5)青き涙
大変ご無沙汰いたしております。GWを挿みまして随分と間が空いてしまいましたが、前回の続きになります。それではどうぞ。
「それで―でございますが。御予算の方はいかほどに?」
商売人らしくそつのない間合いで対面に座る男が訊いた。真っ白な襟の上に乗った仮面のような顔も、唇が僅かに動くことで【人】としての時間を保っている。自然の陽光から隔離された地下室では、時の流れが渦を巻き、行き場を失くして歪む。
「値段などあってないようなものではないか」
一人掛けの椅子の背もたれに深く体を預けて、ひじ掛けの滑らかな曲線を掴んでいた指が、宙に舞う埃を弾くように遊ぶ。
商人の張りのある口元がゆっくりと弧を描いた。髭のない鋭角な顎の上に乗る山ヒルのように艶めいた唇の合間からちらりと覗いた歯が、やけに白く見えた。
「念の為…とでも申しておきましょうか。お客さまとは初めてのお取引でございますから、どのあたりのものをお望みなのかを心得ておきませんとお好みと合致したお品物を御紹介することが難しくなりますので。別に深い意味はございません」
男はそう言うと、発光石の明かりが届かない闇に紛れるように静かで停止した微笑みを浮かべた。
早い話がこの場で客を値踏みし、品定めをしているのだ。あぶく銭を掴んだ成り金がメッキ仕立ての名誉と歓心を買う為にその儲けを還元しているのか。それとも暇を持て余した生粋の趣味人が刺激を求めてまだ目にしたことのない珍妙で希少価値の高い品々を入手したいと思うのか。それとも、有り余る金をばら撒くように使うことでその存在意義を確かめているのか。いずれにせよ商人にとっては、顧客の出自、懐事情、そして何より大切なのは、その趣味を把握しておくことが、今後、良好な関係を築けるかどうかの鍵となる。
「そうだな。金に糸目を付けぬ―と言っても、こなたにとっては約束にはならないからな」
客は微かに口元に笑みらしきものを浮かべると肘かけからはみ出した指をちょいちょいと動かして合図を送った。
「あれを」
客人の右斜め後方に立ったまま物音立てずに控えていた付き人らしき者が、懐から小さな革袋を取り出し、それを主に渡す。主は紐を緩め、閉じていた袋を開き、そこから何かを一つ摘み出した。
「支払いは【これ】で充てようと思っていてな」
―問題なかろう?
手にした袋のずっしりとした重みを相手に見せ付けるように捧げ持ち、じゃりじゃりと言わせた。
「これは手付だ。取っておいてくれ」
客人が差し出したものは、ぼんやりと青白い照りを返す光りに見えた。商人はそれを受け取るとすぐに慣れた手付きで指の間に挟み、もう片方の空いた手でパチンと指を打ち鳴らして手元にあった発光石の補助灯を点け、その控え目な明かりの下に翳した。それから流れるような所作で懐から拡大鏡を取り出し、手にした品の表面を舐めるように検分した。
それは親指の爪程はある青い石だった。眩い光りを内に閉じ込めた神秘の雫。
簡単な鑑定を終えると商人は、満足そうに微笑んだ。
「素晴らしい。これはまさしく【王】でございますね。実に見事なものです」
次いで熱のこもった溜息を吐き出したのだが、それは年老いた冒険者がかつての苦難と栄光の日々を懐古するかのようでもあった。
「さすが、エルドシア随一とその名を轟かせた名声は、今も尚、健在でございますねぇ。ええ、本当に惚れ惚れするほどです」
内なる感嘆を伝える男の言葉に対し、客は同調することなく静かな微笑みを返しただけだった。と同時に、恐らく、それと同じ青い貴石が詰まっているであろうその重そうな革の小袋を男が【ズメイ】のような目付きで追っていたのを確認して、客人は内心ほくそ笑んだ。
「それで足りるか?」
不服ならばもう少し色を付けないでもない。
「もったいのうございます。もちろん、十分すぎるほどでございます」
