3)埋み火
埋み火とは熾火のことです。
「おーやおんや。これはめぇんずらしいお人が来なすったぁねぇ」
それはまるで、小さな庵の奥まった場所に備えられた祠の中にひっそりと置かれた石の彫刻が口をきいたようだった。
たっぷりとした深緋色とも茜色とも思える、目立って主張はしないけれどもどこか温かで背景に馴染む色合いの衣を頭からすっぽり被った小柄な老女が、無垢な少女なような笑みをその皺だらけの口元に浮かべた。
青年は老女の足元に跪くと差し出された骨と皮ばかりの手を取った。その枯れた両手には枷をはめるように幾重にも装飾品の腕輪や指輪が飾られていて、身じろぎに合わせてシャラン…シャリリと音を立てた。そのどれもが地中の神秘を凝縮した橙色や赤色の貴石が埋め込まれていた。
傷だらけでかさついた青年の手が、老女の手に触れた。老女は、暫し、すっかり男らしくなったその手をいとおしむように指で辿り、それから押し頂くようにして額に当てた。
老女の口が、青年がこれまで耳にしたことのない摩訶不思議な呪文を唱えたように思えた。
「ますます御父上に面立ちが似てきたんじゃぁねぇろっか」
「ご無沙汰いたしております」
懐かしさのこもったしわがれ声に青年は静かに頭を垂れた。
「お変わりはありませんか。フラーケ」
青年はじっと、かつては明るい炎のような輝きに満ちていたはずの老婆の瞳を見た。白濁して狭まった視界の向こうに記憶の断片が集まり火柱となって微かな火花を散らすことを願って。
するとかつてのように見覚えのある光りが仄かにちらついた気がした。
「今生でもういっぺん、おめぇさんの顔が見られるとは思いもせなんだ。長生きはしてみるもんらぁねぇ」
老婆はこの港特有の訛りの強い言葉で笑った。各地を転々と流れ歩き、様々な地域の話し言葉を吸収した末に紡がれる音は、実際の所、実に豊かで独特な装飾が施されているのだが、理解に支障はないので、そのようなことは若者にとっても瑣末なことだった。
「それはわたくしとて同じ。今一度お元気なお姿を拝見することができまして大変嬉しく思います」
老婆は青年の手をそっと放したが、青年はその場から動かなかった。
すっかり白く、そして薄くなった縮れ毛は後ろで一つにまとめられ、赤い紐を一緒に編み込んだ三つ編みが細い縄のように肩先から飛び出ていた。すっくと背筋を伸ばしたその姿には半分常世を離れたような透明な揺らぎがその威厳の中にあった。
老いて尚、薄く紅を刷いた小さな唇が動いた。
「先だっての大殿の仕儀 、お悔やみ申し上げる」
儀礼の枠の中で、硬いながらもどこか労わりのこもった声音だった。対する青年も最大限の敬意を払った態度で淡々と礼を返した。
「その節はこちらの皆さまにも過分なる心遣いを頂きましてありがとうございました。改めて御礼申し上げます」
すっかり見違えるようになった若者の口上に、老婆はほろ苦く、そしていまだに胸を衝く時の悪戯を思いながら皺が幾重にも刻まれた目尻を細めたのだった。
術師組合を辞してからその足で、リョウとユリムの二人は鉱石組合の事務室へと赴いた。目的の部屋は、同じ階の突き当たりに位置した。広場から見て、ちょうど下を向くコの字型の形をした建物の左翼の先端に当たる部屋だった。
室内は想像に反してやや薄暗く、かといってその暗さは、不快を呼び起こすというよりも妙に人を落ち着かせる古めかしさを持っている類のものだった。もう何十年も前からそこにじっと佇んでいるような鄙びた艶を放つ、温かみのあるくすんだ赤と焦げ茶色を基調とした調度類で埋め尽くされていた。家具の類も良く見ると角の辺りが禿げていて経年の摩耗の跡が見受けられる。
同じ作りの、ほぼ同じ大きさの居室のはずだが、住まう主によって中の印象はがらりと変わった。同じ館内にある術師組合の部屋は、無駄を省いた明るい素っ気なさが特徴的だ。薄い空色を基調とした壁紙に柔らかな左右対称の花模様がベージュ色の色調で描かれた控え目なもので、そこに詰める人材の個性が強い分、緩和剤のような役割を担っていた。
