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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第五章 消えない傷痕
36/60

3)陰の訪い

こんにちは。タイトルは「陰の(おとな)い」ミール緊急会議の直後の出来事です。いつもの5割増(分量)でお届けいたします。それではどうぞ。

 緊急会議が終わった後、術師組合を代表して出席したフェルケルと共に事務室へと戻ったリョウを思いがけない【客】が出迎えた。

「ヴィー! ヴィーじゃない!」

『リョウ、息災であったか』

 過去、プラミーシュレや王都で知り合い、交誼を深めてきた大鷲だった。こみ上げる懐かしさに笑顔で駆け寄ったリョウにヴィーは止まり木の上で居住まいを正すように羽を動かした。余談ではあるが、職務の性質上、術師組合の事務所には伝令として飛んでくる猛禽類を始めとする鳥たちのために自然木を切り出した宿り木が設えられていた。鷲の中でも比較的大型のヴィーには少し窮屈そうだった。

「どうしたの?」

 と尋ねながらも、すぐさまヴィーには行動を共にするツレがいることを思い出したのだが、それを口に出すのは野暮かもしれなかった。

『なに、用があったついでにそなたの顔を拝みに来たという訳だ。長からも頼まれてのう』

「セレブロが?」

『ふむ』

 ホールムスクに着いて以来、セレブロには会っていなかった。最後に言葉を交わしたのはもう二カ月以上も前になる。それまでは毎日のようにあの白銀の気配を感じていたというのに。加護をもらったおかげでセレブロとは常に魂が繋がっていると分かっていても、直接あの姿を見て、あの温かな毛並みに顔を埋められないのは少し寂しかった。

 でも、ヴィーの口から懐かしい名が出て、セレブロが自分を気にかけてくれていることを知り、左胸の上にある印が嬉しさに連動してじんわりと熱を帯びた気がした。

「セレブロは変わりない?」

 悠久の時を生きるヴォルグに人の二カ月など勘定のうちに入らないかもしれない。それでも尋ねずにはいられなかった。

 それは同じく人とは異なる時を生きるヴィーも分かっている。

『そうさな』

 それならばよかった。

「会ったらよろしく伝えておいてね」

『それはそなたが直に伝えればよかろう』

 ヴィーはそう言って羽を閉じたまま伸びをした。

 ヴォルグの長は気まぐれだ。かつてテラ・ノーリと呼ばれたこの大陸には、ヴォルグが移動に使う特殊な道が古い森の中に点在していると聞いている。ホールムスクは、リョウがガルーシャと暮らしたあの太古の森の辺縁よりかなりの距離があるが、こちらにも街の背後に高い山々がそびえていた。きっとあの山のどこかに同じような道となる巨木のうろがあるのかもしれない。セレブロのことだ。突然ひょっこり現れては驚いたリョウの顔を見て愉快気に笑うのだろう。秘めやかに噛み締めるように。そうに違いない。

「そうだね」

 リョウが悪戯っぽく微笑めば、ヴィーは飛び立つ気配を見せた。

「もう行っちゃうの?」

『なんだ、寂しいのか?』

 ヴィーはからかうように喉をぎゅるると鳴らす。リョウは素早く懐から小袋を取り出して忍ばせていた木の実を差し出した。

「ルークも…来ているの?」

 何気なさを装った積りでもその問いは唐突過ぎたかもしれない。

『そうさな』

 ヴィーは言葉少なに頷くと大きく翼を広げ、次の瞬間には窓辺から大空へ向けて飛び立った。窓一杯に広げられた羽は瞬く間に小さくなって行く。

 リョウは窓辺に立ちその影を追った。蒼く霞んだ空に黒っぽい染みが消えてなくなるまで。




 どことなく寂寥感に包まれたその背中を室内にいたミリュイがじっと見ていた。視線に気づいてか、振り返ったリョウと目が合うと意味ありげに目を細めた。その口元にはなぜか不敵な笑みが象られていた。

「隅に置けないわね、リョウ。大人しい顔して中々やるじゃない」

「はい?」

 唐突に向けられた話の矛先を捉えかねたリョウを前に、ミリュイは紅を刷いた薄い唇の間から白い歯を覗かせた。赤みを帯びた瞳が好奇に煌めきを放った。

「ふふーん、隠さなくったっていいのよ。あっちに残してきたんでしょう。もう一人」

 コレを。そう言って前に突き出した親指をちょいちょいと動かした。

 その仕草(ジェスチャー)はリョウにも理解できた。情夫(イロ)を表す符丁だ。第七の兵士たちが対になった別の方をよく使っている。

「そんなんじゃありませんよ」

 どうしてそういう方向に話が飛ぶのか。リョウは早とちりをしたミリュイに苦笑を返した。

「旦那には黙っといてあげるから。だから、ほら白状なさい」

 他人の噂話―正確には下世話な話―が好きなミリュイは、獲物を見つけた狩人のようにほくそ笑んだ。リョウはその餌食になるつもりはさらさらない。

「もう、何を言っているんですか。ルスランも知ってますよ」

「え、まさかの公認? それとも男の意地(プライド)をかけた三角関係にもつれこんでるとか? ますます気になるじゃない」

「ええと、ミリュイさん、毎度その想像力のたくましさには感服致しますが、訳が分かりません。セレブロはそんなんじゃないですよ」

「あら、そうなの?」

 相手にちゃんと伝わるかは分からないが、重ねて否定を試みれば、ミリュイはがっかりした響きを憚らずに乗せた。

「そうです」

 ミリュイは執務机の上で頬杖をついた。

「セレブロねぇ。シロカネ、ハクギン…ってことは…エズースト、アルジェント、アセーミ、プラータ…。大層な名前ね。幼馴染かなにか? それはそれでオイシイ気がするけれど。ふふ」

