4)迷宮への符牒
「ああ、旦那! こいつはぁなんともおかたじけ。あのまま急にうちを引き払うってぇおっしゃったすけね。どうしょうばぁ思うてたんですてぇ。わってから繋ぎを取ろうにも先が分からねぇすけ。まぁお連れさんからたんまり銭はもろうてたすけ、忘れたぁ言うて戻ってきなさるまでお待ちしょうかと思ってたんですてぇ~。いやいやちょうど良かった」
店内の受付台の前に立った所で、帳面を片手に帳場の奥から現れたこの店の主 と思しき男は、訪れた二人組の客の内、一人の姿を見てぱっと顔を輝かせた。長年客商売に従事する者特有の人当たりの良さの中に如才なさが見え隠れする。
見るからに上等な衣服に身を包んだ線の細い青年は、真面目くさった顔つきで浅く頷いた。
「すまなかった。色々立て込んでいてな」
「いえいえ、よござんすよ。旦那にゃぁ旦那の用事ってぇもんがあるすけ。いや、それにしてもほんによござんした。またこうしてお顔を見せてくださるとは。ああ、ちょいとお待ちになってくんなせぇや。今、御入用のがんをお持ちいたしますっけね」
「……?」
流れる川のように淀みなく滔々と紡がれた滑りの良すぎる男の口説に若者が口を挟もうとする間もなく、主は一方的に捲し立てると再び帳場の奥へと引っ込んでしまった。
身なりの良い若者は呆気にとられたようで突っ立ったままであったのだが、その隣に地味な服を着た者が近寄り相手の顔色を窺うように声をかけた。
「どうかしたんですか?」
「いや。よく分からん」
若者は小首を傾げた。
主が戻って来る間、若者は店内の様子を見渡した。古ぼけた印象は記憶の中にあった姿と寸分も変わらない。間口の狭い入口から中に入るとすぐ目の前に年季の入った横長の受付台があり、その奥が帳場に繋がっている。敷居にはこの街で信仰されている海の神【ペレプルート】の伝統的な意匠―縒った縄が幾重にも網のように結ばれている模様だ―をあしらい染められた布が、目隠し代わりに垂れ下がっていた。大きな黄ばんだ染みも変わらず同じ場所にあった。その逆側に位置する奥の方は、長い廊下が続いているのだが、間口に比べてずっと奥行きがあることはここを利用したものでないと分からないだろう。
ここは宿屋である。素泊まりが基本で食事の提供はしていない。世界各地から様々な人が商いや仕事を探しにやってくるホールムスクには、客の階層、懐事情に合わせ、数多くの宿屋が軒を連ねていた。この近くには飲食店や歓楽街もあり、日がな賑やかで活気に満ちていた。
ここは、宿屋が集まる界隈の中では外れの川端に近い所にある小さな一軒だった。家族で切り盛りしているこじんまりとした店で、大き過ぎず派手過ぎず、飾り気のない、ともすれば質素な調度類と内装が、気さくに客を迎える慎ましやかな場所だった。
この宿に滞在した期間はデシャータクほどでしかなかったが、約一月ぶりに訪ねてみると妙に懐かしい気がしたから不思議なものだった。
「ああ、旦那、こいつぁお待たせいたしましたね」
そして、この主の酒焼けしただみ声を聞くのも久し振りだった。
裏の帳場は目と鼻の先だろうに一体どのような所に行ってきたというのか、丸い頬を上気させてふうふうと荒い息に心なしか肩が上下している。まるで遠方から大急ぎで駆けて来たような塩梅だ。
「苦労をかけて済まない」
別に謝る必要などなかったのだが、青年はついそのようなことを口走っていた。
「いいえ。いいんですてぇ~」
語尾にかけて音が伸びると共に上がる独特の口調で、丸顔を自前の硬そうな髭でぐるりと囲んだ主は鷹揚に片手を振った。男はずんぐりむっくりで、一体いつ仕立てたのか、窮屈過ぎるほどの小さなジレェートを着た腹周りは、はちきれんばかりになっていた。実際、五つあるボタンの内、下の二つはなくなっていて糸がだらしなく垂れ下がったままになっている。ここも一月前と変わりない。
「そういやぁ旦那、随分と達者になりましたねぇ。さすがお若い方はここの作りが違う」
これまたたっぷりと肉の付いた手を口元に持って行き、片手でパクパクというように動かしながらもう片方の手で頭を指し、人懐っこい笑みを浮かべて主が言った。ここに来たばかりの頃、青年はこの国の言葉をまともに話せなかった。片言の挨拶くらいが関の山。それが見違えるほどに上手くなったと言いたかったようだ。