商人は、うっとりとした面持ちで客から貰った純度の高いキコウ石【カローリ】に触れながら目を細めた。それから取り出したプラトーチクに包むと懐に入れた。
このちょっとした心付けは、相手を思いがけず喜ばせたようだった。早速鼻薬が効いたのか、これまで慇懃無礼を思わせる冷たさからは一転、態度が柔らかくなった。
どこからか山百合のような花の甘く重みのある香りが漂ってきた。それがこの男の衣に焚き染められた香の匂いなのか、先客の残り香がふとしたはずみに椅子の背凭れから浮き出てきたのか、それとも、この部屋のどこかに強い芳香を放つ生花が飾られているのかは、分からなかった。ただ客は、その闇にけぶる香りを鼻孔から吸い込んだ。
「お求めのものは、香炉でございましたね?」
男は壁際から伸びる房の付いた紐を軽く引いた。あの紐は壁の向こうの次の間辺りに通じていて、そちらの先端に付いた、例えば鈴のようなものが鳴る仕組みになっているのかもしれない。
すると隣室から同じように黒づくめの服を着た男が音もなく現れ、椅子に座る商人の傍に体を屈みこませた。男が何事かを囁く。それに小さな頷きが返されて。心得たように一礼した男は、再び音もなく去っていった。
道に大きく張り出した荷台の隙間を器用に抜けて、赤い台形の小さな帽子を頭に被った案内人の姿は、より狭い小路の向こうに消えた。さほど距離がある訳でもないのに、市場の喧騒から切り離され、冷たくしっとりとした静けさが通りに蓋をするように圧し掛かっていた。唯一の救いは、周りを囲む石壁の色が明るいことであろうか。ただ、それまで人や物で溢れ、すれ違うことすら難儀だった場所を見てきた後では、この人気のなさはある種異様で、全く別次元の空間に迷い込んでしまったかのような錯覚を起させた。
ユリムは、だらりと下げていた拳に力を入れた。腹の下を引き締める。力み過ぎることは良くないが、路地裏を不規則に吹きつけて来る悪戯な風に意識を攫われて、ばらばらに砕けそうなこの心と体を繋ぎ留めておく必要があった。
口を開く者はいなかった。ジリッジャリと乾いた土を踏むサンダルの音に不揃いな長靴のトスッ…タスッ…という音が混ざり合う。
途中で木箱の端に腰を下ろし白い煙をふかしている男の横を通り過ぎた。案内人の男が声をかけると真っ白な長い髭を生やした御老体がふぅーと煙を吐き出すことで答えた。
ユリムの国では煙草は専ら鼻で嗅ぐもので口から吸い込むものではない。今、世話になっている宿舎では兵士たちが煙草を飲む姿を見たことはなかった。それをリョウに尋ねてみれば、兵士たちは基本的に軍律で【煙草】を禁じられているそうだ。
ユリム自身は、成人男子の嗜みとして小さな煙草入れを持っていた。母からもらったあれは宿屋に残した荷物の中に入っていたから、きっと従者であったブラクティスが処分したのだろう。宿屋を引き払ったのもあの男だ。宿屋の主に不審を抱かれないよう代金を大目に包んだようである。
もうこの街を出立しただろうか。ああ。そうに違いない。なにせあれから三週間は過ぎている。厄介な【お荷物】も処分した。国に帰ればどうとでも言いくるめられるであろう。一度人買いの手に落ちた者がその境遇から逃れるのは容易ではない。二度と慣れ親しんだあの遥かなる山々の麓には戻れまい。そう判断したとて無理はない。
ユリムの瞳に暗い影が差した。そのまま再びとりとめのない深い幻影の波に攫われるかと思われた矢先、先を歩いていた案内人の男が足を止めた。
「こちらです」
男は上半身に斜めにかけた藤色の帯を探った。
「これをお持ちになって中の者にお渡しください」