 このホールムスクで耳にする【銀】を意味する諸外国の言い回しを羅列した後、ミリュイの妄想に拍車がかかる。

「いいえ。違います」

「男よね。もちろん」

「まぁ、そうですね。身内のようなものですよ」

 そうだ。夫のユルスナールとは違った意味で、リョウにとっては大切な存在だ。懐かしそうに目を細めたリョウ。その柔らかな表情にミリュイは毒気を抜かれたようだった。

「なーんだ、つまんない」

 ミリュイは子供みたいに口を小さく尖らせると、丁寧に磨きこまれて光る自分の指先の爪を見た。

 真面目で実直な私生活を送っていると自負しているリョウのことだ。男女関係でミリュイを愉しませるような話題をそう頻繁に提供できる訳ではないが、ここでちょっとした悪戯心が芽生えた。意趣返しのようなものである。

「ああでも。ミリュイさんならセレブロを気に入るかもしれませんね。それはもう、ものすっ…ごい美形ですから」

 美しいものは愛でてこそと言って憚らないミリュイの期待を裏切ることはないだろう。

「ルスランよりもずっといい男ですから」

 そう言って悪戯っぽく笑って見せる。

「え、そうなの!?」

 案の定、前のめりになって食いついたミリュイを内心おかしく思いながらも、リョウは煽るように言葉を継いだ。

「ただ…なんというか…迫力はありますけれどね。色々な意味で」

「へぇえ、それは一度会ってみたいわね。王都や第七の連中を見慣れているリョウが言うんだもの。間違いないわ。目の保養になるかしら?」

 ミリュイの中ではリョウの審美眼はそこそこ信頼がおけるようだ。

「ええ、多分、傍から見る分には」

 ミリュイ流の論理展開にリョウは乾いた笑みを浮かべた。

「ふふ。じゃぁ、さっき伝令が言ってたようにこっちに来るなら紹介してね? 絶対よ」

 鼻歌が飛び出さんばかりの陽気さで片目をつぶった。

「ええ、いいですよ」

 反射的に笑顔で請け負ったものの、期待を胸に鼻息を荒くするミリュイに対峙するセレブロの図を頭の中に思い描いたリョウは、何とも言えない気分になった。実際、セレブロはそそくさと逃げそうだ。獣であったとしても人型であったとしても。そして『我を弄ぶな!』と文句を言われるに違いない。いや、その前に危険を察知して近寄って来ないか。


 そんな様子が手に取るように浮かんで口元を緩めたリョウであったが、ミリュイが唐突に話を変えた。

「ああ、そう言えば。封筒が届いていたわよ。多分、リョウ宛てじゃないかしら。鉱石組合経由でリィーナク(市場)の金物屋からだから、【トゥーズ】の招待状あたり?」


 招待状―その言葉にリョウは反応した。【埋み火(トゥーズ)】という暗号を手掛かりにユリムと共に怪しげな地下へと案内された時のことが脳裏によみがえる。そこで出会った全身黒ずくめの商人に話を通したのだ。特別な場所で不定期に開かれている競売への招待状だろう。盗まれ行方の分からなくなった一族の宝を探して旅に出たというユリムが、独自の伝手を頼って以前より訪ねようとしていた会員制の品評会だ。表向きは商人たちの私的な情報交換の場でもあるらしい。ユリムを異国の金持ちの子息に見せるためにかつてシーリスから贈ってもらった一張羅を着せて、リョウ自身は御付きのふりをして、まだこの国の言葉に不安を覚えるユリムに付き添ったのだ。


 ユリムはこの日、リョウとは別行動だった。今頃、丘の上の宿舎で兵士たちに混じって汗を流していることだろう。先だって兵士たちの鍛錬を食い入るように見ていたユリムに気がついた誰かが試みにお前もやるかと声をかけたのがきっかけのようだ。それから時間を見つけては何かと体を動かしているようだ。リョウに拾われてから第七宿舎での滞在が一カ月を優に過ぎて、リョウと共に厩舎の手伝いも随分と板に付いたものになった。そして始めはどこか遠巻きに眺めていた兵士たちも、ユリムの存在に少しずつ馴染んできたのかもしれない。かつて北の砦でリョウが受け入れてもらったように。


「ありがとうございます。多分そうだと思います」

 リョウが受け取ろうと手を伸ばしたところ、ミリュイはさっと封書を持った手を上げて遠ざけた。

「ミリュイさん? もう、こんなところでおふざけはよしてくださいよ」

 いつもの他愛ない冗談だろうと思ったリョウは笑おうとしたのだが、こちらを見下ろすミリュイの顔からは一切の感情が消えてまるで冷たい陶器のようになっていて、反射的にリョウの鼓動は一つ跳ね上がった。

「どうか…したんですか?」

 リョウもつられたように顔つきを真面目なものに変えた。

「リョウ、これがなんだか分かっているの?」

「は…い?」

 ミリュイの声は硬かった。中を検めてみないと分からないが、恐らく競売への参加を認める通達だろう。日時と場所が記されているに違いない。この間、追って知らせると言われた通りだ。そう答えたリョウにミリュイは尚も探るような視線を投げた。

