8)柔は剛を制す
引き続きもう一話。
―実は、折り入ってご相談したいことがありましてな。
会場を一望できるテラスに面した一室で、新しい酒を客人の盃に注ぎながらミールの長イステンが口元を緩めた。
開け放たれた窓からは潮風に乗って客たちのざわめきや心躍る陽気な楽の音が聞こえてくる。塩気を含んだ磯の香りがまとわりつくように頬を撫で、鼻を塞ぐようだった。北の辺境とは異なる湿り気を帯びた腐敗臭にも似た香りは、この街がスタルゴラドの他の地域とは違うことを強烈に意識させた。
この独特な匂いには慣れそうにない。ユルスナールは、心の中で独りごちた。いや、慣れる必要などないのかもしれない。自分が何者であるかを常に意識する為に戒めはあった方がいい。
用意が整った所で、なみなみと満たされた杯を掲げ、「友好のために」なとどいう当たり障りのない社交辞令の文句を口にしてから、しきたりに則り一息に飲み干す。期せずしてふくよかな甘みが喉から鼻に抜け、まろやかな味わいに舌が喜びで痺れた。
「これは…美味い」
ユルスナールが素直な驚きを口にすれば、ミールの長のたっぷりとした髭がもぞりと動いた。隠れた口角が上がったようだ。
「これはあの山の上にある蒸留所で作られている逸品でしてな」
手にした酒瓶の野暮ったい標章を愛でながら、長が親指を天へと向けた。続いて、この酒が【イ・アフルム】と呼ばれる小さな酒蔵で作られているもので、生産量に限りがあり市場には出回ることがない隠れた名品だと明かした。
「では、このような晴れがましい席にはもってこいのものというわけですね。我々は非常に運がいい」
同じく初めて口にした美酒の味わいを舌の上で転がしながらシーリスがおっとりと微笑んだ。
この広い室内には、応接用の長椅子と一人がけ用の椅子がゆったりとした間隔で配置されていた。騎士団の男たち3人とミールの関係者4人の、合わせて7人がいても窮屈で息の詰まることはない。単に簡素だけでなくけばけばしい華美さもなく、落ち着いた色合いの調度類は、目の肥えたユルスナールから見ても趣味が良いと言えた。
この街の表通りはともすれば鮮やかで派手な色で溢れ、清楚や可憐さ、落ち着きとは無縁に思えた。それは、女たちがこぞって被る頭巾の色柄であったり、ジャラジャラと鳴る腕輪や首飾りであったり、大ぶりの耳飾りであったり。装飾品の輝きは、強い日差しの後押しを受けて時に眩しいくらいに明るく過剰で、つい反射的に目を逸らしたくなってしまうが、この室内は、王都の優美さとこの街の熟成された艶やかさが上手く混ざり合っている気がした。
戸口から見て奥まった場所に置かれた長椅子にユルスナールとシーリスが座り、その後ろにアスレイが起立して控えた。対角線上にミールの長、その隣に主に対王都渉外担当の男が座り、テーブルを挟んで正面に市場関係を取り締まる男が座った。
ユルスナールはもう一人の窓辺に立つ男へ目を向けた。鮮やかな青い上下が丈夫な輪郭を粗く象る、自警団の長だと名乗った男だ。先だってからずっと顰め面で機嫌の悪さを隠そうともしない。まるで森で縄張りを侵されて威嚇する熊か狼のようだ。
その苛立ちに尖った視線がゆっくりと室内を振り返り、テーブルの周囲を一舐めしたかと思うとミールの長で止まる。そこで更に男の眉間に皺が寄った。その態度はある意味あからさまだ。自警団の男は、ミールの長の血縁、もっと言ってしまえば血を分けた息子だと聞いた。親子だからこそ相容れないものがあるのか。何らかの確執がありそうだ。
ミールの長は、見るからにどっしりとした貫禄ある男だった。なめした革の長衣が武骨に見えるが、醸し出される全体的な雰囲気は、その腰回りを巡る太い帯に施された細かな刺繍のように繊細で品もある。口数は多い方ではないようだが、人当たりがよく社交性も持ち合せていた。
長い年月をかけて川で揉まれながら表面が滑らかになった巨石のようだった。角が取れて滑りは良くなったが、その当たりの良さを勘違いしてはいけない。普通の水流ではこの巨石を動かすことは不可能だ。
