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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第一章 国際貿易都市ホールムスク
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1)港町ホールムスク

 緩やかな坂道が山の中腹から海まで続いていた。眼下には青々とした海原に向かって大きく弧を描きながら蛇行して流れる川が、伝説に描かれた竜【ズメェーイ】のように反射した日差しにその鱗を煌めかせる中、ひっそりとその動きを封じ込めるように石作りの建物が所狭しと軒を並べ、末に広がるようにして人々の暮らしが形成されていた。河口付近には港があり、白い帆船が複数停泊しているのが見えるだろう。その向こう、鮮やかな紺碧を揺らめかせた海には、港を出たばかりの船影やこれから港に入港する船の姿がちらほら見える。そして、もっと海岸線に近い所に目を凝らせば、岩影の先で漁をしている小舟がもやっているのが、点々と明るい染みか木端のように見えるかもしれない。


 山を背に大海原に向かって瘤のように鼻を突き出した地にここホールムスクの街はあった。海岸線沿岸部には土塁に石垣を盛った砦のようなものが点々と設えられ、中には高い石壁が続いている場所も見受けられた。

 その坂道を一人、歩く者がいた。山の方から海へ、街がある方に向かって行く小さな背が見える。なだらかな傾斜を足取り軽く下っていた。

 その者の服装は、取り立てて注意するに値しない地味な色合いだった。濃い緑色の丈の短い上着に、脇に長い切り込み(スリット)が入った膝丈程の生成り色の長衣(ワンピース)が、足さばきに合わせて軽やかにはためく。その下から伸びた脚は薄茶色のズボンで覆われ、直ぐ下は膝下で折り返しの付いた黒い皮の長靴が続いていた。その腰には太いベルトから、よく見ると交差するように左右に皮のベルトが回り、其々の側には微妙に長さの違う柄拵えの繊細な短剣が一本ずつ収められていた。背には古ぼけた茶色の鞄が一つ。背格好に比べて些か大きいようにも思えるものが張り付いていた。後ろの低い位置で一つに束ねた黒い癖の無い髪が、その者の歩みに合わせて馬の尻尾のように左右に揺れた。


 街に入ればどこにでもいるような風体だ。いや、昔から異国との交易で栄え、様々な国の民が入り混じり、色鮮やかな衣装を身に纏う人々が多い界隈に行けば、この者の身なりは酷く粗末で地味なものに見えるだろう。

 そのようなどこにでもいる、ややもすれば線の細い旅人の後ろ姿だが、ほんの少しだけ特筆すべき箇所があった。その者の薄っぺらい左肩にはなめした皮の肩当てと肘当てが肩先から二の腕に掛けて回り、無骨な印象を残していた。

 だが、注目すべきはそこではない。珍しいのは、その肩に歩みに合わせて揺れる小振りの猛禽類の姿だった。鋭い爪が食い込むように肩先の皮を掴んでいる。ハヤブサだろうか、もしくはノズリかもしれない。小さな猛禽類が、まるでよく出来た人形のように乗り、その者の歩みに合わせて揺れていた。

 伝令を生業にする者か、はたまた術師であろうか。


 その旅人の姿は、この国スタルゴラドの王都スタリーツァから派遣された地方官吏やこの地に駐屯する騎士団が宿舎として利用する面白味のない石造りの建物が立ち並ぶ人通りの少ない大通りを下り、まるで緩衝地帯のように広がる青々とした木々の多い公園を抜けて、街の住人たちが暮らす雑多で大きさや形、色合いの違う建物がひしめく界隈を通り過ぎて行った。


 この辺りになると道幅がぐんと狭まり、入り組んでくる。迷路のように細い小路が太い小路から血管のように伸び、それらが複雑に繋がっていた。赤茶けた古い建物が石畳のでこぼこ道を囲み、空を見上げようにも、高く張り出した建物に無限に広がるはずの青い空が不格好に切り刻まれ、そして歪んでいた。家の窓の張り出した部分には、赤や黄色、紫などの原色に近い鮮やかな花を植えた植木鉢が並び、窓から窓に張り巡らされた細い(ロープ)には洗濯物の【ルバーシュカ】―頭からすっぽりと被る形のシャツ――や布巾が風に揺れ、貴族の家紋をあしらった旗のようにどこか誇らしげに堂々と翻っていた。