青年は小さく頷いただけであったのだが、どことなく嬉しそうであるのがその雰囲気から伝わってきた。
「そうそう、旦那。こいつをお忘れでしたよ」
宿の主はにこやかに笑うと受付台越しに青年の方へ腕を伸ばした。若者は手を出し、掌に収まったものをしげしげと見つめた。
それは不思議な形をした金属のようなひんやりとした硬いものだった。燻銀のような作りで、球体に近い塊の表面に小さな突起物が沢山付いている。そして端っこに何かを繋ぐ輪っかのようなものが飛び出ていた。
何かの飾りだろうか。ペンダントにするような。そう思ってみても若者に心当たりはなかった。
「いえね、旦那方が引き払った後に部屋を掃除してましたらね、こいつが寝台脇の床に落っこちてたんですてぇ。てっきりでぇじながんかもしれねぇと思ったすけ。こうしてとっておいたんでって………あの……旦那? ひょっとして旦那のがんじゃぁねぇろっか?」
押し黙ったまま微動だにしない青年を主が怪訝そうな顔をして見たのだが、
「あ、いや。すまない。ありがとう」
若者は作ったような笑みを口元に刷くと受け取った「ワスレモノ」を上着の隠しの中に入れた。
自分の用事が果たせたことに主は満足そうに微笑んだ。
「またお部屋が御入用ですかね? 今ならちょうど広い部屋が一つ空いておりますっけ、ご用意できますよ。もちろん、そちらのお供の方もご一緒できますっけぇ、ぜにっこも無駄になりませんて」
相手が口を挟む隙のないような勢いでにこやかに告げられて、青年はすぐにまた続きそうになる主の口を目の前に手を出すことで制した。
「いや、今日は部屋を探しに来たわけではなくてな。この間はまともな挨拶もできなかったから、偶々この界隈に用事があったついでに寄ってみただけだ。その節は世話になった」
「そういんですかぁ。いえいえ、こいつはご丁寧に」
「ああ」
若者は口元に薄らと笑みを浮かべた。
「わってとしてもようござんした」
気にかけていたことが解決してすっきりしたのか、宿屋の主は晴れやかな顔をした。
「また今度、何かあったら世話になる」
社交辞令を口に乗せた若者に主も尤もらしく返した。
「はい。いつでもお待ちしておりますっけ、またどうぞ御贔屓に。そちらのお供の方もよろしゅう」
その時、蝶番の油回りが悪いのか、入り口の扉が軋むような音を立てて開き、新しい客の訪れを告げた。
「ああ、旦那、お帰りなさい。お早いお戻りでございましたね」
にこやかに挨拶をした主に入ってきた客が小さく頷いて見せる。くすんだ埃っぽい服を着た男だった。男は、受付台にいた二人連れを認めるとすぐ興味を失くしたように視線を外し、部屋がある廊下の方へと背を向けた。それを頃合いと見たのか、主従のようにも見える二人組はその場を後にしたのだった。
「ねぇ、ユリム。さっきの忘れものって?」
安宿が軒を連ねる小路から出た所で、少し後ろを歩いていたリョウが隣に並んだ。ミールの鉱石組合を訪問した翌日のことだった。ユリムはリョウと二人で鉱石組合の長、通称フラーケから得た情報を元に市場の中で店を構えるという古物商を尋ねる予定だった。
昨日、サリダルムンドに縁がある品物を探していると差し支えない範囲で遥々ホールムスクにやってきた目的とその経緯を語ったユリムに、フラーケは有力なまたとない情報を教えてくれた。
それはホールムスクにある地下市場―闇市―の存在だった。ここには盗品等の表には出せない高価な品々を扱う特殊な取引所があり、時にびっくりするような品物が流れて来るのだそうだ。国によっては持ち出しが禁止されている物、持ち込みが禁止されている物、売買が認められていない品物等が法の網の目を掻い潜るように秘密裏に取引されているのだと言う。
ミールでは扱いが禁止されている物をそのお膝元で捌く。大胆な所業にも思えるが、古来より自由貿易を謳う精神がそのような危うい取引の素地となり、建前の影にその例外を蔓延らせる余地として残されていた。
―もし、おめぇさんの探し物が盗品に関わるがんならぁ、当たってみて損はねぇろいね。但し、やり方は考えなくちゃぁならないがね。覚悟はあるかい?