案内人の小柄な老人は、ユリムの手に細長い木札のようなものを握らせると自分は店番があるからと言って、そそくさと市場に戻ってしまった。礼の言葉を口にするのを逸してしまったが、遠ざかる赤い帽子を頭に乗せた小さな背中に声をかけると、振り向くことはなかったが片手を軽く上げて指先を小さく振って見せた。
改めてユリムは案内された場所を見た。高い石壁が続く人気のない界隈、人がようやっとすれ違えるくらいの細い小路である。狭い間口にこれまた小さな木の扉がついていて、まるで子供用か、小人用の家に通じているかのようだ。潜り戸のような扉は古ぼけていて裏口のようでもある。看板や目印、札のようなものはなかった。いや、よく見ると潜り戸の取っ手の上辺りに渡された木札と同じ紋様のような印がついていた。うねうねと湾曲した、なにかの生き物の図柄だ。蜥蜴だろうか。蛇のようにも見えるが細長い胴体に羽のようなものが付いている。ユリムはそれが何なのか分からなかった。
それにしても静かな場所だった。ぽっかりと瑣末な日常から切り離された穴に入り込んでしまったかのようだ。このような所で訪いを入れても応える者があるのかと半信半疑であったが、小さな潜り戸を叩くと大人の目線と同じ高さ―ユリムにとっては気持ち見上げるくらいの所になる―に重い金属の板が上下に動く覗き窓があり、シュッと音を立てて開いた。
そこからぎょろりとした目玉が現れた。ユリムはそれまでそこに小窓があることに気がつかなかったので息を飲んだ。
―ジェトン。
くぐもった声が板に反響した。
じぇとん? 秘密の暗号かなにかだろうか。耳に入ってきた初めて聞く音に戸惑っていると、これまで後ろに控えていたはずのリョウが隣に並び、ユリムの耳元で囁いた。
「その木札を渡してください」
「あ、ああ」
ぎょろりとした目がユリムを射抜くように見て、たじろぎそうになったが急いでその隙間に先程案内人の男から渡された木札を差し入れた。ぶっきら棒な強さで札を奪われる。
やがて一度閉じられたその覗き窓が再び開いた。
―シュダー。
訛りのきつい潰れたような音だったが、「中に入れ」と言われたことは理解できた。潜り戸の施錠が解かれる音がする。ユリムはリョウに合図を送り、腰を折って順番にその小さな扉を潜った。
傍で待ち構えていたのは、ぎょろ目の男だった。見上げるほどに上背のある筋骨隆々の大男だ。マイカ一枚、剥き出しの二の腕にはこの街の男特有の彫物が施されている。そこに描かれていたのは美しい海の精のもの憂げな姿で、太い腕を象るには些か不釣り合いに思えなくない図柄が、何故かユリムの心を衝いた。男の両手首にはぐるぐると粗末な布が巻かれていて、その端には血の痕のような赤黒い染みがついていた。拳には重々しい鉄の輪がはまっていた。あれで殴られたら鼻の骨が折れるに違いない。
もしかしなくてもとんでもない所に足を踏み入れてしまったのではないだろうかと内心青くなったが、ここまで来たからには後には引けなかった。妙な具合に跳ね上がった鼓動には気がつかないふりをして唾を飲み込んだが、上手くいっていたかは分からない。
潜り戸を抜けた先には、真っ直ぐに伸びた細い通路があった。影が色濃く折り重なる乾いた空気の暗がりの中、見上げれば遥か上方に青みを増した空が歪に切り取られていた。
ユリムは急に自分が小人のように縮んでしまった気になった。先程の扉は魔術師が作った歪んだ空間への入り口で、その戸口の高さに合わせるように自分の背も半分以下になってしまったのではないかと。いつも地面を壁伝いに這いまわる鼠はきっとこんな気分に違いない。
見るからに腕っ節の強そうな門番らしき男の背中が、狭い通路の向こうに小さくなって行く。今度は自分が大きくなったのだろうか。そんな取りとめのない空想に囚われていると背中を軽く叩かれて、ユリムは我に返った。振り返ればリョウが怪訝そうな顔をしていた。分かっていると取り繕うように頷いてから、大股で男の後を追った。
