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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第二章 まどろみの獅子
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9)おせっかいの片棒 前編


「ほら、いつまでもんなしけたツラしてんな」

 ぶっきら棒な声と共に古ぼけてざらついたカウンターテーブルの上に小さな器が置かれた。素朴な木彫りの椀からは茹で上がったばかりのペリメニ(水餃子)が熱々の湯気を立てている。マースラ(バター)の甘い独特な香りが鼻先を擽った。同じ作りの素朴な匙を差し出されて、小さな手がおずおずと握り込んだ。

「こういう時は、うまいもんを食べんのが一番だ」

 空いた腹を満たすことは、心を満たすことに繋がる。体を温め、腹の虫が収まれば、人間というものは現金なもので、それまで感じていた苛立ちを鎮めることが出来る。食べることは、即ち、生きることではあるが、最低限の食生活が保障された後に出てくるのは、上手いものを食べたいという欲求だ。そして、それが満たされた時、人は、手っ取り早く幸福感―たとえそれが疑似的な誤魔化しであっても―を感じることができるのだ。一時的なまやかしであったとしても幸福を感じることが出来れば、落ち込んだ気持ちを上向けることに繋がる。

「ほら、遠慮すんな」

 隣にどっかりと腰を下ろした男はそう言って、酒の入った盃をぐいと呷った。

 椅子が五つも並べばいっぱいの狭いカウンターに収まり、冴えない顔色で体を縮ませていた男の連れと思しき客は、温かい(スープ)と中から醸し出される肉の匂いに忘れていた食欲を思い出したようだった。

「イタダキマス」

 皿の前で両手を合わせて妙な文言を紡いだかと思うと大きめの匙を手に握り(スープ)を啜った。

「……おいしい」

 小さく漏れた声の後、まだどこかぎこちなさが残るものの、口元に微笑みが浮かぶ。

「だろ?」

 ―だから言ったじゃねぇか。

 出された料理の味をさも自らの手柄のように自慢したむさ苦しい客に、カウンターの中からすかさず鋭い指摘が入った。

「あんたが威張ってどうすんのよ」

「あ? いいじゃねぇかよ。うめぇもんはうめぇんだからよ。なぁ、おっさん」

 細長いカウンターの奥で一人静かに他の客から注文が入った酒を注いでいたこの店の主は、前に座る客をちらりと一瞥しただけで、口を開こうとはしなかった。

 だが、その隣に座った連れに対しては、

「お代りはいくらでもある。好きなだけ食べていけ」

 と相変わらずの素っ気なさだが、分かる者には分かる優しさのこもった声音で付け足した。

「ありがとうございます」

 客が小さく礼を口にすれば、店の主は古い刃傷痕により引き攣れた頬を器用に片方だけ歪めて、男にしては精一杯の微笑みを返した。

「どうせ、こいつの驕りだろう? 遠慮なんざぁするもんじゃねぇ」

 好きなもんを腹一杯食べればいい。

「あ?」

 勝手に財布の中身を当てにされたことに客の男は反射的に不服そうな声を上げたのだが、主はそれをあっさりと流した。そして、主人と客の人を食ったような応酬に、一人大人しくカウンターの椅子に収まっていた小柄な客人は、更に喉の奥をくすくすと鳴らした。

「そうですね」

 この店に来てからようやく寛いだ笑みが垣間見えた。匙に乗せたペリメニ(水餃子)をふうふうと息を吹きかけて冷ましてから口に入れる。

 それを横目に見た男は、盃に口を付けてから素っ気なく言った。

「ああ、まぁ、好きにしろ」

 連れが好きなだけ食べたとしてもその量は高が知れている。そのくらいの甲斐性はあると言った男の言葉を今度は他の常連客たちが耳聡く聞きつけた。

「さすが、アニキ、太っ腹! ごちになりますぜ!」

「おお、わりぃな」

 どっと沸いた店内に男が声高に返した

「馬鹿言うな。俺の連れはこのちんまいの一人で、おめぇらなんぞ知ったこっちゃねぇや。そっちはそっちで勝手にやってろ」

「ええ~」

「偶にはいいだろ~」

「ケチくせえな」

「あ? そういうおめぇこそ俺に奢ったことがあったかよ」

 知った顔なのか、あわよくばという下心をこっそり覗かせて悪ふざけを始めた外野がやんやと茶々を入れれば、

「あほか、てめぇのもんはてめぇでもちやがれ」

 カウンターの男は一喝すると絡んでくる男たちに見向きもせずに、一人くいと盃を呷ると目の前に置かれていた皿からつまみのカルバサ(ソーセージ)をひょいと摘んで口の中に放った。




