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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第二章 まどろみの獅子
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10)おせっかいの片棒 後編


 そうして、ブコバルに連れてこられた場所は、繁華街からは外れた港に程近い場所にある小さなバール(酒場)だった。ブコバルはまるで通い慣れた道のように裏通りの入り組んだ細い路地を抜け、人気のない通りに出た。

 気がつけば、日没間近になり、山の端は茜色に染まり、白っぽい石壁一面に柔らかな最後の日差しを投げかけていた。港と海がある東側を見やれば、薄い衣をまとった滑らかな闇が迫っている。準備の早い店は、もう表の小さな街灯に明かりを灯している。ブコバルが立ち止まった先には、錆びた蝶番が軋む無骨な素っ気ない木戸とバールであることを示す小さな古ぼけた看板が軒先にかかっていた。


 ここだと顎をしゃくられて、扉を開けたブコバルに促されるようにリョウは中に足を踏み入れた。好奇心と静かな興奮に胸が高鳴っていた。ホールムスクに来てからというもの、こういう外の店で食事をするのが初めてだったからだ。

 店内は、柱の傍に発光石の明かりが控え目に灯る、こじんまりとした作りだった。中は穴倉のように薄暗い。だが、この暗さはひっそりとした場末のどん詰まりに相応しい落ち着きとさり気なさに一役買っていた。入ってすぐの所からテーブルが五つほど並び、それらを囲むように椅子が置かれていた。奥には5人も座れば一杯になる小さなカウンター。そして、その真横には、一段高くなった舞台のような場所があった。

 まだ日没から間もないというのに店内では既に仕事を終えた男たちがテーブルを囲み、むんとした独特の熱気に包まれていた。港湾関係で働く海の男たちマリャークだろう。肩に引っ掛けた上着から覗く太い二の腕にはぐるりと目印のように特徴的な彫物が施されていた。


 ブコバルは入り口で、カウンターの奥に立つこの店の主と思しき男に目線で合図をした。主は小さく頷いたのだが、ブコバルの傍にいた連れに目を止めると少し物珍しそうな顔をした。


 ブコバルに背中を押されるようにしてリョウが中に入ると、奥のテーブルを囲んでいた一団がちらりと新たな客へ視線を投げた。そのまま興味を失くすように一時中断した話題を繋ぐかに思われたのだが、その中の一人があっという顔をして腰を浮かせた。

「せんせぇ! せんせぇじゃねぇですか!」

 びっくりするくらい良く通る声がして、立ち上がった男がリョウの方にやってきた。狭い店内なので大股で五歩も歩けば目の前だ。

「この間は本当に助かったよ。いやほんと。なにもかもあんたのお陰だ。恩に着るぜ、せんせぇ」

「ああ、エスフェルさん! こんばんは。その後、調子はどうですか?」

 なにやら見覚えのある顔だと思ったら明かりが十分に差す下で再度確認すると、すぐに相手が港の診療所で初めて手当てをした患者であると気付いた。リョウにとっては診療所に詰める契機になった男であったので、忘れられる訳がない。同じテーブルには患者を担いできた仲間の顔もあった。

「ああ、ばっちりだぜ」

 エスフェルは目を細めるとその場で足踏みした。

「そうですか。それは良かった」

 あの後、何度か経過を診る為に診療所に寄ってもらったのだ。トレヴァルの脅しが効いたのかは分からないが、あの時、失うかもしれなかった足が無事繋がって、余程胆が冷えたのだろう。手当の手伝いをしたリョウにもやたらと感謝することしきりで、終いには拝む始末。港特有の訛りの強い口調で「せんせぇ」と呼び、命の恩人だと言って憚らなかった。リョウは、たいしたことはしていないと相手から妙に持ち上げられることに閉口したが、ここで反論するとややこしくなるので黙っていた。


 当時の事を思い出したのか、感極まった様子でリョウの手を握り込んだエスフェルの横で、仲間のヴァトスがニヤニヤと意味あり気に目配せした。

「おう、リョウ。もしかしてそいつがおめぇのコレか?」

 声量を抑えているつもりらしいのだが、男の声は店中に響き渡った。厳めしい図体の割には神経質で心配性な所のあったヴァトスが、リョウの後ろを通ってさっさとカウンターに着いたブコバルに意味深な視線を投げた。親指がひょいと上に向けられて、ちょいちょいと動く。