 どこからか女たちの話声が聞こえて来る。甲高い笑い声も。細く入り組んだ小路を子供たちが元気一杯に走り過ぎて行った。

 その肩に猛禽類を乗せた旅人は、迷いのない足取りで入り組んだ小道を歩いて行った。よく見ると肩の鳥としきりに言葉を交わしているようである。


 その後、旅人は小さな鳥を肩に乗せたまま住宅街を抜けた。石畳が色を変えた。それまでは白っぽい色を基調に砂混じりのでこぼこ道が続いていたが、同じ白くとも丁寧に形を整えられた石に所々赤茶けた色合いの石や青っぽい色合いの石が混じる区画に入った。

 その頃にはもう通りの様子は一変する。道端の木陰でのんびりと笊の上に開けた豆の選別をしたり穴の開いたズボンやシャツの繕いものをしていた【プラトーク(スカーフ)】を被る女たちの姿は消え、姦しさと共に人通りが格段に増えるのだ。


 白に赤いまだら模様のレンガで彩色が施された道は、市場などの商業地区を表わす区画だった。

 緩急がつき段々になった小路沿いには大きく日除けの布を張り出した露店がずらりと並び、色鮮やかな果物や野菜が山のように籠の中に盛られている店があるかと思えば、所狭しと靴をぶら下げた店もある。金物屋には大小様々な鍋がぶら下がり、差し込んだ日差しに反射してささやかな自己主張をしている。金色や銀色のお茶を沸かすのに欠かせない湯沸かし器である【サマヴァール】が行儀よく並んでいた。他にも色とりどりの衣の反物を扱う店や針や糸を扱う手芸専門の店、それから女性用の髪飾りや装飾品を扱う小間物屋もある。庶民に大人気の版画【ルボーク】売りの店先では、ここ最近の珍しい事件やお伽噺の英雄譚等の有名な物語の一場面が彩色を施されて刷られた大きな版画が、些か丁重さには欠ける扱いで軒先に吊るされていて、それを眺める人だかりができていたり、街中で大人気だという挿絵のついた流行本の冊子などが置かれており、店番をする店主となにやら談義をしながらパラパラと(ぺーじ)を捲っている客の姿もあった。その他にも焼いたパンを売る店、この国の特産である【ミョード(はちみつ)】と香辛料を加えて煮た飲料である【ズビーテン】を売る店、同じ飲み物で微発酵の清涼飲料である【クヴァス】を売る店もある。その他に、鉱石の原石を扱う店、武具や馬具を売る店、【ベリョーザ(しらかば)】の木から作る曲げわっぱや小物入れを売る店等など、其々、己が商売に余念がなく、客を呼び止めては売り込みに懸命な声掛けを行っていた。


 耳を澄ませば、こんな声が聞こえてくるだろう。

「さぁ、さぁ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。遠い異国の地から遥々船に乗ってどんぶらこ。さぁさぁお試しあれ。ああ、ちょいとそこのお嬢さん、見てってよ。サリダルムンドのお姫さまが御愛用の化粧水だよ。芳しい匂いのする香水さ。どうぞ見てってくださいよ。これをつければどんな男だっていちころ。たちどころに高貴な香りの虜になること間違いなし。半年かけてやっと手に入れた希少品。今、ここにあるのが最後だ。さぁ、買った、買った。ここで買わにゃぁ、どこで買う? 次はいつ入るかは分からない代物さ。今日は特別にこの匂い袋も付けちゃうよ。ほ~ら、サリダルムンドの刺繍が入った特注品さ。これにこの香水がついて。何と! たったの4メーディ !! これは買わない手はない。お買い得だよ!」

 どこか遠くでよく通る男の声が響けば、そこに被さるように深い朗々とした声が混じるだろう。

「クヴァス、クヴァスはいらんかねぇ。乾いた喉をさっと潤す爽やかな味。一度飲んだら止みつき必至。マレーネ工房特製のクヴァスだよぉ。うちのは一味違う。一杯たったの2メーラチ 。さぁさぁ飲んでごろうじ!」

 このように節回しの効いた小気味良い口上があちらこちらで上がるのだ。

「ああ、ちょいとそこのおにーさん。あ、いや、おじょーさんかね? ハハハ。どうだいこの紅を見てってごらんよ。発色が良くて長持ちする良い紅だよ。ちょっとしたお土産にも喜ばれること間違いなし。普段使いにもぴったりさ。この綺麗な小物入れに入ってお買い得。どうだい一個! 今ならオマケしとくよ」

