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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第五章 消えない傷痕
34/60

1)しろかねの泪

これより第五章に入ります。

「御報告致します!」

 ざっざっという重々しくも鈍い金属音がけたたましく石の廊下に反響した後、その場に崩れ落ちた武装兵士の大音声が砦内に響き渡った。

「敵兵、その数約七千、テェレク 川を渡り、こちらへ進軍中。このまま行けば未明には我が軍の領域に入るかと!」

 男のいでたちは激しい戦闘を潜り抜けて来たようだった。胴周り、鋼の板を繋ぐ結び目が切れ、はがれおちた板片が鱗のようにぶら下がる。中に着た鎖帷子も所々欠落し、血が滲み出ていた。男のマントは切り裂かれ、背後から射かけられた矢が幾本も刺さっていた。

 その肩が激しく上下する。足りない呼気をどうにか補おうとするように。立て膝をついた兵士の額からはおびただしい血が流れていた。

 悲痛な叫び声が響き渡った後、答えを返したのは落ち着いた問いかけだった。

「王都よりの伝令は?」

「いまだ至らず!」

 傍らに立つ側近の凛と響いた声に周囲の男たちは一様に奥歯を噛み締め、鎧の繋ぎ目が軋み鈍い音を立てた。ある者は握り込んだ拳を壁に打ち付けた。

 ここへはもう気力だけで辿りついたのか、報告を終えると気を失うようにどっと倒れ込んだ兵士を駆け寄った仲間が支え、奥へと運んで行った。


 高い石壁がぐるりを周囲を固める中庭を抜けた先に、この砦の館へと通じる入り口があった。両開きになった鉄の重い扉を開けてすぐの場所は、吹き抜けの大広間になっていた。高い天井は遥か上方で優美な弧を描き、四方から張り出した梁がそれを支える。そこには一人の兵士と狼に似た獣の姿が彫られていた。この国の創成期の物語である伝説の王フセスラフと神の御使いであるヴォルグの長の姿だった。優美な曲線が削りだす像は雄々しも美しかった。


 この大広間に砦に詰める全ての兵士が集められていた。男たちは完全武装していた。鋼の防具に身を包んだ兵士たちの顔は硬く引き締まっていた。王都騎士団の名に恥じぬ一糸乱れぬ統率が生む勇壮な姿だ。大勢が限られた空間にひしめいているというのにその場には話し声一つとなく、沈黙が異様な熱気に包まれ満ちていた。凍てついた冬の冷気が、男たちの吐き出す呼気を白くけぶらせる。ぎりぎりまで強く張った弦に似た、だが、単なる緊張とは異なる目に見えない力がその場には漲っていた。

 屈強な身体つきの兵士たちは、皆、胸元に兜を抱え、ただ一点を見つめていた。その時を待ち望むように。


 広間の奥、箱庭をぐるりと囲む回廊の開放感溢れる光りを背にし、一段高くなった壇上に一人の男が立っていた。艶消しの鋼が鱗のように並ぶ鎧を身に着け、その上から深い藍色のマントを羽織る上背のある見事な体躯の男だ。マントの左肩にはこの国の守護者である白き狼の紋章が彫られた大きな丸い留め金が輝いていた。そこに象られた狼の瞳には、男と同じ瑠璃色の貴石がはめこまれていた。


 黎明の空を映したその色で、この砦を任されていた男は集まった部下たちをぐるりと見下ろした。ここに顔を揃えた兵士たちは、苦楽を共にした仲間であり、ともすれば男にとっては家族、兄弟に勝るとも劣らぬ存在であった。濃密な結びつきを築き上げた男たちの間にあるものに名をつけるとするならば、それは―揺らぐことのない信頼―になるのだろう。


 敵地を探らせていた物見の報告の間、じっと瞑目していた砦の長は、徐に顔を上げた。切れ長の瞳の奥に暁の空を閉じ込めた瑠璃が照りを増す。その色が一段と深くなった。

 苦渋の決断であることは承知している。決して口に出すことはないが、それはここに集う誰もが思うことだろう。それでも皆は、男の一声を待っていた。ただ一つの号令を。それは集まった部下たちの顔を見れば分かった。皆、一心に男の方を見上げていた。北天に輝く導の星を仰ぎ見るように。