角を一つ折れた所で再び扉が現れた。鉱石の採掘場の入口のように四方を木組で囲まれた先にぽっかりと闇が口を開けている。
「こちらへ」
門番の男の他に入り口には別の黒服を着た男が立っていた。暗い影に染みを落とすように真っ直ぐな棒が立つかのようだった。手には弱々しい光りを放つ発光石の明かりがあり、男の顔がやけに青白く浮いていた。
足元に気をつけるようにと形式的な注意の言葉を投げられてから長い階段を下りた。いや、もしかしたら、それはほんの短い間であったのかもしれない。奪われた視界が空間認識を歪ませる。視覚が利かない代わりに聴覚と触覚が冴え、すぐ後ろで同じく慎重に足を運ぶリョウの息使いが耳元にまとわりついた。階段を下りきると足元に等間隔で埋め込まれた発光石の淡い光が、ぼんやりと前を行く人影と刷き慣れない長靴を照らした。
闇の中を泳ぐように進む。両足にかかる自重がふわりと軽くなったかのような不思議な気分を味わっているとキィと軋むような音がして、気がつけば、ある一室に通されていた。
「こちらです」
すっと目の前に手を翳された。その先、群青色の暗がりの中、ぼんやりと浮かぶ調度類の輪郭が目に入る。すると客人の訪れを祝福するように、朝焼けの東の空が白むが如くじわじわと室内が明るくなった。そうして夜明け頃と同じ色合いになったところで景色は落ち着いた。
ユリムは、その時、それまで無意識に詰めていた息を吐き出した。反動で肺に一気に空気が入り、胸骨が膨らんだ。視界の隅に自分と同じ黒髪があることに密かに安堵した。
朝焼けに似たひんやりとした紫色を帯びた明るさの中で、気がつけば広い室内に立っていた。
「ようこそお越しくださいました」
若々しい声がした後、物陰から典雅な物腰の男が現れてユリムを驚かせた。気配を全く感じなかったからだ。武人としての素養はなかったが基本的な訓練は受けていたし、昔から人の気配には敏感な所があると自負していた。それなのにそこに人がいたことに気が付けなかった。まるで亡霊が瞬時に実体を持ったかのようだ。
ユリムの故郷には、死者と対話をする―と言われている―神官がいた。天の声、もしくはみえざる者の声を聴くことができる特殊能力者で、この世とあの世は繋がっていて、限られた者、許された者のみが、その両者の交わりの仲介人として立つことが出来ると言われていた。その技は、専ら占いや儀式の中で受け継がれていた。だが、勿論ユリムにそのような能力はない。
「どうぞこちらへ」
目線で椅子を示されて、ユリムは背後にいるリョウに目配せし、一人掛けの椅子に腰を下ろした。柔らかい上等な椅子だった。リョウはその右後方にそっと立った。自分一人が座ることを心苦しく思わないでもなかったが、これは事前に決めていたことだ。ここでは一芝居打たなければならなかったから。この日、ユリムがリョウから借りた上等な衣服と長靴を身に着けていたのもその為だ。そして恩人を使用人に見立てて顎で使う。これは両者納得づくのことで芝居であると分かっていながらも、腹の中では妙に咎めて仕方がない―と言ったら、今更なにを馬鹿なことをと笑われるだろうか。
いや、今そのようなことはいいのだ。目の前のことに集中しろともう一人の堅実で堅物な自分が窘めるように囁いた。
どうやらここが第三の取次地点らしい。市場の窓口から数えて潜り戸を経て辿りついたこの場所が、目的地まであと幾つの関門を残しているのかと考えて思わず溜息を吐きたい気分になるが、焦ってはいけない。ここは堂々と構えて大人の余裕を見せなくては。そうでないと商人たちの思惑にはまりこんでしまう。
夜明けに似た清々しい明るさの室内には、紫色の明かりが白い壁を照らしていた。黄昏時の橙色の柔らかい明かりでもよかったであろうにと思わないでもないが、それは部外者のユリムが口を挟むようなことではない。この部屋そのものの【黒さ】と隠すためにあえて【清々しい】色で均衡を保とうとしているのかも知れない。