皺だらけになった顔をくしゃりと歪めて、フラーケは一瞬、不気味な光りを瞬かせた瞳を糸のように細めた。
ユリムは真剣な顔をして頷き返した。
故郷を出て半年余り、ここまで来て何を躊躇う必要があるのかと返したユリムにフラーケは微笑むとその方法を語った。
「とがんかねぇ。研ぎぃ~研ぎぃはいらんかねぇ~。包丁、鎌、短剣、槍の穂先、なんでもござ~い。長かろうが短かろうが、おいらの手にかかればスパッと切れ味抜群になること請け合いらいねぇ~」
小路の角では、仕事道具の踏み台を足で器用に操りながら回転する車輪を回して刃物を研いでいる研ぎ師の男が声高に呼び込みの口上を叫んでいた。
「帯はいかが~。かるーい羽のような腰帯びはいかが~」
その向こうからは、手に抱えた籠一杯に色とりどりの腰紐や帯を入れて売り歩く女の姿があった。様々な物売りの声が入り混じり響いてくる。段々と市場に近づいているのが耳に入って来る音から分かった。
―リィーナクの片隅、陶器屋と革屋に挟まれるようにして小さな鍋屋が商いをしてるすっけ。そこの店番にこう囁きなされ―【トゥーズ 】の口利きだと。
まるで呪文のようにフラーケのしわがれた声がユリムの頭の中で響いた。
―そうすりゃぁ案内人が現れる。
この日、ユリムは王都風の上下に身を包んでいた。淡い青灰色の光沢がある生地の上着とズボンで、一目で上等と分かる代物だ。この街で都会風の格好をしているのは王都から派遣された地方官吏ぐらいなものだったが、所用で滞在している貴族の関係者か羽振りの良い商人の息子、はたまた王都かぶれの伊達者のように見えなくもなかった。
その服はユリムには少々きつそうだった。よく見ると上着の袖丈は手首の骨が見えて少し足りない。その実、ズボンの丈も足りなかったのだが、膝下まである革の長靴によって上手い具合に隠されていた。
それもそうだろう。その服は借り物であったから。衣服は通常、着る者の体に合わせて仕立てられるものである。その本来の持ち主は、いつも通りの素朴な庶民の服というか、若者と一緒にいると使用人にも見えるものを身に着けていた。
ユリムが着用している上下は、リョウの結婚祝いにシーリスが仕立てて贈ったものだった。リョウ自身、王都で何度か袖を通したものをこちらに持ってきていたわけだが、完全なよそ行き着なのでこちらでは滅多に着る機会などないかと思っていたものだった。それをユリムに着せたわけだ。これにはちゃんとした理由があるのだが、それは後で明らかになるだろう。
「さぁ、なんだろうな」
「へ?」
ぼそりと興味なさそうに呟いたユリムにリョウは素っ頓狂な声を上げた。
リョウの所で世話になってからまだ半月ちょいくらいしか経っていないが、この短期間のうちにユリムの話し言葉はだいぶこなれてきた。ただ専ら教師であり、会話をする相手が古めかしい言葉使いをするリョウなので、自然とその口調は似てくる。
「ああ。元々あった物はとっくに処分されたと思っていたし。金目のものなどなかった。まぁ俺の手持ちはたかが知れていたし、大したものは残っていなかったはずだが」
―だが、あの主がああ言ったのならばそうなんだろう。自分の物でなかったら二人の従者のいずれかの品である可能性が高い。
先程宿屋で受け取ったものは、身に覚えのない品だとユリムはさらりと言ってのけた。
「じゃぁ、ユリムは…その…良く分からないものを受け取ったの? 本当の持ち主が別にいるかもしれないのに?」
「まぁ、平たく言えばそうなるな」
非難めいた声音をユリムは飄々と肯定した。
「……アイヤイヤ~」
半ば呆れたリョウを横目にユリムは何食わぬ顔をして上着の懐を探ると、宿屋の主から受け取った件の「訳の分らぬ物」を取り出して見せた。
