2)玻璃の泡
舞台は再び現代のホールムスクへ。
「玻璃」とは七宝のひとつで水晶のこと。ガラスのことも差す場合も。
ゆるりと吐き出された柔らかな煙は、ゆらゆらと天を目指したかと思うと傍らに侍る女の使う羽扇の気だるげな微風に回流し、行き先を変えては当て所なく流れる。室内は、薄い被膜を張ったように霞んで見えた。ぽこぽこと水が玻璃の如き儚い玉を作りだす音が休みなく続いた。細長い首の天辺に詰められた【種】が焚かれることで生まれ、水を通ることで冷やされた煙は、細長い管を通り、銀色の吸い口から集う男たちの喉に入る。各人の肺をたっぷりと満たした後、温くなった煙は鼻から吹きだされた。
甘い花の蜜が香った。余韻を楽しむために付けられた香りだろうか。種を固めた蜜がじわじわと温められ溶け出す匂いかもしれない。
車座に並んだ椅子に座る男たちの傍らに其々着飾った女が寛いだ様子でしなだれかかっていた。首からつま先まで覆われた露出の無い服を着ていたが、体の曲線を余すことなく暴いているので、却って艶めかしく見えた。
ある女は肘かけに乗る男の腕に手を乗せ、甘えたように摩る。交わされる囁きは他愛のない言葉遊び。燻る煙に絡め取られては、嘘と真が入れ替わる。魅惑的な曲線を象る柔らかな熱を弄ぶ男の手は、慣れたように薄布に包まれた膝を愛でていた。
この場所はホールムスクの繁華街の一角、瀟洒な建物の中にある一室で、南方よりもたらされた水煙草を楽しむ愛好者の為の社交場だった。スタルゴラド国内では一般的ではないが、古くから交易によって栄え、各地から入ってきた新しいものを進んで取り入れる気風のホールムスクでは、このような珍しい品々に価値と拘りを見出した商人たちが趣味と実益を兼ねて作った場が、あちらこちらに点在した。それこそ知る人が知る隠れ家のように。
始めはミールに所属する男たちが集まり、水煙草を囲みながら緩やかな時の流れに身を任せ、世間話や組合の枠を取り払った自由な交流、もっと言ってしまえば情報交換を行う場であったのだが、それだけではどうも面白味に欠けるということで、花街の女たちの中から選りすぐりの美人を招いて、談笑をする仕組みとなっていった。昔は本業のある女たちに声をかけていたのだが、今では其々の社交場が独自に客の好みにあった見目麗しい女や男を給士として抱えていることが多い。ここもそのような社交場の一つだった。
水煙草は、一つの吸い口を車座に囲んだ男たちが順繰りに吸ってゆく。店によって元となる煙草の種の調合は異なる為、好みの味を見つけた客は、大抵その店の常連になってゆく。集まる顔触れは大体同じだ。万人に開かれているようで、その実非常に閉じられた世界を作り、狭い内輪の繋がりを掘り下げて行くことに適していた。一つの煙草を囲みながら、商人たちは煙に巻かれた雑談の中に今後の商機や有益な情報を探りあった。
「全く腹立たしい限りだ」
店内に並んだとある卓の一つ。深く吐き出した煙に呪詛を込めて一人の男が呟いた。男の隣には馴染みの女が寄り添い、昼間には似つかわしくないただれた笑みを浮かべている。漂う甘い香りは、薄められた退廃の名残りか。
「ええ。本当に。随分なことでしたな」
その隣で吸い口を受け取った男は、同情の色をその瞳に浮かべてから美味そうに口を付けた。ぽこぽこぽこと煙が水の中を抜ける音は、まるで全てを冗談に変えてせせら笑うかのようでもあった。
「他人事ではないぞ」
「まぁ、そうカリカリしなさんな」
苛立たしげに横目で睨んだ男に隣の客は宥めるように微笑んで見せた。
「船の指定はミシュコルツ殿の方から、ですな?」
そう言って隣に座る別の男に吸い口を差し出した。
「ええ。そういうお話しでしたな」
自分の番が巡って来た男は、同じように長い管の伸びた煙管をくわえた。
男はどこか威厳ある風采をしていた。伸びるに任せた髪は、所々編み込みが入り、赤や白の紐でくくられ整えられていた。異国風の特徴的な髪形だった。
「ちょっと待て。話が違うだろう。わしは船のことなど聞いておらんぞ。それはそちらでいいように任せたであろう?」
一番目の男―ミシュコルツが半ば驚きを表わしながら隣を見た。固まった男の腕を女の滑らかな手が摩る。男は女の手を探り当てると所在なげに握り締めた。紅を刷いた女の唇が宥めるように弧を描く。
「ええ。最初はそういうお話でしたから、こちらで手配をしていたんですがね。途中で連絡を寄越したじゃありませんか」
