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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第二章 まどろみの獅子
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8)多生の縁 後編


 ユリムが書置きをしたためている途中、控え目なノックの後、静かに扉が開いた。

「ユリム? 戻ってる? 遅くなってごめんね」

 ユリムは動揺を悟られないよう何食わぬ顔をしてペンを置くと、殊更ゆっくりとした所作でインクの蓋をしてから、ごわついた紙を二つに折った。インクがまだ乾ききっていないので、もしかしたら滲んでしまうかもしれないが仕方がない。今、この場で相手にこの中身を知られては不味い。どれだけ薄情なことをしようとしているかは秘密にしておかなければ。

「ええと……お邪魔しちゃった……かな?」

 開いた戸口際で気遣いをみせた声にユリムは小さく首を横に振った。

 リョウは人好きのする微笑みを一つ浮かべるとユリムを真っ直ぐに見つめた。

 その眼差しはユリムを困惑させた。邪気や偏見のない眼差しを国の民と同じ色の瞳から向けられることは滅多になかったから。面映ゆさと居心地の悪さと微かな嬉しさが混同する。まだ年若いユリムは全てを諦めるほど悲観的でもなかった。


 薄く紅が刷かれた小さな口が微かに動くが、すぐに閉じられる。何かを口にしようとして言いあぐねているようだ。

「ねぇ、ユリム。少し散歩でもしない? この所ずっと室内に籠りっぱなしだったでしょう?」

 それは、どこかとってつけたような誘いの文句だった。

 兵士たちの宿谷の裏手には雑木林が広がっていた。そこへ行こうとリョウは誘った。この場所は山の中腹にあたり、港がある街の中心部からは大分離れている。

 ユリムはきっと自分のことで話があるのだろうと思った。ここにいることが、彼らにとって都合悪くなっているとか。厄介払いされるのならば、今すぐにでも出て行く用意はある。ただ、心優しいその人は、それを面と向かって口にするのを躊躇っているのかもしれない。

 反対する理由がなかったので、ユリムは静かに頷いた。



 急峻な山道はユリムに故郷の森を思い出させた。深い山間の谷で育ったユリムには山道はなんてことはない。長靴の足裏を伝う柔らかな土の感触が、たった半年のことであるのにユリムには懐かしかった。

 少し前を歩く頭部から伸びた馬の尻尾のような一束の黒髪が揺れる。先導するリョウの左肩には小さなハヤブサが乗り、肩に当てた革の上に鋭い爪を食い込ませていた。

 ついてこいとの声にユリムは従った。ここでのユリムの立場は被保護者で、隷属的である。明らかな力関係に卑屈になる積りはないが、ふと圧倒的な立場の違いが提示する、自分の頼りなさに、今、こうして足を踏みしめている場所が本当は今にも割れてしまいそうな薄氷の上であるかのような気分になった。


 余計なことを考えていると導き手の肩に乗るハヤブサがユリムを振り返った。それにつられるようにリョウも足を止める。

「疲れた? 大丈夫?」

 いまだに病み上がりだと思っているのか心配そうな顔をしている。

「イヤ………コノクライ……ゾウサナイ」

「そう? でもあまり無理をしないでね。もうすぐだから、疲れたら言って」

 ならば始めからこのような山道を選ばなければよいのにと思ったが、ユリムは従順に頷いてみせた。


 見せたい場所があるのだと言う。普段は人が分け入らない獣道のような草の中をもう暫く進むと、突然視界が開けた。

 上気した頬をそのままに案内人がユリムを振り返った。同じ漆黒の瞳に喜びを砕いた煌めきが永遠の法則性に則り解き放たれる。もし、自分に姉がいたとしたら、このような感じなのだろうか。ユリムは思ってもみないことを考えた。

 ああ、いけない。すっかり故郷(くに)が恋しくなってしまっている。王から直々にこの旅を言い渡された時、ユリムはもう二度と国に戻ることができないかもしれないと覚悟した。故郷には元よりユリムの居場所はない。父が亡くなり、母もその後、すぐに恋しい人を追いかけるように儚くなった。ユリムの手に残されたのは、他人の感傷が詰め込まれた青い石。数多もの白い涙を吸い込んで膨らんだ冷たい石。そしてその石は、今ではユリムに祖国との繋がりを思い出させる唯一のものだった。