小さな応接用の卓を挟んで対面に座った男は若々しかった。入り口で案内に立った男と同じ黒づくめの服を着ていて、シャツの襟の白さが妙に突出して作り物のように見えた。
男は頭蓋骨の形に沿って明るい色合いの髪がへばり付いている秀でた額の持ち主だった。柔らかな面差しと佇まいは、商人というよりも学者のようにも思えたが、その第一印象は口を開いた時点で脆くも崩れ去った。
「こちらの御利用は初めてでございますね?」
自信に満ちた滑らかな声は、そのまろやかさに反してユリムの肌を粟立たせた。
初めて相対する者同士の当たり障りのない儀礼から始まる。それから、ユリムはこの男―以後は【古物商】と呼ぶことにしよう―からの問いに淡々と答えていった。もちろん、相手との間合いを探りながら。
紹介者のことを訊かれたのでミールからだとだけ答えた。鉱石組合の長フラーケの名を出すのは憚られた。古物商の手には小さな木札が握られていた。ユリムが赤い帽子の仲介人の男に渡されて、潜り戸の所で差し出したものだ。あの小さな一枚にどれだけの意味が込められているのだろうか。ふとそのようなことが頭を過った。
「さっそくでございますが。どのようなものをお探しですか?」
その質問にユリムは具体的に語ることをせず、外堀から埋めていった。ここからこの古物商との駆け引きが始まるのだ。
「ああ、その前に。不躾を承知でお尋ね致しますが、お客さまはサリダルムンドの方でいらっしゃいますね?」
ユリムは小さく首肯した。古物商はユリムのその特徴的な外見からそう判断したのだろう。必要以上の情報を相手に与える必要はなかった。
「それはそれは。遠路遥々ようこそお越しくださいました」
「いや。偶々だ。旅の途中、面白い噂を耳にしたものでな」
この場所が目当てであったわけでないことを伝える。
「おや、噂ですか。それはどのようなものでしょうか。差し支えなければお教えいただきたいのですが」
薄く笑みを浮かべた古物商にユリムも勿体ぶった微笑みで返した。
「なに。大したことではない。ここの評判が各地に轟いているということだ。今更聞いても陳腐なものだと思うぞ」
ユリムは相手の出方を探るように声を低くした。
「だが、そうだな。たとえば、ここでは世にも珍しき品が流れてくる……とか。かの有名なラダの姫が流した泪とか、チュバシの王を破滅に追いやった呪いの腕環とか、セマルグルの炎の羽……とか」
「ふふふ。ご冗談を。あれらは全て夢の世界の話。伝説や神話の中の空想ではありませんか」
柔らかく、だが、軽く笑い飛ばした古物商にユリムはこう言った。
「だが、神話は真実の欠片を宿すものだ。歴史がその支配者の意向で形を変えるのとは対照に」
「ええ。そういうこともございましょうね。ですが、為政者によって神話そのものが作り変えられてしまうこともあるでしょう」
そこで古物商は表情を戻すとユリムを真っ直ぐに見た。
「もしや貴国に縁のものをお探しですか?」
すっと差し挿まれた言葉をユリムは曖昧な微笑みでかわした。核心に繋がる情報をここで与えてはならない。
「そうだな。別に拘るつもりはないが、原材料やその過程を考えるとそうなることになるやもしれない」
「それではやはり【青い涙】に連なるものをお探しなのですね?」
キコウ石のことをここでは別名【青い涙】と呼んだりする。
こういうものがあればの話だが…と前置きをしてから、ユリムは古物商に現時点で興味のある品の話をした。
「小さな…そうだな……掌に収まるくらいの香炉と使い勝手の良い短剣があれば…と以前から思っていてな」