 この日、約三日ぶりに丘の上の宿舎に戻ったブコバルは、浮かない顔をしていたリョウを外に連れ出した。

「ついてこい」

 なんの理由も明かさずにただ一言そう告げて、戻ってきたばかりの道を再び下った。


 ユルスナールとリョウの間でちょっとした諍いのようなものがあったと聞いたのはついぞ三日ほど前のことだった。その場にはシーリスもいて最終的には丸く収まったようであるし、夫婦間のことであるから本来ならばブコバルが口を挟むことではないのだが、今回は留守の間に妙な空気が兵士たちへも感染していたようで、宿舎全体に何とも言えない淀んだ空気が漂っていた。三日経てば少しは風通しが良くなっているかと思われたことが、良くなるどころか逆に悪化していたことにブコバルは眉を顰めた。ブコバルという男は、普段はいい加減で規則や規律なんかクソ食らえとでも思っているような輩だが、場の空気を人一倍大事にする所がある。喉に小骨が引っかかったような居心地の悪さを素早く感じ取ると、持ち前の勘の良さでその原因を突き止めた。

 兵士たちの尻がどこかそわそわと落ち着いていないのは、団長であるユルスナールの機嫌にあったようだ。閉じられた狭い人間関係の中では、長の苛立ちは直ぐに伝わるものである。上下の規律がしっかりしている軍隊では特に。


 ブコバルは、すぐにリョウの姿を探した。付き合いの長い幼馴染(ユルスナール)が、日常の軌道から逸脱し、どうにも手に負えなくなる場合には、必ず妻であるリョウが絡んでいるというのが、これまでの経験から生み出された法則だ。由緒正しき貴族の出で、自己抑制・自己管理の行き届いた男であり、クソ真面目で石頭、面の皮の厚い面白味のない男が、些細なことで動揺し、澄ました仮面を落っことして単なる馬鹿男になり下がる時は、必ずといっていいほど、妻であるリョウに関する何かが起きた時である。ユルスナールにとって、妻は人生の良き伴侶、互いの良き理解者であり、夫を支える精神的強みでもあるが、その一方で、平静を乱す弱点でもあると言えた。


 リョウの姿はすぐに見つかった。宿舎の中には術師として活動するリョウの為に小さな薬草園が新しく設けられていたのであるが、一人になりたい時や考え事をする際には決まってここにやって来るのだ。この小さな区画は大勢の兵士たちと共同生活を送る宿舎の中で、術師であるリョウの唯一の私的領域(プライベートエリア)であり、逃げ場でもある。


 リョウは、地面にしゃがみ込んでまだ植えられたばかりの小さな草木の様子を見ているようだった。ブコバルから見れば、リョウほど分かりやすい奴はいない。考えていることがすぐに顔に出るので隠しごとなどできない性質だ。

 小さな骨張った手が根の張り具合を確かめるように土に触れているが、その瞳は恐らく目の前に揺れる草葉を映してはいないだろう。どこか遠く、いや、奥深く、自分の中の深いところを見ているのかもしれない。

 ブコバルはざっと周囲の気配を探ってみたが、リョウが過日裏通りで拾ってきて以来熱心に世話を焼いているという少年の姿はなかった。

 ならば都合がいい。

「リョウ」

 ブコバルが声を掛ければ、

「ああ、ブコバル。おかえりなさい」

 少し驚いたような顔をしてリョウが立ち上がった。


 リョウの顔色は、お世辞にもあまりいいものではなかった。咄嗟に笑みを浮かべて見せるが、シーリスのように何食わぬ顔をして動揺を隠しおおせることは出来ずに、影の差した片頬がぎこちなく歪む。