何を言っているんだと言わんばかりの顔をして二番目の男は相手を見返した。
「なんだって!? そんなはずはない」
たっぷりとした口髭を生やした男は怖い顔をして身を乗り出し、皺がくしゃりと刻まれた優男風の面立ちをした煙草仲間を見た。
人当たりの良い顔をした男はこう返した。
「いいえ。そうですよ。こちらも御贔屓筋を立ててなんぼの商売ですからね。先約分は断って、そちらに積み替えるよう指示を出しましたよ。もちろん、こちらからもお知らせしているでしょう?」
二人は暫し顔を見交わせたまま、黙り込んだ。一方の顔が徐々に歪んでゆく。口髭の男は険しい顔をして低く唸った。
「わしはてっきり、お前さんの方であの船を選んだのだと思っていた」
鋭い鷹のような目で優男を睨み上げた。
口髭の男ミシュコルツは、ここホールムスクを拠点に手広く商売を行う商人で、ティーゼンハーロム号に荷を預けた荷主だった。男は先日の焼失事件で、出荷した商品の殆どを失った。損失は莫大だ。なぜ船が燃えたのかという原因はいまだ分かっていなかった。正確な情報も報告もない。日頃の取引から信頼をして荷を任せたというのにあのような事態になって、裏切られたような気分で男の怒りは治まらなかった。そして事の次第をはっきりさせる為に、船への繋ぎを決めたこの男にこの件を厳しく問い質そうと意気込んでやって来た。開口一番に怒鳴りつけなかったのを感謝してもらいたいくらいだ。それだけのことをこの男はしでかしたのだと思っていた。だが、このような心身共に寛ぐための社交場で、この場の雰囲気を乱すようなことをするのは、常連の商人としてはみっともないとようよう堪えて自重していたのだ。
それなのに。
「まさか! どうしてそんなことを」
方や隣の男―名をカロチャという―は、積荷の輸送を仲介する運び屋を生業にしていた。荷主と船の間に入り、運ぶ品物の量や内容、仕向け地に合わせて、荷を運ぶことのできる適当な船を紹介するのだ。荷を預けた荷主側と積荷を紹介してもらった船側の両者から口利き料として口銭を取ることで糊口をしのいでいた。
本来このような仕事はミールの港湾組合が行うことになっているのだが、日々、様々な地域から船が入出港するホールムスクでは、港を経由する船の数も取り扱う荷の量も桁外れに多く、港湾組合だけでは対応できないくらいの規模になっていた。そこで登場するのが、この男のような乙仲の仲介屋だ。幅広い人脈と様々な情報を持つ個人の仲介業者が間に入ることが今では慣例となっていた。
「一体どういうことでしょう」
時間をかけて白い煙を吐き出してから更に隣の男に銀色の吸い口を手渡して、驚きの声を上げたのは、ミール所属の港湾組合長シルヴェスタだった。
「聞きたいのはわしの方だ」
この一件を問い質そうと鼻息を荒くしたミシュコルツは、出鼻を挫かれた気分になった。
今回の事故は通常では考えられないようなものだった。日頃信頼しているからこそあの荷を預けたと言うのに。あれは特別な商品だった。これからの商売を軌道に乗せる為の見本が入っていた。選りすぐりのものを実際に見て手に取ってもらう為の試作だった。この事故で荷主の看板は著しく傷つけられた。金銭的損害も大きかったが、それ以上に信頼を傷つけられたことが許せなかった。
「妙なことですな」
怒りに震えた荷主を横目にシルヴェスタは困惑気味に溜息を吐いた。隣の男が吐き出した煙が、薄く幕を張るように男たちの間に漂った。
「変更の連絡とはなんだ?」
ミシュコルツはカロチャを責めるように見た。
伝令が来たと仲介屋は答えた。小型の猛禽類ハイタカを使った急ぎの便で、書きつけには荷主の名が記されていたので本物だと思ったと。
「その紙はどこにある?」
仲介屋はちりめん皺の刻まれた頬をつるりと撫でて懐を探った。そして、細く折り畳んだ紙を取り出し開いてから荷主へと渡した。
そこには積荷をティーゼンハーロム号に積むようにとの指示が書かれていた。ミシュコルツの眉間に深い谷が出来る。目を眇め、奥歯をきつく噛み締めるとその紙を感情のままにびりびりと破いた。その手は怒りに震えていた。
「これは偽物だ!」
語気を強めてミシュコルツは吐き捨てた。細かく刻まれた紙片が女の仰ぐ扇の風に乗りふわふわと散った。女はそれを無邪気に目で追っていた。
「まさか!」
「わしの言葉が信じられんのか?」
「いえ…そうではなくてですね」
眦を吊り上げた荷主に仲介屋は誤魔化すように笑った。
「誰が何のためにこんな真似を」
―E××T×××M×××!
