4)紅の風花
風花とは晴天時に雪が花のように舞うこと。
ここで使うには少し苦しいかもしれませんが…他に良いサブタイトルが思いつきませんでした。
―こちらを。
小さな白い手が差し出したのは首飾り。冷たく霞んだ朝日がどこか頼りなく窓辺を射す、秋の初めの頃だった。色づき始めた木々、木の葉が煉瓦色に染まり、豊潤の秘密を内に閉じ込めようとする営みに専念するのももうすぐ。移ろう季節の神秘の結晶とも言うべき小さな木の実に似た形をした飾りが、銀の鎖の先に揺れていた。
―どうぞ。
付けて差し上げます。
促されるようにして上背のある男が腰を屈めた。太い首周りに華奢な鎖がかかり、小さな飾りが鋼の鎧に当たって鈍い音を立てた。女の手には長かった鎖も男の胸元では玩具みたいに短く見えた。
男の手が平たい卵型をした飾りを開ける。写し取られた美しい女が口元に穏やかな微笑みを湛え見つめ返してきた。釣られるように男も目を細めた。
―大事にする。
女の手にはもう一つ首飾りが残っていた。対になったそれを今度は男が妻の首にかけた。太い指が器用に留め金を外す。ほっそりとした首筋を男の節くれだった指がくすぐった。名残り惜しむように。
妻はこそばゆそうに肩を揺らした。切り取られた細密画と同じ柔らかな笑みが妻の口元に浮かんでいた。だが、ふと夫を見上げたその瞳には微かな不安の色が揺れていた。白い雲が蒼穹を渡るように薄い水色の瞳が白く影を帯びる。光りを遮る雲。そう、それは清涼な青を隠す靄。
―そんな顔をするな。
男がどこか困ったように片頬を歪めた。金色の産毛に覆われた柔らかな頬に宛がわれた男の手に妻は自らの手を乗せた。そっと押しつけるようにする。徐に目を閉じて、剣だこのある硬い皮膚に頬をすり寄せる。男の手からは鉄錆と革の匂いがした。
妻は、心配をかけまいと気丈に笑みを作った。
―どうか、御無事で。お帰りをお待ち申し上げております。
明るい微笑みの中に込めた切なる想い。感じ取って欲しくもあるが、それを知られることで相手に負担をかけたくはなかった。
―ああ。
夫が目を細めた。
深い湖の底。夜明け前の東の空に溶けゆく星の瞬きの揺らぎ。そんな深縹のとろみを妻は愛おしそうに見つめ返した。
必ず帰って来る。言葉にはならない夫の気持ちを妻は汲み取った。
その時の約束は、いまだ果たされぬまま。流れゆく時の合間に漂う口にされなかった言霊だけが、今も尚、この地を彷徨っている。
夫は妻に、妻は夫に。細密画の肖像と髪を一房入れた首飾りを贈り合った。離れていても心は常に傍らに。無事、帰還する日を信じて残された者は祈り続けた。
その祈りが届かぬとは露も知らずに。
その年の冬の終わりに潰れてひしゃげた首飾りが戻ってきた。血の匂いがこびりついたロケットの中に描かれていた妻の姿は、泥に汚れ、哀しい目をしていた。
主を失った首飾りは切ない記憶だ。蘇ることのない肉体を昇華した魂が繋ぎ、時と共にゆっくりと朽ちて行く。薄れゆく思い出の中に。
妻は首飾りを棺の中に入れた。青白い顔で横たわる夫であったはずの肉体の変わり果てた姿に最後の口づけを贈った時だった。妻の一層細くなった首には、同じ形の首飾りが揺れていた。神官の捧げる祈りの歌に合わせて半身を失った狂おしさを揺らして歌う。鎮魂の鐘の音に虚しく合槌を打ちながら。
それから四年後、妻は静かに旅立った。地味な喪服の胸元で魂を失くした人型を支え、唯一鈍い光を放っていた首飾りは、亡き夫の兄に託されていた。
二度目の葬儀からまた時が流れた。
***
小高い丘の上の丘陵に男が一人、つくねんと立っていた。青さを増した草が生きた毛皮のように風に揺れる。男の足元には、丸い墓石があった。古びて染みのついた白い石。この二十年、風雨に晒され続けてきた。この緑の丘には一面、同じような丸い石が規則的な配列を作り並んでいた。白い石の上には赤い花 が一輪。男の手にはもう一本、同じものが握られていた。