「何かの破片かもしれないな」
リョウは指先で摘んでしげしげと見た。
「なんだろう? 何かの部品か金具みたいにも見えるけれど。でも見た目より重みがあるわね」
小指程の大きさなのに掌にはずっしりとした感触が残る。
「ああ。俺にもさっぱりだ」
「本当に見当がつかないのに受け取ったの?」
「悪いか?」
「いや、良いとか悪いとかの問題でもない気がするけれど」
「まぁ、あの主が部屋に落ちていたと言うのだからそうなんだろう。あの二人の物であったのかもしれない。後で分かるだろう」
「まぁ、そうかもしれないね」
そこでリョウは不意に顔色を曇らせて目を伏せた。もしかしたら、それ以上は何と言ったものかと言葉を選んでいるのかもしれない。
昨日、鉱石組合からの帰り道、ユリムはリョウにこれまで明らかにしてこなかった残りの自分にとっての真実を語った。ミールへ仲介してもらった手前、当たり障りのない部分だけでもこれまでの経緯は話しておいた方がいいと判断したからだ。
ユリムは事実だけを淡々と口にした。余計な感情を挟まないように気をつけながら出来事だけを時系列順に挙げてゆく。ホールムスクに辿りついて宿を確保し、いざ探索に手をつけようとした所で国から連れて来た二人の従者に裏切られたこと。前々から仕組まれていたのか人気のない場所で武装したゴロツキ共に囲まれたこと。あの時、従者の一人であるブラクティスは薄笑いを浮かべた。もう一人のベェサイーンは、何故かユリムをあの場から逃がそうとした。それが計画通りであったのか、それとも偶発的な綻びであったのかすら分からない。そして、あのまま始末されるかと思ったが、命だけは何故か永らえてしまった。
だが、その代わり地獄が待っていた。頭を強かに殴られて昏倒したようで、気がついた時には捕らえられていた。手足に重い枷をはめられて。
その時、ユリムは思った。奴婢として売られるのかもしれないと。戦で負けた民の末路のように。ユリムの他にも暗がりの中に同じように手枷をはめられた人間がいたからだ。顔立ちも肌の色も瞳の色も違う。同じなのは服として宛がわれた粗末なお仕着せだけ。言葉が通じなかったのでどのような経緯であそこに人が集められたのかは分からないが、借金で首が回らなくなったか、もしくはかどわかされたりしたのだろう。近隣で大きな戦があったとは聞いていなかったが、緊張状態にある国や武力闘争が続く地域があることは知っていた。
あの鬱々とした絶望の中から抜け出せたのは奇跡に近いと今でも思う。
だが、ユリムは救われた。空に流れたか細き蜘蛛の糸―糸遊―を掴んだのだ。
全てを聞き終えてからも暫く言葉を失ったリョウだったが、その後もユリムの目的に手を貸すと言った。まるでそうすることが当然のように今日の段取りを率先して決めたのもリョウだった。
自分の言葉をいとも容易く受け入れた相手にユリムの心にはさざ波が立った。無意識下の訳の分からない動揺を押し隠して、良くも悪くも呆れた。どこまでお人好しであれば気が済むのだろうと。人を信じるその真っ直ぐで素朴な能天気さが羨ましくもあり、また同時に腹立たしくもあった。
しかしながら、実際問題、この街の住人であるリョウがいることで助かっているのも事実だ。ユリム自身、あの牢から命からがら逃げ出した後で、こんなにも早く人としての日常を取り戻し、手掛かりを掴めるとは思わなかった。いや、現時点でもまだ霞みを食うような話ではあるが、着実に前進をしている―そう思うことで自分の存在意義を確かめたかった。
「別に…あんたが気に病むことじゃない」
宿舎にいる第七の兵士たちの言葉使いを聞きかじったのだろうか。ユリムは態と顰め面を作ってぶっきら棒に言った。本当は「ありがとう」と素直に感謝の気持ちを伝えたいのに、幼い頃から幾重にも囲って守ってきた自尊心と頑なさ、拭えない猜疑心が邪魔をしてしまう。