条件反射のように悪態を吐いてから腹の中から湧き出した憤りをどうにか押さえた。
荷主と仲介屋の二人は、澄まし顔で再び吸い口を手に取った港湾組合長を見た。
「私もあの船は妥当かと思いましたからね」
その口調は、まるで他人事のように淡々としたものだった。
ティーゼンハーロム号は、表向きはイシェフスクからの交易船であるが、船主はノヴグラードの貴族に縁がある商会だという噂が以前からあった。ホールムスクに寄港し、新しく荷を積み込んだ後は、次の寄港地―バシコルで織物関係の荷を下ろす予定だった。
「ええ。ですからあたしの方でも、てっきり旦那の方でお話しがついたと合点したんですよ」
仲介屋カロチャにとってもその選択は十分納得できるものだった。なにせ荷の受け渡し先は最終的にノヴグラードに縁のある商人であったから。
だが、荷主であるミシュコルツは船の指定などしなかったと断言した。
細い煙が霧のように立ち込めた。男たちの硬い表情を隠そうとする。
「単なる事故だと思うか?」
自分でそう言っておきながらも荷主は逆のことを考えていた。
それは有り得ないだろう。船が一番気をつけるのは文字通り火を出すことだ。不始末にしては燃え広がりが大きすぎる。では、船が丸ごと狙われたのか。そして偶々そのような曰くつきのものへ荷を積んでしまったというのか。次から次へと浮かんでくる疑念にミシュコルツは険しい顔を作った。どうも話が出来過ぎている。まるで筋書きがあるかのように。
「厄介なことになりましたな」
港湾組合長シルヴェスタが片頬を皮肉っぽく歪めた。
ミールでは自警団の連中が中心となって騒いだお陰で抜け荷の件が明るみになり、事件はただの不審火からくる焼失事故に収まらなくなっていた。ミール内部でも重大な違反に厳しい調査の声が上がっていた。それ以上に面倒なのは王都騎士団の連中が絡んでいることだ。
「だが、見つかったブツはうちの荷ではないのだろう? 元々船に積んでいたものではないのか?」
ミシュコルツは一筋の光明を探るように口を開いたのだが、シルヴェスタの返答は煮え切らないものだった。
「ええ。そのように思いたいのですが、こちらもしかと判断がつきかねました。ただ、木箱にはミールの刻印が施された木札が付いていましたが………」
それは術師の検分により偽物であると判断された。ミシュコルツが手配したものでもなし、ミールの正式なものでもない。誰かがミールの印を偽装して積み込んだもの。果たして荷の持ち主は誰であったのか。
「いずれにせよ、こっちに足がつくのは困る」
ミシュコルツは意味あり気にシルヴェスタを見た。その視線は雄弁だ。鋭くなった瞳が薄い煙の幕の中で点滅した。
「ええ。もちろん。重々承知しておりますよ」
荷主と仲介屋の二人とはシルヴェスタが船乗りであった頃からの長い付き合いである。他国からやってきたシルヴェスタが全く後ろ盾のないホールムスクで、ミールの港湾組合長の地位にまで上りつめたのは、ひとえに彼らの援助があっがからだ。
早い話が、あの荷がミシュコルツとは無関係であればいいのだ。現時点ではホールムスクで積まれたという方向で調べが進んでいるが、正確な来歴は分かってはいない。あの偽物の木札が、捜査撹乱に一役買っているらしいことは定かだった。それを利用しない手はない。
「ところで肝心の荷はどうされましたかな?」
仲介屋カロチャの問いに荷主ミシュコルツは雄々しく濃い毛の生えそろった片方の眉を跳ね上げた。
「見つかっていない。火が出た時に一緒に燃えたのかもしれない。一応、人をやって探らせたが、それらしきものが上がったという報告は受けていない。まぁ、それならそれでいいんだが」
最終的な確認が取れていないのは、不安材料でもある。
「例の抜け荷の嫌疑がかけられた荷には錠前が付いていました。特殊な丸型のものです」
