表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/60

泡沫亭のバヤーン 後編

 それから およそ20年の時が流れていた。男は相変わらずこの小さなバール泡沫(うたかた)亭の主として店に立ち続けている。今では常連客がつき、有り難いことに客足が途絶えることはなかった。


 この小さなバールのカウンター奥に設えられた楽師専用のささやかな舞台では、今も若い女楽師がグースリを膝に乗せ、張られた弦を手品のように軽やかな手さばきで爪弾いていた。この、まだどこか少女のようなあどけなさをそのふっくらとした頬に残した楽師は、かつて男の窮地を救った女の娘だった。


 このバール専属として男の店で働いていた楽師について、主はそのうちまた旅の風に吹かれてこのバールを去ることになるだろうと踏んでいたのだが、その思惑を離れて、何故か女は男の元に留まり続けた。うら寂しいインヴァリード(不具者)の一人所帯。一度地獄を見、生死を彷徨(さまよ)った男の灰色と深い藍色に沈む陰鬱な影の世界に突如として明るい色が現れたのだ。控え目ながらも小さな煌めきを放つ淡い光。路傍に咲く名もなき草花の如きありふれた、取るに足らない点のような色が、男の暗く淀んだ世界に遥か昔のお伽噺に描かれた雪の欠片のように舞い散ることになったのだ。

 男の元に流れ着いた女楽師は多くを語らず、また男も多くを尋ねなかった。ただ、“(シィチャース)”という時間に、互いが“そこ”にあり、同じ部屋の中で同じ潮の香りを嗅ぎ、ほんの少しだけ鉄分の多く混じる硬い水を飲んで、そして同じスープとパンを分かち合う。それだけでよかったのだ。元より男には、女に与えるような金品や宝石とは無縁だった。女も男からそのようなものを受け取ろうとは微塵も期待しなかった。


 そうして若い傷だらけの不具者と流れの女楽師の奇妙な共同生活が始まり、二つ目の夏がやって来た頃には女が身ごもった。そのころにはもう、流れの楽師であったはずの女は、すっかりこのバールに欠かせない存在になり、店の主は、常連客達からは女の情夫(イロ)のように冗談交じりにからかわれることとなっていた。楽師のお陰で店が軌道に乗り、食べていけることになったからだ。客からの羨望混じりのからかいを適当にあしらいながら、男は初めて経験する「家族」という繋がりに妙なこそばゆさを感じずにはいられなかった。男は先の大きな戦いで重傷を負った時点で、かような温かな未来を自分には縁のないものだと諦めていたからだ。いや、戦死した多くの仲間たちを残して一人生還したこの身は、それだけでも奇跡であったのに、これ以上の幸運は必要ないとでも思っている風だった。

 だが、そんな男にも不思議な巡り合わせがあった。たとえそれが世間一般でいう所の婚姻の形態とは著しく異なれども、男にそのようなことは関係なかった。

 そして、娘が生まれた。それから月日が流れた。




 男は再び、一人、今や誰も注視しなくなった小さな古ぼけた舞台で母より譲られたグースリを膝に、その艶やかな木肌を撫でている若い楽師を見た。その表情は、一見澄ましているようにも見えたが、眉が微かに寄り、口元が窄まって不満の切れ端が影のように揺れていた。演奏を途中で遮られてしまったことが気に食わないのだろう。娘の心の動きは血を分けた父親である男には手に取るように分かった。母親に比べれば、まだその手は情感に欠け、拙いものであったが―耳の肥えた客であれば直ぐにそれと分かるだろう―それを補って余るべく母に似た良い声をしていた。

