6)謎の架け橋
大変ご無沙汰いたしております。第四章は正味三日間の出来事なのですが、随分と間が空いてしまいました。前回の続き(同日のできごと)になります。それではどうぞ。
「おーい、いいぞ!」
ぬらりと海面から浮かびあがった頭に続いて伸びあがった手が一振りされると、それを合図に岸壁に立つ男たちが手にした綱を引き始めた。
「エーイ、サー、ホーイ、サー」
―クレープチェ! ヴィーストリンカ! デェルジー!
エーイサ、ホーイサ。
男たちの荒くくぐもった鼻息に綱の軋む音が、さざ波と海鳥の鳴き声に混じっては風に紛れて流されてゆく。
掛け声の合間、
「よーし、もう少しだ。気合入れろや!」
やがて青い波間から黒ずんだ木箱が一つ、岸へと上げられた。すぐ傍には、似たような大小の箱が雑然と並んでいた。どれも長時間水に浸かってぐっしょりと濡れそぼり、箱の周囲には漏れ出した海水が薄く水溜まりを作っていた。そのゆるゆると風にそよぐ被膜のような鏡面に初夏特有のややくすんだ青い空と日の光に象られた海鳥の翼が映り込む。
吹き込む風に揺れる儚い鏡面にぬっと濃い影が差した。
「だいたい、こんなもんか」
一覧を手に筆記具 を口にくわえた男が呟く。
「半分…いや、三分の一ってぇ…とこか」
木箱に取りつけられた木札を一つ一つ確認しながら書類と照らし合わせて行く。
「おーい、なじらね? そっちはどんな塩梅だ?」
男は岸辺に立ち綱を幾つも持つ仲間へと声をかけた。
「ああ? もう少しってぇとこだな」
声高に振り返った男の言葉に被せるように、下方からむせぶような声が聞こえた。
「えぇ~、そりゃぁねぇよ。だんなぁ、いい加減勘弁してくれよぉ、もぉ体がふやけちまう」
水面から頭を出した男が揺れ動く波間に揉まれながら情けない声を上げたのだが、岸辺に立つ男は声がした方をちらりと一瞥しただけで取り合おうとはしなかった。
「ほら、ぼやぼやしてんな。もっかい行ってこいや。ほいだら休憩だ」
非情にもけしかけるように顎をしゃくる。初夏の時分で、もうすぐ本格的な短い夏がやってくる陽気ではあるが、海水は長時間浸かるにはまだ冷たい。
唇を薄らと青くして、水中の男は何やら言いたそうな顔をしたが、密かに悪態を吐きつつも、息を一つ大きく吸い込むと再び青い水底へと潜っていった。岸壁に立つ男の手にある縄がくいと引っ張られて伸びて行った。
仕方があるまい。大きな鉤の付いた縄を手に、細い荒縄を腰にくくり付けて海の底へと沈んだ男は、手癖の悪さが禍して、この度、自警団の厄介になり、その罰の一環で奉仕活動に駆り出されていたのだ。素潜りが得意だという男の言葉にここで少しばかりの罪滅ぼしをすることになった。
それから再び男の合図と共に最後の木箱が海面から上げられた。こうして岸壁には大小様々な大きさの木箱―昨日までは貴重な積荷であったものだ―が並んでいた。上げられた無残な箱はすぐに施錠が解かれていった。保管されていた鍵束から上手くいったものもあれば、鍵もろともに紛失し、行方の分からなくなったものもあった。その場合は最後の手段として鍵師や錠前屋の出番となる。
次々に積荷が開けられて概ね中身が確認できた頃、最後に一つ、小振りの木箱が残った。それは飾りのない粗末な箱であったが、他の木箱のように真四角ではなく縦長で蓋の部分が丸く湾曲して張り出した、いわゆる【スンドゥーク】の形をしていた。帳面を手にした役人が目を凝らしながら書類を繰るが、該当品が見つからない。ティーゼンハーロム号の荷ではないのだろうか。だが、上蓋の脇に似たような木札がぶら下がっているから間違いないのだろう。今回の積荷一覧からは漏れたか、もしくは乗組員の私物の可能性もある。いずれにせよ陸に上げた以上、中身を確認しなければならない。