 男は微かに笑った。皆の気持ちの応えるように。このような仲間がいることが誇らしくもあり、またこの得難い(ともがら)を死出の旅に追いやろうとしている己の愚かさを思ってか。

 いや、それは思うまい。軍人であれば当然の理。武人としての定めを果たす時がやってきたまでのこと。誇りある死を恐れてはならないのだ。そうやって我々は律してきた。

 ―我らにペルーンの加護があらんことを。

 この世で最強の神への言祝ぎを、長は心の内で繰り返した。


 そして決断が下された。男は、緩く束ねたしろかねの髪を翻し、集まる大勢の部下を前に朗々と声を張り上げた。

「各人、出陣に備えよ。夜明け前にこちらから仕掛ける。援軍が来るまで、なんとしても持ちこたえなければならない。ここが突破さるれば、即ち我が国全土を蹂躙されるに同じ。それだけは何があっても避けなければならない。

 よいか。この戦いに我が国の存亡がかかっている。我々一人一人の肩にだ。そのこと胆に銘じ、とくと心得よ!」

「ハッ!」

 何十、何百という野太い声が唱和となって広間内にこだました。

「この砦を死守せよ。敵兵一人(いちにん)たりともここを通すな!」

「ハッ!」

 力強く吐き出された長の声に呼応するように一堂に会した男たちは腹の底から同意の(いら)えを返した。ぐわんと力の籠った言霊が彼らの武運を祈るように兵士たちの頭上に降り注いだ。


 帰還した斥候によれば敵は七千。方や砦を守る兵は多く見積もっても七百余り。兵力の差は歴然としている。これまで王都へは再三援軍の派遣を要請してきたが、硬直した融通の効かない政治に阻まれ、西の砦の危機感は王都中枢部には届かなかった。

 しかし、即、負けが決まったわけではない。寄せ集めの傭兵が多く入り混じるノヴグラード側混成部隊に比べれば、こちらの方が断然統率がとれている。指揮系統もしっかりしている。更に地の利もこちらに味方した。隣国といえどもノヴグラードとの国境は峻厳な山並みに隔てられ、大軍が峠を越えることは至難の業だ。故に敵方は山をぐるりと迂回し、長期に渡る行軍で体力を削られているはずだ。

 ただし油断は出来ないのは確かだ。

 ―長い一日になるだろう。

 その時、西の砦を預かる男、ラードゥガ・シビリークスは覚悟を決めた。


 ***


 日没後、砦中に盛大に篝火が焚かれた。緩やかな狭隘の谷を見下ろす形で崖の上に建てられた堅牢な石の砦は、縁石に沿って赤々と縁取られ、漆黒の闇の中にぼんやりと浮かびあがっていた。味方からの援軍は既に到着しており、戦の準備は万端に整っている―と敵の物見が信じてくれればよいのだが。

 実戦に参加できる砦の兵は650ほど。砦の守備、本備えに200、遊撃に200余を残し、先遣隊250名が夜陰に紛れて行軍を開始した。先遣隊は更に50名毎の5つの小隊に分かれ、奇襲を行うべく緩やかな丘陵を背の高さまで枯れ草が伸びる野に紛れた。

 その草原は、【静かの原(ティーハイェポーリェ)】、又の名を【美ヶ原クラースナイェポーリェ】と呼ばれでいた。春には一斉に色とりどりの草花が咲き乱れることで有名だ。その昔、ここを通った旅人が大地より歓迎の印を得た恵みの土地としてその名を手記にしたためたという。ただ、冬の盛りのこの時期は、枯れた草はらが一面を覆ううら寂しい場所だった。

 国境となるナ・クラーイェ川を越え、キルメク領よりスタルゴラドに侵入するにはこの草原を通らなければならなかった。平地の多いスタルゴラドであるが、西の国境(くにざかい)には、キルメクから続く山々のの裾野に連なる起伏と、その昔、川によって削られ隆起した丘が小さな峡谷のように姿を現わした。武装した大軍を進ませ、兵站を運ぶにはこの起伏した草原の中でも比較的平らな街道を通らなければならなかった。