 娘は、少女の殻を抜け出して女へと変容(メタモルフォーゼ)する過渡期に差し掛かり、この時期特有の脆さと危うさが同居していた。最近は富みに女らしくなり、母の面影が重なるようになってきた。そして、このバールに新しく君臨する若い楽師目当てにやって来る若い連中―いや、客は若者だけとは限らないのだが―が目に見えて増えていた。そうして、偶に酒がいいように回りだすとこうしてついちょっかいのようなものをかけようとするのだ。娘の気を引く為に。まるで幼い子供のような単純さだが、ここいらの連中に手の込んだ駆け引きの類は似合わなかった。

 先程の一幕もそうした些細なことが切掛けだった。この日も男たちはいつものように若い楽師の演奏に盃を傾けながら黙って耳を傾けていたのだが、そこへふらりと新しい客がやってきた。中の客は慣れたもので一々やって来る客へ注意を向けたりはしない。主人はやってきた新しい客に軽く頷いて、店内を見渡すと生憎テーブルの方は既に常連の男たちで溢れ返り、辛うじてカウンターの方に二つばかりの椅子が余っているだけだった。

 男は小さく主人に目配せをした。

 今日も賑わっているな―男の瞳はそう雄弁に語っていた。小さく口の端が上がる。


 厳つい男たちでひしめくテーブルの間を器用に抜けて、カウンターに着いた男は、ここ一月ほどこのバールに顔を出すようになった所謂、新参者だった。この男もどこからか、この東の辺境に流れ着いて来たのだろう。もしくは、ここを踏み台に更なる跳躍をしようというのか。このバールは―いや、この街全体がそうだ―異国への扉であり、この国の臨時的終着点でもあった。様々な物、人が集まり、そして散ってゆく。職を求めて転々と各地を旅する傭兵のような男たちも多い。この国スタルゴラドでは傭兵が集まる街と言えば、王都から見て西にあるプラミィーシュレが有名だが、この港町ホールムスクも負けてはいなかった。ここでは積み荷の荷卸しや積み込みに肉体労働が求められたし、貴重な積み荷を目的地まで無事送り届けるのに腕の立つ用心棒が必要とされたからだ。街道も軒並み整備され、街道沿いの街や村々にも騎士団から派遣された部隊が簡易的ながらも詰め所を持っている為、今ではかつてのように盗賊団が跋扈(ばっこ)はしなくなったが、それでも盗人(ぬすっと)の類が全くなくなったわけではない。組織的に大掛かりな集団はこの辺りでは活動をしなくなったと聞いてはいたが、小さな小競り合いや盗賊被害に関しては、ここに集まる客たちからも時折耳にしていた。


 その男は、右の腰に長剣をぶら下げていた。埃っぽい地味な上下を身に纏い、粗野で荒くれ者のような風体だった。一見、傭兵稼業の男のように思える。だが、バールの主は、この客を唯の傭兵ではなかろうと踏んでいた。これは完全に勘に近いものだが、男からはかつての自分と同じ匂いがするような気がしたからだ。そう、騎士団に所属し兵士をしていた頃の覚えのある空気。それが過去の話なのか現在の話なのかまでは分からなかったが、男からは同じ兵士の匂いがした。

 しかしながら、主はそれ以上、男の素性を気に留めなかった。ここに来て酒を飲み、幾ばくかのつまみで腹を膨らませつつ、楽師の奏でる音色に耳を傾ける。それだけで客としては十分であったから。それにこの男は、決まって店の中でも滅多に開けないような上等な部類の酒を頼んだ。有り難い客だった。10年もののカニャークや15年もののズブロフカなど、主の趣味で店の棚にひっそりと置かれた銘酒を目敏く見つけて頼むくらいだから、無類の酒好きに違いなかった。その好みも主にはかつての兵士仲間を彷彿とさせたのだ。


 若く伸びやかな楽師の歌が止み、間奏として小さな白い手が膝の上に置かれた琴の上を軽やかに踊り始める。そうして紡がれる小気味良い音色に楽の世界に浸っていた男たちは静かに盃をちびりちびりと傾けながら、そのどこか懐かしい哀愁の漂う旋律に聞き入っていた。