だが、そのような子供染みた空威張りはずっと年上の連れには抜けているようで、リョウは生温い目をして苦笑をすると、手にしていた物をユリムに返した。
「あそこが市場か?」
「そうだね」
前方に通りの隙間を埋めるようにはみ出した日除けの天幕が幾重にも重なって見えて、ユリムが表情を改めた。
「金物屋と言っていたか?」
「鍋屋さん。まぁ似たようなものかもしれないけれどね」
「見つけるのは中々に骨が折れそうだな」
様々な露店がひしめく密度の濃い景色を目の当たりにしてか、思わず漏れた弱音をリョウはからりと笑い飛ばした。
「まぁ一軒一軒あたるしかないでしょう。でも。信用しているのでしょう?」
―あの人を。
「ああ。時間だけはたっぷりある」
二人は顔を見合わせると口元に小さく笑みを刷いて、この日も大勢の人々で賑わうこの街の台所へと入っていった。
市場はミールから見て北東方面、海がある方角に位置した。広場には色とりどりの大きな布が日除けとして張られ、海から吹く潮風が撓んだ中心部分を持ち上げたり押したりしてはためかせていた。溢れんばかりの多様な布の色は、ちぐはぐで統一感のない印象を見る者に与えるのだが、ごちゃごちゃとした雑多さが、市場を埋める独特な高揚と活気、商人たちの心意気を示しているようで、この場には似つかわしく思えた。頭上を切り取る幕の、鳥の羽ばたきに似た小刻みのはためきは、空っぽの太鼓の薄い膜を打つように耳の鼓膜に響く。その気紛れな調子を追っているとピィーキィーと合いの手を入れるように鷗が鳴いた。
迷路のように入り組んだ小路は海側からの風の道筋を複雑にする。涼風は舐めるように天幕を揺らすが、その塩気を含んだ冷気は商人たちの熱気に押され、すぐに細かく砕け散ってしまう。ずっしりとした木箱の影に陣取る小花柄の前掛けからはみ出さんばかりの逞しい女の臀部、マイカ一枚厚く盛り上がった肩に荷物を担いで運ぶ男たちの力瘤、品々が並ぶ露店の棚の後ろに収まるでっぷりと肥えた商人の腹の合間に揉みくちゃにされて、やっとのことで通り抜けたとしても、一杯引っ掛けた赤ら顔の酔っ払いから吐き出される呼気の如き生温い熱に侵されて、ほうほうの体で僅かな隙間を見つけて逃げ出すのだ。
市場内は秩序などないようで、その実、不思議な綱渡り的調和が保たれていた。八百屋の軒先に器用に堆く積まれているペーレェッツが一つでも欠けたら、陶器屋に並ぶ水差しの口が全部こちらではなく一つでもへそを曲げたように別の方角を向いていたら、失われてしまうような微妙で脆い調和だ。
ミール前の広場のようにこちらも一応整備されてはいたのだが、画一的な区画整理は行われず古くから続く街並みが守られている界隈だった。主要の商い場―元々は広場だった―となる場所は開けているのだが、それを囲むように高い石壁が並び、そこから非対称・四方八方に伸びた小路は複雑に折れ曲がり、あちらこちらの小路と繋がっていて、通い慣れた者でない限り方向感覚を失い、迷子になってしまいそうになる。
港に近い所には水揚げされたばかりの鮮魚が並ぶ店やその日の朝に絞めた獣の肉を扱う店がある。より温暖な南方から船で運ばれた果物の放つ甘酸っぱい異国の香り。陶器売りの店にベリョーザから作る曲げわっぱを売る店。港という場所柄、丈夫な木で作られた金庫を兼ねる船箪笥や様々な容量の長持ちを売る店が、宛がわれた敷地一杯に持ち込んだ自慢の品々を並べる。その向こうには、入荷した香木や香水の類を並べた店もあった。