木箱には錠前が付いていた。立会人が持つ鍵束からは合致するものが見つからなかったので、鍵師が解錠を試みるが上手く行かない。その次に呼んでおいた錠前屋がやってみたが、鍵はびくともしなかった。最後にこの手のことを得意とする手先の器用な細工師が試みた。小さな箱に付けられた、これまた小さな錠と睨みあうこと暫く。腰にぶら下げた秘密道具の中から先端が曲がった一本の細い鉤棒のようなものを取り出し、慎重な手付きで細心の注意を払いながら作業するとやっと固く閉ざされていた錠前が開いた。
男たちが箱を揺するとゆるんだ隙間から一気に海水が流れ出た。そして二人がかりで海水を吸い込んで重くなった蓋を開けた。
「これは …!!………」
中に入っていたものを見て、男たちは息を飲んだ。次の一拍で吐き出された驚嘆の呼気を波の音が攫って行った。
小さな木箱を囲む男たちの影は岸壁に短く縫い付けられていた。その頭上をピィーキィーと甲高い声を上げてチャーイカが飛んだ。
***
ゆっくりと回る渦の中に赤黒い光が見えた。大きく間延びしたその色が徐々に集約されてゆく。とある一点を目指して。そこから伸び縮みし、放出される微かな煌めき。
星の欠片を集めてばら撒いたようだった。細かい砂塵のような粒子が淡く発光しながら、集まっては揺らぎ、かげろひのごとく仄かな幻影を描き出した。蝋燭の炎に似たそのゆらぎは、たわみ縮んで何らかの像を結び始めていた。
それは、節ばった手だった。皺が幾重にも刻まれた大きな手だった。それも年老いた男の手だ。真ん中の指に赤い石の付いた指輪が見える。ほの明かりに鈍い照りを返したその石は、人の血を凝り固めたかのように赤々と燃えていた。とろりと生温かな【赤】が、歪んだ隙間に滲んで流れ出した。
その手は先の尖った短剣を握っていた。揺らぎが強まった。砂嵐のように粒子が乱れ始める。老いた手が歪む。きらり、一片の反射と共にその手が光りを放った。次の瞬間、小さな剣は男の手から消えていた。
やがて自然消滅するように乱れた砂嵐の影が止んだ。
呪いが解け、慎ましやかな調度類の並ぶ、ただの部屋に戻った所で、リョウは力なく首を横に振った。
「これ以上は、なにも」
―見てもらいたいものがある。
そう言ってユルスナールが態々港の診療所までリョウを呼びに来たのは、術師としての力を借りたいからだった。
人目を憚るように連れてこられた第七の詰所の一室で、夫は静かに用件を告げた。
「ここにある持ち主の記憶を辿って欲しい」
落し物の主を探していると言ったユルスナールに、リョウは最初、躊躇した。大して力にはなれないかもしれないと。
物には、それを持っていた人の想いが染み込むとここでは考えられている。その想いが強ければ強いほど、術師はそこに眠った他者の記憶に触れることが出来ると。占いや先読みを得意とする術師は、具現化された記憶を鍵として用いることで予知の切り札に使うのだが、リョウはその手の解読に長けている訳ではなかった。
いたずらに人の記憶に触れるものではない。これまでのささやかな個人的経験からそのような思いを抱いていたリョウは躊躇いを見せた。
「これは…どういったものなのですか?」
リョウは探るように見上げたが、ユルスナールは首を横に振っただけだった。それは知らないからなのか、それとも知っていても言えないことなのかは分からない。来歴不明のものは、正直、何が飛び出してくるか分からない。妙な不安を覚えたのだが、滅多にないユルスナールの頼みとあっては断ることも出来ない。
「どうした?」
「いえ」
リョウは覚悟を決めた。呼吸を整えてから呪いの言葉を紡いで、それに触れた。指先にぴりりとした微かな痛みが走った。映像が消えた後も、その痛みは疼くように続いていて、無意識に庇おうとその箇所を胸元で握り締めていた。
ユルスナールは気が付いていないようだった。顎に手を当てて深く自らの考えに沈んでいる。