 このデシャータク(10日)余り、リョウが一体何に心を奪われているのか、何を思い悩んでいるのか、ブコバルには思う所があった。相手の全てを正しく理解しているとは思わないが、ユルスナールやシーリスとはまた違った視点からブコバルは親友の妻をブコバルなりに捉えていた。

 リョウがどのようなことに心を煩わせているのか。ユルスナールとは違って私情を挟まないので妙な迷宮に深入りすることもなく、適当な距離から客観的に相手を眺めることができるからかもしれない。


 ―しゃぁねぇな。どいつもこいつも頑固な石頭だ。ブコバルは内心悪態を吐いた。

 二人の間で生まれた不協和音は、元々夫婦喧嘩をこじらせたようなものなので、放っておくという選択肢もあったのだが、宿舎内にそれとなく漂う居心地の悪いピリピリとした空気を黙認することも出来ず、ブコバルは自分の精神衛生上の為にもおせっかいを焼くことに決めた。


 ホールムスクに着任してからここ一月余り、ブコバルは同じ第七師団所属の兵士たちが身に着けているような隊服に袖を通していなかった。少し薄汚れた感のある、諸国を転々とする流れの傭兵のような服装と言えば分かりやすいかもしれない。洗いざらしのシャツに革のヴェスト、そして地味な色合いのゆったりとした上着を重ねる。腰回りは太いベルトが回っていた。その右側には愛用の重厚な剣が一振り体に張り付くように収まっている。髭も伸ばし放題、髪もぞんざいに撫で付けただけの荒々しい雰囲気だ。

 ブコバルは赴任早々、とある任務に就いていた。生真面目で寡黙なロッソとお調子者のセルゲイと一緒だ。その任務の内容についてはまだこの時点では伏せておこう。




 宿舎から街へと下る道中、リョウはブコバルにどこへ行くのかとは尋ねなかった。ただ黙々と歩く。ブコバルの方も何も言わない。

 道々、ブコバルには妙なことだが、リョウの沈黙がひどく饒舌に思えた。ぐるぐると様々な言葉がリョウの周囲を鎖のように渦巻いている気がした。その文字がどのようなものかはブコバルには見えも聞こえもしなかったが、思い詰めた顔から流れ出るその無色透明な文字の切れ端が、こんなことを言うのもなんだが、妙に耳について仕方がなかった。


 古くからの繁華な街の中心部周辺を緩衝地帯の如くぐるりと囲む雑木林を抜け、中心街へと続く大通りへと通じる道の手前で、ブコバルは左に折れた。そのまま進めば、もう少しで川にぶつかるだろう。

 日がようやく西に傾き始めた頃だった。くすんだ青空に薄らと黄みが混じる、どこかうらぶれた淋しい気配が東の空をひたひたと浸す頃合いだ。

「あの……ブコバル?」

 その時になってやっと、少し前を歩く大きな背中にリョウは声を掛けた。明らかな戸惑いを、ブコバルは振り返り、ずいと手を差し伸べることで制した。

「リョウ、いいか」

 利き手である左手を差し出して、ブコバルはリョウの右手を掴んだ。加減をされなかったので骨が軋むように痛んだ。ぼんやりとしていた意識が急激に引き締まる。思わず顔を顰めて振り払おうとしたが、ブコバルは上体を屈め、無精髭の伸びた顔を近づけて低く唸った。

「気ぃ引き締めろ。おめぇみてぇなぼやぼやしてるやつは格好の餌食になるからな」

「え?」

 一瞬、何を言われたのか分からずに混乱したリョウを余所にブコバルは再び歩き出した。手を繋がれたままのリョウも半ば無理やりついて行く羽目になる。


 ブコバルが歩みを進めて暫く、周囲の空気が一変したのが感じ取れた。景色が灰色の陰鬱な空気に沈んでいる。表通りの華やかさは見る影もない。

 そこは、同じ街とは思えない程にうらぶれた界隈だった。欠けた小さな椀の傍らに力なく座り込み、虚ろな目をした男が目に入った。剥き出しの足や腕は泥だらけで棒のようにやせ細っていた。ごみごみとした狭い場所を仕切るように並んだ木っ端片の屋根の向こうには、ぼろ布のような洗濯物の類が幾重にもたわんだ網に揺れていた。ゴミ溜めのような饐えた匂いが鼻を刺激してリョウは思わず顔を顰めた。ふと顔を逸らした先に酒瓶を手に場違いな闖入者―リョウとブコバルのことだ―を睨みつける男の挑発的な視線に出くわした。