シルヴェスタの言にカロチャは喜色を浮かべ、
「では、あたしらの荷じゃぁありませんね。積んだものには、普通の鍵が付いていましたから」
顔の近くに流れてきた煙を、羽虫を追うような仕草で払った。
「だが、厄介なことだな」
彼らの他にも似たような荷を積んだ者がいたこと。燃えたのがただの商船ではなくノヴグラードの筋が保有する船であったこと。単なる事故というには損害の規模が大きすぎて胡散臭く、故意に引き起こされた事件ではないかとの憶測も飛び交う。
「さっそく捻じ込まれましたよ。向こうの商会に。もちろんミール経由ですがね」
港湾組合長は溜息混じりに言った。たとえ原因が明らかになって船長に直接的な過失がないと判断されたとしても、お咎めなしにはならないだろう。まず港湾組合の管理体制にケチをつけられ、向こうも犯人探しに乗り出すかもしれない。
「カロチャ、伝令の筋を当たってくれ」
面子を潰されたミシュコルツも落とし所を探す。迷惑をかけられた相手にはきっちりと代価を請求するつもりだった。そうでなければ大事な取引を邪魔された腹の虫が治まらなかった。
「もちろんでございますよ。こちらからも手を尽くしましょう」
仲介屋は目を細めて受け合った。
「先方からは…なにか?」
それはおせっかいな一言であったのかもしれない。ミシュコルツはシルヴェスタを険のある眼差しで見返した後、忌々しげに口を開いた。
「取引は延期だ」
幸い代金を受け取る前であったから、損害は荷主であるミシュコルツが被る形で、売り先への迷惑はない。ただ、向こうの予定を台無しにしてしまったので、相手の機嫌を取りつつまた最初から交渉をやり直さなければならない。
「精々、そっぽを向かれぬようにしなくては」
そう零した時、
「そう言えば、近いうちにまた例のあれが開かれるそうじゃないですか」
三人の話を聞きながら、ゆるりと心ゆくまで吸い口をくわえていた恰幅の良い商人風の客が煙管を手にふぅーと険しい雰囲気を出していた三人に煙を吹きかけた。
この男も同じ卓を囲む常連の一人だった。本来、人の顔に煙を吹きかけるのは礼儀に反する行為なのだが、それを冗談と許されるくらいには親しかった。もう一服、口に含んでから、今度は唇をすぼめて輪っかの形をした煙を吐き出した。男の隣に寄り添っていた女が、幼い顔をして笑った。片頬にえくぼのできる黒髪の女だった。女にせがまれて商人は再び煙の輪を作る。基本的に女たちは客の話に口出しはしない。まるで耳の聞こえない、もしくは言葉を理解しない「神の愛し子」のように振る舞う。飾り立てた人形のようでもあった。
「大変珍しき品が出てくると聞き及んでいますよ」
次に煙管を手渡された客は、目を細めて吸い口を含んだ後、おっとりと微笑んだ。
「ああ。楽しみにしているといい」
唐突に変わった話題へこれ幸いとミシュコルツは乗り換えた。
「なんでもあのサリダルムンドのお宝が出てくるという噂じゃぁないですか」
今、巷ではそのことで持ちきりだった。
「それは当日のお楽しみということで。だがまぁ、期待には添えるかと」
「それは楽しみだ」
営業用の笑みを浮かべながら、ミシュコルツは心の中で舌打ちをしていた。燻るように隠していた数日前の不愉快な出来事が思い出されたからだ。最近はどうも気に食わないことばかり。これも苛立ちの種であった。
先日、競売の目玉となる品の出品者がやってきて、保管庫の鍵を失くしたから参加を待ってほしいと相談に来たのだ。そんな馬鹿な話があるかとミシュコルツは突っぱねた。競売の日は既に決まっている。こちらもその積りで方々に根回しを行っていたのだから、今更予定変更などできない。