黒い長外套を着た男だった。立てた襟の間から覗く顔は俯いていて見えない。夏の初めの日差しを一面に浴びて、清々しい青い香りは丘陵を舐める風に攫われて濃さを変えてゆく。それに合わせて、貧相な馬の尻尾のように伸びた白銀の髪が煽られるように天へと向かう。
ただ、風の音が全てだった。遥か後方に佇む白亜の要塞から鳴り響く祈りの刻限を知らせる鐘の音が、吹きすさぶ風に散らされて切れ切れに紛れ込む。鳥のさえずりもここには届かない。
それまで微動だにしなかった男が、外套のポケットに突っ込んでいた手を外に出した。握り締めた拳をそっと開く。
ひび割れた男の手の内には、小振りの首飾りが鎖にぶら下がっていた。平たくて丸い金属の端に付いた留め金を開くと若々しい男の肖像が光りを浴びた。短く顎付近で切り揃えられた白銀の髪。黎明の時を閉じ込めた神秘の青が、頑なな静寂の中、真っ直ぐに正面を見据えていた。
その瞳を見つめ返す男も同じ色の目をしていた。皺に刻まれ硬くなった皮膚が目の縁を囲む。
男は手にした首飾りを握り締めた。
―今度こそ、約束を果たす時がきた。
男は心の中で墓前に語りかけた。この場所に眠る弟に。故人の安らかな眠りを妨げる積りはなかったが、そう告げずにはいられなかった。
―過ちは二度と繰り返さない。今度こそ約束する。お前は笑うだろうか。愚かな兄だと。
男の問いかけに答えは返ってこない。それでも男は続けた。
私も老いた。お前によく懐いていた末の息子は、お前の歳を越した。二十年は人にとっては長い年月だ。だが、国が変わるには余りにも短い。
二十年前、お前たちが命を懸けて守ったこの国。今この有様を見たら、お前は何と言うだろうか。あれから私は何を成し遂げたのだろうか。お前に胸を張って言えることはあるだろうか。
ようやく戦の影が消えた。荒廃した街や村は復興し、宿場町にも農村にも笑い声が響き、これまでと変わらない穏やかな日常が戻っていた。
だが、男の時はあの頃から止まったまま。ぽっかりと空いた喪失感はけして埋まることがない。
今でもあの時のことを思うと腸が煮え繰り返りそうになる。己の浅はかさもそうだ。
敵は我々の中にあったのだ。敵方に通じていた味方の口車に乗せられて、即講和などという甘い夢を見た愚か者たち。我々は敵の本当の目的を理解していなかった。この国の舵を取る王と周辺の取り巻きたちは、何も分かってはいなかった。あれほどまでにノヴグラードの手がこの国の中枢を絡め取らんと伸びていたことに。
―俺もその一人だ。
男の口元が自嘲ぎみに歪んだ。
あの時、もっと自分に力があれば、みすみすお前を、お前が愛した多くの部下たちを死なせずにすんだやも知れぬのに。今でも後悔ばかりが胸を苦しめる。残された者への当然の報いとして。
未曾有の国難に安穏と首府にあった者たち。何が将軍だ。何が参謀だ。あの時の決断ほど愚かであったことはない。再三の援軍派遣要請を握り潰していたあの男。現地からの切実な訴えは、全く王の耳に届いてはいなかった。
穏健派とは名ばかりの売国奴。あの男がノヴグラードに通じているという噂はかねてよりあったのだ。
―アファナーシエフ。
男の奥歯がギリリと軋んだ。
そして今再び、表舞台から姿を消したあの男が、乗っ取ろうとしている、王都の政治を。隠居をしてからも尚、手駒の取り巻きを多く抱え、影の実力者としてこのスタリーツァに君臨しようと企む。
あの時と同じ過ちを繰り返してなるものか。
男は手にしていたもう一輪の花を隣の墓石に手向けた。
年老いた男、ファーガス・シビリークスは亡き弟ラードゥガ・シビリークスとその妻ミラーナに誓いを立てた。
***
その日 、特別仕立ての伝令便が王都宮殿の一角に舞い降りた。