「まさか! 違いますよ」

 リョウは即座に否定した。リョウが結婚していることは知っていたヴァトスだが、その相手までは分からない。どうやらブコバルをそうだと思ったようだ。

 リョウは即否定したのだが、ヴァトスは少し目を眇めてニヤリと笑った。違うようにとったようだ。

「なんだ間男か?」

「違います」

 ―冗談じゃない。

「じゃぁ情人(いろ)か?」

「違います」

 きっぱりと言い切ったリョウにヴァトスは椅子に座ったまま声を低くした。

「あ? でもこんな時間にこんな店に来るたぁ、訳ありじゃねぇのか?」

「なんでそうなるんですか。ただの知り合いですよ」

 まるで浮気の現場を抑えられたような言いがかりにリョウは内心憤慨した。だが、こちらが否定をすればするほど、エスフェルとヴァトスの二人は分かったような顔付きで頷き合っている。

「せんせぇ、んなムキになんなくたっていいぜ。俺たちゃぁ口はかてぇ。せんせぇの旦那にゃぁ黙っといてやるからよ」

「ああ。男に二言はねぇ」

 ―だからどうしてそうなるのだ。

 エスフェルからも任せておけとばかりに微笑まれて、リョウは内心毒づいたのだが、相手は所詮酔っ払い。さっと話を変えた。

「エスフェルさん、まだ完治はしていないのですから、お酒はほどほどにしておいてくださいね」

 術師らしく尤もなことを口にすると、リョウはこれ以上妙な誤解をされても堪らないとそそくさとテーブルを離れてカウンターへと赴いた。




 カウンターの粗末な丸椅子に腰を下ろせば、ブコバルが訊いた。

「知り合いか?」

 リョウは小さく頷いた。

「この間、治療を施した患者さんです。あとそのお仲間の人たち」

「えらく感謝されてるみてぇじゃねぇか、え? 術師先生よ」

 エスフェルの口真似をするようにからかわれてリョウは微妙な顔をした。今だからこのように笑っていられるが、あの時は本当に足を切断しなければならないかもしれないと緊張したのだ。大がかりなことにならずに済んで本当に良かったと思う。

「ワタシはまだまだ新米ですよ」

「ああ。でもあいつらにとっちゃぁ、んなこと関係ねぇだろ。お前は術師だ」

「そうですね」

 リョウは大人しく合槌を打った。

 経験不足、新米であることを理由に患者から逃げるな―と暗にブコバルから窘められた気がした。

 ブコバルは寛いだ様子でカウンターに体をもたせかけた。

「でもまぁ、あの様子じゃ上手くやってんじゃねぇか」

 そう言って穏やかに笑う。

「そうですか?」

「だろ?」

 そこで、リョウの表情を見たブコバルは眉根を寄せた。

「んだよ。せっかく人が褒めてやってんのに」

 ―ちったぁ、嬉しそうな顔しろよ。

 リョウは少し気味悪がった。

「なんだか、ブコバルから褒められるなんて、へんな感じ」

「あ? んだよ。俺だって相手を認める時はちゃんとするぜ?」


 気の置けない二人が他愛ないやりとりをしていると、間合いを計るようにカウンターの奥からこの店の主を思しき男が現れ、ブコバルの方へ小さな揺れに芳しい香りを放つ盃を置いた。

「珍しいな」

 ―連れがあるなんて。

 主がちらりとリョウを見た。それに目線で軽く応えてから新参者は微笑んだ。

「こんばんは」

「何にする?」

 「飲み物は?」と主が訊いた。

「ええと……そうですねぇ。ブコバルはズブロフカ?」

「ああ」

 ブコバルが頼んだ酒は、ユルスナールも好んで飲むものだが、リョウには何分きつい。

「ではワタシは、ヴィノー(ぶどう酒)にします。どんなのがありますか?」

 ヴィノーというのは、ヴィノグラード(ぶどう)という果物を元に作られる果実酒だ。口当たりも柔らかく王都では養成所の友人たちと食事をした時に飲んだ。

クラースナイェ()か、ベェーライェ()か? 好みの銘柄はあるか?」

「リョウ、好きなやつを言ってみ」

「では【ツィナンダーリ】 はありますか?」

 以前、王都で勧められるままに口にして美味しかった銘柄を思い出し、駄目もとで挙げてみたのだが、

「ああ、あるよ」

 主は淡々と頷いて酒をしまってある棚の方へ行くのだろうか、カウンターに背を向けた。王都では簡単に入る酒だが、ホールムスクのこのような小さな酒場に置いてあるものだろうかとリョウは失礼なことを思ってしまったのだが、ふとあることを思い付いた。