客の話を聞き終えた古物商は、心得たように微笑むと徐に部屋の壁際からぶら下がった紐を引き、別室に控えている仲間を呼んだ。そして、やってきた男に指示を出すと自身も「少し失礼します」と断ってから席を立った。今、ユリムが語った曖昧すぎる希望に沿うようなものを用意してくれるようだ。
待っている間、別の黒服の男が、「お待たせする間のおしのぎに」と言って温かい茶と菓子を差し出した。
ユリムは喉の渇きを覚えていたが、お茶に手を伸ばすのを躊躇った。客としてこの秘密めいた店にやってきたには違いないが、相手をそこまで信用してもよいものか。だが、先程嗅がせた鼻薬もあるし、このお茶に異物を混ぜてどうこうするというほどの関係も成立していないはずだ。そう思い直すと一口だけ啜った。出された干菓子には手を付けなかった。
暫くして古物商が戻ってきた。手には黒い布が被せられた盆を持っている。はさみ箱のような平たく浅いもので、縦に収まりきらない飛び出した部分が凹凸を生み、上等な光沢ある布を押し上げていた。
「大変お待たせいたしました」
男はそう言って恭しく盆を卓の上に置くと手品師のような軽快な手付きで黒い上布を取り払った。
そこには香炉と思しき品が三つばかりと短剣が二振りあった。
「いかがでございましょう。お気に召してくださるものがあればよろしいのですが」
控え目な表現ながらも内心では恐らく自信たっぷりなのだろう。男の声の調子は確固たるものだった。
「さぁどうですか」と言わんばかりの初手に、だが、ユリムは怯まなかった。
「よろしいか」
実際に手に取ることの是非を確認してから、まず香炉の方から検分していった。一目見た時から、そこにユリムが探している品はなかった。だが、ここではその筋の趣味人らしく振る舞わなければ、次の一手へと続かない。
最初に手に取った品物は、金色の地金に植物の模様を絡ませた図柄だった。熟れた果実が赤い石や紫の貴石で表わされ、その周りに緑色の石で葉っぱが象られている。上蓋を取ってみると中には香を焚く小さな窪みと灰の受け皿があった。
「繊細で、実に手の込んだ仕事ぶりだ」
ユリムは感じ入るように溜息を漏らし、今度は別のものへ手を伸ばした。
こちらは銀色の地金に丸く象られた肖像画が三面に埋め込まれたものだった。描かれているのはふっくらとした頬の子供とたおやかな女性で、どこかの貴族や王族が私的に作らせたと思われる品だった。骨董なのかは分からないが、よく手入れがされている。持ち主はどうしてこの品を手放したのか。いや、このような幸せな家庭を想起させる品が、いかなる道を通って、この場にやって来たのか。中にはけっして褒められたものではない詐欺まがいの方法や明らかに非情な手段によって入手されたものもあるだろう。戦での略奪品か、盗人が換金のために流した盗品かもしれない。口の中にほろ苦いものが混じるが、そのようなことを考えたらきりがないのは確かだ。
最後の一つは、白金の地金で海の様子が描かれていた。港町に相応しい仕様だ。薄紅色の貝殻や星の形をした黄色や赤茶色の貴石が、網の目のように薄く張り巡らされた投網を模した細工に絡みつき、海藻を思わせる濃い緑の隙間に涼しげな魚たちが遊ぶ。蓋の取っ手には小さな船があしらわれていて、そこを摘んで中を開けるとマリャークたちの守り神でもあるペレプルートの紋様が描かれていた。
香炉は、どれも素晴らしい出来だった。趣味人の購買欲と蒐集欲を刺激して止まない品々だ。だが、ユリムが求めているものではなかった。
「……【青い涙】をあしらったものではないな」
ユリムは独りごちるように呟くと関心を短剣の方に向けた。衝撃を吸収する為に布が張られた盆の上に鎮座する二振りも、柄、鞘拵えに貴石や宝石を散りばめ、螺鈿細工の施された立派なものだった。儀式や公の場で帯の間に差し、華を添えるような装飾品だ。
―これも違う。