「ここはね、アデルマに教わったの」

 リョウは肩に乗る小さなハヤブサを慈しむように撫でながら言った。アデルマというのは、その獣の名だろう。

「ケモノノコトバガ…ワカルノダナ」

 厩舎の馬たちともまるで人に対しているかのように語りかけていた。ユリムは、リョウが一方的に人扱いして話しているのだろうと思っていた。獣好きな者たちがそうするように。

 その時ユリムは、従者の一人であったブラクティスの言葉を思い出し、顔をしかめた。ミールを訪ねようとしたあの日、術師と呼ばれる者たちは特殊な能力を持ち、中には人心を操る輩もいるので心せよと、仮面のような薄ら笑いを浮かべながら言ったのだ。

「きみの故郷(くに)には、いなかった?」

 ―獣の言葉が分かる人たちが。

「イヤ。モリノコエ、カワノコエヲ…キクモノハ…イタガ…」

「多分、同じようなことだと思うよ」

 そう言って微笑むと、リョウはユリムの隣に立ち、ゆっくりと視線を前に戻した。


 眼下にはホールムスクの街が広がっていた。赤茶けた石の屋根が所狭しと並んでいる玩具みたいな街。様々な色の天幕が揺れる鮮やかな色の洪水。

「ねぇ、ユリム。もしよかったら、何があったか……話してもらえる……かな?」

 若干の躊躇いを見せつつも、まるで軽く世間話を振るようにリョウが口を開いた。

 ユリムは身じろぎ一つしなかった。

 青い海原に点々と浮かぶ大小の帆船。モザイクのような街。目の前に広がる景色は絶望するほどに美しかった。ここから見える街の様子は、ホールムスクが抱える汚濁を嘘のように覆い尽くしている。この表層の景色に真実は欠片も含まれていない。誤魔化され、煌びやかな装飾の施された模造品(イミテーション)。傍観者として愛でるには相応しい偽りの明るさだ。

 ただ、この美しさはユリムの心に響かなかった。その裏に潜む蠢く汚濁と野蛮な欲を知ってしまったから。傷ついた者がくたばるのをじっと待つ肉食獣の如き冷徹な眼差しが、あの下には横たわっている。そして、骨までしゃぶりつくされるのだ。森の掃除屋(scavenger)のように。


 ぼんやりと正面を向いていたユリムにリョウはほんの少し困ったように眉根を寄せて笑った。

「恋しく…なった?」

 何をという肝心の所を濁して、リョウは横目にユリムを見た。

 この少年は先程から微動だにしない。一人、深いもの思いに沈んでいるようだった。そこにどんな感情が芽生えているのか、澄ました顔からは読み取れない。

『リョウ、我は行く』

 肩に乗ったアデルマが言った。

「うん。ありがとね」

『道は分かるか?』

「うん。大丈夫。目印は付けておいたから」

 小振りのハヤブサは、肩から同じく無骨な皮の肘当てが回る前腕へと移動すると勢いを付けたリョウの腕の動きに合わせて大空へと飛び立った。天高く舞い上がるとピィーと一鳴きし、ゆっくりと頭上を旋回してから空の彼方に消えた。