「ひょっとして」

 リョウが隣を見やれば、ブコバルはなにやら得意げな顔をしている。

「ああ、ここには美味い酒がある」

 ―飯も中々だぞ。

 なるほど。場末にある小さな店構えのバール(酒場)といえども、ここでは無類の酒好きを唸らせる銘柄を揃えているということなのだろう。隠れた名店といったところだろうか。

「だからここに入り浸っているんですか?」

「まぁな」


 リョウの頼んだ酒がくると二人は体を少し相手に開くようにして盃を持つ手を目線辺りまで上げた。

「何にする?」

 ―何のために乾杯をするのか。

 この国では酒を飲む際に気の利いた乾杯の口上が必要不可欠だ。

「そうですねぇ」

 中途半端に手を掲げたままリョウは首を傾げた。こうしてブコバルと二人で出掛けるのは初めてのことだ。外出時に偶々でくわして道中を共にすることはあっても、自らの意思で―というのは大げさだが―こうしてバールの片隅で酒を酌み交わすことになるとは思わなかった。

「ブコバルがヘマしませんように?」

「あ?」

 即座に不満そうな抗議の声が上がる。

 ブコバルがこの地で特殊な任務に就いているらしいことはユルスナールやシーリスの話から薄々感じていた。ブコバルがこうして兵士であることを隠し、傭兵を彷彿とさせる格好(なり)をしているには訳があるのだろう。そして、その任務には危険が伴う。この街は王都や他の都市とは勝手が違う。騎士団だからといって大きな顔が出来る訳ではないし、逆に騎士団の兵士であることが不利に働くことだってある。

 ならばせめて、ブコバルが怪我をしないように。普段は口にしなくとも、友人として祈るような気持ちが胸の奥底にあったのは確かだ。

「冗談ですよ」

 リョウはあえておどけたように軽く笑い、手にした盃を軽く横に揺らした。

「皆が健康でいられますように」

 みんな―その中には第七の兵士たちはもちろん、ブコバルも含まれる。リョウは小さく微笑んでから、盃の中身を軽く呷った。

 ブコバルは珍しく一瞬だけ真顔になって、それから引き結んだ口元を意味深に緩めた。

「じゃぁ、俺は、ルスランのやつに乾杯でもするか」

 ―哀れな男のために。

 そう言って一人静かに盃に口を付けてくいと中身を飲み干した。

 隣に座るリョウは目を瞬かせた。

「てかさ、リョウ。つまんねぇことでいつまでも喧嘩なんかしてねぇで、あいつの機嫌をとってくれよ」

 軽い調子の中にも少しだけ本心を覗かせる。

「へ?」

 きょとんと能天気な顔を晒したリョウを見てブコバルは呆れた。

「おいおい、冗談だろ、リョウ。お前、気付いてないのかよ」

「なにがです?」

「あのなぁ」

 ブコバルは大きく溜息を吐いた。

「ルスランのやつだよ」

 青灰色の瞳がじっと恨みのこもった色を灯して友を見つめれば、リョウは誤魔化しきれなくなったのか苦笑いした。

「ああ。この間のことですか」

 とぼけたフリをすることも出来たのだが、ブコバルがこうして自分を連れだしたのも心配をしたからだろうと思うと罪悪感に心が疼く。

 三日ほど前、保護した少年ユリムのことが話題に上り、リョウは必要以上に感情的になってしまったのだ。間にシーリスがいたから良かったものの、二人きりであったら、相手に気を許しているからこそ、意地の張り合いになってこじれていただろう。そして両者の間には目に見えない小さな亀裂が走っていた。些細な傷は気がつかぬふりをして放置しているとやがて大きな亀裂になる。硬ければ硬いほど柔軟性を失い、一気に割れ、修復できなくなる。硬さは脆さなのだ。