 その心地よい一時を打ち破る無粋な声が客席から上がった。

「オールフェ、もういっぺん、歌ってくれよ。おめぇのそのちいせぇ口から『あんたが好き』ってやつを。あー、たまんねぇな、おい」

 どんな世界にも、どんな時代にも、こういう無粋な色ぼけ男はいるものだ。

 客たちはちらりとそんな酒の席には付きものの戯言を口にした男を見た。その客は体格の良い男で少し変わった髪型をしていた。天辺にある一部の髪を除いて全てを剃りあげている。但し、禿げではない。たっぷりとした口髭を生やし、年はそこそこ若いのかも知れないが、親爺のようなだみ声で―酒の飲み過ぎで喉が焼けてしまったのだ―お世辞にも色男と呼べるような部類ではなかった。

 港湾で働く典型的な男だった。二の腕には海の男・マリャークであることを示す紋様が彫られていた。ここではすっかり顔馴染みの男である。この男もこのところすっかり女らしくなったこの楽師にぞっこんで、淋しい独り者であることもそうだが、最近は酒が良いように入ると妙に絡むようになったのだ。普段ならば、良識ある者なら口には出来ないような卑猥な言葉を捲し立ててげらげらと下卑た笑いを浮かべるこの男に、店の主が窘めるようにその名を呼ぶことで収まるのだが、この日は、重ねる盃の回数と比例してその巡りも早かったようで、開店早々面倒な酔客が出来上がっていた。


 その男が、またもや間奏の合間に卑猥なことを言った。

「おい、ディーシャ」

 常連客の一人が静かにしろとその名を呼べば、

「あ? んだと? 文句あんのかよ?」

 男はその場で熊が咆哮を上げるように唸った。

 その間も楽師の演奏は続いていた。生まれてからずっとこの中で育ってきたのだ。酒場の喧騒は子守歌代わり。こういう客たちの口汚い罵り合いも慣れたものだった。

 間奏が終わり、再び伸びやかな歌声が女楽師のほっそりとした喉から漏れ出した時も、酔っ払い男の戯言は続いていた。

「おーい、オールフェ。オルフェーシュカ! かわい~こちゃ~ん。今夜はおれとしっぽり楽しもうぜぇ、なぁ、いいだろ? ぐふふ」

 他の客たちは、諦めの境地でだみ声の男を放っておいた。その内、酔い潰れるかして静かになるだろうと踏んだのだ。やっこさんは腕っ節だけは強い男だ。素面でない時に首を突っ込んでとばっちりで怪我をするのは馬鹿げている。それに最終的には、この店の主がどうにかするだろうという期待が客たちの胸先にはあった。


 この店の主が軍人上がりであることは知られていた。しかも、あの激戦「西の(ザーパドニィ)(フォルト)」を生き抜いた猛者として、今では尊敬や憧憬の眼差しで見る若い男たちも多かった。顔を始めとして体中に刻まれた古傷の痕が、男が潜り抜けてきたであろう壮絶な人生を雄弁に語っていたからだ。そういう意味でこの店の主は一目置かれていたのだ。

 集まった客たちはそろそろ潮時だろうかとこの店のカウンター奥にひっそりと佇む寡黙な男を透かし見ていた。

 だが、ここで予想外のことが起こった。主が行動を起こす前にカウンターの隅に座る一人の客が騒がしくしていた坊主頭の男に「うるさい」と注意をしたのだ。

 客たちは首を突っ込んだ男を一瞥して、興味深そうにその成り行きを見守った。中には余計なことをしたものだとその後、男に振り掛かるであろう不幸を見越して憐憫とも同情とも付かぬ視線を投げたものも少なからずいた。騒いでいた一風変わった丸刈りの男は、この界隈では性質の悪い酔っ払いとして有名で、この手の輩に正論は言わずもがな通じない。さてさてどうやってこの場を収めようというのだろうか。野次馬の血も騒いで、新しい客の男とその奥で静観している主人、そして、反対にこちらは意気揚々とテーブルの傍でふんぞり返りながら、盃の酒を呷り、つまみを指で摘んでは口の中に放り込む大男を恐々と見物していたのだった。