リョウが触れた記憶は、男の手。ここに残されていたのは不確かで曖昧な断片で、それが何を意味するのかも分からない。だが、術師であるリョウには感じ取れたことがあった。それは妙な気持ち悪さだ。こみ上げて来そうになった嫌悪感に痺れた手を口に当てていた。
「手だな。それも年老いた男のものだ」
ユルスナールが改めて言葉にした。
「ええ。そのように【視え】ました」
リョウは目を閉じ、片手でこめかみのあたりを抑えた。むかむかと何かがせり上がって来る。
「ッ………ただ」
赤い石の付いた指輪が、残像のように脳裏にちらついた。あの色を、あの指輪を、知っている気がするのはなぜだろう。自分でもよく分からない。
「リョウ?」
異変に気が付いたユルスナールから案じるような声が漏れた。
「いえ」
リョウは頭を振って、気を取り直したようにぎこちなく微笑むと反対側を向いた。このようなことは初めてだったのか、先程の摩訶不思議な様子を前に唖然と口を半開きにしていた青年に声をかけた。
「ユリム? 大丈夫?」
「あ? ああ」
ユリムは、薬師組合への使いを終えた後、トレヴァルから伝言を受け、後を追うように自警団の詰所の方へとやってきていた。
「ねぇユリム。これ、もしかして、この間のものと似ていない?」
そう言ってリョウは机の上に置かれた小さな金属の塊を摘んだ。
「ほら。宿屋で」
我に返ったユリムは、目を瞬かせ、じっと細い指の間にある金属片を見つめた。それから徐に身に着けている服の隠しに手を突っ込み、何かを探す仕草をした。
「あ」
それから珍しく慌てたように上着の内から何かを引っ張り出して摘んだ。
「これか?」
それは小さい不格好な金属片で、よく見るとリョウが手にしているものとよく似ていた。以前ユリムが世話になった宿屋で主から落し物だと言われたものだ。ユリムには覚えがなかったが、成り行きでもらってしまったものだ。服の中に入れっぱなしですっかり忘れていた。
「あ、そうそう」
リョウはユリムから受け取ったものと自分が手にしていたものを二つ、テーブルの上に並べて見た。
「ね、よく似ている…というか同じに見えない?」
「本当だ」
机を覗き込み、なにやら合点して顔を見交わせたリョウとユリムを前に一人除け者にされたユルスナールは、面白くなさそうに片眉を上げ、訝しげな顔をした。
「ねぇ、ルスラン、これが何だか分かっているの?」
先程は何も言ってくれなかったが、今なら教えてくれるだろうか。
「【鍵】のようなものだと聞いている」
組んでいた腕を解いて、ユルスナールが側に寄った。
「鍵?」
「ああ」
テーブルに置かれたものを手に取って、目を凝らしたユルスナールも、リョウの言葉を肯定するように頷いた。
「なるほど、よく似ている」
「ね?」
「……カギ…か」
「こっちはな」
考え込むように顎に手を当ててぽつりと呟いたユリムをユルスナールはちらと横目で見た。
「だが、恐らく、これも同じ作用をするものだろう」
そう言って一つを元の持ち主に返した。
「リョウ、ありがとう。助かった」
用が済んだのか、言葉少なに部屋を後にしようとしたユルスナールにリョウはしっくりこないものを抱えたまま、顔を上げた。
「もう、いいの?」
あれ以上のことは自分でも無理だとは分かっている。やはり大した力にはなれなかった。そして、内にわだかまる不吉な予感を口にしてよいものか迷った。口に出したら、それが本当になってしまいそうで怖かった。ユルスナールは顔色を曇らせたリョウのおくれ毛をそっと払い、額に軽く口づけを落とした。
「ああ。助かった」
薄く微笑む。
「だったら…いいのだけれど」
「ゆっくり休め」
昨日からの不眠不休の働きを労わるようにユルスナールはリョウの頬に手を当てトントンと指で触れた。