その男は、鮮やかな淡い緑色の布がくすんだ蒼穹を切り取る影の下に座っていた。首にぐるぐると織の荒い縞模様の布を巻きつけ、その下に洗いざらしのゆったりとしたシャツを着ている。特徴的なのは、上半身に斜めに帯のような厚めの布を巻いている所だろうか。この市場でよく見かけるその布は、貴重品やらちょっとした物を入れておく財布や鞄代わりに使われているという。
椅子に腰掛けた男の膝の上には一抱えもありそうな大きな算盤が乗っていて、すぐ脇に置かれた床几には開いた箱の中に入った天秤がいつでも使える状態で準備されていた。因みにこの天秤は、各国の通貨や貴石、鉱物が貨幣代わりに流通するこの街では商人たちの必需品である。この街にはもちろん両替商もあるのだが、店によっては高い手数料を取る所もあるので顧客の利便性を考慮して市場の露店でも独自に両替業務を品物購入の際に行うことが慣例化しているのだ。両替商の中には、このだぶついた外貨を求めて露店の間を行き来し商売に繋げる者もいる―というのは余談だが。
商人の周りには簡易的な組み立て式の台が置かれ、そこに大小様々な鍋が並んでいた。ここで扱われているものは陶器の鍋よりも金属の鍋が主流のようだ。
ぴかぴかに磨き上げられ、鈍く冷たい陽光を反射する鍋を漫然と眺めていたユリムは、さも思案気にそれらの品を手にとってみたりした。
すると、
「いらっしゃい。どんなお品物をお探しですかな?」
存外丁寧な口調で椅子に腰掛けていた主と思しき男が声をかけた。男は身軽な所作で立ち上がり、客の傍に歩み寄った。腰が気持ち曲がった背の低い男で、港町特有の強い日差しを浴びた肌は、浅黒くひび割れていた。
「こちらは赤銅の打ち鍋でよく出ていますよ。人気のお品です。群を抜いて熱を通すので煮炊きはあっという間。奥さまにお一ついかがですか。お安くしておきますよ。ああ、そちらのお連れさまもどうか見て行ってください。いかがです? 奥さまにどうですか」
ユリムは澄ました顔の下、ちらりと傍に控えていたリョウへ視線を向けて相手が微かに頷いたのを確認すると、主の方へ体を傾け、その耳元にこう囁いた。
―トゥーズ。
フラーケが教えてくれた鍵。その呪いは効力を発揮するのだろうか。
鍋屋の主は、商売人らしい人懐っこい微笑みを湛えたまま、少し上にあるユリムの瞳をちらと見た。そのまま目の端で突然現れた客の風貌を値踏みする。上等な都会風―もっと言ってしまえば異国風―の匂いがする上下は、まだ真新しいものだ。下ろしたての糊が効いたシャツの襟元から反射して覗いた青白い煌めきに、年老いた商人は乾いた小気味良い笑い声を喉の奥で鳴らした。
「埋み火の方でございましたか」
得体のしれない火花をその灰色の瞳に散らしてぽつりと漏れたその独りごとのような問いかけにユリムは頷いた。
「こちらで扱う【火種】は、それはもう上等なものでございますよ?」
柔らかい微笑みを浮かべたまま舌なめずりをした男の目は、触れた物が凍傷をおこしそうな程に凍てついていた。
ここが第一関門だとユリムは気を引き締めた。
「分かっている。相応の用意はしている」
懐に手を入れて小振りの財布をちらと見せる。顔色を変えることなく言い切った若者に主は形のない通行手形を出した。
「ようございましょう。ではこちらに」
―御案内致します。
ユリムは黙したまま連れを促すと風をはらんで膨らんだ商人の背中を追った。市場を抜ける生温い風が、髭のない若者の頬を擽った。
書けるうちに更新をと思ったものの思った以上に進みません。既に当初の計画から脱線気味です(笑)
さて。ユリムが身につけている服は「糸遊つなぎ」の「ようこそ黄金の環へ!」で登場したものです。シーリスからのプレゼントをこのような所で有効活用です。シーリスは内心面白くないかもしれませんが。
それではまた次回に。ありがとうございました。