 そして、場面は冒頭に戻るというわけだ。

 主はびっこを引いて客たちのテーブルから空になった皿を下げて行った。昔から、この小さな店には雇いの料理人が厨房に一人いるだけで、給士は雇っていない。客から注文を受けたり、食事を出したり、後片付けをするのは、全て主である男の仕事だった。

 いつもより手際よく男はテーブルの間を一人黙々と働いた。というのも、店の外で始まった仲裁の為の喧嘩を見る為に客たちがこぞって外に出払ってしまったからだ。この隙をこれ幸いと主は仕事に勤しんだわけである。客は銘々の盃を手に、中にはこんがりと焼いた骨付き肉をしゃぶりながら外へ出た。入り口の扉が大きく開け放たれ、全開にされた窓枠に凭れかかって内側から外の様子を眺めている客もいる。 皆、荒くれ者の男たちだ。なんだかんだ言ってこういう喧嘩の類には血が騒いで仕方がないのだろう。


 ワァーと一際大きな歓声が上がった。其々、男たちが応援する相手に向かって野次を飛ばしている。

 主は未だ舞台に座っていた楽師に下がっていいと声を掛けてから、同じように店の外に出た。店内で拳を振るわれて中が滅茶苦茶になるのは敵わなかったから外に出ろと言ったものの、一応、客同士のいざこざだ。しかもその発端は、男の娘でもあるのだから、全くの部外者面をすることも出来なかった。

「行け! ディーシャ! ほら、そこだ!」

「おうおう、やっちまぇ!!」

 興奮した客の男たちがマイカ(タンクトップ)一枚、二の腕に彩られた彫物と浮き出た力瘤をこれ見よがしに見せながら、大声を上げていた。

 客たちが遠巻きに囲む中には二人の男たちが所謂「拳闘」の体勢で佇んでいた。

 拳闘というのは、この国では一般的な男たちの間の喧嘩の作法で、文字通り拳同士を使って、簡単に言えば殴り合いをするものだ。一対一のものから、集団で闘争を行う力比べ的なものまで―この場合は明らかに祭事的要素を含む―この地域では幅広く浸透しているものだった。基本的には片手を自分の背中に回して向かい合い、腕一本で相手の胸元を掴んで投げ、先に地面に伏せさせた方が勝ちという規定(ルール)があるのだが、ここではそのような生温いことは有り得ない。

 明らかに酔っ払い男の方が劣勢であった。図体だけは大きくとも肝心の足元がふらふらなのでどうしようもない。大きな拳で相手の男へ殴りかかるものの、素面である男にひょいとかわされてしまうのだ。

 主は、店の戸口に寄りかかって暫くその喜劇の三文芝居にもならないような莫迦げた遣り取りを眺めていた。どこで制止の声を掛けるか、その間合い(タイミング)を計る為でもあった。


「おいおい、しっかりしろよ。突っかかってきたのはおめぇの方だろう? さっきの威勢はどうした。あ? 熊でもちったぁましな一撃を繰り出すぜ」

「んだと? 言うじゃねぇか! ふざけやがってコンチクショウ」

 相手の男が余裕たっぷりに腕組みをしながらのんびりと声を掛ければ、男はいきり立って、唾を地面に吐き出した。

 そして再び構えると、酔っ払いなりに渾身の力を込め、相手の男に狙いを定めて殴りかかった。

 だが、その重いはずの拳は、相手に片手で受け止められてしまった。ぐぐぐぐぐと力任せに押そうとするが、何故かびくともしない。

「あ? んなもんか? たいしたことねぇな」

「んだと?」

 港でも怪力を誇る男が、酔っぱらっているとはいえ、軽くあしらわれていることに周囲の男たちはどよめき、驚きを露わにしていた。

 暫し、至近距離で睨み合った二人の男たち。一人は髪を剃り上げ、てっぺんの所にだけひょいと菜っ葉のような房がある変わった髪型をした巨漢で、顔を真っ赤にして向かい合う男を伸そうとしていた。一方、対峙する男は無精髭の間に歯を食いしばりながらもどこか余裕ある表情をしていた。