遥々旅をしてきたという男は、とある筋の紹介通りサリダルムンドの出だった。外見がこの辺りの者とは随分と違うのですぐに分かる。細身のひょろりとした若い男であったが、身のこなしは隙のない武人のようだった。そう、ちょうどこの斜交いに座る女のように黒髪に色の濃い瞳をしていた。だが、目鼻立ちのはっきりしたこの女とは面立ちが違う。
さる筋からこの品を金に替えるよう依頼されている。門外不出の神器だと言って、旅人は懐から大事そうに小さな箱を取り出した。
「音に聞くここの競売に出してもらいたい」
その口振りは古臭くどこか尊大でもあった。
中を見せろとミシュコルツが言えば、それは出来ないと言う。それは虫が良すぎるというものだ。ミシュコルツはくたびれた旅装の男を斜交いに見た。この手の申し出は後を絶たないからだ。ガラクタの類を扱うわけにはいかない。
「中身はなんだ?」
香炉と短剣が入っていると旅人は答えた。儀式に使われる霊験あらたかで非常に貴重なものだと。
「かような大事の品をなぜ?」
遠い異国の地で売ろうというのだろうか。
その問いに答える義理はないと旅人は素っ気なかった。
ミシュコルツは暫し考えるふりをした。
「出品をするにはモノの価値が分からなくては無理だ。何を扱うか。それが分からなくては話にならん」
商人としては当然の理だ。
旅人は承知しているとばかりに浅く頷くと塵避けの布を厚く巻いた襟元を寛げ、首元から鎖を引き出した。
日の光りの届かない薄暗がりの中、青い反射が生まれた。部屋の片隅に控えていた部下が窓際の日除け布を少し捲れば、差し込む光を全て飲み込むかのように青い光が応えた。
それは眩いばかりの純度の高いキコウ石があしらわれた代物だった。希少なカローリだ。さすがサリダルムンドの民だ。ミシュコルツは唾を飲み込んだ。
「これが千あっても足りない」
それほどの価値があると旅人はこともなげに言った。途方もない額だが、それは若者の国での話だ。価値が純粋な物質のみに置かれているのか、それともそこに付属する歴史や物語に重きが置かれているのか。ある部族での宝が、別の部族では価値の無いガラクタになるなどざらにある。もちろん、この手の話を沢山見聞きしているミシュコルツは若者の言葉を鵜呑みにはしなかった。
「ふむ。だが、品を検めぬわけにはいかん。それが決まりだ」
「出品時には開帳すると約束する」
「駄目だ。なぜ今、見せぬ」
「これは我が国で神器に連なるものだ。この箱を開けるのは、即ち、次の持ち主が現れた時のみ」
それがしきたりだと旅人は言った。
これだから余所者は面倒だとミシュコルツは内心、独りごちた。とりわけ辺境に住まう頭の硬い田舎者は。向こうのしきたり、それは儀式とやらに関する宗教上のものなのかも知れないが、こちらには全く関係ないどころか意味をなさないものだ。
品物を見ずに判断して良いものか。しかもこのような一見の客に。普通ならばそんな馬鹿はしないものだ。
だが、この旅人は中々に強情だった。
「こちらにもこちらのやり方がある。ここで出品したいのならば、こちらのやり方に従ってもらうしかないが」
それでも駄目ならば他を当たるのだな。
暫く考えた後、旅人は譲歩した。
「あいわかった。ではその方にのみ。この場にて」
旅人は人払いをするようミシュコルツに頼んだ。その慎重さはミシュコルツの神経を逆撫でた。感触はそう、馬の尻尾というよりも猫の尻尾だ。
最後まで渋るように旅人は小箱を手近にあった飾り棚の上に置いた。懐から丸みを帯びた硬貨に似た何かを取り出し、錠前にはめた。カチリと鈍い音がして蓋が緩んだ。旅人はいつの間にか真新しい手袋をはめていた。細心の注意を払い慎重な手付きで包んだ布を解いてゆく。そして開けた蓋をミシュコルツの方へ向けた。
「……ほほう」
これは見事だ。ミシュコルツは唸った。思わず手を伸ばしていたが、旅人がそれとなくかわしてしまう。