「ええと、何か問題がありますか?」

 「はぁあああ」と大げさなほどに溜息を吐いて、ミリュイは片手を額にあてがった。リョウはその態度に面食らうしかない。何か不味いことでもあったのだろうか。

「リョウ、悪いことは言わないから、おやめなさい」

 同僚として忠告する。ここにはリョウのような新参者が深入りしてはいけない場所があるのだと言って。

競売(オークション)への参加を…ですか?」

「そうよ。品評会でもなんでも同じことだし」

「それは…できません」

 少し間を置いてからリョウは答えた。

「約束は守らなければなりませんから」

 ユリムにできるだけ力になると申し出たのはリョウの方だ。その言葉を取り下げることはできない。もしかしてミールの名を出したことが、具合悪かったのだろうか。そう問えば、ミリュイはすぐさま否定をした。

「あそこは、リョウ、あんたみたいな堅気の子が気軽に出入りする場所じゃぁないのよ」

 ミリュイは珍しく真剣な顔をして告げたのだが、その深刻さが相手に上手く伝わったかどうかは心許ない。

「ええ。分かっています」

「本当に?」

 リョウは自分を子供扱いするミリュイの口ぶりを少々腹立たしく思いながらも神妙な顔を作った。

「一晩で大金が動く会員制の集まりなんですよね。伝手(コネ)がなくては相手にされないと聞いています」

 ミリュイの赤みを帯びた瞳が鋭く光った。

「そう、それだけ扱う品も普通じゃないってこと」

 ミリュイは「普通じゃない」という言葉で目を一層眇めたのだが、その意図がリョウに伝わったかどうかは怪しいものだった。

「でも。だからこそ、手掛かりが見つかるかもしれないんです」

 ユリムがここに来た目的に一歩近づくかもしれない。


 暫し沈黙が落ちた。

 その時、入室後すぐ隣の長の部屋へ行ったフェルケルが戻ってきた。リョウは気まずい静寂をごまかすようにフェルケルの顔をちらと目の端で追ったが、ミリュイは気にすることなく続けた。

「あの子のためなのね。サリドの」

 リョウは静かに頷いた。

「繋ぎはシェフに頼んだの?」

 リョウのような一介の術師にあの扉は開かれない。

「いいえ。シェフには鉱石組合の方へ口利きを頼んだだけです」

「じゃぁあっちから?」

「はい」

「ふーん」

 鉱石組合はそれほどまでに強力な繋がり(パイプ)を持っていただろうか。

 ミリュイは納得のいかない風に鼻を鳴らした。それから手持無沙汰なように艶やかに磨かれた自分の爪を見て息を吹きかけた。関心があるのかないのか分からない素ぶりだが、ぞんざいに見えてその意識がリョウに集中しているのは分かった。

 やがて形のよい長い指を窓辺から降り注ぐ日の光に透かした。

「ねぇリョウ。別にあんたが無理して首を突っ込むことはないんじゃないの? ユリムって言ってたっけ、あの子。あの子にはあの子のやることがあるわけだし。だからあんな途方もない距離を遥々旅してやってきたんでしょ」

 それはそうだが、ユリムはこの街で騙されるかして大変な目に遭ったのだ。そこに手を貸したいという気持ちを持ってはいけないのだろうか。リョウは、机の引き出しから化粧道具を取り出して爪を磨き始めたミリュイをじっと見返した。

「ワタシが関わったら、こちらに迷惑がかかりますか?」

 それは意地の悪い訊き方だったろうか。

「それは…どう転ぶかによるわね」

 ミリュイの返事は曖昧で、珍しく歯切れ悪かった。

「それは…どういう意味ですか?」

 ミリュイは物分かりの悪い相手に呆れたように溜息を吐くと、真面目くさった表情を変えずに戸口付近に立つフェルケルを見た。フェルケルは内心当惑しているのかもしれないが、取り澄ました顔からはいつものごとく感情が消えていて、どう思っているかは分からなかった。

「あんたも大概頑固よねぇ」

 ―先達の言うことは素直に聞いておくものよ。

 爪磨きに熱をあげているふりをしながらミリュイがちらと相手を見れば、リョウは鼻筋に皺を寄せていた。

「でもミリュイさんだってはっきりしないじゃないですか。首を突っ込むなって言われても。駄目なら駄目で、その理由を教えてください」

 少なくとも納得できる説明が欲しい。

「理由ねぇ」

 ミリュイは机の上に置いた封書を再度拾ってひらひらと振った。


 そうして口を開こうとした矢先、

「二人とも、シェフが呼んでいる」

 これまでの沈黙を破って、唐突にフェルケルが間に入ってきた。リョウは明らかに邪魔をしたフェルケルを責めるように見返したが、

「じゃぁシェフに訊いてみたら?」

 ミリュイはとってつけたように微笑んだ。

「うん、その方がいいわね。フェルケルもそう思うでしょ、ね?」

 突然話を振られたフェルケルは、困惑したように片方の眉を引き上げた。

 ミリュイはどこか投げやりに言ってリョウに封書を渡した。リョウは訳が分からないと思いながらも―もしかしたらこれ以上の議論が面倒になったのかもしれない―手を出した。その瞬間、ピリッとした痛みが指先に走り、手が震えた。