王都宮殿区画内、この国の王ツァーリまします宮殿を堡塁の如く緩やかに囲む東側の一帯は、国の内政を司る様々な役所が立ち並ぶ区域であった。宮殿広場を挟んで対面に軍部の詰所であるアルセナールがあり、西の武官たちに対する形で東に文官たちが集められ、大きな国を動かすための小さな、だが、欠かすことのできない重要な無数の歯車の一つとして、日々勤めに励んでいた。
スタルゴラドは歴史ある古い国である。二十年前の大戦を皮切りに軍部が発言権を強めてはいたが、この国の政治は王を頂点に掲げながらも、長年に渡り実務を支えてきた役人たちによる官僚政治が影で幅を利かせていた。戦の無い時代が長く続く中で貴族たちは各々の家風から武官や文官を排出し、王を支える駒の一つとして仕官することで盤石な権力を下支えしていた。国の気風はその時の権力者の意向により大きく左右されるが、18年前に正式に即位した現国王の下では周辺諸国と比べても風通しは比較的良く、民の貴賎を問わず能力ある者ならば、武官、文官として登用される道筋が出来ていた。
これは先の大戦で敗れたという苦い経験に負うところが多いだろう。大国であることに慢心した驕りが屈辱的な敗北を喫した原因であった。旧態依然としたままではこの国は滅びる―危機感を抱いた者たちの声が、貴族の中からも上がり、少しずつ変化を嫌う保守勢力を説き伏せてきた結果でもある。
しかしながらこの国の制度―王制―そのものは変わっていない。国政の中心は依然として昔からの貴族たちが担っており、凝り固まった階級社会の壁は壊れることなく健在である。ただ、そのような限定的な枠組みの中でも、平民出身の上級文官の数は少しずつだが増えてはいた。もちろん、出世には限りがある。だが、有能な人材を活用しようという気運は徐々に国内に浸透し始め、貧しい若者たちの間にも未来への夢と希望を与えていたのも確かだった。この気風は軍部の方がより顕著でもある。
王都には、この国の26 ある地方行政区及び地方行政都市からもたらされる定例報告が、月一で届けられていた。各地方にはそれぞれ代表する都市に行政府があり、王都から派遣された役人が地方区長として詰めている。その月の税収に関する報告はもちろんのこと、人口・物価の変動、街の治安、人々の暮らしぶりなどが報告書の中に記されている。他には災害の有無や陳情の有無、行政管区内では解決できないような案件の報告なども行われていた。また逆に王都からの通達もこの地方行政府を経由して各地末端まで行き渡るようになっていた。更に軍事的に重要な拠点には、騎士団から規模に見合った兵士たちが派遣されていた。たとえば、現時点では軍需産業を主に担う工業都市プラミィーシュレと貿易都市ホールムスクには、それぞれ第六師団と第七師団が、その他諸都市には第四師団の部隊が各地に駐屯し、治安維持の為に詰所を構えている。また、国内にある東西南北の砦には国境警備としてそれぞれ一師団が置かれていた。
特別行政府第10支部 、地方統括本部に勤務するパラジャーノフは、戦後生まれた新しい恩恵を受けた役人であった。王都より南西に二日ほど行った所にあるトゥメニという田舎町の出身だ。家は小さな商家であったが、教育熱心な両親のお陰で学校に通うことが出来た。そこで勉学に励み、努力の甲斐あってか、成績優秀者として特別に王都の学問養成所に通う道が開けた。その他多大勢と同じくパラジャーノフには目立った素養の開花はなかったが、術師が用いる力に対して独特の勘があった。そのお陰か、学問養成所を優秀な成績で修めた後は、そのまま王都の役所に奉職し、文官として生計を立てている。
月一で地方諸都市より送られてくる報告書を吟味し、内容をまとめ上げ、上官への報告書を作成、提出するのが主な仕事だ。地方統括本部とは、その名の通り、地方行政の王都における窓口と言うべき部署だった。
地方よりの報告書は、いつも朝一番に届いた。文書の配送体系は既に古くから確立されていた。専門の配達員が各都市に常駐配置され、役所同士の書類の行き来は円滑に然るべき自前の職員によって行われている。