このような所で簡単に見つかるとは思ってもいなかったが、ユリムは落胆の息を吐いていた。もしかしたらという淡い期待があったからかもしれない。目裏に記憶の断片を掻き集め、今となってはおぼろげな輪郭を描き出す。
ユリムが知るあの一振りは、実に素朴な作りをしていた。無駄な装飾を省いた実用性重視のもので、ユリムはどうしてあのように美しさからはかけ離れたものが、神器としてあがめられているのかを不思議に思ったものだった。だが、今なら理解できそうな気がする。潔いまでの簡素な作りは刃物として完成していた。
「いかがにございましょう」
客の反応を少しでも逃すまいとするように古物商が目を細めた。
ユリムはどこか困ったような顔をして重々しく首を振った。
「申し訳ないが、私が求めているものはここにはないようだ」
「さようでございますか。これらのお品は、こちらでは非常に人気の高いものばかりなのですが」
それは明らかにユリムの美的感覚を試すような口ぶりでもあった。
「ここにあるのはどれも素晴らしい品だ。細工も非常に繊細で凝っていて、珍しい石をふんだんに使っている。どの品も軽く身代を潰してしまうくらいの値はするだろうな」
相手を持ち上げながらも軽く流せば、
「まぁ、中にはそのようなものもございましょう」
持ち込んだ品々の価値が正しく評価されたことに一先ず満足を覚えたのか、古物商は鷹揚に微笑みを返した。
そして少し切り口を変えてきた。
「このような装飾はお好みではありませんか?」
「好みかどうか……というのはこの際、問題ではない」
「おや、では条件が異なる……ということでしょうか?」
さり気なさを装いながらも慎重に言葉が継がれる。
「まぁな」
「では、もう少し詳しくお聞かせ願えませんか。もしかしたらお役に立てるかもしれません」
「そうだな。少なくとも【青い涙】が使われているものがよい」
ユリムの脳裏には、探し求める品の明確な形が浮かんでいたのだが、態と濁すように告げた。相手に求める品物を悟られてはならないからだ。ましてやこちらの焦燥や必死さを伝えてはならない。あくまでも道楽の一つのように見せなければならない。
「お色みとしてはどのようなものでしょう?」
「地金は、白金か銀の落ち着いたものが好ましいか」
「あまりお派手なものはお好みではないのですね?」
「ああ。まぁ、そうだ」
「さようでございますか」
どうだ。今度は客の期待に応えることが出来るかと半ば挑発するように相手を見据えれば、古物商は微笑みを絶やさぬまま、少し考える小首を傾げた。
その時、部屋の片隅に控えていた黒服の男がこの古物商に近づき、体を屈めて耳打ちした。囁きの内容は介する言語が異なるのか、客人たちには聞こえていない。
「ああ。そうでしたね」
古物商はそこでとってつけたように笑みを深くした。
「実はここだけの話なんですが」
そう言って姿勢正しく伸びた背筋を少しだけ前に屈める。このような場で恐らく数え切れないほど繰り返され、ぼろ布のように擦り切れた常套句を口にした。嘘の塊のようなその軽薄な台詞をいかに真実味たっぷりに重々しいものに変えられるかが鍵となる訳だが、ここの男たちはその才に長けていた。
ユリムは相手の調子に飲み込まれないように気を引き締めると、あえて関心のないふりをした。
「近々、サリダルムンドに縁の品が競売にかけられることになっております」
「ふむ」
趣味人の道楽息子を演じるようにえらそうな態度で片方の眉を跳ね上げたユリムに古物商は心持ち上体を前に傾けた。膝の上で両手を握り込むと自信満々の態度でたっぷりと時間をかけて客の反応を窺う。
「不定期で―要するにモノが集まり次第というわけなのですが―ここを御利用くださるお客さま限定の特別販売会が開かれるのです」