「ふ、ざ、け、ん、な!!」

 一言一句区切るように大男がより一層の力を込めれば、踏み締めた長靴の底をザリザリとさせながら男がやや後ろに下がった。そこで大男は薄らと残忍な笑みをその口元に刷いた。ここで勝負が決まるとでも思ったのだろう。

 だが、同時に受け手の男の方もにやりと人を食ったように口角を上げた。

「だ、か、ら、おめぇは、単純、だってんだよ!」

 そんな台詞と共に男は塞がっていたはずの右の拳を引くと素早い動きで相手のがら空きになった鳩尾に拳を強かに打ちこんだ。水面が破裂するような音の後に鈍い殴打音がして、男の目がカッと見開かれた。

「ガキはもう寝んねの時間だぜ?」

 崩れ落ちた男を軽く支え、そのまま地面に仰向けに寝そべらせたのだった。

「いっちょ、あーがり~」

 口笛を吹いてパンと一つ上機嫌に手を打ち鳴らした男に集まった客の一部からはやんややんやと喝采が送られた。

「うっわ、ディーシャの野郎がやられちまったよ!」

「ざまぁねぇ」

「つーか、初めてじゃねぇか、んなこと」

「おいおい、どうするよ、これ」

「あー? どーするってぇ、決まってんだろうがよ」

「繋ぐ…か?」

「やっぱなぁ」

「シカトは不味いだろ」

「あー、まぁ、めんどくせぇことになるか」

「どの道な」

「ってかさ、あいつ誰だよ?」

「あ?」

「知るか」

「最近ちょくちょく来るやつじゃね?」

「そうか?」

 男たちの話声が、さざ波のように満ち引きを繰り返し、緩く囲まれた人垣の中を漂った。


 その時だった。店の外で騒いでいた集団にどこからか騒ぎを聞きつけたのか、この界隈を巡回していた制服姿の男たちが現れた。直ぐ傍の海と同じ深い紺碧の色を基調にした上着―昼間は鮮やかな色に見えるのだが、この時は夜であったので闇夜の海と同じに黒っぽく見えた―を着た男たちで、腕に赤い腕章を付けていた。

 この街に古くから存在する自警団の男たちだった。この街を取りまとめているのは、代々ミールと呼ばれる商業組合の長だが、その下で若者たちを中心に組織された一団が、自警団としてこの街の治安維持や民事というよりも刑事的側面を持つ揉め事の解決に一役買っていた。因みにこの自警団とは長い歴史と伝統を持つ街の男たちによって組織された武装集団で、寄せ集めの烏合の衆ではない。そこで編み出された武術(戦闘方式)は一つの流派を名乗る程だ。現在ではかつてのような規模は失いつつあるが、よく訓練された軍事的玄人たちの集まりだった。そういう意味では騎士団の一部隊と変わりないかもしれない。

「何事だ?」

 青い上着を白いマイカ(タンクトップ)一枚の肩に羽織った体格の良い男が険しい顔をして周囲に集まる労働者たちの集団を睥睨した。人だかりの中心付近、ぽっかりと空いた空間に、大の字になって伸びている男が一人いることを認め、それから視線をその脇に立つ男に向けた。