王都に集まる膨大な量の書簡や文書は、通常伝令部に集められ、関係各所へと仕分けがされる。伝令部には関係機関毎の集配箱がずらりと並び、一日に二回、午前と午後に分けて書類が届けられることになっていた。緊急を要する場合は、特別便扱いでその都度配送された。前もって重要書類が届くと分かっている時なんぞは、受け取り先の役人がそわそわと様子を覗きにくる姿も散見される。
パラジャーノフも多くの役人がそうであるように最初の配属先は第10支部内の伝令部であった。ここで多種多様な書類を仕分けながら、様々な部署の名前と仕事の性質、中央と地方諸都市との関係性や情報伝達の大まかな流れを学ぶのだ。その後は本人の適性を鑑みつつ、定員や人数の配置を考慮しながら各部署へ振り分けられる。順当に出世の階段を上る者もいれば、双六のように投げた賽の目数によって行ったり来たりを繰り返し、燻り続ける者もいた。パラジャーノフの場合は控え目に言って可もなく不可もなく、平々凡々としたものだった。最初の伝令部から十年、三年ごとに二回移動があり、今いる地方統括本部に転任して四年、今年で五年目を迎えていた。
この日、パラジャーノフの所にもすっかり顔馴染みになった伝令部の配達係が朝一番に大小多種多様な書類の詰まった箱を二つ届けに来た。今年は、年初に人事異動があり、軍部関係の配置換えが大々的に行われ、地方行政の管理を行う統括本部にも少なからず影響を与えていた。軍部にはアルセナールという専門の代表機関があるが、あちらは軍の縦割りで、地方における軍部の顔触れが変われば、地方行政府との横の連携を保持する為に引き継ぎや事務処理が必要で、それらが軌道に乗るまでには多少時間がかかった。一時期に比べれば行き交う書類の量は減ったが、それでも通常よりは処理すべき仕事量は多かった。
だが、これは想定の範囲内である。前回の軍部再編時は、まだこの部署に配属されていなかったが、前の部署でも似たような状況であったので覚悟はできていた。
いつものように報告書は統括部の同僚たちと手分けし、午前の分は全て開封し、処理を終えた。午後の分もあともう少しで終わりが見えてくるという所で、特別便の伝令が届いた。
「失礼致します、特別便です!」
伝令部から大急ぎでやってきたのだろう。今年から入った新人らしき官吏が頬を上気させながらよく通る声を上げた。
受付台に近い位置に座っていたパラジャーノフは当然の如く席を立ち、書類を受け取った。
「御苦労」
手にした書類はごく小さな封筒で、表側に特別便であることを示す赤い印が付いていた。それにしても薄く、ごわついて丸まっている。まるで筒に入れられていたかのように。
そこでハッとしたパラジャーノフは伝令部官吏の背に声をかけていた。
「おい、きみ、これはひょっとして翼便か?」
翼便というのは、猛禽類を使った特急便だった。通常の配送網を通る定期便は、行き交う書類の量が多いので荷駄を背負った人馬の飛脚や馬車を使うのが常だった。その方が配送の無駄がなくて済むからだ。一方、翼便を使うということは、この書類を一日でも早く王都に届ける為に特別に仕立てられたことを意味する。緊急の要件である。軍部では頻繁に使われる猛禽類の伝令だが、この役所では珍しかった。
「はい。そうです! それはもう見事な鷹でした」
滅多に見ることのない伝令の鷹を間近に見たという興奮がまだ若い官吏の心を捕らえていたようだ。
パラジャーノフは重々しく頷くと素早く踵を返した伝令の姿が扉の向こうに消えるのを待って、封書を検め始めた。
「珍しいな。どこからだ?」
興味を引いた同僚が数人、受付台に立ったままのパラジャーノフの傍に寄ってきた。
「ホールムスクからだ」