この巨大な貿易都市を動かし、利害関係を持つ数多もの商人たちを束ねる手腕を持った男。今後、この街で活動を続けるには、舵取りを担うミールの動向を把握し、良好な関係を築いて行けるかが鍵となる。前任者の第六師団も、その前の第五師団も、ミールとの関係構築・改善・維持にかなり心を砕いたと伝わっているが、彼らは必ずしも互いに同等の信頼を得る良好な関係を保持するには至らなかったようだ。
ユルスナールは王都にあるシビリークス本邸で、父と二人の兄たちへ異動の正式な報告を入れた夜のことを思い出した。
―あそこは商人の街だ。彼らが長年に渡り築き上げて来た独自の文化と規則がある。ここでの常識など通用しないだろう。くれぐれも足元を掬われぬようにな。
長兄ロシニョールの言葉に父親のファーガスが続く。
―だが、構え過ぎる必要もない。相手を知り、互いの妥協点、着地点を見つけ出せばよい。まぁ、お前には優秀な部下がいる。
―それから、頼りになる術師もね。
最後、次兄のケリーガルが明るく請け負った。
父と二人の兄たちも末弟がホールムスクに派遣される意義とその役割を重く受け止めていた。父と別れ際に交わした握手。その時の掌の感覚をユルスナールはいまだに覚えている。
―お前には守るべきものがある。それを忘れなければよい。
交わされる言葉は少なくとも、その一言一言には重みがあった。父の経験と人生によって裏打ちされた重みだ。その重みをユルスナールは密かに噛み締めた。妻を得て、父や兄たちに一歩近づいたと思った矢先、大きく開いている実際の距離に改めて気が付かされる。まだまだ父たちの背中は遠く、この追いかけっこの距離はは中々に縮まりそうにない。
ユルスナールの目から見て、ミールの長は最初から節度ある友好的な態度であった。まぁ当然、本音を隠して互いに相手の出方と腹を探り合う状態であるが、前回、初めて赴任の挨拶をした際には、悪い印象を持たなかった。第六師団前任者 のバルトークは、長のことを「何百年も前から立つ、かつての栄光を詳細に刻んだ石碑か記念碑のようだ」と評していたが―言いたいことは分からなくもないが―やはり他人の印象など当てにするものではない。
現時点で、ミールの長に対して私情はない。偏見に繋がるような情報も。共に仕事が出来る相手かどうか、信を置くに足る男であるかどうか、更にはスタルゴラドにとって利となるか害となるか、その辺りのことを慎重に見極めていかなければならない。
今回は、それを自分の目で確かめるまたとない機会だった。
天候や景気、王都の街の様子など、緩衝材となるような他愛ない話題で口慣らしをした後、長が前触れもなく切り込んできた。
「実は、貴公らをこちらにお呼びしたのは他でもない、御相談したいことがございましてな」
口調は世間話をするような淡々としたものであったが、長の瞳が鋭さを増した。隣に座る渉外担当の男も市場関係を取り締まる男も静かに体をこちらに向け、姿勢を正した。場の空気が引き締まる。
―始まった。ユルスナールの頭の中で小さな鐘の音が鳴り響いた。
手にしたグラスをゆっくりと回し、立ち上るふくよかな芳香を吸いこんでから、ユルスナールは徐にじっとこちらを見つめ続ける長を見返した。
「相談、ですか」
隣に座るシーリスであれば、ここで若干の驚きを声音に練り込んで余裕たっぷりに微笑んで見せるのであろうが、生憎ユルスナールにはそこまで愛想の良さはない。代わりに少し首を傾げて、相手の発言の重さを敢えて軽く流してみた。
長の表情は変わらない。
その横で、隣に座る渉外の男が軽く身を乗り出した。
「この街の現時点での懸案事項に関しては、どの程度御存じですか?」
もし、今、帳面の類を手にしていれば尤もらしく頁を繰っていたであろう事務的でそつのない問い掛けに、
「前任者からの引き継ぎ事項であれば、全て心得ておりますが」
具体的なことは伏せたままシーリスが返答した。
二人の後ろに立ち、護衛のように控えているアスレイは、お得意の端正な澄まし顔で身じろぎ一つしない。均衡はいまだ保たれたまま。
盃の中身を軽く啜って、長が口元に苦い笑みのようなものを浮かべた。
「実は、最近、少々気になることが出て参りましてな」