 物陰から放たれる視線は冷たいギスギスとしたものだった。自分たちの領域(テリトリー)に入り込んだ異分子への拒絶反応。微かな羨望の入り混じった敵対心。無関心なようでいても意識をしている眼差し。獲物を狙う捕食者が舌舐めずりをして相手の隙を窺う。

 リョウの背中はざわざわと粟立った。理由のない嫌悪感を向けられるのはどうにも居心地が悪くて仕方がない。

 そこは、荒んだ刹那的な空気が淀む一角だった。ホールムスクの中でも犯罪の温床となる危険な区域。絶望を抱えた者、赤貧にあえぐ者。一日を生き延びることに精一杯な者たちが集まる場所だ。煌びやかな表通りからは切り離された、繁栄から忘れられ取り残された澱が燻り溜まる場所。

 ここは商業組合ミールの管理下から外れた場所だった。ホールムスクでは全ての民が等しくミールの恩恵を享受している訳ではない。組合員の中では共助の意識が浸透しているが、そこから漏れてしまう人々がいることを忘れてはならないだろう。ホールムスクにはそこにある富みを求めて世界各地から様々な人がやってくるが、その多様性と間口の広さが、底の見えない闇を生み出す。


 ブコバルはこの界隈の陰鬱な空気に紛れこむように体を滑り込ませた。リョウは半ば強制的に手を引かれながら歩き、なるべく平静を保とうとするが、明らかな動揺に瞳が揺らぎ、伏せられた視線と色を失くした顔色に溶解できない異質性を目立たせた。リョウの服装は繁華な表通りではすぐに埋もれてしまうような地味なものだったが、この通りをなんの躊躇いもなく歩くには、些か小奇麗過ぎた。


 ブコバルはリョウの手をしっかりと掴み、周囲にくまなく気を配りながら、この富みから見捨てられた窪地の如き湿原を歩いた。日の暮れかかった小路の闇の中から、壁にしなだれかかった夜の女たちの肢体が、くすんだ赤い影となり浮かび上がる。値踏みをするねばついた視線が首筋に絡みつく。そこかしこで漏れ出でる香が入り混じり、湿った重い香りとなって淀み、うねった細い通りをジグザグに進むふらついた足元に引っ掛かっては、混ぜ返されて行った。


「いいか、リョウ。よく見ておけ」

 ブコバルが低く囁いた。

「これが、ここのもう一つの現実(かお)だ」

 見慣れない二人連れに突き刺さるあからさまで容赦ない視線。先が曲がった剥き出しの短剣を弄びながら歩く荒んだ顔付きの男たち。酒瓶を片手に空の木箱をひっくり返しただけの台を囲み、賭け札に興じる男たち。ここを支配する時は、すぐ傍をゆっくりと蛇行する川の流れに反射するさざ波の如く停滞する。退廃した空気。絶望と諦観を目尻の皺に刻み、こけた頬に映した女たちの消耗した姿。洗濯を繰り返して色褪せた服を着た幼い少女が揺りかごに入った赤子をあやしている姿もあった。この通りには朗らかな笑い声や楽しそうな囁きはなかった。子供たちからも笑みを奪っている。

 リョウは、歩みを進めながら無意識にブコバルの手をきつく握り締めていた。


 無言のまま小路をぐるりと回り、通りを突き抜けるように歩き続け、再び川べりまでやってきた。嫉妬、嫌悪、反感、孤独、絶望。様々な感情が入り混じった幾つもの視線から解き放たれて、ようやくリョウは息を吐き出した。肌の表面がチクチクと痛かった。