封書の裏側には仰々しい印封が付いていた。この印封は、術師を始めとする素養持ちが機密保持の為に施す呪いの一種で、古代語だという特殊な飾り文字が使われていることが多かった。パラジャーノフは、この印封の飾り文字が読めた。自身に素養は開花しなかったが、まるで一滴のお情けの如く、これらの文字を読む勘があった。もちろん、本人の努力の賜物であるには違いがないが、個人には向き不向きがある。パラジャーノフの場合は、この手のことに向いていた。今では寄せられた印封の違いと、その宛名、差し出し人がすぐに判読できた。
この印封は、非常に凝っていた。赤い花弁のような優雅な模様が刻まれていた。
ホールムスクから。久し振りの特別便にごくりと喉を鳴らしながらも、内心訝しく思った。年初めの人事異動でホールムスクも騎士団の配置換えがあったが、出先機関の役人の顔触れは変わりなく、目立った混乱や支障もなく事務方は機能していた。
「ジュージャ 、ほら」
気を利かせた同僚が紙用小刀をパラジャーノフに渡した。同僚たちも特別便の内容が気になるようだ。
パラジャーノフは印封に触れた。書付は統括本部宛てになっているので、問題なく印封解除の呪いが作動する。淡い発光の後、赤い飾り文字が浮かび上がってから消えた。厳重に糊の貼られた封に触れることなく隙間に小刀を入れ、一息に刃を滑らせた。
中には、【緊急】と判の押された薄い紙が一枚だけ入っていた。同僚たちが背後から集まる中、折り畳まれた紙を開く。
そこに記された一文に居合わせた者たちは、息を飲み、暫し言葉を失った。
***
―ホールムスクに謀反の恐れあり。
簡潔に記された一文は、急いで書いたのか文字が踊るように斜めにひしゃげ掠れていた。
直ちに上官の元を訪れたパラジャーノフは、封書をずいと差し出した。上司である地方統括本部長は、執務机に座り、部下の上げた報告書に目を通している最中だった。
上司のグバイドゥーリは、集中している所を邪魔されてか現れた部下を煩わしそうに一瞥したが、心なしか青ざめたパラジャーノフの唇に書類を繰っていた手を止めた。
「どうした?」
翼便の緊急書類が届いた。部下は事務的に口にして突然舞い込んだ【重要文書】を上司の机の上に滑らせた。
緊急を露わす赤い印を見た後、本部長は素早く紙面に目を走らせた。どこか浮世離れした表情の下、薄い眉毛の間に深い皺が一本だけ入った。
「文書はこれだけか?」
「はい。中に入っていたのはその一枚だけでした」
直立したパラジャーノフは、上司の顔色を窺うように次の言葉を待った。
「これだけでは要領を得んな」
パラジャーノフの心配を余所にグバイドゥーリの第一声は淡々としたものだった。
踊る言葉は過激であったが、これまでホールムスクと連絡を取ってきた統括本部にしてみれば降って湧いたような出来事で、唐突過ぎる感があった。
一体、誰だ。このような中途半端な報告を上げた者は。
グバイドゥーリは文末にある書面をしたためた書き手の署名を確かめるように見た。そこには、王都から派遣されているホールムスク自治管区長の名が記されていた。
ホールムスクで禁制品取引が発覚した。抜け荷の品は、最新鋭の火器が数種類、流通経路は引き続き調査中だが、ノヴグラードと関係する可能性も捨てきれない。この一件を速やかに報告し、以後、状況に備えたし。
「騎士団からの報告書は?」
「こちらには届いておりません」
ホールムスクには年初めから第七師団が駐屯している。武器の密売が露見したのならば、当然、騎士団が首を突っ込んでいるはずだ。そちらの意見書もなく、事態の深刻さの割に一報は薄っぺらい紙が一枚だけで、内容は余りにも簡潔すぎた。これではまともな判断も出来ない。
「この写しを作ってから、至急あちらに確認して来てくれ。対応はそれからだ」
「分かりました」
パラジャーノフは表情を改めるとすぐに踵を返した。
