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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第四章 パンドラの箱
28/60

2)炬火の如く

炬火きょかとは篝火のこと。

 飛び散る肉片の焦げた甘い匂いを吸い込んだ一人の詩人が、こう言った。

 ―あれは、地獄からもたらされた道具だ…と。


 ***


 立ち上る火柱は海神ペレプルートの為に身を捧げたセマルグルの化身か、炎の神アゴーニの挑発か。

 あれは神の怒りだ。せり出したバルコニーに体を預けるようにして一人佇む男は独りごちた。腐りきったこの汚濁を灰にして昇華させる為に。20年前に果たせなかった計画の続きを今度こそ実行に移す、その為の導となる炎。


 ぼんやりと街灯の霞む夜空に突如として立ち上った閃光は、大いなる神ペルーンが放つ(いかずち)のようだった。轟きが大気を震わせ、山々が共鳴する。薄く雲が垂れ込めた星明かりのないくすんだ空は、たちまち赤々と染まる。沖を航行中の船舶からは遠い篝火のように見えたかも知れない。


 それは突発的な怒りに似ていた。制御できない感情の発露。前触れなくもたらされる理不尽な怒り。神の怒りはいつも唐突だ。


 静寂を打ち破る轟音の後、一瞬の空白を挟んで、恐怖と狂気と混乱がその場を支配した。逃げまどう人々、怒号と悲鳴の入り混じる叫び声の数々。真っ直ぐ天へと伸びる火柱はみるみるうちに勢いを増し、むせかえるほどの煙が人々の目と鼻を焼く。平穏のはずの日常がいとも簡単に転落した瞬間。転げ落ちるのは、あの暗い闇に聳え立つ崖の向こう……。


 さぁ、目を覚ますがいい。緩み切った神経を尖らせろ。そして思い出すのだ。我々の血潮に流れるこの黄金の誇りを。青き海の魂を。四肢を鎖で繋がれて、それでも自由だと言えるのか。


 人生は所詮喜劇である。そんなことを言ったのは、どこの誰であったか。今となっては思い出せない。

 それでも構わなかった。重要なのは誰が何を言ったかではなく、己がどう感じるかだ。


 じっと海岸を見つめていた男の傍で気が揺らいだ。風向きが変わり、蓋をしたはずの記憶を揺さぶる甘く苦い香りが鼻先を掠める。黄金(こがね)色のミョード(はちみつ)を垂らしたお茶に水煙草の煙。ほろ苦い追憶。

 男は左半身に痺れを感じた。ちらりと目の端でその存在を確認し、小さな安堵感を覚えながら息を吐く。

 開け放たれた窓のカーテンが(たわ)む暗がりに、気配を消した男の影が伸びていた。

 男はバルコニーに肘をついたまま体をそちらに開いた。そして群青の闇の中に同化する影を見下ろした。ただそこにある虚ろを。

「万事つつがのう」

 訛りのきつい囁きが地を這う。その報告に男は口角を僅かに上げた。

 ああ、それは見れば分かる。

「証拠は?」

「上がっております」

「さて、喜劇(コメェディア)の始まりだ」

 ―我が人生に。

 男は遠く、揺らめきながら波の狭間に沈んでゆく炎を眺めながら手にした盃を軽く掲げ、そして一息に飲み干した。


 ***


 空を切り裂く突然の轟音にリョウは体を竦ませた。落雷だろうか。ちょうど手伝いに入っていた港の診療所を出て帰宅しようとした矢先のことだった。

 この日は朝から詰めていて、忙しくも充実感を覚えるような一日だった。休憩がとれないほどひっきりなしという訳ではないが、断続的に患者が訪れて約束の刻限が過ぎても中々切り上げることが出来なかった。就業時間に関しては特に厳格な規定がある訳ではない。ただ日没までには仕事を終えて帰宅するというのが常だった。

 潮風に晒され続け腐食の痕がそこかしこに表れている診療所の古い石壁に、巨大な何かが体当たりをしたようなどーんという振動が伝わった。丘の上の騎士団の宿舎から迎えに来ていた軍用犬イフィがさっと顔を上げ、聞き耳を立てた。

「なに、今の? 花火?」

 リョウは反射的に頭を抱えて立ったまま体を丸めた。トレヴァルはいつもの粗末な腰掛けに座って、一仕事終えた後のご褒美に酒瓶をぐいと呷った所だった。

「んぁ?」

 トレヴァルは動じることなく手の甲で口を拭った。


 初めて耳にする音だった。空になった腹膜を突き破って胃の腑に圧し掛かるような重たい破裂音。頼りない知識からリョウが弾き出した類似音は、打ち上げ花火のドーンという音とバリバリという雷の音だった。