 リョウが握り締めていた手を離すと、ブコバルは喝を入れるようにパシンと小さな背中を小気味良い音を立てて叩いた。

「腹が減ったな」

 痛いという抗議の声すらも封じ込めてブコバルが言った。そして、一人でさっさと歩き出す。リョウは面食らいつつも相手の突飛さはいつものことだったので、大人しくついて行くことにした。ブコバルはああ見えて、無駄な布石を打たぬ男だ。

 それでも気持ちをすぐに切り替えることが出来ずに、心は先程の陰鬱で屈折した光景に捕らわれてしまう。この国に暮らして丸三年。リョウ自身、田舎から都会まで様々な人の暮らしを見てきたと思っていたが、先程のような界隈は、リョウの日常とは殆ど掠ることのない、もしかしたら危険だからという明快で単純な理由から意識的に避けてきた場所だった。繁栄の影に生まれる歪。富を求めて集まった者たちが競争に敗れ、夢破れた後に落ちる吹き溜まり。


 予想以上に衝撃(ショック)を受け、動揺したことにリョウは自らを恥じ、妙に落ち着かなくなった。

 ふいに立ち止まった連れに前を歩いていたブコバルはすぐに気付き振り返った。足元に長く伸びる頼りない影に大きな影が確かな足取りで近づいてくる。ブコバルは徐に手を伸ばすとリョウの頬の肉をむんずと抓み、横に引っ張った。相変わらず口よりも手が早い。

 リョウが目を白黒させていると、「ふん」と尊大に笑う。

「ほら、行くぞ。モタモタすんな」

 霞みのかかった黒い瞳。瞳孔が収縮し、やがてむさ苦しい男の姿が間延びして映り込んだのを見て取ると、ブコバルは再び止めていた足を前に繰り出した。




「ねぇ、ブコバル」

 二人は、緩やかに蛇行する川べりを横目に歩いていた。この川は数字の9を意味する【キレンチ】と呼ばれ親しまれていると聞いた。

 ブコバルはさり気なくリョウとの歩幅に気遣いながら、のんびりと長い脚の先、くたびれて馴染んだ長靴の靴底を蹴る。ブコバルは左利きで右側に剣を佩いているので、ユルスナールの時とは逆に男の左側を歩くのがリョウには少し新鮮だった。

 呼びかけたもののそれきり黙り込んでしまったリョウをブコバルは横目に見た。だが、ここで問いかけるようなことはしない。


 暫くして気の抜けた声が聞こえた。

「……やっぱり、ワタシがやっていることって………自己満足でしかないんですかねぇ」

 リョウ自身、ユリムを拾い面倒を見ていることを後悔したり、後ろめたく思っているわけではない。

 それでも。

 この時、リョウは初めて先だってユルスナールから言われた言葉の意味を理解した気がした。そして、ブコバルはユルスナールが考えていることをもっとはっきりした形、実地で教えてくれたのだろう。直接的な形で半ば強引だとしても、言葉を連ねるよりも実際に目で見て体感した方が分かりやすい場合だってある。

「あ? 俺はべつに、おめぇがやってることにいちいちケチつけるようなこたぁしねぇよ。俺は術師じゃねぇからな」

「ええ。分かってます。でもね、この間、ルスランが言ってたのって、このことなんだなぁと思って」

「まぁな」

 純粋な善意だけで今ここにある全ての不幸や貧困をなくすことは出来ない。リョウ自身、そのような思い上がりを抱いたこともない。

 もしかしたら、ユリムはここに蔓延る闇社会に連なる場所に身を置いていたのかもしれない。いや、どこまでが本当かは分からないが、少なくともあの子の告白を信じるのならば、先の見えない袋小路(トゥピーク)に迷い、そこに落ちてしまったのだろう。


 考え込むように黙り込んだリョウにブコバルが言った。

「べつにな、リョウ。おめぇを脅かそうってぇつもりはねぇ。ただな、この街にゃぁ…そうだな……スタリーツァ(王都)やプラミィーシュレとは違う淀みがある。おめぇみてぇな能天気なやつが普通に暮らしてる分にやぁ、すっと素通りしちまうようなもんだがよ、あのガキみえてぇなやつは、アレを見てきてるんだ。いや、知ってるってぇ言った方がいいか」