それから間もなく、地方統括本部官吏ジュダーン・パラジャーノフの姿は軍部の詰所であるアルセナールにあった。文官であるパラジャーノフにとって武官の領域は些か緊張を強いられる場所だ。それは入り口に立つ門番に始まり、建物内を足早に闊歩する武人の押し出しの強い体格と殺伐とした雰囲気の所為だろう。同じ男として純粋に力では敵わない相手に対する本能的な畏怖か。アルセナールに詰める兵士たちは皆礼儀を心得ているので粗野な扱いを受けることは殆どない。立場は違えども同じく国に仕える公僕として構える必要はないのだが、できることならば余り関わり合いになりたくはないというのが、文官の本音であった。
第七師団の執務室を訪れるのは初めてだった。前任者の第六師団の執務室には幾度か顔を出したことが、あるが余りいい思い出はない。師団によって気風や色合いがかなり異なるので、今後の為に第七師団の雰囲気、長の人柄といった情報を集めようとしたが、忙しさにかまけ噂程度しか耳に入らなかった。
居丈高でなく、平民出である文官を馬鹿にしない礼儀を知る者たちであって欲しい。そのようなことを願いながら、執務室の重厚な扉の前に立ち、慇懃に訪いを入れた。
パラジャーノフは取次の兵士に用件を告げた。ここの責任者の名は、たしかレプルスキ、グリゴーリィ・スタンケービッチで貴族の出だ。ここに来る直前、軍部の名簿を確認してきた。
執務室内は、特別静かでも騒がしいという訳でもなく、活気のようなものを内に秘めた独特なざわめきに包まれていた。体の大きな男たちが窮屈そうに並んだ執務机の間を行き来する。書類を手に飛び交う議論の声、長靴を踏み鳴らす足音にペンを走らせる擦過音。物音一つなく静まり返った中、紙を繰る摩擦音だけがひんやりと机上を滑る地方統括本部とは全く異なる雰囲気だった。こういうのも悪くない。働く人々の見えない動力を感じることができるのは面白かった。
「こちらへ」
漫然と室内を見渡していたパラジャーノフに取り次ぎの兵士が声をかけた。
「恐れ入ります」
内心の動揺を悟られぬように表情を取り繕い、案内の兵士の後を付いて行く。パラジャーノフは隣室へと通された。応接室のようではあったが、それにしては狭かった。
開け放たれていた扉が閉まると当時に軍服を隙なく着込んだ上背のある男が入ってきた。明るい金色の髪をきっちりと後ろに撫で付け、色素の薄い灰色の瞳からは一切の感情が抜け落ちていた。
パラジャーノフは気圧されてしまった。緊張を誤魔化そうとしてか喉が小さくなった。
「ご用件は?」
簡潔を良しとする軍人の常なのか、アルセナールに於ける第七師団の責任者だと名乗ったグリゴーリィ・レプルスキは、促されて椅子に座ったパラジャーノフを真正面から見た。
「あ、はい。実は…」
改めて名を名乗り、所属部署を告げてから、パラジャーノフは手にしていた封書を相手に向けて机に滑らせた。
「本日、ホールムスクから特別伝令仕立ての緊急便が届きまして」
「拝見しても?」
目線で許可を求めた軍人にパラジャーノフも浅く頷いた。男の手が躊躇いもなく封書を開け、中から薄い紙を取り出す。目を落とし内容を読み始めたレプルスキの表情は読み取れなかった。
居心地の悪い沈黙にパラジャーノフは口を開いた。
「こちらの方にもこの件に関する報告書が現地より上がっていないか確認いたしたく思いまして、参上仕りました次第です」
読み終えたレプルスキが目線を上げ、灰色の瞳がパラジャーノフを射抜いた。武官の中には一睨みで相手を制する者がいると聞くが、それは戦いの場でのみ発揮される気迫のようなものかとパラジャーノフは思っていたのだが、どうやら認識を改めなければならないようだ。貴族の出身らしく粗野とは無縁の上品な佇まいを持つこの兵士は、王都の渉外を任されるだけあって威厳があった。こちらを見る瞳は温度を感じさせない玉のようであるのに独特な威圧感があった。
「この件はこちらに預けて頂けますか」
その口調は相手の反論を認めないものだった。
書面を折り畳んで封書に入れた武官はそれをそのまま自分の懐に入れた。パラジャーノフは内心ぎょっとした。