 先遣隊はこの枯野で敵を迎え撃つ。


 夜明けと共に襲撃の手筈が整えられた。まず枯野に潜んだ先遣隊の奇襲により、敵の先陣を混乱させ、その機に乗じて、続く遊撃方200の勢力で一気に攻め込もうというものだった。それから二手に分かれて補給を分断し、敵の背後を取る。遠征の長旅で疲弊しているであろう敵の士気を削ぎ、短時間の間にこちらの優位性を示すことが目的だ。

 今回の戦は初手が肝心だった。兵の数では圧倒的に不利であるが、それを敵に悟らせてはならない。故に防戦よりも打って出る方が、勝機に近づく。更に地の利もこちらに味方した。

 ただ、今回の戦いの中でも油断ならないのが、ノヴグラードの誇る弓の精鋭部隊の存在だ。特に彼らの用いる矢に塗り込められた、あちらのお抱え術師が編み出したというおぞましき毒が厄介だった。これまでの戦いで、その威力はスタルゴラド軍の脅威となっていた。スタルゴラドも国内に抱える術師たちを使って解毒剤の製造を試みているが、いまだはかばかしい成果はあげられていなかった。


 こうして開けた戦端は、やはり兵力の少ないスタルゴラド軍には苦戦を強いられるものとなった。それでも彼らは怯まなかった。できる限りの時間稼ぎができればよいのだ。昨日の内に飛ばした伝令は、王都を始めとする諸都市に届いているはずだ。その内、プラミィーシュレ、リィーガ、フリスターリからは事前に出していた援軍派遣要請の願いが聞き届けられ、幾つかの部隊がこちらに向かっているとの報せを受けている。

 その一方で、今回の戦の総指揮を執る王都からの下知はいまだない。伝わる情報に温度差があるのか、相変わらず動きの鈍い首脳部にこれまで幾度となく歯噛みをしてきた。これまで繰り返し出されていた援軍派遣の要請をことごとく黙殺されてきたからだ。そのような厳しい条件の中でも、前線を守るものは、できる限りのことをするしかない。


 目論見通り、相手の意表を突いた奇襲攻撃で、敵の足並みは一気に崩れたが、そのままノヴグラード軍を混乱の渦に落とし込み撤退させるまでには至らず、時間の経過と共に態勢は立て直されていった。戦闘が長引くにつれて、徐々に戦線は後退して行った。ここでも敵の精鋭弓部隊は、機動力のある編隊で雨のように毒矢を降らせた。そしてその猛毒を塗り込められた特殊な(やじり)がスタルゴラド軍に予想以上の被害をもたらしていた。毒の回りが早い為、一度矢を受けたら最後、使いものにならなくなってしまうのだ。体中が痺れて動きの鈍くなった者は敵ではない。あっという間に討ち取られてしまう。


 騎兵、歩兵部隊が厚く衝突する戦場は、恐ろしい地獄絵図と化していた。朝日が上がりきった頃には、敵味方入り乱れての乱闘の様を呈していた。騎馬隊の馬のいななき、怒声、怒号、槍のぶつかり合うずっしりとした金属音に絶叫。手斧が鎧を砕く激しい衝突音。白兵戦が主となった場所では、血みどろになった両陣営の兵士が揉みくちゃになり、伏す者、起き上る者、死と生が交互に、瞬時に入れ替わる瞬間が延々と続く。

 枯野の原はたちまち溢れ出た兵士たちの生き血を吸いこんで赤々と膨れていった。深手を負ったものが呻くように土を掻き毟り、首のない胴体が転がる。不格好に曲がった腕、もぎ取られた脚。矢の射かけられた頭部。幽鬼のように立ちあがっては崩れ落ちる屍寸前の足掻き。むせかえる血の匂いは、吹き抜ける風がいくら運んでも枯れ草の中に漂った。