「あ? ちょとした力比べってぇやつだよ。この通り、やっこさんはすっかり夢の世界に旅立っちまって。別に大したことじゃねぇ」

 立っていた男が軽い調子で手を振った。

「おい、ありゃぁディーシャの野郎だ」

 その内、男の後方、同じように青い上っ張りを着た一人が言えば、制服を身に着けた男たちの間の空気が一気に緊迫さを増した。

「おい、ディーシャ!!」

 当て身をくらい、気を失って倒れている男の傍に自警団の男たち二人が駆け寄った。

「おい! しっかりしろ!!」

 相手を起こそうとぺちぺちと頬を叩くが、ぴくりともしない。

 仲間の状態にもう一人の男が吠えた。

「てめぇ! ディーに何しやがった? だたじゃおかねぇ。このクソ野郎。ぶっ殺す」

「あ? てぇしたことねぇよ。ちょっと入っちまったってぇだけで。それに元々酔っぱらいだったぜ? あんまりギャーギャーうるせぇもんだから、大人しくしてもらっただけだ。じきに目が覚める。ぐだぐだ言うなよ。うっせぇなぁ」

 相手の男は、男たちの剣幕をひらりとかわして、さもかったるそうに言い放った。


 やって来た青い制服姿3人の内、先頭に立つ(リーダー)格の男が立ったままの男を見た。暗がりの中、やっと漏れた店の軒先の明かりを頼りにその顔を確認するように見て、それから男の腰に下がる長剣を目にやった。

「見ない顔だな。どこのもんだ? ピュタクか?」

「あ? どこって、俺はしがない一匹狼さ。あんたらの方こそ、この大男とお仲間なんだろ? だったらちょうどいいじゃねぇか。こいつを持ってってくれ。こんな所に寝っ転がってられたんじゃぁ邪魔で仕方ねぇからな」

 その余りにもぞんざいな口振りに青い上着を肩に引っ掛けていたいかにも粗暴な感じのする男が眦を吊り上げた。

「んだと! 舐めた口ききやがって、Xxx 」

 呪詛に似た罵詈雑言をまるで息を吐き出すのと同じく自然に加えて男が凄む。それをこの三人の頭格と思しき男が手で制した。対峙した男は、心底面倒臭そうに伸びた柔らかな茶色の髪をボリボリと掻いて、不意に腹に手を当てたかと思うと店の戸口を振り返った。

「あ、おやっさん、ペリメニ! 腹が減ってしかたねぇや」

 その声にバールの主に人々の注目が集まった。


 主のイルムークは、腕組みしたまま戸口に凭れかかっていたのだが、その背を離すとゆっくりと体を起こし、緩慢な足取りで―びっこを引きながら一部緊迫した渦中にやってきた。

「セヴァート 、ディーシャを頼む。少し酒を過ごした」

 ―お前の方が、そいつの酒癖の悪さをよく知ってるだろう?

 淡々とそう付け加えると片手を振った。そして、まだ鋭い目付きで見慣れない傭兵風の男を睨みつけている制服姿の男たちに言った。

「この客は俺の手間を省いてくれた。それだけだ」

 言葉少なにそう口にすると主は店へ戻るべく踵を返した。それを合図に集まっていた客たちもわらわらと主人の後に続いて途中だった食事を再開すべく、古ぼけた盃の看板が揺れる小さな店へと入っていった。そのしんがりに例の傭兵風の男が続いた。のんびりと両手を頭の後ろに乗せて「腹が減ったなぁ~」などと気の抜けたことを口にした。

 青い上着を引っ掛けた自警団の男たちは仲間と思しき男を二人がかりで肩に担ぎ上げた。そうして表が再び場末のひっそりとした余韻を引きずる界隈に戻らんとした。


「おい」

 濃い茶色の―と言っても闇の中では黒っぽく見えた―髪を短く刈り上げた男が、もう一度、呑気に遠ざかってゆく男の背を鋭く見据えていた。

「んぁ?」

 全く緊張感のない声で大男を伸した男が首だけ振り返った。

「この礼は、あとできっちり返してやる」

「ええー、んなこといいって別に。気ぃ使うなや」

 男が有難迷惑だと言わんばかりに愚痴を零したのだが、自警団の男はその視線を更に険しいものにした。

「へいへい。まぁ、律義なこって」

 男はやってられないとばかりに片手をぞんざいに振った。だが、ちらりと後ろを見て、青い上着の男と目が合うと意味深にニヤリと笑って見せたのだった。言外にその挑戦をいつでも受けて立つとでも示すように。青い上着を肩に掛けた男は、黙ったまま拳を握り締め、ギリリと奥歯を噛んだ。