「向こうで積み荷を派手に転がしたか」

 目と鼻の先にある港の方へ、若い頃の喧嘩の勲章か、気持ち折れ曲がった鼻先を向けながらトレヴァルが呑気に言い放った。

「それとも大筒(プーシュカ)でもぶっ放したか?」

 髭に埋もれた口元が皮肉っぽく歪む。

おおづつ(プーシュカ)…ですか?」

 初めて耳にする言葉にリョは小首を傾げた。

「おうよ。ズドーンってな。分厚い城壁なんかにでっけぇ穴をぶち開けるがん(やつ)だこってね」

 それは武器として使われる大砲のことだろうか。それとも振り子の原理で硬い石壁を破る鉄の大玉が付いた大きな仕掛けのことだろうか。リョウは目を瞬かせた。

 火薬とそれを使った武器―所謂火器―の存在は、常に世界の最先端技術に触れる機会を持つ貿易港ホールムスクにも伝わって来ていた。火薬の原料となる硝石 はスタルゴラド国内では天然産出しないので他国からの輸入に頼っている。それを使った武器の製造研究を始めているとかいないとか。この辺りのことは軍事機密扱いになるので公になっている情報は殆どないが、ただ現在のスタルゴラド騎士団では、リョウがかつての知識から知るような、たとえば銃のような武器はまだ導入されていなかった。リョウ自身、まだそのような火器を目にしたことはなかったが、もしかしたらこの街では流通しているのかもしれない。


 そんなことを考えていた矢先のことだった。怒鳴り声と共に戸口を壊れんばかりに激しく叩く音がして、男が一人、血相変えて飛び込んできた。

「おやっさん、てぇへんだ!」

 港の埠頭で働く顔馴染みのマリャーク(海の男)だった。髪を振り乱し、顔には黒っぽい煤のような汚れが付いていて額際からは鮮血が滴り落ちていた。

 埠頭で事故が起きて怪我人が多数出ている。すぐに来て欲しい。獣が唸るような叫び声にリョウとトレヴァルの表情に一気に緊張が走った。

「積荷が崩れたりしたんですか?」

 手近にあった布をぬるま湯で軽く絞って、男に傷を抑えるように促すと、リョウは早速、鞄の中に応急処置に必要な最低限の物を詰め込み始めた。

「いや、積荷の一部から火が出ちまって、船に穴が開いたすけ。ほら、でっけぇ音が聞こえたろいね」

 積荷から出火したのか。爆音と共に? あれは爆発音だったのか。とすると積荷の中に引火性のある危険物があったということだろうか。冷たいものがリョウの背筋を這いあがった。

「積み荷はなんだったんです?」

 もし、火薬の類や爆弾の類を積んでいたのならば、被害は相当なものになる。そう考えるとゾッとした。

「そいつは…分からねぇ」

「ちょっと様子を見てきます!」

 リョウは叫ぶやいなや鞄をひっつかむとイフィと共に外へ飛び出した。

「あ、ちょ、リョウ! 待て、俺も」

 そう言って戸口に向かおうとした男の太い腕をトレヴァルがむんずと掴み、長椅子の上に座らせた。

「おまんはこっち。まずその傷、見せろいね」

 男の額側から流れる血は首を伝い、白いマイカ(タンクトップ)をも汚していた。トレヴァルは布で押さえていた男の手をどかせると手早く処置を始めた。幸い傷は浅かった。それから最後にもう一口酒瓶を呷ると乱暴に口元を拭い、これからやってくるであろう怪我人の受け入れ態勢を整えるべく動き始めた。

 この時、リョウもトレヴァルも、これから立ち向かう状況が予想以上に深刻なものになるとは思ってもいなかったに違いない。




 日没を過ぎても尚、港の周辺には多くの労働者たちが行き来していた。船は昼夜問わず発着を繰り返し、積荷の荷降ろしや積み込みなどの作業が行われている。船の入港・停泊許可証を出す役所も積荷の検査をする役人も昼夜二交代から三交代の勤務で仕事に就いていた。

 漁業・港湾関係の事務所には煌々と明かりが灯り、立ち並ぶ倉庫周辺には弱い光が点々と浮かび上がり、そこはかとなくしんとした心もとなさのような空気を醸し出していた。街の中心部や繁華街から漏れてくる光りは、深さを増した夜空を下からそっと包み込むように照らし出し、その裾野で絶えず揺れ動く海水面にはきらきらと白銀の鱗が散乱しているかのように反射していた。