「今日はもういい。ユリムもな」
小さく男らしい笑みを浮かべて、騎士団長は慌ただしく部屋を後にした。リョウは半ば呆気にとられつつも忙しない夫を見送ってから部屋に戻ると、ユリムは鍵ではないかと言われたものを指の間に摘んで日に透かすように仰ぎ見ていた。眉がしんなりと寄る。何かを睨みつけるように険しい表情をしていた。
「ユリム?」
そっと遠慮がちに声をかければ、ユリムは慌てて何でもない風を取り繕った。大丈夫かと口を開きかけたリョウをなんでもないと封じた。リョウもそれ以上は訊かなかった。
「でも、よかったね」
廊下に出て振り返ったリョウにユリムは微かに首を傾げた。
「それが鍵らしいことが分かって」
「……あ、ああ」
ややぎこちない返事をした後、ユリムは押し黙ってしまった。元々おしゃべりな方ではないので、リョウも疲れているのだろうと踏んで、これまでの手伝いを感謝するように薄い背を叩いた。
「ユリムもお疲れさま。ありがとう。今日はもうゆっくり休んで」
「ああ。あんたもな」
さすがに疲れたと大きく伸びをした術師にユリムはからかうように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「顔に出ている」
目の下には色濃くくまが出ていると指で示してから、
「年は誤魔化せない」
辛辣な一言を付け加えるのを忘れなかった。
「もう! ひどい!」
リョウは怒った顔をしたが、すぐに笑った。慌ただしく兵士たちが行き交う表部分とは異なり、裏の区画はひっそりとしており、騒がしい喧騒をどこかに置き忘れたかのようだった。
***
ちょうどその頃、繁華街の外れ、物売りの声が細く長く響く往来を足早に歩く男がいた。薄手の外套は埃にまみれ、風のような足さばきに煙るように踊る。裾は随分と擦り切れていた。男の身なりは旅装のようであったが、やや風変わりに見えた―と言っても、取りたてて目を引くわけではないのだが、往来を行く地元民とは雰囲気が少々異なっていたので違和感を覚えるというくらいであろうか。それは恐らく男の首元にあった。首回りを埋めるようにぐるぐると幾重にもまかれた布には、全体像はしかと分からないが細かい模様が縫い込まれており、それが男の顔、下半分を隠していた。
時節は初夏の頃、日に日に強さを増す太陽の恵みに街の人々が軽やかに風を孕む薄布をこぞって身につける中、その男の服装は厚ぼったく野暮ったくも見えた。
だが、男はそのようなことには頓着せずに淡々と歩く。少しも暑そうな素振りをみせない。凍てつく氷の上であろうとそれは変わらないのかもしれない。
ふいに男が顔を上げた。そうして現れたその口元は、歪んでいた。切れ長の瞳は周囲に注意を払うよう更に細く引き締められ、往来の角々に鋭く照射された。黙々と歩く男の足取りは旅慣れた者、もしくは武人らしく重みを感じさせないものであったが、ふくらはぎの半ばまである革靴からは苛立ちに似た擦過音が聞こえ始めていた。
―ツイていない。チクショウ。
男の唇が紡いだ音は、この辺りでは耳慣れないものだったが、それが余り行儀のよろしくないものであろうことはその語気の強さと短さから感じ取れた。男の悪態は瞬く間に風に掻き消えた。だが、発せられた言葉は男の顔に歪みとなって留まる。男は往来を占拠する車輪の壊れた荷馬車を前に舌打ちをしてから迂回し、また黙々と歩き続けた。
目指す場所は一つ。少し前に引き払った宿屋であった。この街に到着してから、用事をこなしながら安宿を転々としていた。時を遡るように順繰りに使った宿を巡ったが、探している物は見つからなかった。他にも心当たりの場所を回ったが目ぼしい収穫はない。残るはあの、最初に腰を落ちつけた宿だけだった。
―クソッ。