 含むようにブコバルが言った。

「ええ。恐らく。そうかもしれません」

 ユリムという少年の背景を全て掴んだわけでも理解したわけでもなかったが、リョウは静かに首肯した。

「だがよ、一度、関わるってぇ決めたんなら、リョウ、おめぇも腹をくくらなくちゃぁならねぇ。たとえそいつがてめぇには馴染みのねぇ、関わりのねぇ世界の住人だったとしてもな」

 そこでブコバルは真っ直ぐにリョウを見た。

「いいか、リョウ。そこから目を逸らすんじゃねぇぞ。理解しろとは言わねぇ。土台、おめぇにゃ無理な話だ。だがな、知らねぇからって言って、そっぽを向くことはするな」

 淡々としたブコバルの言葉は、飾り気がないからこそ真っ直ぐにリョウの心を射抜いた。深く。ズキリと痛いほどに。

 ブコバルが言いたいのは、現実から目を逸らすなということなのだ。中途半端に首を突っ込むようなことだけはするなと。知らないで済む世界は幾つもある。だが、自らの手で、その扉を開いた以上、たとえそれがきついことでも苦しいことでも、目を逸らさずに、あるがままを受け入れなくてはならない。

 ―毒を食らわば皿まで。

 リョウの脳裏には故郷の格言が浮かんでは消えた。


 不意にブコバルが話を変えた。おせっかいな臨時講師による課外授業は終わりを告げたようだ。そして、落ちこぼれな生徒に対しても最後まで面倒見がよいのは相変わらずだった。

「診療所の方はどうだ?」

 ホールムスクに来てからというものブコバルとは殆ど顔を合わせる機会がなかった。お互いにやることが沢山あったからだ。

「んー、まぁ、やっと慣れてきたっていう所でしょうかねぇ」

 診療所を任されている術師のトレヴァルは、そのあだ名【トレーズヴィ(しらふ)】の通り、相変わらず酒臭い息を撒き散らしているが、診療所はリョウがいるおかげで以前よりもずっと清潔に保たれていると評判だ。

「やってくる連中は、マリャーク(海の男)リィバーク(漁師)ばかりなんだろ?」

「そうですね。その家族もですが」

 そこでリョウは擽ったそうに笑った。ブコバルの質問の裏に隠れた友人を案じる気持ちがなんだか嬉しくて、面映ゆくもあったから。

「大丈夫ですよ。みんななんだかんだ言って、いい人たちばかりですから」

 海の男たちは姿形も性格も荒っぽい所があるには違いないが、第七の兵士たちの中で揉まれているリョウには免疫がついている。

「特にブコバルがいるおかげでね」

 リョウは冗談めかして笑った。

「あ?」

「だって、港で働いている男たちの中を探したって、ブコバルみたいにむさ苦しくて人相の悪い人はそうそういないですもの」

 今の格好で、それこそ額際や頬に傷でもあったら兇状持ちも顔負けだ。

 しゃぁしゃぁと言ってのけたリョウの軽口に、ブコバルは別段気分を悪くした風には見えなかった。むしろ上等だとでも言わんばかりに口の端を吊り上げる。

「そうかよ。んじゃぁ、これから顔出すとこも、俺みてぇなのがわんさかといるが、平気だな?」

 ―ビビんなよ?

「望むところです」

 ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべたブコバルにリョウも負けずに微笑んだ。

 そして、左側に見える川面を眺めながら大きく伸びをした。

「なんだかお腹が空いちゃいましたね。うん、ぺこぺこ。そうだ、今回はもちろんブコバルが御馳走してくれるんですよね?」

 ―ワタシ、今、あんまりお金持ってないですよ。

「あ? まぁな。うめぇもん食わしてやるよ」

「へぇ、ブコバルが美味しいって言うんだから間違いはないですよね」

 今の外見からはどうにも想像がつかないが、ブコバルは育ちがいいので、舌が肥えていて味にはうるさいのだ。

「あたぼうよ」

 ぼうぼうに伸びた髭の合間から覗いた白い歯に、気がつけばリョウもつられるように微笑んでいた。


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