相談。気になること―探りを入れるように辺縁をそろりそろりと踏みながら、相手は中々核心に入ろうとしない。何を恐れているのか、それともこちらから引き出したい情報があるのか。もしくはこちらの力量を試しているのか。
ユルスナールは目線を上げた。
「他国より強引な取引を持ちかけられましたか?」
貿易で干渉が入ったのだろうか。ホールムスクは基本的に自治を敷き、商取引に関してはミールにかなりの裁量権が与えられているが、政治的理由からスタルゴラド中枢部より、取引制限や禁止がかけられている項目や相手国がある。そして、ホールムスクはスタルゴラドの一都市である為、外交が絡んだ政治的問題の最終決定権は、王都にある。
「いえ、そのようなことではなく」
渉外担当の微笑みは完全な作りものに見えた。
「では、重大な犯罪行為が明るみに出たとか。たとえば、偽造通貨が出てきた…とか?」
着任以降、騎士団内部で秘密裏に集めていた街中の噂話の中に偽手形が出たという話があった。それと具体的な所までは分からなかったが、公的な許可証や文書の類が、偽造されているらしいという話も。
「それとも、密貿易や不審船の出没…といった所でしょうか?」
小出しに手札をちらつかせ、相手の反応を待ったユルスナールにミールの長は動じることなく微笑んだ。
「いえ、貿易関係のことではありませんでな」
そう言って、手にした盃をテーブルに置く。
窓辺から一陣の風が吹き込み、身じろぎしない男たちの髪を悪戯に揺らしていった。
その方角から声がした。
「この街の治安に関することです」
じっと窓辺に佇んでいた自警団の長が、男たちの方に歩み寄り、ユルスナールから見て斜交いにある一人がけの椅子に座った。床を踏み鳴らす足音からして、男の所作はややぞんざいで、上着の裾を踏まぬようにと弾く手付きに募る苛立ちが表れていた。この部屋は始めから人払いをしているので給士の類はいない。それは裏を返せば、この会談の重要性を暗示している。
シーリスは、自然な所作でテーブルに置いてあった酒瓶に手を伸ばすと目線でミールの長の了承を得てから、空になっていたエンベルのグラスとイステンのグラスに酒を注いだ。こういう気働きが出来るのはシーリスの利点だ。
「これはすまない」
「いえ、お気遣いなく」
シーリスは鷹揚に微笑むと自分とユルスナールのグラスにもちゃっかり注ぎ足した。舌の肥えたシーリスもこの酒は気に入ったようだ。
「では、お話しを伺いましょうか」
騎士団側の視線は、自警団の長へと向けられた。
ユルスナールの脳裏には、自分の妻によく似た色彩と顔立ちを持つ年若い客人の姿が浮かんだ。あの少年に妙に肩入れするお人好し過ぎる妻の行動を苦々しく思いながらも、ここで何らかの手がかり、もしくは関連情報が掴めるかも知れない。
「治安というと、性質の悪い窃盗団、盗賊、もしくは海賊の類が出没しているとか、その辺りのことですか?」
誇り高い自警団だけでは解決の難しい事例をざっと頭に思い浮かべる。専ら彼らの務めである「市民の生活を脅かす」という点では、殺人などの凶悪事件の方かもしれない。
焦れている訳でもなく、静かに、そして的確に問いを重ねる騎士団側に対し、ミール側は沈黙を守ったまま。向こうから話を切り出してきたというのに、この歯切れの悪さは何を意味するのだろう。
「実は、何と言いますか、誠にお恥ずかしいお話しなんですが」
ミールの長は、他の二人に目配せをしてから自警団のエンベルを見た。そこで息子に話を進めるよう信号を送ったようだ。
エンベルは背凭れに体を預けるとまだ真新しいのか、黒光りする長靴の脚を組替えた。
「ここ二月余りのことなんですが、子供の行方不明事件が立て続けに起きているのです」
自警団の長は空を睨みつけるように眉間に皺を寄せていた。
「かどわかし…ということですか?」
ユルスナールは隣のシーリスと素早く視線を交差させた。
「何か…気になることでもございましたか?」
渉外担当の男が、片方の眉を跳ね上げた。先程からずっと騎士団側の反応を寸分も逃さないようにと落ち着きある外見を隠れ蓑に強かにこちらを観察していた。
「いえ」