 バサリとした翼の羽ばたきにユリムは我に返った。

「ワタシが生まれ育った所ではね。こんな風に海があったの。ただ、こことはまるで違うけれど」

 耳に入った声にユリムがちらりと隣を見れば、リョウは後に残してきた故郷を懐かしむように目を細めていた。

「ウ…ミ?」

「そう。灰色の黒ずんだ砂が広がる海。波がずっと荒々しくて、夜明け前の一時みたいに深い青い色をしていたの。黒々とした岩場もあった」

 その話はユリムには唐突なものに聞こえた。

「きみの所はどう?」

 ユリムはその質問から相手がサリダルムンドを本当に知らないのだと理解した。

「ウミ…カ?」

「そう」

 ユリムは吹き寄せる風に頬にまとわりつくおくれ毛を鬱陶しそうに撫で付けると小さく笑った。

「イヤ、アソコ二…ウミハ…ナイ。ヤマ二…カコマレタ…クニ」

 深い谷合の山々が唯一の景色で、その隙間をうねるように細い川が流れる。

「オレモ……ウミハ…ハジメテ…ミタ」

 気がつけばユリムはそう口にしていた。

「そう。ワタシもこの国に海に面した街があるとは聞いていたけれど、ここに来てこの目で見てみるまでは半信半疑だった」

「ココニ…ナガク…スンデイル…ノデハナイ?」

「ううん、違う。ここにはねぇ、大体一月半前くらいからかな。それまではずっと北の、村落からも離れたうら寂しい所にいたの。この街はあんまりにも人が多くて賑やかだからとてもびっくりしちゃった」

「ナガイタビヲ……シタノダナ」

「そうね」

 ゆっくりと息を吐き出したユリムにリョウは小さく微笑んだ。

「きみもそう?」

「モット…ナガイ。フタツノツキハ…ウマデ。ソレカラ、モウフタツ、フネデ」

「四か月もかかったの?」

 リョウは驚いたように息を飲んだ。

「ずっと一人で旅を? 誰か一緒ではなかったの?」

 無邪気な声音での問い掛けにユリムはそっと目を伏せた。

「イヤ…………」

 そのままぎゅっと唇を噛み締めて。眼下に広がる景色をまるで呪うかのようにきつい眼差しで睨んだ。


 ざわざわと吹き寄せた風が鬱蒼と茂る木々の梢を揺らした。風の悪戯か、時折、思い出したように潮の香りを鼻先まで運んでくる。遠く一面に広がる青い水面は、穏やかな春の日差しに反射して、大量の砂金を捲いたかのようだ。

 やがてユリムは妙に大人びた声を出した。

「アス……デテユク。コレマデ セワニナッタ」

 突然の告白にリョウはびっくりしてユリムを振り返った。

「え? どうしたの? やっと怪我が治ったばかりじゃない」

「ダカラダ。イツマデモ セワニナッテイルワケニハ イカナイ」

「ちょっと待って、ユリム。兵士たちから何か嫌なことでも言われたの? 彼らのことは気にしなくていいのよ? 口が悪い連中も中にはいるけれど、根はいい人ばかりだから」

「ソウデハナイ」

「ねぇ、ユリム。無理にとは言わないけれど、もしよかったら何があったのか話してくれる? もしかしたら力になれることがあるかもしれないから」

 ユリムは改めて出されたその申し出に面食らった。そして、すぐに気分を害したように眉根を寄せた。

「ナゼ? ナゼ…ソコマデ? ナニガ モクテキダ?」

 ユリムは先程、自分が兵士から問われた言葉を発していた。

 これまでの親切でさえユリムにしてみれば信じられないくらいであるのに。これ以上、どうして親身になる必要があるのだ。どこまでお人好しであれば気が済むのだろう。

「目的なんてないわ」

 ユリムの問いに目を見開いた後、リョウは小さく笑った。殊更のんびりと日常の瑣末なことを舌に乗せるように言葉を継ぐ。

「きみが何か…困ったことに巻き込まれている気がするから」

 ―困ったこと。

 ユリムの背中にひやりとしたものが伝った。足に鉛が付けられたように重く感じる。

 正直、ユリムが陥った状況は困難なものである。だが、それをここで口にして相手に助けを乞うことは、ユリムの矜持に反した。ちんけな自尊心(プライド)と言われてしまえばそれまでだ。しかし、元服を終えた成人の男として、そこは譲れなかった。

「ただ………そうねぇ。ワタシが出来ることをやりたいと思ったの」

 ユリムは奥歯を食いしばった。腹の中から湧き出てくるのは苛立ちだった。

「ナゼ? アカノタニンニ ソコマデスル?」

「他人? 少なくともきみは術師であるワタシの患者よ。ワタシはきみの名前を知っている。出身地も。だからワタシにとって、きみはもう【赤の他人】じゃないわ」

 ―ワタシはそう思っているけれど?