「お花ぁ、お花はいりませんかぁ~」

「桶は入用でないかねぇ。大きな桶、小さな桶、種類も豊富に丈夫なやつが揃っているよ! どうぞ見て行ってくんなせぇや!」


 旅人は、肩に乗せた小さな猛禽類と二言三言、言葉を交わすとどこか困ったような苦笑を浮かべた。その向こうには期待に満ちた眼差しで旅人を見つめる紅売りの姿が。

 だが、笑顔のまま軽く片手を振って。上着の袖を引く商売っ気溢れる商人(あきんど)たちをさり気なくかわし、買い物客や品定めする客、冷やかしにぶらぶらする客の間を軽い身のこなしで器用に避けて行った。

 すれ違う人々は、少年のように小柄な旅人のその肩に止まる鋭い嘴を持った鳥をまず目にして驚いたように目を見開いた後、そこから少し視線を下げてその持ち主の横顔を見る塩梅だ。大空を自由にはばたくものが大人しくしている様は、この街でも珍しい光景ではあったが、このような鳥連れの姿もこの喧騒には直ぐにでも紛れてしまうだろう。この界隈には、それよりももっと人々の耳目を集めるものが他にも沢山あったからだ。

 すれ違う人々の間に埋もれるようにして黒い頭髪がひょこひょこと動いた。ただでさえ小さな姿だ。気を付けていなければすぐにその姿を見失ってしまうに違いない。


 その後、この一人と一頭は、露店が大きな日除け布を張り出す界隈を抜けて、より道幅の広い通りに出てきた。そこからまもなく円形状に開けた広場と思しき場所に出た。王都スタリーツァならばこういった場所には真ん中に仕掛け噴水が設えられ、目にも楽しい水の遊戯が見られるものだが、ここにはそのようなものはなく、平たい演説台のような石の丸い台座があるのみ。だだっ広い空間だった。人や物で混雑した場所から急に視界が開け、少しくすんだ春特有の彩度の低い青い空がぽっかりと覗き、そこに白い雲が海からの風を受けて急速に姿形を変えながら流れていた。


 ここは、いわば街の中心で、この広場を起点に大小の小路が放射線状に伸び、それらがまた毛細血管のように複雑に入り組んでいた。一見、整然としているように見えて、その実、迷路のように複雑だった。この広場の周囲には三階建てから四階建ての立派な建物がまるで巨大な壁のように整然と並んで立っていた。この場所には街の機能が集中して配置されてある。要するに心臓部とも言える区画(エリア)だった。単純に分かりやすく比較するならば、王都での宮殿の区画のような場所だと言えば理解が早いだろうか。

 外壁が柔らかい乳白色にやや黄身が混じった色合いの一際威風堂々たる趣のある建物は、この街を治める商業組合、通称【ミール】と呼ばれる団体の本山だった。その北側にある薄い水色の外観の建物はこの街の治安を守るミール内で設立された自警団の詰め所で、その隣に商業組合と向かい合う形で港湾関係の組織が集まる建物や、王都から派遣されている地方官吏の詰め所があり、自警団の真向かい、南側には王都から派遣される騎士団の兵士たちが常駐する詰め所があった。これらの組織が集まる広場の先には、広々とした大きな港があり、白い帆を畳んだ船が幾艘も見えるだろう。その近辺には、倉庫のような大小の小屋や作業小屋が点々と並んでいる。そこから少し東側と西側に離れた所には其々漁師たちの使う桟橋があり、そこから(おか)側に入った界隈には魚を扱う市場の屋根も見渡せた。

 青い空を無数の白い海鳥【チャーイカ(かもめ)】が飛び、ピーィキーィと甲高い声を上げながら、のんびりと風に遊んでいた。


 さて、では再び鳥を連れた旅人の姿を追って見るとしよう。小さなその背中は、開けた円形の広場で立ち止まると眩しそうに手を額際に宛がい、空を見上げた。【ソンツェ()】はまだ中天には届かない所にあった。それを確認すると、ぐるりと周囲に立ち並ぶ荘厳な石組の建物群を見渡した。そこでまた二・三肩に乗る鳥と言葉を交わし、小さく微笑んだ。そのすぐ後に鳥が何やら妙なことを言ったのか、微妙な表情をしたかと思うと恨めし気な瞳で鳥を横目に見た。そこで鳥の胸元の羽を擽るように突いた。今度はそのまま小さく口を尖らせたと思ったら、小振りなノズリはその場から勢いを付けて飛び立った。その場で上方へ向けて大きく旋回をする。一人、広場に残された相棒は、合図するように手を大きく振った。「ありがとう。じゃぁ行って来るね」――そんな声が微かに聞こえてきた。