騎士団内で保護している異国の少年の話をする必要はない。
「身代金目当ての誘拐でしょうか?」
シーリスがそつなく話を元の流れに戻す。
騎士団の詰所の方には類似案件の報告や申し出は上がっていなかった。ただ市民は専ら自警団の方を頼るので、この手の話は騎士団側に届いていなくてもおかしくはない。
「行方不明になった子供たちの年頃は?」
「様々ですね。乳離れをしたような幼子から十を過ぎた辺りの子まで」
―あくまでも届け出があった限りの情報ですが。
「失踪したとされる場所は?」
「特に決まった地区に集中するということもなく、点々と突発的ですらありますね」
「其々の案件に関連性はないと?」
「現時点ではなんとも」
「なるほど」
ユルスナールは、再びシーリスと顔を見交わせた。
「何かお心当たりでも?」
「いえ、単に小耳に挟んだ噂の類に過ぎませんが」
表面上、勿体ぶって言葉を濁せば、
「ほう? それはどのようなもので?」
椅子の肘かけに凭れていたエンベルが興味深そうに目を細めた。
着任以来、街の様子をもう一月以上も前からブコバルとロッソ、その他数名の兵士に探索させていた。表からは見えてこないこの裏の顔、一般庶民の暮らしぶりや犯罪の温床となりそうな注意地点を独自に探る為である。ブコバルとロッソは身をやつし、主に傭兵稼業を斡旋する口入屋で仕事を請け負い、場末の酒場やならず者の溜まり場などにも顔を出している。
「【白い悪魔が現れた】…そんな話が街中で囁かれていたとか、酒場の与太話のようなものですが」
さらりと口にしたシーリスの言葉にエンベルが険しい顔をした。
「単なる猟奇的な事件か、それとも組織的なものか。そちらではどのように見ていますか?」
ユルスナールの問い掛けにミールの長は重く息を吐いた。その視線は斜交いに座る息子を見ている。
「エンベル」
「現時点ではどちらの可能性も捨て切れていません」
自警団の長は、目を伏せて忌々しげに吐き捨てると口を噤んだ。
八方ふさがりということか。この街を知りつくした男たちが恥を忍んで部外者に助力を求めるというのは余程のことだろう。ここで求められているのは、広い視野に基づいた俯瞰的な他者の視点。木の枝ぶりと葉の形よりも森とその周囲全体の状況だ。
「人身売買か」
ユルスナールが独りごちた。
「スタルゴラドでは人身売買は禁じられています」
確認するまでもないがと前置きしてシーリスが口を開いた。
「ええ。それはもう、重々承知しております」
「こちらでもそのような慣習はないと聞いていますが」
「さようでございます」
スタルゴラドが位置するエルドシア大陸周辺では奴隷制を公に認めている国はないが、地域によっては強固な身分制度が身分の低い者を安価で手軽な労働力として縛りつけている例が多々ある。大地主が抱える小作人や使用人は、奴隷と何が違うのか。給金をもらってはいるがその労働力の対価が不当に低く抑えられている場合もある。働いても働いても貧しさから逃れられない負の連鎖が、世代を越えて受け継がれてしまう事例もある。法的に禁止されていても、抜け道はいくらでもある。また花街のような場所は、糊口をしのぐために売られた娘や子供が集まる吹きだまりでもある。そしてどの国にも、どの時代にも、純粋に需要と供給が合致した上で成り立つ非合法の闇市場がある。
ホールムスクは昔から自由を謳い、隷属を嫌う民だ。奴隷は彼らの精神に反している。だから余計にそのような闇取引がある事実を表向きには認めたくはないのかもしれない。とりわけミールとの関連が表沙汰になったとしたら信用低下に及ぼす影響は計り知れない。
このような話を騎士団側に持ちかけるということは、その可能性も選択肢の一つとして考えているのだろう。身内の膿を出すのに外部の手を使おうというのか。
「仮に売買目的で攫われたとすると、その輸送先と経路は?」
この街が外部と繋がる南北二本の街道は、特別警備が行き届いている訳ではない。精々街を出る門の所で積み荷の出入りを検分するくらいである。船の場合も積み荷が申請分と合致しているかの確認が行われるが、調査は厳格なものではない。しかも河川を行き来する大小の輸送船は素通りだ。