 リョウは受け取った封書を裏表と検めた。なんの変哲もないくすんだ茶色の封筒だ。印封に施されていたのは初めて見る印だった。揺らぐ炎を象ったようにも見える。色は紅と黄色が混じったようなもので宛名はない。

 長が呼んでいるということで隣の部屋に入ったフェルケルとミリュイの気配を気にしながらも、気が急いたリョウは印封解除のまじないを素早く唱えた。小さな炎が淡く飛び出して揺らいでは四方八方に飛び散った。ひりひりとした痛みが今度も指先に残った。

 あの時と同じだ。ユルスナールから鍵に残る持ち主の記憶を探ってほしいと言われた時と。

 素早く封書を開く。そこには木の葉が一枚と木の実が二つ入っていた。乾燥させて皺だらけになった赤い実と黒い実。木の葉は摘み取ったばかりなのか青々としていてほんのりと清涼な匂いがした。

「なんだろう」

 リョウは面食らった。普通に紙が入っていてそこに判読可能な文字が綴られているかと思ったのだがこれでは分からない。これらの符丁は何を意味するのだろうか。

「リョウ! 早く来い!」

 ―何をもたもたしているんだ。

 隣から苛立ったシェフの声が高く響いて、リョウは手のひらの木の実を封筒の中に戻すと慌てて隣室へと飛び込んだ。


 ***


「お待たせいたしました」

 シェフの部屋にはミリュイとフェルケルの他に見たことのない男女が二人いた。一人は大柄の男で無造作にくくられた髪がどことなく荒っぽい印象を受ける。もう一人は(あで)やかな顔立ちの随分と年上の女性で、派手な色を身にまとい世慣れた雰囲気がその佇まいには表れていた。軽く頭を下げ遅れたことを詫びる。

 シェフは現時点で連絡の取れたホールムスク在住の術師に集まってもらったのだと言った。

「リョウは初めてか」

 二人の方を気にしながら素直に頷く。ここに顔を出すようになってから丸二カ月が過ぎたが、彼らの姿を垣間見た覚えはなかった。

「こっちはユコス。で、これがサナトス 。二人ともここは長い」

 それからシェフはリョウを二人に紹介した。

「はじめまして」

 ユコスと呼ばれた男は浅く目礼する。サナトスと紹介された女は口元を微かに緩めた。ミリュイの時のような親密さは欠片もない。気圧された訳ではないのだが、二人とも一言も発していないのに独特な存在感を放っていて、リョウの中に強烈な印象を残したことは確かだった。


 現在ホールムスク在住の組合(ミール)所属術師が揃ったところで、シェフは用件を手短に告げた。

「どうやら以前、ここに在籍した術師の中に抜け荷に手を貸したものがいたようだ」

「抜け荷…ですか」

 状況が上手く把握できずに声をあげてしまったリョウは慌てて口を噤んだ。

「おいおい、冗談だろう、リョウ、お前さんは旦那から何も聞いていないのか。やっこさんたちも血眼になって探しているはずだ」

 騎士団の事情に一から十まで通じていて当然と思われるのは釈然としない。大げさに呆れた顔をしたシェフにリョウは微妙な顔をした。

 するとフェルケルが補足だと言ってリョウの耳元で端的経緯を淡々と耳打ちしてくれた。

 ティーゼン・ハーロム号の焼失事件は、単なる事故から禁制の品を積んでいたが故の抜け荷事件へと発展していた。あの一夜からずっと緊迫した慌ただしさが、詰所や宿舎内の兵士たちの顔や佇まいに表れているとは思っていたが、事態がそのようは方向に向かっていたとは思いも寄らなかった。


「いえ、捜査の詳しいことは何も。ワタシはもっぱらトレヴァルさんのところにいましたから」

 術師であるリョウの役目は怪我人の治療だ。事故原因の捜査や究明に興味はない。港の診療所や港湾組合の倉庫で看ていた患者の治療はあらかた終えて、後は経過観察になっている。脚を片方なくした重症患者のゼバシャは、折を見て荷馬車にゆられて家族が待つ集合住宅へと戻って行った。追々、杖を使った歩行訓練が必要になるだろう。リョウは様子見を兼ねて、一度ゼバシャ一家を見舞った。厳しい現実を前に相当気落ちしているかと心配したが、港湾組合の方でも引き続き仕事がもらえるようであるし、子供たちが父親の身を案じて色々と助けてくれるようで、思ったよりも明るい顔をしていた。


「ふむ。まぁいい」

「どうしてここの術師が手を貸したと分かったのですか?」

 リョウは不思議に思って首を傾げたのだが、またしても微妙な沈黙が落ちた。他の組合員にしてみれば知っていて当然のあまりにも初歩的なことだったからだ。

 その問いにはミリュイが答えた。

「それはうちらにしか伝わっていない印封を使ったからよ」

 訳知り顔で磨いて艶を増した指先を横に振る。抜け荷が発覚した積荷の木札に用いられていたのは、ミールに所属した者しか知らない象形が印封として施されていた。先ほどの会議でフェルケルが暴いた情報だった。ホールムスクからの積荷には商品によって各組合の印が施された木札がぶら下がり、そこにミールの術師が特別に認証の印をつけることになっていた。