 一抹の不安を喉元にぶら下げながら、イフィと共に埠頭の方へ駆けて行くと、見慣れているはずの光景が一変していた。

 視界一杯に飛び込んできたのは、燃えるような赤だった。まるで生きているように揺らめきながら刻々と変化する巨大な炎。岸壁に係留されている一隻の大型商船が炎に包まれていた。

「火事!?」

 リョウは思わず足を止めた。

 船は木造である所為か、火の回りが早かった。出航を間近に控えてピンと張られた帆が徒になったのか、帆布に燃え移った炎は舐めるように上へ上へと駆けあがって行く。水夫(かこ)たちが四方八方から桶を手に次々と海水をかけて行くが、焼け石に水のようなもので、その必死さをあざ笑うかのように炎は益々勢いを増す。しかも船は傾いでいた。

「早く逃げろ! 沈むぞ!」

「まだ積荷が中に!」

「間に合わねぇ!」

「てめぇまで火にまかれっぞ!」

「チクショウ、なんてザマだ!」

「持ち出せるもんだけ寄越せ!」

 なんということだ。現場に近づくにつれ、(ムラヴェイ)のような黒い点が赤い光に照り返された水夫たちの顔に代わる。猛烈な熱風が剥き出しになった肌の表面を焼き、ひりひりした。

 四方八方に駆けまわる男たちの怒声が飛び交っていた。積荷を海に投げ出す者、火にまかれて海に飛び込む者。

「もう駄目だ。切り落とせ!」

「積荷がぱぁかよ」

「うっせぇ! ぐだぐだ言ってんじゃねぇ!」

「馬鹿野郎、早くしろ! 火の粉が飛んじまう!」

「おら早く!」

「やっちまえ!」

 炎の勢いはいよいよ増すばかり。東からの風が港をぐるりと回り、煽った火種を街の灯りに対抗するようにあちらへ流そうとする。このままでは街へ飛び火する危険がある。

 舞い散る煤で真っ黒になったマリャークの一人が岸壁に駆け寄ると手斧を振り下ろし、船を係留している綱を切り落とした。港の方に傾いでいた船は、海に引きずり込まれるようにゆっくりと後方へ沈んで行く。めらめらと踊る炎をアゴーニ(炎の神)の如く背負いながら。


『リョウ! なにを呆けておる!』

 余りの状況に立ちすくんでいたリョウは、イフィの叱責に我に返った。

 そうだ。こんなことをしている暇はない。ニョルク の話では怪我人が多数出ているとのことだった。

リョウは降り注ぐ火の粉を避けながら体を低くして岸壁の方へ駆けた。赤々と燃える巨大な篝火に反射するように地面に伏す黒っぽい塊が幾つも目に入ったからだ。

 ぐったりした仲間を引きずるように抱えた人影に声を張り上げた。

「診療所へ! 術師が待機していますから!」

 目の端でこちらを見た男に頷き返し、リョウは走った。


「大丈夫ですか!」

 声をかけながら倒れている水夫や作業員たちの状態を検めて行った。リョウは懐から発光石を取り出すと明かりを最大限に引き出した。小さな背中で遮った赤と黒の世界に白い光りが、救いの光りが必要だった。

 全身ずぶ濡れになった男が、血溜まりに沈んでいた。片方の足が膝下から吹き飛んでいた。かなり弱いが脈はある。微かに呻き声もする。むっとする血の苦い匂いが鼻にまとわりつく中、リョウは鞄の中から止血用の布を取り出すと呪いを唱えながら男の膝にきつく巻きつけた。

 お願いだからどうかもってほしい。

「大丈夫。もう少しの辛抱ですから」

「あ……が…あ…し……が………」

 男の指が微かに震えた。何かを探すように。失くした欠片を求めて。

「ええ、あなたの脚もちゃんと探しておきます」 

 うわ言を繰り返す男へ励ますように声をかけながら、軽い痛み止めの小瓶を鼻先に持って行き嗅がせる。

「誰か! 担架を! この人を運んでください!」

 リョウはその場で大声を張り上げたが、周囲を見渡してぞっとした。現場は完全に混乱しており、男たちが縄や手斧を持って右往左往している。桶を片手に走る者、持ち出せた積荷を運ぶ者。燃え盛る船の方に気を取られている者が多く、リョウの助けに気が付く者はいなかった。中には倒れ伏す仲間を助けているものもいたが、こちらに手を貸す余裕はなかった。