「手詰まりに…なりましたか」
核心を突いた指摘にエンベルの顔が歪んだ。
「まぁ、そういうことになりますかな」
硬い表情の息子とは逆にイステンは飄々としていた。
「そこで御相談なんですが、この件で貴殿のお力をお借り出来たらと思いましてな」
―いかがでございましょう。
ミールの長直々の協力要請。騎士団側としてはこの一件を足がかりに出来るのならば願ったり叶ったり。ただ、向こうに足を掬われぬように心しなくてはならない。
ユルスナールは姿勢を正すと真摯な態度でミールの長に向き合った。隣のシーリスも同じように身を引き締める。
「分かりました。お役に立てるかは分かりませんが、出来る限りのことは致しましょう。この街の安全は我々にとっても重要ですから」
協力は惜しまない。快諾した騎士団長に斜交いに座る自警団長は、口を引き結んだまま、眉間に皺を寄せていたが、ミールの長はほっとしたように目元を和らげた。
「それは心強い。詳しい状況は後日そこのエンベルより報告させましょう。よいな?」
念を押す父親の視線に息子は小さく息を吐き出した。
「では、話がまとまった所で乾杯と行きますか」
渉外担当の男が心得たように酒瓶を手に銘々のグラスに注いでゆく。
再び、盃を手にした男たちは香り豊かな酒を目線の高さで揺らした。
「では一日も早くこの件が解決することを願って」
―乾杯。
唱和の後、其々が一息にグラスを呷る。喉を通り、胃の腑を焼く芳醇な甘さ。それが毒となるか、薬となるかは今後の心がけ次第。苦さを飲み込んで、このとびきり美味い酒に酔ってみるのも悪くはあるまい。
こうして自警団と騎士団は目下の懸案事項に対して共に協力をすることになった。
***
外の空気を吸おうと宴会場に足を向けた所で、ユルスナールの隣にトルマーチと名乗った渉外担当の男が近寄って来た。
「どうです? お気に召した者がおりましたら、ご紹介いたしますよ」
男が目線で示した方角には、ちらちらとこちらを窺う着飾った女たちの姿があった。ユルスナールの視線を捕らえた女たちは、流し目をくれながら妖艶に微笑み返す。
「こちらにもちょうどよい空き部屋はございますし、お帰りの際に御一緒することもできます。御入用の際はどうぞお気兼ねなくお申し出ください」
口直しに熟れた果実を宛がおうとでも言うのだろう。これも彼らなりの【もてなし】なのか。意味深な囁きを内心苦々しく思いながらもユルスナールは、何食わぬ顔で男を横目に見た。
「随分と用意がいいですね」
口角をそっと上げる。
「偶にはお愉しみも必要です。変わった味を試してみるのも一興かと」
なるほど。このような女の斡旋もここでは日常茶飯事なのだろう。ユルスナールが既婚者であることはこの男も分かっている。ここでは風紀が緩く妻帯者にも遊びの余地が残されているとは耳にしていた。甲斐性があれば、複数の妻を迎えることにも、愛人を囲うことにも寛容だと。
「ふむ」
ユルスナールは考える素振りを見せた。断るにも相手の機嫌を損ねないように立ち回らなくてはならない。
さて、どうしたものか。
その時、視界の中、立ち並んだ女たちの向こうにとある女の姿が目に入った。ヴァーングリアの衣装を身に付けた小柄な女。
酷薄そうな薄い唇がたちまち笑みに象られる。
「ああ、では、かのものに」
「どの娘ですか?」
うっそりと目を細めたトルマーチにユルスナールも人を食ったように笑った。
「ご心配なく、自分で声をかけますよ」
―こういうことには慣れているんです。
飄々と嘯いたユルスナールに男も笑みを深めた。
「これはおみそれいたしました」
―どうぞ楽しいひとときを。
歩き出したユルスナールの腰の辺りに軽く触れて、首尾よく相手が提案を飲んだことに気を良くした渉外の男。騙されたのはどちらの方か。小さな罠はあちこちに張り巡らされている。それを敢えて踏んで見せるのも一興だろう。
男が近づいて来ることに気が付いた女たちが、ざわざわと色めき立った。そそくさとおくれ毛を撫で付ける者、選ばれることを期待してとびきりの笑みを浮かべる者。熱のこもった数多もの眼差しを掻い潜り、ユルスナールは目当ての女の背後に忍び寄った。