 そのようなことがあってから暫く。男たちの鼻歌混じりやら時に涙に濡れた笑い声、話し声が再びバール泡沫亭の小さな店内にざわめき始めた中、カウンターに座った男の前に湯気を立てたペリメニの皿が、些かぶっきら棒な手付きで置かれた。

「お、待ってましたぁ。旨そうだな、おい」

 湯気を立てた皿を前に男が手を揉んだ。

 ペリメニとは、この国では広く食されている水餃子の一種だ。中には荒く挽いた(ミャーサ)】と香草、場合によってはルーク(ネギ)が入っていたりいなかったり。一口大の小さな肉団子を捏ねた穀物の粉を伸ばして作った少し厚めの皮で包んだもので、茹でて食べる。中には肉汁がたっぷり。咀嚼するごとに閉じ込められた肉の旨味が口内に充満すること請け合いだ。通常は茹でたものに(ソーリ)少々とバター(マースラ)をたっぷり掛けて食べるが、肉の脂がしつこい場合は酸味に酢を加えても良いだろう。スメターナ(サワークリーム)でも美味い。勿論、このペリメニを野菜たっぷりのスープに加えてもいい。この国では一般的な家庭料理の一つだった。


 男の前にその小さな皿を置いたのは、主の太い傷だらけの指ではなく、ほっそりとした白魚のような娘の手だった。男が目線を上げれば、そこには深い緑色の目を吊り上げて険しい顔をした若い娘の姿があった。例のグースリ弾きである。

「もう、勝手なことしないでよ!」

 語気を荒げて娘が言った。楽師は、演奏を中断しなければならない状況になったことが腹立たしかったようだ。

「なんでぇ、えらく御機嫌斜めじゃねぇか」

 男が気にすることなく、からかうように笑えば、

「あんたが余計なことするからよ!」

 娘はつっけんどんに言い放った。

「……オールフェ」

 カウンターの奥、定位置にいた主が窘めるように娘の名を呼んだ。

「もういい。お前は下がってろ」

「せっかくたくさん練習したのに。やっと最後まで弾けるようになったのに………」

「そういう時もある」

 娘の愚痴に主が諭すように言葉を継いだ。

 楽師は聴衆があってこその存在だ。自分がいかに心を込めて気持ち良く演奏していようとも客がそっぽを向いていたら始まらない。

 そのような遣り取りがあった一方で男は茹でたてのペリメニを匙で口にひょいと入れたのだが、

「あちっ…あっつ……っ」

 その余りの熱さにもんどり打ちそうになるのを堪えるように匙を握り締め、はふはふと口に冷気を取り込み涙目になりながらもなんとか咀嚼し、ごくりと飲み込んでから―まるで道化(スカモローフ)の独り芝居のようだ―ちらりといまだ不服そうに口を尖らせてカウンターの内側に置かれた椅子に座る娘を見た。娘は不機嫌な顔を隠さずに手持ち無沙汰に足をぶらぶらとさせていた。

「すまなかったな」

 殊勝にもそのような謝罪の言葉が聞こえた。

 娘は男の方をちらと見たが、直ぐに目を逸らした。どうやら練習に練習を重ねた曲の披露目を邪魔されてかなりのおかんむりであるらしい。この男が間に入らなければ、あのまま最後まで弾ききることが出来たかもしれないのに―言外に滲み出た娘の心情はある意味あからさまで男にも理解出来た。