 そこから一人になった旅人は気合を入れるように斜めに掛けた鞄の紐を握り締めると確かな足取りで一歩踏み出した。

 鳥に別れを告げた旅人は、広場を突き切るように真っ直ぐに一番立派な作りの建物を目指した。この広場には色の付いたタイルで大海原を行く船の姿や海を守る神々の姿、お伽噺にあるような海の精である乙女と戯れる様々な魚たち、水の中を悠々と泳ぐ大きな海の獣たちの姿がモザイク画に似た様式で描かれていた。

 小さな背中は、そのような乾いた大海原を横切り、見張り番として立つ青い上着を着込んだ制服姿の男たちの間を抜けると大きく開かれた扉の中に入っていった。




 広い玄関を抜けてすぐ、横長に並んだ【ムラーモル(大理石)】の受付台(カウンター)がまるで小さな砦のように長々と待ち構えていた。そこには片肘を付きながらなにやら話し込んでいる男の姿や書類と羽ペンを手に真剣な面持ちで説明をしている男の姿が。受付台と思しき細長い垣根を挟んで向こうとこちらで人が相対していた。

 受付台の向こう側にいる人々は、皆、同じような格好をしていた。白っぽいシャツに黒っぽい丈の長い【ジレェート(ヴェスト)】を身に着けている。見るからに事務方と言うべき官吏の雰囲気だった。


 さて、ここまで来ればもう皆さまにはお分かりだと思う。いや、これ以上言葉を濁したら何を勿体ぶっているのかとお叱りを受けるかもしれない。この広い建物を物珍しそうにきょろきょろと今にも口を半開きにして感嘆に似た面持ちで眺めているのは、懐かしい顔ではないだろうか。そう、皆さまもご存じよりのリョウ・(エス) ・シビリークスである。


 ここは王都より遥か南東、山を一つ二つ隔てた所にある港町ホールムスク。大陸の端っこに瘤のように突き出た半島のような場所である。スタルゴラドの名家シビリークス家の三男坊ユルスナールに嫁いでより、引き続き北の砦で新婚生活を始めたリョウではあったが、その年の冬、王都で開かれた武芸大会の後、恒例のアルセナールで開かれた軍事会議で、これまで噂で囁かれていた軍部の大々的な組織編成が議題に上り、そこで正式に各部隊の異動が決定されたのだ。

 その結果、北の砦に詰めていた第七師団は、王都から見て真逆の方向にある貿易港ホールムスクへと転属となった。それが、この間の冬のことで。それからは移動の準備やら引き継ぎで大わらわ。ユルスナールもリョウ共々非常に目まぐるしい日々を送ることになったのだ。王都でそのまま情報収集やら出来る限りの準備を行い、一度、北の砦に戻ってからの再出立となった。


 王都滞在中、水面下でアルセナールは突如として蜂の巣を突いたような騒ぎになった。各師団長クラスの兵士たちは引き継ぎに忙しく、夫のユルスナールも後任の第八師団長との折衝や第六師団長との新天地ホールムスクに関する情報交換で忙しい日々が連日連夜続いた。

 その後、王都での異動の正式な手続き及び最初の引き継ぎは恙無く終了し、部隊は先遣隊と後方部隊との二つに分けられることになった。正式な異動が発表されてから大体三カ月から半年(5か月)を掛けて配置転換を完了させる。勤務地の移動に距離がある場合、その間、騎士団の諸任務に支障が出ないようにする為、最初の一年は流動的に新旧部隊の兵士たちが入り混じる形になっていた。勿論、命令の指揮系統は厳格でその地に新しく赴任した師団長を頂点とするというのが慣例になっている。

 因みにスタルゴラド国内に第一から第十まである騎士団十部隊の内、一部例外はあるが、四年から五年の任期で異動をするのは、第四師団から第十師団の七部隊で、第一、第二、第三はその任務の性質上、勤務地は王都のみと定められていた。だが、ここにも例外と言うものはあるもので、第三の場合は王都の拠点が動くことはないが、個別の業務内容によっては調査の為に国内外問わず派遣される場合もあった。同じことが近衛の第一と第二にも言えた。王族の子息の外国留学やら遊学、子女の輿入れなどに付き添い同じように諸外国へと渡る可能性も十分考えられるからだ。