「少しよろしいですか、お嬢さん?」
細い腰に腕を回して大胆にも引き寄せた。その瞬間、素通りされた女たちが歯噛みしつつ興味を失くしたように散り散りになる。
「ル…ス!」
案の定、驚いた相手の声を封じ込め、自分に合わせるように目配せする。満足そうなトルマーチの顔を目の端で確認するとユルスナールは高い庭木が影を作る中にぽつんと佇む東屋の方へ足を向けた。
「何を企んでいるの?」
東屋のベンチに身を寄せ合って、リョウはクスクスと笑った。
「何も?」
「うそばっかり」
避けた薄布の影で長い指が柔らかな頬を擽り、唇を撫でる。ユルスナールはリョウの体を引き寄せると膝の上に横抱きにした。
「そうだな」
ユルスナールは悪戯っぽい光りを湛えた黒い瞳を覗きこんだ。白いゆったりとしたズボンを穿いた膝上をあやすように撫でさする。もう片方の手は腰の緩やかな曲線に沿って巻かれた赤い布の辺りを彷徨っていた。
「好きな花を摘んでくれと言われたから、期待に応えてみようかと思っただけだが?」
「…まぁ……それって……」
余りにも下世話な話題に目を丸くする。何食わぬ顔をして小首を傾げた夫に妻は疑惑の目を向けた。
「ふーん? では、お望み通り、偶には違う花の蜜を集めてみるのもいいんじゃないですか? 同じ花ばかりでは飽きたでしょう?」
口では冷たく突き放しながらもその手は優しく男の耳朶と戯れる。挑戦的に見上げた瞳をユルスナールは湧き上がるおかしさを堪えながら見つめ返した。
「いや、いつもの味の方がいい」
そう囁くとその味覚を確かめるように唇を寄せた。
慣れ親しんだ甘さを存分に味わった所で、
「冒険は…してみたくないの? 本当はしてみたいって思ってるんでしょう?」
―いいのよ、正直に白状しても。怒らないから。
唆す台詞をユルスナールはさらりとかわした。
「気が進まないな」
「そうなの?」
胸に一抹の不安を植え付けられた妻は、少しひねくれていた。
「冒険? そんなものは向こうみずな子供のすることだ。俺には向いていない」
「向いているとか向いていないとか、そういう問題?」
「そうだろう? 少なくとも俺には不要だ」
「……まぁ」
堂々と言い放った夫に妻が笑った。
「その自信はどこから来るの?」
「自信? 自分の心に正直なだけだ」
そこでユルスナールは、むっとしたように片方の眉毛を吊り上げた。
「それよりもリョウ、さっきからやけに突っかかるな。一体、何が気に食わないんだ? 誰かに妙なことを吹き込まれたのか? まるで俺の気が多いみたいじゃないか」
心外だとばかりに目を眇めた夫に妻はバツが悪そうに目を伏せた。
「……だって」
自分でもみっともないことをしているとは思う。
「ん?」
宥めるように背を撫で下ろされてリョウは白状した。
「ずっとお近づきになりたい女の人たちが数珠なりになっていたじゃない。ひっきりなしに。ここの人たちは皆積極的だし…とても綺麗だし、どうしたら相手に好感を与えられるかを知っているみたいだし………」
「妬いたのか?」
リョウの体を引き寄せたユルスナールは上機嫌に言った。
「ち…違います」
「ほう? 嘘を吐くのか?」
「……知りません」
図星を指されたことが癪だったのか、目元を薄らと赤らめてリョウはそっぽを向いた。それでも夫の腕の中から離れようとはしない。
「では、もう少し確認が必要だな」
「確認?」
「ああ」
妻の不安は自分が吸い取って飲み込んでしまえばいい。重ねられた口付けは、すぐに深さを増し、覚えある疼きを二人の間に呼び醒ました。
そうして貪るように吐息を重ねていると。
「続きは、帰ってからにしましょうか」
小さな咳払いがして、弾かれたように顔を上げれば、そこには呆れ顔のシーリスが立っていた。
「主賓が会場にいないのでは話になりませんからね」
脅し混じりの笑顔であちらに戻るようにと諭された。
「ルスラン」
膝の上から飛び退いた妻は、苦笑いをして夫に手を伸ばした。
「やれやれ」
ユルスナールは、どこか快活に肩を竦めると妻の手を取り、悪びれることなく厳しい友人の背中を追いかけた。