二人が訪いを入れた鉱石組合の部屋は、一言で表わすならば地下の深い穴倉の中のようでもあった。広く開放感に溢れていてもいいはずであるのに、なぜか明るい日差しは似合わない。黄昏時の柔らかな闇が始まる残滓の陽光が弱々しく差す方がしっくりとくる。もしくは仄かに灯された発光石、いや、それよりも蝋燭の揺れる炎が作り出す闇の濃淡が影となって辺りを包み込む雰囲気が似つかわしい。窮屈さを感じることはなかったが、廊下から一歩、中に足を踏み入れれば、敷居から向こうには別の世界が広がる―そのような感じだった。
半ば儀礼的に旧交を温め合った後、早速本題に入った。
鉱石組合の長は、年老いた小柄な女性だった。この組合には表と裏とで二人の長がいるらしく、主にミールの会議などに参加し、他組合との折衝や連絡などの渉外活動を行う方―上品な面立ちをした物腰の柔らかい年配の男だ―が人々の目に触れる機会が多いので、そちらの方が長として通っているようだ。
だが、今回、ユリムが面会を求めた先は、渉外を担当する方の長ではなく、対外的には表に出て来ないもう一人の方だった。
驚いたことにユリムはこの長と面識があったようだ。
「さぁて、一の君。遠路遥々、こんげなぁざいまでやって来なさるたぁ、一体どういった了見ですかな?」
口火を切った長に対し、ユリムはほんの少し苦い顔をした。
「フラーケ、私はもうあの時のような幼子ではありません。己の立場はしかと心得ております」
ユリムは長をフラーケと呼んだ。それは老女の名前ではなく、ユリムの故郷サリダルムンドでのみ使われる通り名だった。フラーケとはスタルゴラドの言葉で炎を意味する。ここで二人が交わしている言葉は、スタルゴラドでも主流のエルドシア語ではなく、ユリムの国の言葉―サリド語―であったので、後ろで供人のように静かに控えていたリョウには二人の会話は理解できていなかった。
不服そうに押し黙った若者を見て、フラーケはおかしそうに喉の奥を鳴らした。長じた若者の黒い瞳の中に初めて出会った頃のきかん気な幼子の姿を見たからだ。
「おや、その呼び名がお嫌いとな? ずいぶんとつれないことをいいやる。だどもそこは勘弁してもろうて。譲らんねぇこってね」
そこで長は初めてユリムのやや後方に慎ましく控えていた連れの存在に意識を向けた。そして、意味あり気な視線をユリムに投げた。
「あきゃぁ、ひょっとしてこの婆に吉報を持って来なすったかね? おまんも嫁ごを迎えたかね。こりぁめでたい」
フラーケのからかうように弾んだ声をユリムは表面上何食わぬ顔をして遮ったのだが、少し早くなった口調に動揺の欠片が表れていた。
「いえ。違います。この者は案内人。私が今世話になっております所の者で、何分不慣れな私を気遣ってくれまして、こちらへ口利きをお願いしたのです」
「あやぁ、ちごうたかね」
フラーケは細い目を大げさに見開いて二人の訪問者を交互に見た。
サリド語で交わされる二人の会話の内容は理解できなかったが、その目線の動きと声の調子から自分のことが話題に上っていると感じたのか、リョウはこちらを見た鉱石組合の長に澄ました顔の下、小さく目礼をした。
ユリムが間に入るようにリョウがサリド語を理解しないと話せば、この部屋の主は皺の中に埋まった細い目を糸のように細めた。
「ほう? そちらさんはサリドの民ではねぇやんだか?」
リョウは何を言われたか理解できなかったが、耳に入った【サリド】という音から見当をつけて普段使っている話し言葉で会話に入った。
「ワタクシは、サリダルムンドには縁なきものでございます」
その言葉使いはホールムスクの街中で話されている地元の言葉よりもずっと古臭い形に聞こえたらしく、フラーケは顔の真ん中に行儀よく収まったこじんまりとした鼻をひくひくと動かした。
「ふうむ。するとおめぇさんは、ここのもんかえ?」
今度はここの言葉で発せられた問いに、リョウは咄嗟に反応を返すことができなかった。
「……いえ、違います。ワタクシも…言うなれば…流れてきた者。故郷は……とても遠き所にございますゆえ」
これ以上、個人的な質問はご容赦頂きたい。そのような言外の含みを感じ取ってか、フラーケは口を噤んだ。
「ワタクシは術師組合に属する者。こちらへの面会手続きをワタクシどもの長にお願いしたのです」