これまでは全てが順調であったのに。自分の不注意の所為だ。男は悔しさを紛らわすように下唇を噛んだ。彫の浅い細面の輪郭を癖のない黒髪が緩く囲う。斜めにつり上がる瞳の傍には、古い刃傷痕が薄らと残っていた。その傷跡を覆い隠そうとでもするかのようにそばかすが斑を作っていた。
宿屋の敷居を潜るなり、男は挨拶もそこそこに店番をしていた主に詰めよった。
「尋ねたき儀、これあり」
男が使うこの国の言葉は、非常に古めかしいものだった。訛りの所為か尻上がり気味にも聞こえた。
「は、はい? な…なんでごぜぇましょう?」
なにやら剣呑な客の雰囲気に当てられて、見かけの割に気の小さい主は顔を強張らせた。
「以前、この方に世話になった者だが」
客の顔を再度見た主は口早に言った。
「へぇ、それは覚えておりますとも! その節はどうも。今回もお泊りでございますか? 部屋は空いておりますよ。それから…お部屋は…」
「忘れ物がなかったか? 引き払った時に」
主の言葉に被せるように男が口を開いた。
「わ、忘れ物…でごぜぇますか?」
「ああ。このくらいの硬貨に似た金属の塊だ。不格好で硬い。石と見紛うかもしれぬ」
親指と人差し指で作られた小さな輪っかを横目に男の台詞をかみ砕くように鸚鵡返しに口にしてから暫く、主はあっと合点したように素っ頓狂な声を上げた。
「ああ! あれでごぜぇますか!」
「覚えがあるのか?」
「どこにある!」と襟首を掴むように詰めよった客に主は二重あごになった顔をひきつらせた。
「ひひぃ、あ、あれはお連れさまにお渡しいたしましたよ! この間! ええ、ひょっこりと顔をお出しになられましたっけね」
「なんだと!?」
男は主の襟首を掴んで更に締め上げていた。
「だ、だんな、ちょっ、落ち着いてくんなせぇや。ぐぅ…」
苦しさに顔を歪め、主は息を荒くした。
「言え! 誰に渡したのだ?」
「ですから、あのお連れさまでごぜぇますよ! おわけぇ方ですってぇ。見ないうちにこちらの方も随分と達者になられて。感心いたしましたっけぇ」
主は自分の口元で片手をぱくぱくと口のように動かした。
男の目が驚きに見開かれた。
「ユリムか? そんな馬鹿な」
その声は掠れていた。
「さ、さぁ…お名前までは存じ上げませんが、そんげな感じだったと思いますよ」
無意識に最後、締めあげた主の首から相手を追いやるように手を放して、むせかえった主を余所に男は更に険しい顔をして何やら思案し始めた。
あいつが生きていただと? まだこの街にいる? そんな馬鹿な。あれは売られたんだ。この私の目の前で。とっくのとうに船でどこかへやられているはずだった。売られた先でこき使われているか。それとも役に立たずに、なぶりものにされて殺されているだろうと踏んでいたのに。逃げたというのか。どうやって……。
その時、何かを思い出した男の口元があざ笑うように歪んだ。
―だからか。
先だって連絡を取った取引先で、掌を返したように冷たくあしらわれたことを男は思い出した。取引が成立して向こうにとってこちらの利用価値がなくなったからだろうと踏んでいたのだが、その裏にあれが関わっていたとしたら。売買が成立した時点であれは向こうのものだ。逃げたとしても男の方に責任はない。本来、男には咎がないはずなのだが、大事な商品を失ったことで八つ当たりをされたのかもしれない。いや、それとも自分が裏で手を引いているとでも思われたのだろうか。
だとしたら、面倒なことになった。
しかもあれが鍵を持っているのだとしたら。尚のこと厄介だった。鍵がなければあの木箱は開かないし、中の品を約束通りに受け渡して金に替えることも出来ない。遠路遥々しんどい思いをしてここまでやってきたというのに。これまでの苦労が水の泡だ。
この主が言うように本当にあいつに渡したと言うのであれば、すぐに居所を見つけ出して取り戻さなくては。
―チクショウ!