「ほら、リョウもこの間教わったでしょう?」

 リョウは、ミリュイとフェルケルの二人から作業を手伝ってほしいと言われた時のことを思い出した。印封の形はシェフから直接伝授された。それをしっかりと頭に刻み込んで、古代エルドシア語から派生する文字を刻んだ。執務机の上には木札の入った箱が二つ置かれ、一つの方から札を取り出して印封を施すと処理済みの方の箱に入れる。箱の中には無数の札が乱雑に入っていて、その量の多さに驚いた覚えがある。それから単調な作業を淡々とこなす二人のやり方を見よう見真似で行った。最初は形がぎこちなくて、どのくらいの力を込めていいのか、集中の配分が分からずに神経を使い、疲れ果ててしまった。

「アレ…ですか?」

「そうよ」

 偽札とされたものには、まるでミールの術師をおちょくるような術式が施されていたという。精巧に作られた偽物。単なる暇つぶしとするには手が込んでいて、仄かな悪意も透けて見える。誰かが気が付いて大騒ぎするのを端から見て喜ぶような、そういう類の愉快犯の匂いがした。


「あの形を知る術師は、どれくらいいるんですか?」

 リョウも気がつけばその一人になっていた。技の継承は驚くほどあっさりとしたものだったので、あれがそんなにも重要なものだとは思わなかった。

 術師たちは明言を避けるように互いの顔を見交わした後、艶やかな照りを放つ執務机に座るシェフを見た。

「どこまで遡るかによるがな。まぁ、こんなことに手を出す阿呆はそう多くはない」

 そう言って【リースカ(キツネ)】というあだ名通り人の悪そうな笑みを浮かべた。具体的な人数は挙げなかったが、その口ぶりは該当者に心当たりがある風であった。リョウはもう少し詳しい説明を求めてミリュイとフェルケルを見たのだが、二人は苦いものを飲み込んだように口を噤んだまま。

 仕方ないのでもう一歩踏み込んでみた。

「同じ印といっても、術師によって色が異なりますよね?」

 ミリュイとフェルケルとリョウでは、同じ形の印封でもそこに付与される素養の質と源によって全く同じ色合いにはならないのだ。似て非なるものと言えるだろう。そこには術師固有の性格が反映する。たとえば、ミリュイであれば橙色に紫、薄紅といった暖色系が混ざり、フェルケルは水色に白、銀といった寒色系で、リョウならば濃い青に緑と白銀といったように。ただ、この色はそれを視る者の素養によっても変わってくるので、誰もが同じ色彩感覚を抱くわけではないが、三者三様で異なるということだけは分かる。そしてこの違いは術師ならば感覚的に理解できる事柄だった。

 そう指摘をしたリョウに対し、シェフは小馬鹿にしたように鼻で笑って意外そうな顔を作った。

「おや、中々に鋭いところを突く」

 リョウは意地の悪いシェフの態度を恨めしく思いながらも表情を取り繕った。

「目の付けどころとしてはいいかも知れんが、ある程度能力のある術師であればその色合いを自由自在に変えられる」

 リョウとシェフの間にある認識の差を埋めようとしてか、ここに来てユコスが厳めしい顔つきを崩すことなく間に入った。

「まぁそうね。あなたはどうかわからないけれど、ここにいる皆はそのくらいできるでしょうから。ま、それをするかしないかは別として」

 サナトスも経験の浅いリョウを横目に辛辣な意見を述べてから口元を皮肉っぽく歪めた。

 リョウは己の浅はかさと未熟さに忸怩たる思いをしながらも、半ば開き直って訊いた。

「あの…その…皆さんには…心当たりがあるんですね?」

 今回の騒動に手を貸したという術師に。口にしてもよいものか迷ったリョウだったが、思い切って尋ねた問いかけは、まるでなかったかのように黙殺されてしまった。

 だが、一方でそれは肯定を意味するとも言える。沈黙の中に潜む気まずさが胃の腑を刺すように天上から降り注ぎ、棘を残して沈んで行った。


「結論として」

 話の流れを変える為にか、フェルケルはリョウに同情するような視線を投げてから口を開いた。

「我々としてはミールに疑惑をもたれるのは避けたいですね。この件が組織ぐるみでないことは術師である我々には分かりますが、あちらの方々には疑念が生じるでしょう」

「まぁ確かに正論よね。こっちとしては面倒くさいけれど。仕方がないか」

「見つけ次第、揉み消すしかないな」

 ミリュイ、ユコスがそれぞれフェルケルに賛同を示し、リョウにはいまいち理解できない【何か】に妥協したところ、サナトスが冷たく笑った。

「ねぇ、それよりも先にやることがあるんじゃないの? たとえばこれまで被った迷惑料への返礼をね、しなくっちゃ。感謝の気持ちをたっぷり込めたとっておきの呪詛状でも送りつけたらいいんじゃない? 馬鹿な真似して遊んでないでさっさと始末をつけろって。あ、尻拭いはまっぴらとも加えなくっちゃ」

「では、毒でも塗りこんでおくか。触ったらかぶれて猛烈に痒くなるやつとか」

 ―蔦漆の毒を粉末にしたものがあったはずだから紙に練りこむか。

「あら、いい考えね」

「だろう? 配合をちょっと変えて」

 躊躇いの一切ない物騒な会話にリョウは顔を引きつらせた。笑顔で交わす内容ではないだろう。うすら寒い微笑みを浮かべたユコスとサナトスの二人は、醸し出す雰囲気がよく似ていた。