 そのようなわけで。リョウもユルスナールと共に北の砦から遥々この南東にある港町へと移って来たのだ。この地に到着したのが、およそ五日前。元より荷物などは少ないものだが、長旅を経て、荷解きをし、新しい宿舎に入り、これから新しく生活をしてゆく騎士団用の官舎を巡り、引き継ぎに残っている第6師団の兵士たちや厨房の兵士たち、出入りの商人たちと挨拶を済ませてから、落ち着いたとは言わないが、漸くそれらしい生活が出来るようになった頃合いだった。


 一つ前の冬の終わりに晴れて術師となって以来、リョウの活動拠点は専ら寝食を共にする北の砦の第七師団の兵士たちの間だった。今回、これを機にこの国有数の大きな街へと移った。この地では貿易が盛んで国外の珍しい知識や薬草の類が手に入ると聞く。見聞を広め術師として本格的に修行、研鑽する為にはもってこいの場であった。

 ここでは術師として活動する為には、商人たちが組織する通称【ミール】と呼ばれる強固な組合へと登録をする必要があった。この街は商人たちが力を持ち、彼らが独自に自治を行う、スタルゴラド国内でもかなり特殊な地域なのだ。王都から派遣される役人――地方官吏として行政を司る為の者――もいるが、彼らは専ら中央と【ミール】との連絡係のようなもので、この街の(まつりごと)は【ミール】が中心となってその長が取り仕切っていた。


 この日、リョウが訪いを入れたのは、この【ミール】本部の建物だった。この場所には業種毎に組織・細分化された様々な組合が入っており、組合同士の折衝や連絡の取次、貿易を円滑にするための話し合いや交渉が日夜行われている。ここが、謂わば、この街ホールムスクの心臓部であった。この【ミール】には各組合の長が集まった議会があり、そこでこの組合全体の長が選出される。ここでの決定事項はホールムスクにとっては絶対的な効力を持つ。王都からの官吏が横槍を入れようにも相手にされない場合が殆どで、ここには王都の威光、王族ツァリョーフ家の一族の栄光というのは絶対視されておらず、【ミール】の下に霞んでしまうのだ。建前上、この地はスタルゴラドにある一つの街として数えられてはいるが、ここに暮らす住民たちは対等な小さな独立国であるかのような意識をその底辺に保持していると言えるかもしれない。約300年前に武力をもって大国に組み入れられたという歴史的成り立ちを含めて、王都の宮殿側からみてもこのホールムスクという街はやや特殊な位置付けをされてきたのだ。


 一度、このギルド的組織である【ミール】に登録すれば、このホールムスク内での活動は元より、職の斡旋や組合内の様々な繋がりを利用して必要な部署との連携や便宜を計ってもらえるなど、この地でゼロから始める為にはなにかと便利で有利な条件が揃っているのだそうだ。商人の為の合理的な枠組みの中で相互扶助、相互利益を目指しながら更なる発展を追求する方式(システム)であった。


 そういう訳で、リョウは、この日、初めて間近に目にする街の様子や人々の様子、空気感を肌で感じながら、道案内として軍部で長年伝令として勤めるノズリのシェト に助けてもらい、ギルドへの登録へと出向いたのだ。ユルスナールたちは連日、引き継ぎやら挨拶回りで忙しい。夫のユルスナールからもここは異国から流入する民も多く、北の砦とは勝手が全く違うので、落ち着かないうちはあまりふらふらするなと釘を刺されてはいたのだが、自分の身の回りの整理が一段落して、ようやく外の様子に目が向くようになった途端、好奇心が疼いて、街の様子を覗いてみたくなってしまったのだ。


 何故なら、ここには【(モーリェ)】があったから。かつて、二年前の秋にスフミ村の収穫祭で旅の行商人たちから耳にした海の話。飲み干せないくらい大量の塩辛い水が青く揺れているという話。その話を耳にした時から、いつか機会があれば、この国の端っこにあるという海を見てみたいと思っていた。

 海は、ひょんなことからこの地に迷い込み、流れ着いたリョウにとって故郷を思い出させる唯一の【色】であったから。今では、もうあちらとこちらとでは世界の次元が異なるのだから、この海を隔てて自分の過去が繋がっている訳はないと頭では理解しているのだが、それでもこの青い海原の向こうに自分の【コールニィ(根っこ)】に繋がる場所があるのではないかと妙に胸奥が切なく、そして狂おしく騒ぐのだ。それはもしかしたら、単なる感傷にすぎないのかもしれない。だが、【海】という言葉はそれだけの威力をまだリョウの中に残していた。