 どうする。人を呼びに行くしかないのか、いや、でも先に処置をしておかないと助かるものも助からないかもしれない。どうする。ちりちりと差し込んできた胃の腑と粟立つ肌に唾を飲み込みながら逡巡していると、

『自警団だ!』

 イフィが一吠えした。夜目は利かないが、匂いからいち早く青い上着を身に着けた男たちの集団に気が付いたようだ。

 リョウの心に光りが差し込んだ。

「イフィ、お願い。誰でもいいから呼んで来て」

 イフィは『承知』とばかりにその場で高く吠えた。その声に気が付いた男たちが駆けてくる。その中にリョウは知った顔を見つけた。

「セヴァート! エスフェル!」

 リョウの声に気が付いた二人は、煙が舞い、火の粉が飛び散る中を駆け寄って来た。

「この人を大至急診療所に運んでください。一刻を争います!」

 男たちの返事を聞く前にリョウは立ち上がると少し先で(うずくま)る黒い塊へと急いだ。その場から声を張り上げる。

「どこかで担架を、木の板でもいいから。自力で動けない人を優先して下さい」

「よし、待ってろ」

 セヴァートは力強く頷くと他の仲間に指示を出していった。

「あっちの倉庫に担架があったはずだ。あとは板でも帆布でも何でもいい。使えるもんは使っちまえ!」

 青い上着を引っかけた男たちが号令と共に素早く動き始める。その傍らでリョウも出来る限りのことを行った。


 リョウは倒れ伏した男の脈を確かめた後、力なく首を横に振った。既にこと切れていた。火傷で赤黒く腫れ上がった顔面に手を伸ばし、恐怖と驚きに見開いていた瞼を閉ざした。

 そして別の男の元に急ぐと再び外傷の有無を確認する所から始めていった。飛び散った木片が腕やわき腹に突き刺さっていたが、呼吸は安定しているし、意識もしっかりある。

 リョウは担架を持って走るセヴァートに合図を送った。

「この人をお願いします。あと、取り敢えず診療所の方で受け入れをしていますが、あちらはトレヴァルさん一人、人手が足りません。ミールの術師組合と薬師組合に連絡をして手を貸して貰えるように伝えて頂けませんか」

 そう依頼をすれば、セヴァートの返答を待たずに、

『ではそれがしが行こう』

 イフィが志願して飛ぶように駆けて行った。

「イフィ、ありがとう。お願いね!」

 瞬く間に消えたしなやかに跳躍する背中に声を張り上げた。

「それから他にも受け入れ可能な施設があれば、そちらに怪我人を運ぶ手はずを整えてください」

 本当ならば港湾組合の関係者の指示を仰ぐ所なのだろうが、現場は混乱しており指揮系統がはっきりしなかったので顔が利く自警団を頼った。

「ああ、そうだな。至急手を打とう」

 セヴァートは嫌な顔一つ見せずに、駆けつけた団員たちを集めると混乱を収拾すべく的確な指示を出して行った。統率のとれた青い上着の男たちが伝令や救助に飛んで行く。その姿を頼もしく思った。リョウは怪我人の仕分けと応急処置に専念し、彼らと連携する形で倉庫にあった木の板を担架代わりにして怪我人の輸送を依頼した。




 それからどのくらいの時間が経ったのだろうか。現場には騒ぎを聞きつけてミール本部からやって来た術師や薬師たちが怪我人の手当てを行っていた。桟橋や埠頭の方には爆発に巻き込まれた人々が倒れていたが、出航を間近に控えた船内にも多くの乗組員がいたようで訳の分からないまま海に投げ出された者も数多くいた。彼らは泳ぎが得意なので無事岸壁に辿りついた者も多かったが、中には負傷し、衝撃に気を失って波に攫われた者もいた。無事だった水夫たちや自警団の男たちが波間に漂う仲間を救出に向かった。

 真っ赤な炎に包まれていた大型商船は(むくろ)のように黒ずんだ灰の燃え滓だけになって、今や船体の半分以上が沈んでいた。船尾に穴が開いて水が流れ込んだらしい。全てを飲み込むように沈没するかと思われたが、水深が浅かった為、途中で止まったようだ。黒い骨組からは煙が燻るようにたなびき、辺りには肺を塞ぐような焼け焦げた匂いが充満していた。上空に飛ばされ舞い散った灰が風に乗って落ちてくる。煙が目にしみた。