 その言葉にユリムは呆れた。それが本心であるというのならば、この女は馬鹿がつくほどのお人好しだ。

「アンタニハ……カンケイノナイ…コトダ」

 暗黙の了解として引かれていた境界線を越えて踏み込まれたことが気に食わないのか、吐き捨てるように言うとそっぽを向く。その様子がまるで癇癪を起した子供のように相手に受け取られていたとはユリムは思わなかった。

 リョウは気にすることなく微笑んだ。

「ええ。そうかもしれないわね。ワタシはきみがどんな目的を持って旅をしていたのかも、どうしてあんなところにいたのかも知らない。でもね、きみはワタシから短剣を奪おうとした。怪我をしていたから手当てをした。きみがいるのは、この街の治安維持を任されている騎士団の宿舎で、少なくとも短剣に関しては事情を聞かなくてはならないと思うのだけれど」

 にっこりと笑ったリョウにユリムは不満そうに鼻を鳴らした。

「オレヲ……オドスノカ?」

「そんなつもりはこれっぽちもないけれど? リュークスに誓って」

 この国で信仰されているという神の名まで出す。


 ここに来てユリムの心は揺れ始めた。このリョウという能天気に微笑む女を信じてもよいのだろうか。いや、でも。もし全てが仕組まれたもので、この女があいつらに通じていたら、俺はまたあの黴臭い陰気な場所に逆戻りだ。そして、手間を掛けさせたという理由で報復を受けるだろう。腕か足の一本はへし折られるかもしれない。

「ナゼ……ソコマデ…キニカケル? オレガアワレカ? カワイソウダカラカ?」

 下手な憐憫などまっぴらごめんだ。

 ユリムは三度同じ問いを繰り返した。少ない語彙の中から単語を慎重に選ぶ。相手の本心を炙りだろうとでもするかのように同じくらいの高さにある馴染み深い色をした瞳をじっと見つめた。

 射抜くような鋭い視線にリョウが真面目な顔をした。

「人を助けるのに……理由が必要?」

 それはどこか冷たさのある平坦な声だった。

「アア」

 少なくとも、今のユリムには対価として差し出すものが何もない。そう付け足せば、リョウは片頬だけ哀しそうな顔をして笑った。そして、無言のまま再び前を向く。


 上空を流れる雲が瞬く間に二人の上を横切って小さな二つの人影を束の間、大いなる影の中に落とし込む。ぽっかりと空いた小さな穴の中にはまってしまったかのように。

 そこから抜け出すにはどうしたらいいのだろう。


「そうねぇ」

 暫くして、リョウはのんびりと口を開いた。

「あえて理由を挙げるとするならば………」

 リョウはユリムを横目に見た。

「似ているから……かな?」

「ニテ…イル?」

 ―誰に?

 言われたことがよく理解できなくて目を瞬かせたユリムに、リョウは振り返ると笑みを深くした。

「ワタシに」

 不意にユリムは胸が締め付けられるような苦しさを味わった。その微笑みは亡き母が最後に息子に見せた表情(かお)に似ていたから。少し困ったように柳のような細い眉を寄せるのだ。哀しい顔で笑うのだ。

 だが、それは一瞬のことで。

「それじゃぁ理由にならない?」

 今度はこちらを試すように悪戯っぽく笑った。


 ユリムは相変わらず遠くの景色を睨みつけたまま。ただ、その瞳は機械的にモザイクに似た混沌とした人々の生活を映し出していただけだった。

 少しは信じてもいいのだろうか。いや、もちろん全てを話す必要もないのだ。相手が何を思い、何を考えているのかは分からなかったが、ここから這い上がるために使えるものは全て使ってやると開き直った。今のユリムには己が命以外、失うモノなどないのだから。


 ユリムは降参したように溜息を吐いていた。

「アンタ………ツクヅク…オヒトヨシ…ダヨナ」

 食堂で聞きかじった兵士たちの口調を真似て、ユリムはぞんざいに言い放った。

「そう?」

 だが、仏頂面をしたユリムとは反対にリョウはどこか嬉しそうに微笑む。

「アア……アンタハ……」

 そこまで口にして、知っている言葉が見つからかなったのか、古代エルドシア語に置き換えた。

「桁外れのうつけものなり」

 差し出された見えない手にユリムはそっと指先で触れた。同時にこれまでに感じたことのない感触に驚いて反射的に引っ込めようとした手を、向こうがしっかりと握り返してきた。たとえるならば、そのような感じだった。