 そのような理由から、一月半程前、ユルスナールからホールムスクに転属が決まったと聞いた時、リョウの中では驚きや不安よりも期待と好奇心に胸が膨らんだ。食堂でその話を聞き及んだ第七の兵士たちは、新しい駐屯地が人里離れた僻地ではなく、多くの人々が暮らす賑やかな街ということで妙に盛り上がり、蒸気(テンション)を上げていた。若い男たちの集まりであるから、彼らの頭の中には街を歩く様々な美人と首尾よろしく仲睦まじくなる様を逞しい想像力を駆使して思い描いているに違いない。

 異動に対して夫であるユルスナールの反応は、リョウには正直よく分からなかった。最初、転属の報せを告げられた時、ユルスナールはいつもと同じに淡々としていて、そこに何らかの私的感情――当時、そういうものがあればの話だが――をリョウに分かる形で垣間見せたりはしなかった。ホールムスクは初めてだが、どこにいても自分に課せられた任務に変わりはないと。いつもの生真面目そうな顔をそのままに口の端を吊り上げて男らしく笑って見せたのだ。その姿勢をリョウは頼もしく感じた。

 第七の他の兵士たちも同様だった。ユルスナールもシーリスもブコバルもヨルグも。皆、そこに揺らがずにすっくと立っているから。だからリョウも安心して前を向いていられると思った。それに、少し古い表現かもしれないが、同じ釜の飯を食べている第七の兵士たちもいる。彼らは異動の報せにも動揺は見せなかった。いや、寧ろ素直に喜び、夕食時の食堂は大いに盛り上がりを見せていたくらいだ。

 もし、これが一人であったら、未知の世界に足が竦みそうになったかもしれない。人はその環境に慣れてしまうと保守的になる生き物だ。新しいこと挑戦するには勇気がいるし、労力(パワー)もいる。だが、リョウは幸いにも一人でなかった。そして、そのようなことに尻ごみをしている暇もなかった。漸くこの国で術師としての始点(スタートライン)に立ったばかりだ。そう、新妻としての生活も始まったばかり。ホールムスクとはどのような街なのか、どういう人々が暮らしているのか。想像ははばたいて膨らむ一方で、興味は尽きなかった。



今回はチラリズム的に街の様子をお伝えいたしました。そして我らが主人公リョウの登場! 暫くはリョウ視点で話を進める予定です。


色々と耳慣れない言葉が出てきたかと思いますので補足的な説明を少々。


1.サハリンにホルムスクという港町があるのですが、今回は名前を借りただけで、実際の様子は架空のものです。300年前に分捕ったというと1700年ごろから続いたスウェーデンとの戦争の末に手に入れた街サンクト・ペテルブルグを想起させないでもありませんが。まぁその辺りは似て非なる世界なので。


2.街の様子は帝政ロシア時代の風俗に関する資料を参考に色々と想像をしています。「ルボーク」は庶民の間で流行った素朴な木版画や銅版画の類で今で言うメディアのような役割を果たしたもの。江戸時代の読売や浮世絵に近いかもしれませんが、日本のものと比べるとかなり精巧さには欠けるでしょう。この版画はルボーク売りが街中を売り歩いたとか。庶民はそれを買って、家の壁に貼りつけてインテリアとしても楽しんでいたそうです。


3.ズビーテン、クヴァスはロシア特有の飲みモノです。クヴァスは今でも人気な夏の風物詩。ズビーテンは庶民にお茶が普及する前によく飲まれていたもので、今では廃れてしまって古語扱いされていますが、修道院あたりでは今でも作られていて瓶入りで売られているそうです。


4.貨幣の記述(物価):サリダルムンド(なんだかサマルカンドみたいですが)の香水4メーディというのは、感覚として¥16、000くらい。嘘か本当かは分かりませんが希少品ということで高い。クヴァスの2メーラチは¥160くらい。


5.リョウの名前:リョウ・エス・シビリークス。ロシア語のアルファベットで「C」は「エス」と読みます。ちなみにラテン文字ではないので「S」はありませんで「S」の音にあたるものが「C」となります。


こんなところでしょうか。もし分かりにくいところや気になるところがありましたら別途説明を加えますので、遠慮なくお申し出ください。


それでは、また次回に!

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