 だが、男は大して気にも留めていないように皿の中のごろりとしたペリメニを次々に口の中に放り込んだ。美味い物を食べた時の人の常に漏れず、男の薄汚れた顔には笑みが浮かぶ。そうして綺麗に平らげると満足そうな息を吐いた。

「おやっさん、いつ来てもここのペリメニは最高だな」

 男が無精髭の合間から子供みたような顔をして歯を見せて笑えば、カウンター奥で洗った器や盃を拭っていた主は浅く頷いて、言葉少なに「そうか」と言った。

「あ…あったり前じゃない! だって母さん直伝なんだから!」

 そこで何故か娘の方が顔を赤くして―怒りと羞恥が混じった不可思議な現象だった―カウンターに座る男を一睨みした。

「あ?」

 男は思いがけない娘の挙動に目を丸くした。褒めたのになんで文句を言われなくてはならないのだろうか。訳が分からず、理由を尋ねる為に奥の主を見やれば、主は、たっぷりと生やした口髭の合間から古傷の為に引き攣れた笑みを浮かべていた。

「こいつはあの子が作ってる。母親の味を引き継いでな」

 主がそっと種明かしをした。

「へぇ、そうか」

 男は合槌を打ってから感心したように言った。

「たいしたもんじゃねぇか。これだけ美味けりゃぁ、いつ嫁に出してもおかしくねぇってとこだろ」

「あんたには関係ないでしょ!」

 厨房の方へ引っ込んでいたはずの娘が、いきなり顔を出したかと思うとそれだけ言い放ってからまた奥に引っ込んだ。男は主と顔を見交わせると肩を竦め、それから苦笑した。

「どうやら嫌われちまったみてぇだな」

 男はその言葉ほど傷ついてはいないように飄々と(うそぶ)く。

「気にするな」

 主のどこか他人行儀な口振りに男は薄く笑みを浮かべた。

「はは、おやっさんにとっても小難しいお年頃ってぇやつか?」

 主は引き続き洗い終えた盃類の水気を布巾で拭いながらも、その問いには答えずに些か不満そうに鼻を鳴らしたのだった。


「ごっそさん」

 ペリメニを平らげた後、もう一杯ズブロフカを飲んで、言い値よりも幾分大目の代金をカウンターの上に置いてから男が立ち上がった。その頃にはもう店内の客はまばらになっていた。港湾労働者たちの朝は早い。皆、適当な所で切り上げて其々の住処に帰るのだ。いつまでも店に居座るような輩や酔い潰れて寝入る輩は滅多にいなかった。基本的に酒には強い男たちだ。正体不明になるまで酒を過ごし、呑まれる輩は不名誉なことだった。

「なぁ、お前さんは………………」

 気前よく代金を払って店を後にする無精髭の伸びたむさ苦しい傭兵風の男の背に主が声を掛けた。

 ゆっくりとした動作で男が首だけ振り返った。珍しく右の腰にぶら下がる長剣の鞘先が、膝丈の黒っぽいカフタン(長衣)の裾の切込み(スリット)から覗いていた。

 ―兵士か?

 だが、喉まで出かかった言葉を主は飲み込んだ。今、その問いを発するのは時期ではない気がしたからだ。

「まいど。スパコイノイ(安らかな)ノーチ(夜を)

 そして、開きかけた口は別の言葉を紡いでいた。「おやすみなさい」という就寝前の一般的な挨拶の語句(フレーズ)

 男は振り向きざま、微かに目を細めると軽く片手を上げた。露光を調整された発光石の橙色滲む眠たげな光りの中で、去りゆく男の瞳の色が、まるでくすんだ春の空を映したような青灰色であることに気が付いた。

 主は、カウンター上の代金を懐に入れ、空になった皿を下げながら、今宵もまた変わった客が現れたものだと密かに思った。

 だが、悪い気はしなかった。同じ明かりに照らし出された主の表情は思いの外、楽しげでもあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