柔らかな布に包まれていたのは、旅人が告げたように香炉と短剣だった。この香炉がまず目を引いた。質の良いキコウ石がびっしりと付けられていた。この石だけでも相当の価値になる。ミシュコルツは頭の中で算盤を弾いていた。
「よろしい」
ミシュコルツは即決した。
短剣の方は飾り気のない素朴なものだった。神器と言うからもっと宝石をふんだんにあしらった見事な拵えかと想像したが、どうも違ったようだ。ただ刃物の場合は、実際に手に取ってみないと分からないことが多いが、それは叶いそうにない。
「こちらは別々にお出ししてもよろしいですかな」
現金なもので貴重な品を前にミシュコルツの口調は丁寧なものになっていた。
「構わぬ」
二つ一緒でなければ意味がないなどとしきたり云々でごねるかと思いきや旅人はあっさりと承諾した。
「手数料はいかほどか」
「二割ですな」
出品した品が落札された場合、落札価格の二割を競売の主催者に払うというものだ。
「…それは…ちと高くはないか?」
「必要経費ですな。こちらもお客人を招いてそれなりの場で持て成しを致しますゆえ。相場は変えらませぬ」
少しの間が空いて。
「承知した」
こちらももう少し逡巡するかと思ったが、すぐに合意となった。
それからミシュコルツは次の競売の目玉としてサリダルムンドの秘宝について触れまわった。ホールムスクの人々にとってもサリダルムンドは余りにも遠い辺境の地、現実味の薄いお伽の国でもあるのだ。街中を歩けば今日も物売りの声を聞くだろう。【サリダルムンドのお姫さま】というあの枕詞を。
サリダルムンドという言葉は謎めいて聞こえた。良質なキコウ石の産地として知られていながらも、依然、その姿は多くの神秘と謎に包まれていた。山間の狭隘にある不思議の国。嘘でもその名が付くだけで物語が生まれ、真に転じるのだ。
予想通り競売の噂は瞬く間に広まった。蒐集家の関心もいつもより高く、競売に参加したいとの申し出が殺到した。サリダルムンドという魔法の言葉は強欲な人々の好奇心と購買欲を煽った。希少価値のあるものを手に入れたい。この世に一つしかない幻の秘宝を。それは人心を擽る麻薬のような仕掛けであった。
この競売が成功したら、この間の積荷の損失もある程度補填できるだろうと一人ほくそ笑んだ所で。
室内に新しい客が入って来て、案内に立った女と秘めやかな会話を楽しみながら煙に霞む社交場をぐるりと見渡した。手には大小の指輪を重ね着けし、都会風に着飾った男の視線は、ミシュコルツやカロチャ、シルヴェスタたちが寛ぐ卓で留まった。男は薄気味悪い笑みを浮かべると彼らの方へ歩み寄った。
「みなさんお揃いですね。ちょうどよかった。聞いてくださいよ」
鼻の下に細い針金のような口髭を生やしたこの男は、表向き酒を扱う商人だったが、裏では女衒や人買を専門とする仲介人でもあった。強欲で手段を選ばない冷酷な顔を持ち、その道ではかなりあこぎなことをすることで有名でもあった。
「おや、これはオフリート殿、どうかいたしましたかな」
最初に声をかけたのは乙仲のカロチャだった。オフリートと呼ばれた男は、隣から椅子を引っ張って来るとミシュコルツの傍に腰掛けた。
その耳元で囁いた。まるで愛を仄めかすように。
「逃げられてしまいましたよ」
オフリートの口元は笑みに象られていたが、その瞳は氷のように冷たかった。居合わせた男たちの背筋にぞくりと悪寒が走った。その視線はミシュコルツを絡め取っていた。
オフリートの告白に男たちは動きを止めた。傍らに侍る女たちも羽扇を仰いでいた手を止めた。薄くなった煙が再び滞留する。誰もが笑みを浮かべたオフリートの瞳の奥に穏やかならぬものを感じて薄ら寒い気分になった。
オフリートが扱う【商品】が無くなってしまったのだ。予定調和を好む男はそういう逸脱をひどく嫌う。生モノである商品を監視していた部下は恐らく厳しい制裁を受けたことだろう。五体満足でいられたものか。