「押せぇー! 押し返せぇぇ!」

 倒れた味方を気遣う余裕さえ失われる中で、味方の薄くなった戦端に単騎、突っ込んだ男がいた。返り血を浴び、真っ赤な筋が兜を被った顔に縦横に走る。馬を巧みに御しながら手にした槍をふるい、幾人もの敵をなぎ倒し、圧倒的な腕力と俊敏さで刺殺していったのは、砦の長である隊長その人だった。

 隊長は、平生の寡黙でもの静かな姿からは想像できないくらい、鬼神チェルノボーグが乗り移ったかのような怖い顔をしていた。体中から湯気のように迸る殺気は凄まじかった。

「ラードゥガ! 先走るな!」

 ―バカヤロウ!

 上官に対しあるまじき物言いで、当時隊長の右腕と呼ばれた男と豪の者として名を馳せていた武人が、馬上から剣と槍、其々の得物をふるいつつ怒声を放った。

 閃光の如く現れた隊長の姿に周囲にいた味方の兵士たちは奮い立った。押されていた戦線が再び力を取り戻す。

 このまま敵側の勢いを削ぎ、押し返せるかと思えた矢先、運命の女神リュークスは、思いがけずひらりと戦場に降り立った。いや、あれは死と夜を司る悪しき女神ジェーリャの企みであったのかもしれない。

敵方から鋭い号令と共に放たれた矢の雨が隊長目がけて降り注いでいた。

「隊長!?」

「弓隊、引けぇ!」

 味方の射手が第二陣を放とうとした敵を(たお)した。

 標的となった隊長は、盾を左に両刃の長剣を右手に、両者を巧みに使い最初の攻撃をなんとかかわしたと味方が小さく息を吐いたその時、時をずらして放たれた一本の矢が、隊長の首の下、鎖骨の辺り、胸当ての鋼が激しい戦闘の為にずれた僅かな隙間に突き刺さった。

 黄色に染められた羽が付いたその矢を見た者は、瞬時にして何が起きたのかを悟った。

 【ジョールティ・チョールト】―黄色い悪魔―スタルゴラド国内ではいまだ解毒剤の見つかっていないノヴグラード特製の猛毒が塗り込められた一矢、死神【マレーナ】の矢だった。

「たいちょおぉぉ!」

 馬上、体勢を崩した隙を突くように遅いかかる敵の槍を剣で弾き、相手を一撃のもとに屠る。だが、勢い余って体勢を保持できずに、その場で落馬してしまった。


 乱戦の最中、側仕えの部下が慌てて駆け寄った。当時、西の砦の兵士として戦闘に参加していたイルムークも気が付けば隊長の下に駆け出していた。隊長をなんとしても守らなければならない。大将の生死は戦いの士気と戦況に影響するからだ。

「隊長!」

「早く引け! 陣へお連れしろ!」

「至急手当てを!」

「構うな!」

 駆け寄った部下を隊長は一喝した。そして、かすり傷だとでも言うように自らの手で突き刺さった矢の柄を折った。肉に食いこむ(やじり)は簡単に抜けないので取りあえずはそうするしかない。本当はすぐに矢ばさみで抜いた方がいいのだが、そんな余裕もない。

 その時、隊長は黄みを帯びた斑の羽に気が付き、憤怒の形相で憎々しげに顔を歪めた。その時の姿は忘れもしない、悪鬼かと見紛うばかりの気色で近寄りがたい怒気を発していたからだ。味方でなければ腰を抜かしていたかもしれない。

「隊長! 至急手当を!」

 駆け寄った部下が再度、懸命に叫んだ。

 だが、ラードゥガは、一度毒を浴びたら最後、解毒薬はないことは分かっていた。残された命の灯火が加速度的に燃え尽くされようとする。だが、まだくたばるわけにはいかなかった。

「ぼやぼやするな!」

 一瞬、生まれた空白に味方の集中が緩んだ隙をついて、襲いかかった敵兵の槍が、兵士の鎧に弾かれて鈍い金属音を立てた。槍は鎖帷子を貫通する。手練の者であれば、鎧の隙間を狙うだろう。ほんの僅かな油断が、意識の中断が、生と死を分かつ境界になるのだ。