「ああ、それでリースカが気前よく一筆をな」
フラーケも術師組合の長をそのあだ名で呼んだ。
「はい」
「ふぅむ、あの男に借りをこさえたか。まぁ致し方あるまいて」
口元を歪めてそう小さく零すとフラーケはユリムへと視線を移した。
「まどろっこしいことをしたことは……分かっています」
ユリムはそうサリド語で告げてから、リョウの為にすぐに言葉を変えた。
「色々事情がありまして。こうせざるを得ませんでした」
そのまま軽く頭を下げて押し黙ったユリムに、
「まぁ、こまけぇこたぁいいろいね」
フラーケは鷹揚に片手を振った。鳥の脚のように痩せた腕に連ねた腕輪がガチガチャと軋むような金属音を立てた。
「ああ、これは失敬。そういんやお茶がまだやったねぇ」
長は思い出したようにそう言うと、卓の上、手元にあった小さな鈴を鳴らして隣の部屋に控えていた係の男を呼んだ。
「とっておきのヴァーングリアのお茶があるすけ、淹れましょかのう。一の君にも懐かしかろうて。のう?」
フラーケはそう言って柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
これまでどこかしら硬い表情をしていたユリムが、初めて気の抜けた笑みを漏らした。
ヴァーングリアという地名は、ユリムの故郷サリダルムンドに近い所にある高地一帯を指す。近隣にはお茶の栽培で知られており、サリドの民にも好まれていた。
また、ヴァーングリアはもう一つ特徴的な文化があることで知られていた。そこに暮らすとある民は、男の方が女よりも化粧を施し身綺麗に着飾るのだ。元々男児の出生率が低いこともあるのだが、完全な女系社会で男たちは女たちが守る家に婿に入ることでその血筋を残すという所為もあるのかもしれないが、男の方が女の気に入るようにと外見に気を使うという話だった。
そう言えば、先程寄った術師組合の一室にもヴァーングリアの民に良く似た感じの男がいた。ユリムはふとそのようなことを思った。
お茶が運ばれて、ユリムとリョウの二人は室内にあった椅子を進められた。それは背凭れのない長椅子で海老茶色をした天鵞絨のような手触りの良い布張りだった。脚の方に垂れ下がった飾り布にはびっしりと細かい刺繍が贅沢に施されていた。
懐かしい香りを嗅いだ所で、長が言った。
「きょうびはお目付けはいねぇやんだがね」
躊躇いもなく喉元に刃の切っ先を突き付けられた気がして、ユリムは唇を引き締めた。頭の奥底に無意識に隠していた感傷に浸る間などない。この一時に今後の全てが懸かっている。ユリムはそう思い、一人気を引き締めると静かにフラーケを見た。
「ご心配なく。供の者は、訳あって置いて来ました」
「ほう?」
フラーケは、たっぷりとトゥルーバ型に広がった袖口から大きな指輪がついた枯れ枝のごとき人差し指を出すと微かに左右に振った。虹色を含んだ赤みを帯びた石が、室内を控え目に照らす発光石の光りに反射して波紋のような揺らぎを映す。
どこかでジッと油を吸い込んだ蝋燭の芯が燃えるような音が聞こえた気がした。
「一月ほど前のことだったかのう、河口付近の浅瀬で男の遺体が上がった」
長はユリムの目をじっと見つめていた。変わらぬ表情の下、若者の膝の上にあった手が飾り気のない洗い晒しの長衣に皺を作る。
「それがどうか致しましたか?」
「いやね、おめさんには心当たりがねぇかと思ったすけ」
「随分と唐突ですね」
澄ましたユリムの顔に苦笑が浮かんだ。
「さぁ、いきなりそのように言われても私には何が何だか。それに大体、この街にはごまんと【男】がいるでしょう。しがない異邦人の旅人にどんな関係があるのか」
薄らと笑みすら浮かべた下で、ユリムの脳裏には天へと突き上げられた無数の刃の切っ先と男たちの怒声が蘇った。
―行け! 早く!
ぐわんとぐわんと耳の奥が鳴る。突如として蘇ったあの時の怒り、痛み、震えをやり過ごす為にユリムは奥歯に力を入れた。
―私が邪魔ならばさっさと消せばよい。だが、これだけは答えろ。何故、そこまでして私に拘るのだ? かように仰々しいことをせずとも、私にはなんの遺恨もない。何故、放っておいてはくれぬのだ?