「それはまた、お気の毒に」
それはオフリートに対してか、それとも部下に対してか。水煙草を囲んでいた常連客は、控え目に目配せし合った。
「見つからぬのですか」
「ええ。あちこち手は回したのですがね」
「それはまた」
随分なことだ。
オフリートは見かけ上、困ったように微笑んでから、ミシュコルツに顔を近づけた。
「あれは、そちらから回していただいたものなんですよ」
非難めいた囁きにミシュコルツは顔色を変えないままちらと横目に相手を見た。
「まさか!?」
面倒な品の仲介はしていないと思った所で、そう言えば配下の者がオフリートに仕事の話をしていたことを思い出す。上手く行けば高値でさばける珍しいものが入ったと。そいつの傍にはそう、あの競売へ出品したいと申し込んできたサリドの民がいた。厄介払いをしたいものがあるらしかった。
「ええ。そのまさかです。非常に珍しい品ですからね。こちらでもかなり良い商いが出来ると踏んでいたんですよ。せっかく売り先も決まっていたというのに」
本当に口惜しい。そう言ってオフリートは自分の爪を噛んだ。その子供染みた仕草に反して指には金や銀をあしらった大きな指輪が幾つもついていた。
「大きな穴が開きましたよ。そう私のここにも同じようにね」
傷心の体を作って胸元に手を当てた。
「しかしどうやって」
この男の商品管理は徹底していた。特に重要な品には特別な錠を施す。監視もしっかりしているのでそう簡単に逃げられない。オフリートの手に落ちたら最後、奈落の底に落ち、二度と這い上がることはできないと揶揄されていた。
「キツネのように知恵が回ったか、ネズミのようにすばしっこかったのかもしれません」
オフリートは薄ら笑いを浮かべながら一同を見た。
「それより、何か知りませんか?」
紛失した商品の手掛かりが欲しい。貪欲な商人は、逃げた獲物を許さない。
「特徴は?」
仲介人のカロチャが訊いた。
オフリートは自分の指を舐めた。骨張った長い指だが、よく見ると人差し指が半分なかった。隣の中指と薬指に大ぶりの指輪が付いて、自然とそちらに目が行った。
「お伽の国からの使者ですよ。お好きでしょう? みなさんも」
「女か、男か」
「男ですよ。まだ若い、やっと成人したばかりの」
「ほほう。例の競売にかかりますかな」
常連客の中で少年趣味のきらいがある商人が興味を示したのだが、残念でしたとオフリートは笑った。
「いえ。それとは別件で。ですが見つかったらそうするのもいいかもしれませんねぇ。こちらもこれまでの迷惑料をたっぷりと返してもらわなくてはなりませんから」
赤みを帯びた唇から蛇のような舌先が覗いた。ぞっとするほど凄みのある笑みだった。
淀んだ空気を変えようとしてか、空いた煙管を客の一人がオフリートに差し出した。ちょび髭の生えた薄い唇が慣れた手付きで銀色の吸い口をくわえる。ぽこぽこぽこと軽やかな音を立てて水は七色の玻璃を作り泡となって消えて行く。目を細めてゆっくりと吸い込んだ煙を同じくらいの時間をかけて吐き出した。恍惚の欠片が、眦に皺を作った。
「何か分かったらお知らせしましょう」
如才ないカロチャがおもねるように言った。
「ああ。こちらでもあたってみよう」
苛立ちの矛先をかわすようにミシュコルツも請け合った。
仕事の話はこれで終い。再び吸い口を受け取ったミシュコルツはたっぷりと甘く清涼感ある煙を吸い込んだ。冷たい煙が喉を通り、清々しい香りが鼻先に抜けた。
商取引に問題はつきものだ。このくらい対処できないようではホールムスクの商人とは言えない。
もう片方の手の内には、見目麗しい女がいる。柔らかな衣越しに弾力ある肉の感触を楽しんだ。そうして吐き出された煙は、集う男たちの其々の思惑を幾重にも重ねて閉ざして行った。