「あれへの仕置きは、こちらで手を打つ」

 端で盛り上がる意趣返しの為の毒草談義を余所に、最終的にシェフが決断した。花の咲いたおしゃべりが止む。

「ただ派生的にこの機に乗じて動く者があるだろうから、用心するに越したことはない」

「ミールの方の対処は?」

 事務的に尋ねたフェルケルに、

「それもこっちで話を通しておこう」

 シェフは尤もらしく頷いた。

「やだ、シェフ、随分と気合入っているじゃない!」

 ミリュイがおちょくるように冗談めかせば、シェフは尖った顎を上に反らしてこう言った。

「ふん。打つ石を間違わなければいい。それだけのこと。いいか、承知しているとは思うが、お前たちも態とらしいことはするなよ」

「はいはい」

 ぞんざいな返事をしたミリュイをあっさりと無視して、

「特に、リョウ」

 シェフは新米術師をひたと見据えた。

「う…はい?」

 どうして自分がそのように釘を刺されなくてはならないのだと突然のことで呆けたリョウだったが、ミリュイがこの機を逃すわけはなかった。

「いや、もうそれは無理でしょ。ねぇリョウ?」

「へ?」

 ミリュイは意味あり気に微笑むとリョウが手にしていた封書を指で示し、それをシェフに渡せと頻りに合図をした。

「だってねぇ」

 ―ほら、今、それを見せちゃいなさいよ。

「リョウ?」

 二人の遣り取りを訝しげに思ったシェフは厳しい表情で眉を動かす。リョウは観念すると開いたばかりの封書をシェフに手渡した。


 ***


 用事が済んだということでユコスとサナトスの二人は早々にミールを辞した。フェルケルも二人を見送るべく玄関まで付いて行ったようだ。

 今、室内には、シェフとミリュイ、それからリョウの三人が残っていた。


「フラーケに頼んだのはこの繋ぎか」

「はい」

 封筒を開き中に入っていた木の葉と木の実を掌の上に乗せるとシェフは素っ気なく問うた。それが競売の招待状であることは十分理解していたようだ。シェフもあの鉱石組合のの女長をユリムと同じく【埋み火(フラーケ)】と呼んだ。

「ふむ」

 青々とした木の葉を摘み、鼻に近づけて爽やかな香りを楽しむ。その様子をつぶさに見守っていたリョウの前でシェフは思いがけない行動に出た。なんと、ひょいと葉っぱを口の中に入れ噛み始めたではないか。咀嚼する度にリョウの鼻先にも清々しい匂いが漂った。

「へ?」

 リョウが呆気にとられている間に乾燥して皺になった赤い実と黒い実も口の中に放り込んだ。今度は仄かに酸味を帯びた甘い匂いが漂った。

「シェフ!? な…なにをしているんですか!」

 驚きの余り声が裏返りそうになったリョウに対し、シェフは何事もなかったかのように口にした秘密の暗号―とリョウは思っている―をごくりと嚥下してしまった。

「リョウ、お前の浅はかさはいっそ突き抜けているな」

 冴え冴えとした笑みを浮かべてシェフは言い切った。

「ど、どういうことですか…」

 何が何だか。混乱の余韻を引きずりうろたえたリョウにシェフは小さく溜息を吐く。呆れてものが言えない。シェフの瞳はそのような感情を雄弁に語っていた。

「よく考えてもみろ。あそこで扱われる商品は、表には出せないものばかりだ。ただの【モノ】だけという訳ではない。あそこには奴隷商人もいる」

 ―それが何を意味するのか、分からないのか。

 シェフの眼差しはぞっとするほど冷たく、それでいて未熟な弟子を包み込む優しさも持ち合わせていた。かつてガルーシャもこんな目をしたことがあった。突然蘇った色褪せない記憶にリョウは生唾を飲み込んだ。

「あの子、ユリムは、逃れて来たのだろう? 人買いの所から」

 その言葉は雷光の如くリョウの胸を貫いた。どうして今までそんな大事なことを忘れていられたのだろう。リョウは今更ながらに己の無頓着さに呆れた。ユリムを助けた時、あの子は足に枷をはめられていたではないか。頑丈で特殊な処理の施された枷だとユルスナールとシーリスは言った。冷たいものが背筋に走った。

「いいか、リョウ。あそこは、そういう場所なんだ。もし、ユリムがあの時の商人と鉢合わせでもしたとしたら、お前はどうする? あそこから無事抜け出せると思うのか?」

「それは……」

 分からない。

「助けられると思うな。あそこにお前の考える正義や秩序、倫理などない。見つかったら最後、お前も共に売られるかもしれないな。珍しきサリダルムンドの民としてな」

 その瞳は暗く、漆黒の中に沈んで行った。

「そんな…まさか…」

 シェフから突き付けられた容赦ない現実にリョウは言葉を失った。

「どうしてそんなことが野放しになっているんですか?」

 人身売買はスタルゴラド国内では御法度のはずだ。そのお掟に従うのはミールとて例外ではない。青臭い理屈を真面目に語ったリョウの前でシェフは気だるげに机の表面を指で叩いた。

「表向きはそうだ」

 ミールは商人の集まりであるから、競売が開かれていることは把握している。ただ、そこに出てくる商品については関知しないし、品評会という形を取ることの多い催しはミールの管轄下ではない。

「どうして取締をしないのですか」

「できないからだ。それに必要悪でもある」

 シェフの口振りは日常の瑣末を語っているかのように淡々としていた。


 ミール所属のある程度の組合員であれば、闇市場の存在は知っている。公然の秘密であった。そこに売り手と買い手がいて、商いが成立する限り、商人たちは取引を止めろなどと野暮なことは言わない。それがこの街の流儀だった。