「原本はお渡しできません。お返し願います」
少なくとも文書は地方統括本部に宛てられたものだ。内容を考えればみだりに第三者へ渡してよいものではない。
「写しは作成していないのですか?」
ここで否と答えるほどパラジャーノフは愚かではなかった。
「そういうお話ではございませんでしょう?」
パラジャーノフは余裕を見せる為に微笑んだが、その口元は引きつっていたかもしれない。相変わらずこちらを見つめる武官が何を考えているのかは分からなかった。灰色の玉からとろりと色が溶けだして煌めいた気がした。
「そちらではどのような対処を?」
「まだなにも。こちらの状況をお伺いしてから対応を決めることになっています」
「ではこの件は、まだ統括部内だけですね?」
それとなく釘を刺されて、パラジャーノフはぎくりとした。武官が期待する秘密の保持は約束できなかった。この封書を開いた時には同僚が多くいたので統括部内では既に公然の秘密となっていたからだ。褒められたことではないのだが、彼らの口が必ずしも堅いとはいえないのが難点で、外に漏れないとは限らない。
目眩がしそうになった時に更なる追撃が。
「上にはまだですね?」
「はい。報告書を上げるには内容が不確かですし、具体性に欠けますから」
「行政府長自らの筆跡のようですが?」
―それだけでは信じるに値しないと?
暗に示された指摘にパラジャーノフは困ったように微笑んだ。
「では逆にお尋ね致しますが、もし貴殿が同じ立場にあらせられましたら、この一筆のみでなにがしかの報告を上げようとお思いになりますか?」
文官の反論にレプルスキは目を細めた。口角が僅かに上がる。相手の返事を待たずにパラジャーノフは話を変えた。
「先程の答えをまだいただいておりませんが」
じっと灰色の瞳を見返せば、軍人は長い脚を持て余すように組み替えた。
「こちらもこの件に関しては何も上がって来ていません。現時点では」
レプルスキは含むように告げた。それが嘘か本当かは分からない。
「どう思いになりますか」
思わず口にしてから、パラジャーノフは早まったことをしたと思ったが口を突いて出てしまった言葉はどうしようもない。
「こちらも連絡を待つより仕方ありませんね」
「そうですよね」
和らいだ空気に文官も合槌を打った。
「パラジャーノフ殿は、どうご覧になりますか?」
「は…い?」
思いがけない問いかけに文官は微笑みを引っ込めた。
「そこに疑念を持たれたからこそ、こちらにいらしたのでしょう?」
パラジャーノフはまるで心の内を見透かされた気分だった。現地の行政府長官直々の報告を王都の文官は信じていないと言わんばかりに。
「それは……申し上げられません」
動揺を悟られぬように微笑み返す。そのまま黙りこくってしまったパラジャーノフにレプルスキはそれ以上問いを重ねなかった。
その後、レプルスキは先程の文書の写しを至急作成させ、原本を文官に返却した。現地騎士団より何か連絡が入ればすぐに知らせると約束をし、パラジャーノフを帰した。この件に関しては事を荒立てぬようにと釘を刺すのも忘れなかった。
文官が去った後、自分の席に戻ったグリゴーリィは目頭を揉み込むように摘んだ。室内の部下たちからは案じるような視線が飛んでくる。
とうとうやってきたか。
第七の本隊がホールムスクに着任して二カ月余り。あの街の特殊性を考えれば遅かれ早かれ、何らかの【洗礼】を受けるだろうとは思っていた。先程の文官の様子では、現地と王都の間にはここにあるような信頼関係は築かれていないようだ。現地に派遣されている役人とここの繋がりをもう少し調べてみる必要があるだろう。
いずれにせよ、仲間が余計な心配をせずに済むようにこちらも万全の備えを整えておかなければならない。後詰には後詰の役割がある。
忙しくなるな。
独りごちたグリゴーリィの表情からは内なる充足感が挑戦的に滲み出ていた。