 強かった当たりに味方の兵士がその場で体勢を崩し膝をついた。その瞬間を逃すまいと間髪入れず襲いかかった敵に、隊長は脇から引き抜いた剣で相手の喉笛を掻き切った。斧を硬く握り締めたまま敵の兵士は絶命していた。

「バカヤロウ!! 大将自ら、死を早めてどうする!」

 迫る敵兵をようやく斬り捨てて、隊長の傍に辿りついた男が怒鳴りつけた。軍部に入り良き好敵手(ライバル)となり切磋琢磨した友も、肩口で切り揃えられた髪を振り乱し、全身から白い湯気を放出していた。敵の者か、味方の者か、浴びた返り血で男を赤く染めていた。

「引け、ラードゥガ。後方で指揮を執れ!」

 指揮官の不在は致命的な弱点となる。

 全身を駆け巡る血はドクドクと滾り麻薬のように恐怖を散らせて行く。

「まだ引けぬ。ここで引くわけにはいかぬ!」

 隊長の叫び声は獣の咆哮のようだった。

「隊長! どうか陣へ。お戻りください!」

 怒声が飛び交う最中、若木のような張りのある声が隊長の耳に届いたが、

「まだだ!」

 反射的に返されてしまった。それが、当時兵士としては新米に近かった下っ端のイルムークが初めて隊長と言葉を交わした瞬間だった。

「隊長!」

 ラードゥガは後方にいた味方兵士に命じた。

「弓矢を持て!」

「隊長! 陣へお戻りを!」

 既に毒が回り始めているのか、隊長の額からは脂汗が流れ、剣をふるう動きが鈍くなり始めていた。体半分を庇うように脚を引きずった。残された時間はあと僅か。

「歩けずともここで十分だ。地獄の門の番人になってやる」

 味方の兵から受け取った弓と矢の入った空穂(うつぼ) を傍らに隊長は丘陵の上から弓を構えた。そして次々と敵の頭部を狙い、射止めていった。

「ですが、隊長に万一のことがあっては!」

 敵の刃を受け、ようように動く足を引きずりながら懇願したイルムークに隊長は男らしい笑みを見せて笑った。信じられないことに余裕たっぷりに。


 今思えば、あれは覚悟を決めた表情だった。この場を死に場所と決めた益荒男(ますらお)の。

 あの時の瞬間は今でも目に焼き付いている。いや、この魂の奥に。一瞬、一瞬が焼き鏝を当てられたようにひりひりじんじんと心を焼き、己が身を焼いた。

 若い兵士イルムークも押し寄せた敵の相手に必至だった。

 更に射かけられた矢が隊長の脚に刺さった。戦線が押され気味になる。槍を持って飛び出して来た敵二名をなんとか剣で流した後、渾身の突きを入れて倒す。

 だが、イルムークがあっと思った時には脇から忍び寄った敵に槍で貫かれていた。

「たいちょおぉぉおおおお!」

 その瞬間は時が限りなく緩やかに流れたように思えた。

「ラァードゥガァァー!!」

 友は、ぶつかる敵の喉笛を引き裂き、浴びた返り血をそのままに仲間が男の名を呼んだ。猛然とこちらに向かってくるが、敵に阻まれて中々距離は縮まらない。

「うわぁああああ」

 次々と飛びかかる敵を残る力を振り絞って押しやり斬り捨てた後、イルムークは無我夢中でどっと崩れ落ちた隊長に駆け寄った。

「隊長! 隊長!」


 瀕死の重傷を負った隊長は一先ず後方の陣へと運ばれた。脚を怪我していたイルムークであったが、その場にいた他の兵士と共に、運ばれる隊長の身辺を警護しながら救護所へ向かうよう命じられた。

 飛びこんできた兵たちのただならぬ様子に待機していた術師たちが大急ぎで手当てにかかる。

 部下の差し出した特徴的な黄色い羽の付いた矢を見た術師は唸った。

「……悪魔(チョールト)め」

「隊長、しっかりしてください!」

 朦朧としているであろう意識の中、ラードゥガは側にいた若い兵士、イルムークの腕を掴んだ。その思いがけない強さに大丈夫なのではと思った矢先、薄く開いた瞼の間に覗いた瑠璃がイルムークを捕らえた。