あの時、ユリムを支配していたのは深い諦めと絶望だった。先王亡き後、幼い嫡子の後ろ盾となり実質的に実権を握ったあの男が、自分を煙たがっていると言われたことがあったが、ユリムは、その噂を気に留めなかった。あの忌まわしき館の中で目立たぬようひっそりと息を殺して生きてきたのだ。あの男が態々自分の存在を眼中に入れているとは思わなかった。その代わり、一生、あの薄暗い籠の中に閉じ込められて飼い殺されるのだと―そう思っていた矢先、あの男より今の役目を告げられたのだ。行方知れずとなった大事の品々を探して来いと。
あの男は端からユリムに期待などしていない。ただ、領地から永久に追放したかったのだろう。吹っ掛けられた難題は、見つかるはずもないものを探し出すに等しかった。賊が入ったと王の館では大騒ぎになったが、今となっては実際、本当にあの宝物が盗まれたのかさえ疑わしいものだった。
だが、ユリムは黙ってその命を受け入れた。そうしなければ盗人の濡れ衣を着せられて捕らえられていただろう。いずれにせよ選択肢はなかった。
元よりあの場所に未練はない。父であるとされた男も、その男がたまさかに情けをかけた実母も他界した今、ユリムをあの土地に縛りつけるものは何もなかった。そう。何もないと信じたかった。
―ユリム。お前のウル を見つけよ。
稲妻に似た閃光と共にとある男の声がユリムの体を貫いた。
私はこれで自由になる。くびきから解き放たれるのだ。やけっぱちな青い幻想が誘惑するように若い心を刺激したが、すぐに現実が戻ってきた。そして気付く。野に放たれた籠の鳥は餌を捕る術さえ知らずにやがて飢え死にするしかないことに。
いや、たとえ飢えずとも、別の形で終わりは決まっていたのだ。
この探索の旅でユリムに付き従ってきた二人の武人は、言うなればあの男の手駒で見張りだった。なんの力も持たぬ自分をこうまでして警戒する理由はなんなのか、ユリムには理解できなかったし、分かりたくもなかった。ただ呪われた館の中で、ある日生まれ落ちた猜疑心の滴は、大きな波紋となって広がり続ける。そして、張りぼての大義を背負わせた旅路の中で、折を見て始末せよという段取りだったのだろう。
それが、あの日だった。最後に皮肉な笑いを浮かべていたブラクティスが差配していたのだろう。しかもあのように荒くれ者を雇ってまでして。この故郷から遠く離れた街で、証拠を残すことも己が手を汚すこともなく。あの男のやりそうなことだ。
野に放たれた鳥は、長い旅路を経て疲れ果てた所を狩人の矢に射かけられたのだ。限られた時間、かりそめの羽ばたきを最後に味わわせてやろうとでも言うように。それがあの男なりの歪んだ慈悲であったのか、嗜好であったのかは分からない。
そのようなことを思い出し、自嘲気味に口元が歪んだ所でユリムは我に返った。己が膝の上、躊躇いがちに骨張った小さな手が乗っていた。右手の薬指には小さなキコウ石がぐるりと埋まる華奢な指輪があった。連なった青い光。控え目な深い色。忘れたくて忘れられない色。爪先から染み込んだその色は、伸ばした手の指先にまで侵食し根を張る。隅々にまで行き渡ったその根は、宿主を内側から絡め取るように捕捉する。
―ヘェバヒール。その小さな青い光りにユリムは何故か安堵した。
「ユリム? 大丈夫?」
同じくらいの高さにある黒い瞳がこちらを案じるように瞬いて、ユリムは咄嗟に表情を取り繕い「なんでもない」と微笑もうとしたのだが、ぎこちなく片頬が歪んだだけに終わった。
「すまない」
ユリムはそう言って目を伏せた。
「顔色が悪いけど」
「いや、大丈夫」
不自然な間を誤魔化すように茶器を手に取り口に付ける。慣れ親しんだ味が口内に含まれ、喉から鼻に抜けた甘く清涼感のある香りが、少しだけユリムの心を落ち着かせた。
「一の君、これをおまんに」
ユリムの黒い瞳に再び生気が戻ったところで、フラーケは幾重にも重ねられた上着の懐を探ると何かを取り出し、その握り込んだ小さな拳をユリムの方に差し出した。
反射的に前に出たユリムの掌の上でフラーケが拳を開くと銀色の鎖の付いた四角い何かが滑り落ちた。
深い青―それはユリムが良く知る山並みの色だ―と深い森の木々が発する、むせかえるような野趣の匂いが立ち上った。その向こうに細く続いた山道と控え目な清流の飛沫が見えた気がした。
それは、菱形に刻まれたキコウ石が四つ埋め込まれたお守り だった。キコウ石の産地であるサリダルムンドの民は、誰もが一つは魔除けとして青い石を付けた首飾りを持つ。
その形には見覚えがあった。ユリムは、手が震えそうになったのを寸での所で堪えた。
「みなまで言わずともよかろうて」
フラーケは静かにそう付け足した。
―その石は、おまんとこのもんに相違あるまいて。
「…………ベェサイーン」
ユリムは掠れた声で呟くと、その石を強く己が手の中に握り締めた。
「亡骸はこちらで丁重に葬ったすけ。しんぺぇすんな。いかなる経緯があろうとも死者に罪はねぇすけね」
「………ありがとうございます」
ユリムが口にできたのは精一杯の感謝の、ほろ苦く錆の味がする言葉だけだった。
改めて居住いを正すとユリムはその場で丁重に畏まった。
「フラーケ、どうかお力をお貸しいただけませんか」
静かに一礼したユリムに鉱石組合の長は微笑んだ。初めて出会った時のように。
そしてユリムの口から突然の訪問の理由が告げられた。