 今は港の周囲を篝火片手に小舟に乗った男たちが他に流された者がいないか捜索を試みている。外に放り出された積荷も取り敢えず回収しているようだ。船丸ごと、積荷を含めどれくらいの損害になるのか想像がつかないが途方もない金額になるだろう。


 最後の一人―腕に怪我を追って波間から自力で這い上がって来た水夫―の手当てを終えて、ハンモックのように両端を絞った帆布の中で揺られながらトレヴァルの元に運ばれてゆくのを見送って、リョウはやっと緩く息を吐き出した。体中を血流が逸るように駆け巡っていた。

「これで最後だな」

 梢が擦れ合うような掠れた声が聞こえた。

「ええ、そうあって欲しいですね」

 ―ひとまずは。

 少し離れた倉庫の壁に灯る明かりが、ぼんやりと周囲の闇を灰色に滲ませた薄暗がりの中、静かに遠ざかる白い揺りかごを目で追っていた。すぐ側に本部から手伝いに駆け付けた薬師の男 が立った。リョウはそっと片手で右の腕を抑えた。今頃になって直面した事態の深刻さに震えが走った。

 落ち着け。ここで終わりではない。これから診療所に戻ってトレヴァルの手伝いをしなくては。まだまだやることは沢山ある。

 リョウは隣に立つ薬師を横目に見た。男の表情は良く分からなかった。混乱と喧騒の中、動じることなく淡々と的確な処置を続けたその手際にリョウ自身も落ち着きを取り戻すことが出来た。もの静かな佇まいは、王都の術師養成所で師と仰いだレヌート・ザガーシュビリを思い起こさせた。

 どうも必要以上に注視してしまったらしい。「なにか?」というように眉を跳ね上げられて、リョウは誤魔化すように笑った。

「いえ。とりあえず、大丈夫でしょうかね」

 周囲をぐるりと見渡して少しずつ事態収束に向かう現場を見る。黒こげになった船の周りには人だかりができていた。港湾関係の役人だろうか。自警団の青い上着姿も目に入る。今回の事件の原因を明らかにする為に船長や船員たちに事情を聞くのかも知れない。

「それでは、ワタシは治療院へ戻ろうと思います」

 ここでの役目は終わった。だが、トレヴァルの所では大変なことになっているに違いない。酒瓶を仰向けてぐびりぐびりとやりながら悪態を吐きつつも、その手は忙しなく動いていることだろう。腕も確かな信頼置ける術師殿は。

「そうだな。では私は向こうの様子を見てから一度ミールに戻るか。報告が要るだろうし」

 港湾事務所脇の倉庫の一部が臨時救護所として開放され、駆けつけた術師や薬師たちが怪我人の手当てに当たっていた。そこは遺体安置所も兼ねているようだ。

「足りない薬草があれば使いを寄越してくれ。融通しよう」

 その申し出にリョウは礼を述べた。

「さ、あともうひと踏ん張りだな」

「そうですね」

 長い夜になるだろう。口には出さずとも共に同じことを思った。芽生えた小さな連帯感はリョウの心をほんの少しだけ軽くした。


「リョウ!」

ガフ(『リョウ!』)

 薬師の男に挨拶をして鞄を手に取った所で、リョウは自分の名前を呼ぶ二つの声を聞いた。

 火事の直後、警戒の為普段より明るく照らされた埠頭をこちらに向かって駆けてくる二つのでこぼこした影は、みるみるうちに良く知る姿に変わった。

「ユリム!? イフィ」

 「どうしたの?」と聞こうとして、第七の方に帰宅が遅くなる旨を連絡していないことに気が付いた。それにユリムからミールの方の用事が済んだら、治療院へ迎えに来ると言われていたことを思い出した。

「ああ、ごめんね。心配させちゃったかな。イフィもありがとう」

 全速力で走ったのか、ユリムの黒髪は額に張り付き、薄らと汗ばんでいた。

 街灯の明かりが届く中へ一歩踏み出したリョウの姿を見てユリムが息を飲んだ。

「…事故があったと聞いた」

「うん」

 ユリムは痛ましいものを見るように眉を寄せるとそっと手を伸ばした。指先が頬の手前で躊躇うように止まる。その時、リョウは改めて自分の格好を見下ろした。そしてユリムの反応に納得した。袖なしの長衣(チュニック)からズボン、上着の至る所に海水混じりの血や煤が滲んで汚れが斑のように浮き出ていた。