 それに、犯罪や暴力は押さえこもうとしてもけっして無くならない。人殺しや戦争も。法で取り締まっても騎士団のように軍事力で取り締まったとしても、人の心の中に他人を蹴落とそう、人よりも優れようと、そして人を羨み妬み、憎む気持ちがある限り。そして、このような闇市場は、誰かが―たとえば権力の側が―取り締まろうと躍起になっても決してなくなりはしないものなのだ。摘発されたとしても一時的に鳴りを潜めるだけで、その内また何事もなかったかのように商いの場は生まれ、人が集まるのだ。そこにある蜜を求めて。人の心に飽くなき欲望が巣食う限り。需要と供給、売り手と買い手がいる限り。


「これがホールムスクだ」

 商人の街とはそういうことだ。

 リョウは雷に打たれたようにその場に立ち尽くすほかなかった。


 ***


「ミリュイ、あれを」

 同じように室内に残り、長椅子に座って足を組んでいたミリュイにシェフが指示を出した。

 ミリュイは徐に立ち上がると壁際にある棚へと歩みより、慣れた手付きで引き出しを漁ると赤茶けてごわついた【何か】を取り出した。古い厚紙のようだ。折り畳まれていたものを開き、シェフの座る執務机に置いた。

「ええと、瑞々(みずみず)しき青に赤と黒が一つずつ…だから」

 ミリュイが歌うように口ずさみ、紙の上に指を走らせる。

 それは何かの暗号表のようだった。縦横にびっしりと細かな線が引かれ、様々な記号が並んでいた。まず縦5列横4列に大きく分けられている。そこから更に横には10、縦には40の線があるだろうか。

 その形状を見たリョウは、これは暦かもしれないと思った。その予想を肯定するかのように、ミリュイは磨かれた艶やかな爪先をあるマスで止めた。

 赤の第一の月、第三デシャータクの半ば。

「再来週か」

「25日ということですか?」

「ああ」

 日付は分かった。

「時間は?」

「競売は通常、日が中天を越えたあたりから始まる。それまでに会場へ入っていればいい」

 日時は分かった。だが、肝心の場所はどこだろうか。

 口を開こうとした矢先、シェフが制した。

「朝一番に伝令がやって来る。そいつが案内する」

 リョウはハッとしてシェフとミリュイを見た。

「許可してくださるんですか!」

 品評会―競売への出席を。

「リョウ、うちの登録札はあるな? 入り口でそれを見せろ。少しは融通が利くだろう」

「あ…りがとうございます」

 思わず顔を綻ばせたリョウだったが、厳しい表情を崩さないシェフとミリュイにすぐさま顔付きを改めた。

「リョウ、参加はお前の自己責任だ。だが、万一、サリドの件で因縁を吹っ掛けられたら、その札を見せてミールの者だと言え。向こうも手荒な真似はしないだろう」

「はい」

 思いがけず優しさを見せたシェフの助言にリョウはしっかりと頷いた。それから長は自衛の手段を考えておくようにと付け加えるのを忘れなかった。

「旦那の方には言ってあるのか?」

 不意にシェフが訊いた。

「…いえ、これからです」

 リョウは曖昧に眉を下げた。シェフとミリュイは顔を見交わせる。

「まぁ、反対するわよね。普通なら」

「お前の好きにしろ。ただ備えは怠るな」

「はい」


 ***


 リョウ とミリュイ、二人の術師が部屋を辞した後、飴色に光る執務机の斜め後ろ側、仮眠室へと通じる扉が音もなく開き、ひょろ長い影が木枠に寄り掛かるようにして現れた。ラプーフ(ごぼう)の根か、ネギ(ルーク)のようだ。

 術師組合の(シェフ)、メレジェディク・リサルメフは肘掛椅子の背にぐっと体をもたせかけた。時間を置いた負荷に革が擦れて軋む。


「あンのじゃじゃ馬、相変わらず引きが強いっていうか、なんというか。あんたも災難だな」

 まるで風に弄ばれた梢のざわめきのように掠れた声を出したのは、木の枝の如き細い男だった。顔の左半分を長く伸ばした明るい髪が覆う。露わになった右側の瞳は、ぎりぎりまで弓を引き絞り、満を持した射手の気迫に似て非常に鋭く尖っていた。

「知ってるのか」

「まぁな」

「ふん、勿体ぶらんでも。お前も大して変わらんだろうに」

「へっ」

 リサルメフは椅子の背もたれに体を預けたまま、磨かれた床に薄く伸びる男の影を目の端で追った。相変わらず気配を微塵も感じさせない。この男とはもう長い付き合いになるが、その顔をしかと見たことはなかった。