男は宿屋の受付台を拳で殴りつけていた。その向こうにいる主のチョッキからはみ出した腹の肉が、驚きにたるんだ。
「おい、主、あの男に渡したというのは本当なのだな?」
人を殺めんばかりの鋭さで男が凄めば、
「へ、へぇ、確かにお渡し致しましたすっけ」
主は小刻みに首を縦に振った。
「あれは一人だったか? どこへ行った?」
「ええと、今は…その…御一緒ではないんでごぜぇますか?」
奇妙なものを見る目で腰の引けた主が男を見上げた。男は下手に怪しまれてはまずいと思い、事情があって別行動をとっているうちにはぐれてしまったのだと適当に誤魔化した。
「さ、さようでごぜぇましたか。それは難儀なことで」
小さく頷いた主はそこで思い出したように口を開いた。
「そう言えば、お連れさまがいましたよ」
それは思いがけない朗報だった。
「どんな奴だ?」
「ええっと、ああ、面立ちのよく似た方で。同じ出ではないでしょうかねぇ」
「…なんだと?」
主の真意を測るように男は目を眇めた。内心は思いがけない驚きに高波に攫われたように心が揺れた。
あいつと行動を共にしているやつがいる。それも故郷の者だというのか。あの男か。いや、今回の旅路で共に派遣された男ベェサイーンは死んだはずだった。自分の目の前で。この手であの男を斬ったのだから。あれが生きているはずなどない。となると。この街に同郷の者がいるのか。それともお館さまが他に手の者を寄越したというのか。それとも、ただの商人だろうか。
それは男には俄かには信じられないことだった。故郷サリダルムンドはここより遥か遠方、深い山々に囲まれた閉鎖的な国だ。民の殆どは一生を生まれた村で過ごす。国を捨て旅に出るなど途方もない事で、狂気の沙汰、変わり者のすることだと考えられていた。ごくまれに諸国を旅するさすらい人が山に入るが、束の間の旅人は足跡を残さない。
しかし、サリダルムンドの民の顔立ちはここの人々とはかなり異なる。何よりも特徴的なのは黒い髪と瞳だ。この街とは真逆で外から血が混ざらないので、民の形質は昔から変わらず保持されていた。
ただ、例外を除いては。
―血は争えぬということか。
男の瞳にどす黒い侮蔑の色が浮かんだ。異国の遊び女の子。卑しき血筋ながら先の王より過大に目をかけられていた。その女の落とし子。我が一族の妃を差し置いた憎き女の血縁。
共にいるのは大方【流れ】の末裔か。自発的に国を去る者がいない中での例外は、所払いを宣告された罪人の系譜しかない。傷を舐め合うように賤しき者同士、身を寄せ合っているのかもしれない。
あれがまだこの街にいることは分かった。誰かに匿われているらしいことも。ぐずぐずしてはいられない。早急にあれを見つけ出さなければならない。奪われたあの鍵を取り戻し、この手で今度こそ始末をつけるのだ。
その男―ブラクティスの迷いは失せた。
そして今、この場でやらなければならないことと言えば。居心地の悪そうにこちらを窺いながら、腹の肉を小刻みに揺らす宿屋の主を捕まえて、その若者と連れの話を聞き出した。できるだけ早くこの得体の知れない客に帰ってもらいたい主が進んで協力したのは言うまでもない。