「それは褒め言葉として受け取っておこうかな」

「ふん」

 大きなお世話だとでも言いたげな態度をとったものの、ユリムの心は、むず痒くなるくらいに温かくなっていた。思春期にありがちな葛藤を抱えた、素直になれないぶっきら棒な相手の様子にリョウは尚更笑みを深くした。

「これもなにかの縁ということで、諦めなさい。きみはまだ子供なんだから、こんなところで遠慮なんてしなくていいのよ? 困った時は大人を頼りなさい。ね?」

 妙に上から訓戒めいて告げられたその台詞にユリムはすぐさま反発した。

「オレハ、コドモデハナイ!」

「でもきみは14歳なんでしょう?」

 故郷(くに)ではユリムを子供扱いするものはいなかった。庶子だとしても王の血を引くことがユリムを早くから大人にさせていたからだ。このように侮られるならば歳など明かさなければよかったと内心ひとりごちたが、既に遅い。

「元服……成人の儀は済んでおる」

「ワタシから見たらまだまだ子供よ?」

「ナンダト?」

「ほら、そうやってすぐ怒るところなんて」

 大して他意はないのだろうと分かっていてもなんだか癪だった。

「ソウイウ…アンタハ…イクツナンダ?」

 挑発的に相手を見返したユリムにリョウはおどけたように肩を竦めた。

「きみの国では、女性に年齢を訊くのは不躾なことではないの?」

「……ブシツケ?」

「礼儀に反するということ」

 ユリムが押し黙った所をみると向こうもこちらも同じような考えを常識として持つのかもしれない。

薄い唇を引き結んだユリムをリョウは軽く笑い飛ばしていた。

「少なくとも、きみよりは、ずっと、上だから」

 吹き寄せた風に靡いた髪を骨張った細い指がかきあげる。その時、右手の薬指に小さなキコウ石を連ねた指輪が目に入った。

 ―ああ。

 唐突に、ユリムは、この女が人妻であることを思い出した。面と向かって確かめたわけではない。ただ、サリダルムンドに指輪をする習慣はなかったが、この国では婚姻の証として用いられると聞き及んでいたからだ。

 嫁いだ女は、ユリムと然程年が違わなくともいっぱしの大人ぶった顔をするものだ。国ではユリムと同じくらいの歳になれば、女は嫁に行くのが当たり前だった。そのようなことからユリムもリョウを大して変わらないくらいの歳だと思ったようだった。

 子供扱いされたことが悔しくてか、不服そうな顔をしたユリムにリョウは大人の余裕たっぷりに笑った。

 むっすりと黙り込んだ少年の背を軽く叩いた。

「さてと。そろそろ戻ろうか?」

 晴れやかな笑みを浮かべて、ゆっくりと踵を返した相手をユリムは訝しむように見た。

「ナンダ、ハナシ…ヲ…スルノデハナイノカ?」

「話してくれるの?」

 軟化を見せた相手の態度にリョウが微笑む。

「アンタガ…ナニヲ…シリタイカハ……ワカラヌガ…………マァナ」

 良いだろう。自分の勘を信じてみようか。もう一度。失うモノなどないのだから。

「ありがとう」


 ―スパシィーバ。

 初めて覚えたこの国の言葉は、何の前触れも無しにユリムの心を捕らえた。妙な気恥かしさと嬉しさ、そしてそれを認めたくはない気持ちが混ざり合って、ユリムは胸内に積るふわふわとした気分を戒めるように耳の裏を掻いた。乱暴な手つきで。

 そうして表面上、渋々を装いながらも。来た道を宿舎へと辿りながら―その道は真剣な話をするには相手の注意を逸らしてしまうかの如く険しいものだったが―ぽつりぽつりと身の上話を始めたのだった。これまで誰にも明かしてこなかったことを。


お待たせいたしました。奇しくも今日はヴァレンタインデーということで。kagonosuke より皆さまへ感謝の気持ちを込めて(→という割には、中途半端な所で切りますが)

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