 正直なところ、いまだにユルスナールとの間にはぎこちなさが残っている。ユルスナールは面と向かって小言を言ったりはしないが、胸中にわだかまりを抱えていることは分かる。リョウ自身、いつまでも意地を張っているのは子供染みて馬鹿げていると思っている。

 今なら、リョウはユルスナールの気持ちを、たとえ全てを理解することはできなくとも、推し測ることができると思った。ユリムの事情も僅かだが明らかになった。そうすると次にとるべき行動は自ずと決まってくる。リョウの中ではいまだこれまで見聞きしてきたことが胃の底に重く圧し掛かるように溜まって、上手く消化できていないのも事実だが、今夜を境に素直になれる気がした。そう思えるようになったのもブコバルのおせっかいのお陰なのだろう。


「大丈夫ですよ」

 リョウは照れも入ってか、少々気まずそうな顔をして笑った。情けない感じに眉が下がる。

「帰ったら、ちゃんと仲直りしますから」

 それから何を思ったのか悪戯っぽく笑った。

「でも、ブコバルと晩御飯を食べてきたって聞いたら、へそを曲げられそうですよねぇ」

 片方の眉を器用に上げてブコバルは口の端を少し下げた。勢いのままに行きつけのバールを訪れたものの、その後の友人の反応が手に取るように想像できたのだろう。拗ねた堅物男ほど面倒くさいものはない。

「あー、まぁな。適当に誤魔化しとけ。後はお前がどうにかできるだろ?」

 ―その手練手管でな。

 隣からついと手が伸びて椅子に座るリョウの太ももから膝頭を触った。

 不意に夜の閨での睦言を仄めかしてブコバルが下卑た笑いを口元に浮かべれば、リョウは、不躾な手をぴしゃりと叩き落とし、相変わらずな男の思考回路に冷たい視線を放った。

 だが、もやもやと宙を漂っていた憂鬱は、ひとまず落ちる所に落ちた。

 リョウは気を取り直して盃を掲げた。

「では、ルスランの為に」

「ああ」

 手にした盃の脚を軽くブコバルの盃に打ち付け、二人は目を見交わせてから心得たように乾杯した酒に口を付けた。




「はい。どうぞ」

 カウンターの向こうからひょろりとした白い手が伸びてリョウの前につまみの乗った平たい皿が置かれた。この港の沖合で獲れるセリョートカ(ニシン)の油漬けがルーク(オニオン)と一緒に添えられていた。傍には薄く切った黒パンもある。

「ありがとうございます」

 存外若々しい声にリョウが顔を上げれば、カウンターの向こうには主とは似ても似つかない若い娘がいた。頭に薄い布(ヴェール)を被り、額の中ほどに回した輪で留めている。まだどこかあどけなさの残る娘だった。

「お、今日は早い入りだな」

 ブコバルが常連らしく慣れたような口をきいたが、娘は男を一瞥した後、つんと澄ましたまま片づけを始めた。(ヴェール)の合間から覗く【レェーベジィ(白鳥)】のようなほっそりとした首が抑えられた明かりの下、美しく、また(なま)めかしくも見えた。

 リョウがちらりと娘を見てから、問うような視線を隣に投げれば、

「ここの名物だよ」

 つまみに出されたセリョートカとルークを黒パンの上に乗せて食べながら、ブコバルが言った。

「ああ、可愛らしい看板娘さんということですね」

 酒を飲みに夜な夜な男たちが集まるバール(酒場)で給士をするにはまだ年が若過ぎるような気がしないでもないが、労働者ばかりが集まるむさ苦しい所では、あの娘は可憐な花のように愛でられるに違いない。

 そう思ってリョウは別のテーブルに料理を運んで行く娘のほっそりとした立ち姿を目の端で捕らえたのだが、

「いや、まぁ、それもあるには違いねぇが…」

 ブコバルが言葉を濁した所で、こちらを振り向いた娘が何故かキッと眦を吊り上げた。なにやらつんけんした態度である。噂にされたことが気に食わなかったのだろうか。

 それとも。

 リョウは同じように黒パンの上に薄いシィール(チーズ)を乗せてかじりながら、いつにもまして髭が伸びたむさ苦しい今夜の相棒を盗み見た。ブコバルには別段変わった所は見られない。

