擽る。先程とは比べ物にもならないくらい上等な酒だった。
どうだかな。この手の輩はいつも同じことを言う。そう思った男はのらりくらりとかわそうと思ったのだが、
「ミールの奴らの鼻を明かしたくはねぇか?」
一段と声を低くして仲介屋が言った。ズメイのように狡猾な光りが細い瞳の隙間に瞬いた。男の瞳は真っ直ぐに色素の薄い白い瞳を捕らえていた。その時、男は相手の目を見てしまったことに舌打ちをしたい気分に駆られた。
気が付かれてしまっただろう。こちらが興味を持ったことに。
「なぁーに。こんだのがんもおめぇさんの手にかかりゃぁちょちょいのちょいさ。ここでの繋ぎが欲しいんだろう? 使えると思うぜ」
仲介屋はけして具体的な仕事の話はしない。術師という特殊な領域のことに首を突っ込んだとしても、口を挟もうとはしなかった。だから仕事の依頼はいつも抽象的な記号に終始する。当たらずとも遠からずで、受け手の勝手な想像に任せるのだ。
「まぁ、騙されたと思って」
―行ってみなせぇ。
仲介屋は薄く笑う。
ここでは「騙されること」は即ち「死」を意味する。そんな危ない話にほいほい乗れるかと思ったのだが、ここで男の術師としての勘が、その仕事を引き受けろと告げた。だが、このまま相手の調子で話が進むのは癪だ。
「ふん」
どこかぞんざいに鼻で笑った男の態度を肯定と受け取ったのか、仲介屋は差し出されたグラスになみなみと上等な酒を注いだ。
小さく杯を掲げてからぐいと呷るように飲み干せば、ちりちりと焼ける喉と胃の腑を満たした熱に男は気分良く笑った。
仲介屋は男の耳元に約束の場所を囁いた。
「報酬はあちらさんから直接頂いてくんなせぇ」
そういうことで話が付いている。最後にそう付け足してから、混み合ってきた店内の喧騒に紛れるように男の側を離れた。入れ替わるようにして酒場の主人がやって来て、頼んでもいないのに酒とつまみを置いた。どうやらあの男の奢りらしい。
どこまでもそつのない嫌味な男だ。
男は新しく注がれた盃を目線まで掲げると別のテーブルで客の話に合槌を打っている仲介屋を流し見た。
その特徴的な白茶けた瞳で。