「……血が」

 掠れた囁きと共にユリムの指先がリョウの頬を拭った。

「ああ、大丈夫。ワタシのじゃないから」

 リョウは安心させるように微笑んだのだが、ユリムは無言のまま懐から手拭を取り出すと汚れの付いた場所を強く擦り始めた。加減を知らない不器用な手付きだった。ぐいぐいと力任せに何度も拭われてリョウは顔を顰めつつ降参するように両手を上げた。

「ユリム、ありがと、もういいよ。多分乾いているから落ちないだろうし、後でちゃんと洗うから」

 赤くなるばかりで汚れの落ちない頬を見て、ユリムは何も言わずに薄らと染みの付いた手拭をしまった。

 体をすり寄せて来たイフィの柔らかな毛並みを撫でながら、リョウはいまだ怖い顔をしたままのユリムに微笑んだ。

「これからまた診療所に戻るから、イフィと先に宿舎に帰ってて。それからルスランにトレヴァルの所にいると伝えてもらえる? 多分、ずっとあっちで付きっきりになるだろうから」

 今夜は宿舎に戻ることは出来ないだろう。その言葉にユリムは目を眇めると睨むようにリョウを見返した。

「俺も共に行く。人手が要るだろう?」

「え、でも」

 治療院ではどんな惨状が広がっているか分からない。リョウは躊躇いを見せたが、ユリムは全く気に留めなかった。

「構わない」

 一人決めてしまったユリムにリョウは苦笑した。

「ありがとう。じゃぁあっちに連絡を入れないとね」

「ああ、ならば問題ない」

 そう言ってユリムが指示した方向には、見覚えのある制服姿が垣間見えた。焦点が合うようにおぼろげな像がはっきりとする。アッカとサラトフだ。特徴的な柔らかい赤毛はすぐに見分けがついた。

 先程の騒ぎは第七の方にも届いていたのだろう。状況把握に詰所から兵士を派遣したようだ。


「まとまったようだな」

 既に立ち去ったかと思われた薬師がまだそこにいてこちらを見ていた。

「ええ」

 リョウが妙な気恥かしさを誤魔化すように微笑めば、男も口の角を僅かに上げた。

「ではこれで」

 軽く片手を上げて背を向けた薬師の姿は、港湾組合の事務所と倉庫の方へ遠ざかって行った。その時、リョウは男の名を訊いていないことに気付いたが、同じミール所属の薬師であれば、後で顔を合わせることもあるだろうと思い直した。

「リョウ?」

 訝しむように低く名を呼ばれて、リョウは静かに(かぶり)を振った。

「さ、これからもう一仕事」

 自らを鼓舞するように気合を入れる。

「お望み通り、ユリムもこき使ってあげるから」

 半ば冗談めかして挑戦的に振り返ったリョウにユリムは「ふん」と尊大な笑みを浮かべた。


 それから、岸壁付近に集まる男たちの方へ向かうと自警団のセヴァートに作業終了を報告した。そして近くにいたアッカとサラトフの二人にも治療院へ向かう旨を告げた。男たちはリョウの酷い有り様を見ても誰も何も言わなかった。いや、そこにいる男たちは皆、似たり寄ったりの姿だった。

「リョウ」

 挨拶をして背を向けた所でセヴァートの声がした。

「恩に着る」

 たった一言。だが、十分すぎる労わりの言葉に心からの笑みを返した。

「いいえ」

 彼らにとっても苦しく長い夜になるだろう。炬火の如き火柱が、閉じた瞼の裏にさえ亡霊のように浮かび上がる。


 こうしてリョウ、ユリム、そしてイフィの二人と一頭は、遠く窓辺から柔らかな明かりが漏れる治療院を目指した。


*冒頭で引用したのは、詩人ペトラルカの言葉です。15だったかしら戦争でヨーロッパが初めて火器に遭遇した際、その被害のおぞましさを見て書き残したもの。10世紀に中国で発見(発明され)モンゴルの遠征と共にイスラムやヨーロッパ圏に伝わった火薬(火器)の歴史を振り返りつつ。


ご無沙汰いたしております。なんとか月一ペースは死守できたと思ったものの、Messenger series を始めてもうすぐ3年を迎える…にも関わらず、迂闊にも小話の一つも思いついていないkagonosuke でございます。


これまで本作品にお付き合いくださいました寛大なる読者のみなさまに心より感謝の意を込めて、厚く御礼申し上げます。本当にいつもありがとうございます。

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