通常はお得意さまのみの招待となっているのだが、今回だけ特別にユリムをその招待客一覧の中に加えることもできなくはないが―どうするか。
「ほう?」
思いがけない誘いにユリムの声が少しだけ高くなったのを古物商は聞き逃さなかった。
「このようなことは滅多にございませんで、この機会を逃すのは実に惜しいかと」
「私に勧めるということは、その価値があると?」
「もちろんでございます。申すまでもなく、かの国は【青い涙】の一大産地。良質な素材を用いた一級品は各国の王室や有力者にも人気がありますから」
今も昔もサリダルムンドという冠は、大きな影響力を持つようだ。
「場所はここで開かれるのか?」
「いえいえ、まさか」
―御冗談を。
何がおかしいのか分からなかったが、古物商は口元に手を当てて喉の奥を鳴らした。
「然るべき場所をちゃんと別に御用意しております。詳細は内密でございますが、別途お送りする招待状に記入してございますので」
ユリムはそこで逡巡する素振りをした。この話に乗ってしまってよいものか。いちげんの客であったユリムをここまで親切丁寧に応対することを気味悪く思わないでもないが、金儲けの上手い商人たちは金払いが良ければそれでよしとする空気があるのも確かだ。先程の鼻薬が予想以上に効いているのかもしれない。新しい金蔓となりそうな相手をみすみす逃さないようにと。
さて、罠にかかったのはこちらか、それとも向こうか。
「いかがでございましょう?」
丁重な態度を崩さない黒服の男は、得体の知れないことに変わりはない。
「参加費のようなものはかかるのか?」
僅かの間の後、ユリムが静かに口を開いた。
「いえ。そのようなものは一切ございません」
古物商はきっぱりと否定した。そして釣れそうな魚を逃すまいと疑似餌を捲いた。
「今回はまたとないお品が出されるということで、それはもう前評判が高いのですよ。きっとお客さまのお趣味に合う品が見つかるかと」
ここまで引き伸ばしてからようやくユリムは腹を決めた。
「そうか。では、一先ず、その話に乗ってみようか」
「はい。心よりお待ち申しあげております」
こうしてユリムは古物商主催の招待制競売に参加することを決めた。
後日、具体的な日時を書き記した招待状を送るということで話がついた。ユリムはその送り先をミールの術師組合宛てにしてもらうように頼んだ。
再び来た時とは異なる通路を案内されながら―感覚的なもので実際の所は分からないが―出口に向かった。人工的な星の瞬きが支配する闇の回廊を抜け、地上への階段を上りきった時、強烈な白い日差しがユリムの瞼を容赦なく差した。反射的に片手を宛がい、点滅する黒点が形を変え現実に馴染むのを待つ。その最中に何かの像が結ばれようとするのをユリムは額に当てた指先に力を込めることで追いやった。
地上に出てからの帰りの道は来た時とは違っていた。隠し通路のような細い道ではなく、前を歩く黒服の男の後に付いてゆとりある通路を歩き、渡り廊下のような場所を通り過ぎた。その時、視界の隅、反射する窓硝子に青白い顔をした女の姿が映り込んだ気がした。ふと気になって振り向くと角を曲がる女物の服の白っぽい裾が見えた気がした。
だが、それは単なる気の所為なのかもしれない。
「ユリム? 大丈夫?」
微かに案じる声がして、ユリムはこの場に独りでないことを悟った。
そうだ。この寸劇はまだ続いている。
「いや」
何でもないと首を振って、すっかり自分の用事に捲きこんでしまったリョウに微笑み返す。その口元は硬く、ぎこちなさが残っていたのだが、お人好しの相手にはこの一連の企てに対するユリムの緊張の表れとしか思われていないだろう。
こうして訳ありな金持ちの年若い主とその従者という役を演じた二人組は、どこにでもいる主従のような仮面を付けたまま、再び市場を行き来する客や商売人たちの喧騒の中に埋もれていった。