「あれだよ。なんつったっけか、ええと……バヤーンが弾くやつ」

 身ぶり手ぶりでカウンターの上で楽器を弾くような真似をしたので、

「グースリですか?」

 思い付いたことを口にすれば、当たっていたようだ。

「そうそう、それだ。ここではグースリの演奏があるんだ。あの()はグースリを弾く。結構上手いぞ」

「そうなんですか」

 リョウはこの国にバヤーンと呼ばれる楽師たちがいて、彼らが好んで弾く楽器がグースリと呼ばれる三角形の平たい琴であることは知っていた。最後に演奏を聴いたのは、王都の宮殿で開催された晩餐会の一席だろうか。あの時は宮廷お抱えの年老いた楽師が、大きな琴を膝に乗せて朗々と素晴らしい喉を披露しながら器用に弦を爪弾いていた。


「素敵ですね。生の演奏が聴けるなんて」

 ―しかもこんなに間近で。

 この店に来る客たちは、昔から楽師の演奏目当ての者も多いと聞いて、マリャークたちは単なるがさつで荒っぽい所のある男たちという認識を改めた。なんとも情緒があるではないか。

「ひょっとして今夜も聴けるんですか?」

 リョウの瞳に小さな好奇の輝きが煌めいた。

「ああ、じきに始まる」

 ブコバルより先にカウンターの向こうにいた主が答えた。

「まだまだ半人前だが、楽しんでいってくれ」

「はい」

 リョウは内心楽しみにしながらその時が来るのを待った。




 やがて。先程まで狭い店内を給士に回っていた娘の姿が見えないと思ったら、カウンターの脇に設けられた小さな空間にぼんやりと発光石の明かりが灯った。暗がりに明かりが差し、夜更けの闇に滲むように溶け込んだ淡い橙色が、周りより一段高くなった場所を柔らかく照らす。そこだけ時間が停止したような不思議な感覚を覚えた。

 密かな衣ずれの音の後に、ふわりと香辛料のきいた甘い香りが狭い店内に漂ったと思ったら、先程の娘が大きな琴グースリを抱えて椅子に座っていた。薄い衣(ヴェール)が若い娘の顔を半分隠し、娘の年齢を分からなくさせた。ゆったりとした衣から伸びた腕は細くしなやかだった。半ば闇に溶け込む、ひっそりとした佇まいは、先程の娘を別人のように大人びて見せた。


「よ、オールフェ、待ってました!」

「おー、おー、いろっぺぇのを頼むよ!」

 ほろ酔い加減の男たちが歓声を送る。

 楽師は琴を膝の上に乗せると調弦を確かめるように軽く弦を爪弾いた。そして、準備が整ったのか、顔を上げるとぐるりと店内に集まった男たちを、ほっそりとした首の上から見渡した。真っ直ぐに伸びた背筋が、緩んだ場の空気を引き締めてゆく。

 店内には不思議な沈黙が落ちていた。先程まで騒いでいた男たちが嘘のように、誰も身じろぎすらしない。皆、演奏が始まるのを、今か今かと固唾を飲んで見守っていた。

 リョウも同じように食事の手を止めて、カウンターの脇から小さな舞台を見守った。そこからは娘の横顔が見えた。すっとした鼻筋が薄い衣(ヴェール)の合間から覗く。

 その時、ふいにこちらを見た楽師と目が合った。薄い衣の向こうで挑戦的に微笑まれた気がした。紅を刷いた艶やかな口元がゆっくりと弧を描く。だが、衣越しの瞳には強い光が灯っていた。

 ―なんだろう。

 リョウはちらりと隣に座るブコバルを見た。カウンターに肘を着いてこちらも聴く体勢を整えている。

リョウは妙な居心地の悪さを感じてしまったのだが、気のせいだろうかとすぐに意識の外に追いやった。

 そして、シャランという少し甲高い弦を掻き鳴らす音に続いて、名物楽師の束の間の演奏(パフォーマンス)が始まった。

 リョウは盃に口を付けると、喉元を通る酒のまろやかな甘みを楽しみながら、一聴衆として緩やかな旋律(メロディー)の波に意識を同調(シンクロ)させた。


ようやくプロローグのシーンに追いつくことができました。ここではプロローグの時点よりも少し後のエピソードになっています。

そして久々のブコバル。なにやら奇妙な三角関係の予感を残しつつ(笑)一段落つきましたので、これにて第二章を終りにしたいと思います。

ありがとうございました。

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