「お前さんとしては都合がいいんじゃないか」

 シェフの声音にはどこかからかうような響きがあった。

「ハハ、そいつは穿ち過ぎってぇもんだぜ」

 床に鈍く反射する影は微動だにしない。

「てぇか、本当は心配なんてこれっぽちもしてねぇだろ。あんたにとっちゃぁどうでもいいんだからよ」

 男が背後から投げたのだろう、青々とした木の葉が一枚、閉ざされた室内にひらりと踊る。風の入り込む余地のない空間にも微弱ながら気流が生まれていた。

「ハハ、そんなことはない」

 乾いた笑いは肯定の裏返しか。


 あれは大いなる力に護られている。ただその力がこれだけ無数の人間の限りない欲望がひしめく場でどのような作用をするかは分からない。人は人の間に暮らすからこそ、この街はここまで栄えて来た。それは紛れもない事実だ。大いなる自然の古き力を拝借する形で術師として食いつないで来たリサルメフにも、こうして長いこと人間(じんかん)にとっぷりと浸かっていると、素朴な街の人々と自身とを分けているこの(いにしえ)との繋がりが、皮肉にも煩わしく思う時があった。だが、生まれ持った素養を磨き、こういう生き方を選んだのは自分自身だ。

 ―神域の…

「怒りなど買いたくはない。誰であろうとも」

 人知の及ばぬ聖域の恐ろしさを知る術師の正直な気持ちだ。今、ホールムスクの潮流は入り乱れ、政治的緊張も日毎に増していた。澱のようにして溜まった淀みを濯ごうとして、更なる毒水を招く。そんな不穏な空気が地下水脈を辿るように静かに忍び寄っていた。

 陰謀と呼ぶには稚拙な動きが、同時多発的に派生していた。混乱に乗じて勢力を伸ばそうとする者の手か、はたまたあわよくばこれを機に敵対勢力を追い落とそうとする試みか、表面上穏やかに見える水面(みなも)の下には、競争に蹴躓(けつまず)いた落伍者をすぐさま底へ引き込もうとする潮目が渦巻く。

 このような微妙な時期に、たとえ名ばかりとて配下の者に目の前をちょろちょろされるのはどうも具合が悪かった。リサルメフの本音は辛辣だ。罠にかかろうとする獲物を前に普通ならそのまま傍観を決め込む所だが、それではどうも寝覚めが悪い。必然に逆らう偶然という名の石を落としてみたい気もする。

 面倒なことにならなければよいが、正直どう転ぶかは分からない。ただ、はっきりとしていることは、あそこの連中は、術師一人の命など一刀の下に斬り捨てられるだろうということ。普段なら愚かなる振る舞いをした者の自業自得として嗤って突き放せるのだが、リョウという存在は、なぜかリサルメフの中に潜むあるかなきかの如き良心の欠片をくすぐった。


「そいつは俺も賛成だ」

 陰からぽつりと漏れた述懐の籠った返答にシェフは小さく喉の奥を鳴らした。この男を自らの領域(テリトリー)で好きにさせておくのも、こうして時折感じる、通じるような感覚が小気味良いからかもしれない。

「あの噂はどこまでが本当なんだ?」

 不意にシェフが訊いた。

 一昨年、王都スタリーツァで起きたという神殿に端を発した騒動はここホールムスクにも届いていた。この国の象徴でもあり伝説の獣として王族より崇められているヴォルグの長が姿を現し、天秤が大きく傾いたという話だ。

 現王がヴォルグの怒りに触れたという噂は、20年前のノヴグラードとの開戦、宣戦布告の報せよりも大きな影響力を持って、ホールムスクを一時期異様な空気の中に落とし込んだ。ミール内では、スタルゴラド王家の存続を危ぶむ声が上がり、これを凋落の徴として、今後は王都より距離を置こうとする一派が発言を強めた。一時期下火になっていたホールムスク独立を目指す気運も再び表に出ようとした。

 あれから一年と少し、当時、王都を震撼させたはずの出来事は、まるで存在しなかったかのように人々の記憶から消えていた。最後に報せの波が到達したホールムスクの岸辺には、残骸が破片となって人々の頭の片隅に突き刺さり、棘のように万年病の神経を高ぶらせていた。

 シェフ自身、噂自体には大して気を留めなかったものの、あれと伝説の獣の繋がりは十分感じ取ることが出来た。あの目の眩みそうな程に強い加護によって。

 あれがここに来て二カ月弱。この街にとって、禍を呼ぶものとなり得るのか。この巡り合わせに何かの必然、もしくは符丁を読み取ろうとするのは馬鹿げているし、気に入らなかった。そして、ふと、あの能天気でふやけた笑みを思い出して、リサルメフは内心、腹立たしさを覚えずにはいられなかった。

 ―これだから厄介だ。

 ぎゅっと眉間に皺を寄せた所で。

「よく言うぜ。火のねぇ所に煙は立たねぇ。あんたの方が俺よかよっぽど詳しいだろうに」

 影の男―ルークは、意味あり気に椅子の背凭れより飛び出したリサルメフの頭部に視線を投げた。

「ふん、お互いさまというものだ」

 王都にはもちろん、ミールやリサルメフの息のかかった者が送り込まれているし、また、ミール内にも向こうの手の者が様々な形で入り込んでいる。放浪癖があり、技術を持つ術師は国や文化を軽々と越えることが出来る為、情報収集に適した職能集団だ。

「それよりも今後、王都がどう出るか」

 シェフは独りごちた。

 ここ(ミール)にも手が伸びることになったら面倒だ。

「お前さんとこの(かしら)はどう出る?」

「そいつはこっちの出方次第だろう」

「ふむ」

 煙に巻くような影の男の返答をリサルメフは真正面の壁に貼られた大きな地図を睨みつけつつ受け入れた。

 やれやれそろそろ本腰を入れなければならないか。術師特有の勘とでも言うべき波乱の予感にシェフは尤もらしく溜息なんぞを吐いてみた。


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