 微かに開いた唇が音にならない言葉を紡ぐ。

「なんですか? もう一度お願いします!」

「………」

 ―生きろ。

 隊長はそこで微笑んだように見えた。

 唖然とした若い兵士の視界は直ちに術師の衣で遮られた。

「お前はこっちだ」

 脚の傷から流れる血を見た他の術師が的確に素早い処置を行って行く。

「大丈夫ですよね? 助かりますよね?」

 半ば気が動転して追いすがった若い兵士に対し、術師はこの手のことに慣れているのか、相手の話を適当に受け流した。

 そうこうするうちに隊長の手当てを行っていた天幕の周囲が俄かに慌ただしくなった。

 冷たいものがイルムークの背に流れた。

 

 ***


「たいちょーおぉおおおお!!」

 音にならない絶叫と共にイルムークは目覚めた。喉が絞られるように引きつっていた。キリキリと体中が軋み、全身から吹きだすように汗が流れていた。ドクンドクンと逸る血流が、荒れ狂いながら体内をものすごい勢いで駆け巡った。

 イルムークは片手で顔を覆った。その手は、若さに満ち溢れたものではなく弾力が失われ、水仕事に荒れていた。濃い体毛の下、右腕に残る刃傷痕も既に引き攣れ薄くなっていた。

 二十年の時が流れていた。

「………夢…か」

 起き上ったイルムークは緩く息を吐き出した。張りのある若者の顔は、皺と陰影の刻まれた年老いた男のものになっていた。

 ―いや、夢ではない。あれは現実だ。

 あの日のことは今でも鮮明に覚えていた。忘れようとしても忘れられない。忘却を頑なに拒む、決して色あせることない【生】の記憶。


 援軍が到着したのは、その日の昼過ぎのことだった。大将を失いながらもぎりぎりの一線で持ち堪えていた砦の兵士たちの元に、報せよりも倍の味方が到着し、形成は徐々に逆転していった。長を失った砦の兵士たちは弔い合戦に奮戦した。

 大軍による執拗な攻撃をもってしても中々崩れないスタルゴラド軍に疲れを見せ始めたノヴグラード軍は一時撤退を余儀なくされた。ノヴグラード側の損害も戦闘が長引くにつれて増して行った。敵側の将は、ここが引き際だと思ったようだ。

 敵が敗走した後には、敵味方どちらとも分からぬ屍の山が累々と残った。翌日も、その翌日も戦闘が繰り広げられた。一時、西の砦のすぐそばまで戦線が後退したが、スタルゴラド軍は敵の猛攻を持ち堪え、ノヴグラード軍の侵入を許さなかった。脚を負傷したイルムークも砦の城壁の上から弓矢で味方を援護した。

 三日目に入り、王都からようやく待ち望んでいた援軍が到着した。そこでノヴグラードは自らの形勢の不利を悟ったようだ。


 この三日間に渡る西の砦の攻防戦は、後にスタルゴラドとノヴグラードの長きに渡る戦に終止符を打つきっかけとなったとされている。

 やがて両国から派遣された特使によりキルメクの首府で休戦協定が結ばれ、かつて同じ民であったはずのスタルゴラドとノヴグラードは戦いの矛を収めた。


 あれから二十年。なぜ、今になってこの夢を見たのか、イルムークには心当たりがあった。あの隊長に瓜二つの男が、この地にやってきたからだ。ここホールムスクに。

 遠目にあの男を見た時は、ラードゥガが再び時を越えて戻って来たのかと思った。それほどまでによく似ていた。

 泪などとうの昔に乾ききって流れることなど無いと思っていたのに。気が付けばイルムークの右眼から一筋、しろかねの泪が流れていた。


第一部の時からずっとこの場面(20年前の西の砦攻防戦)を描きたいと考えていました。ラードゥガ・シビリークスは、ユルスナールの叔父。父ファーガスの年の離れた弟にあたります。これを機に第一部でやり残していた宿題を消化したいと考えています。

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