6)内なるさざ波
リョウがユリムと名乗る少年を保護してからおよそデェシャータクが過ぎようとしていた。その間、ユリムの身柄は街の中心部にある騎士団の詰所から丘の上にある宿舎の方に移された。表向き、リョウの遠い親戚が訪ねてきたということにしているが、騎士団の兵士たちはリョウがその少年を裏通りで拾ってきたことを理解していた。この件に関しては珍しくユルスナールから緘口令が出されていた。
ユリムの面倒は主にリョウが看ていた。若いこともあるが元々体力のある方だったのだろう、驚くほどの速さで怪我から回復し、今では細々とした手伝いを申し出るようにまでなっている。
リョウはユリムが早くこの国の言葉を覚えるようにと今では日常のエルドシア語を使っていた。互いに意思の疎通が出来ると分かった古代エルドシア語は、補足的な説明をする場合にのみ使用した。その合間にユリムからも母語であるというサリダルムンドの言葉を習った。リョウ自身、知的好奇心を刺激されたこともあるが、母語を封じられるということが、自分の言いたいことを上手く相手に伝えられないことが、どれだけもどかしいかを痛感していたからだ。
また、リョウにとってもこの国の言葉は母語ではないので、発音には未だに抜けない訛りがあるし、主に言葉を習ったのが偏屈学者として名高いガルーシャと古い言葉使いをするセレブロを始めとする森の獣たちであったので、偶に会話で使うには古臭く堅苦しい言い方をしてしまうこともあり、きちんとした話し言葉を覚えるには、たとえばシーリスのような丁寧で美しい言葉使いをする者をお手本とした方がいいとも助言していたが、それが果たして上手く行くかは心もとなくもあった。
第七の兵士たちはその出身や育ちもばらばらなので、その実会話には同じ言語といえども種類豊かな音や調子が溢れているのだ。ユルスナールやヨルグのような王都育ちの貴族は、少し勿体ぶった硬い表現を好んで使うし、シーリスの発音は非常に滑らかだが抽象的で婉曲的な表現を好む。同じ貴族でもブコバルのように下町風のぶっきら棒で直截的な言い方を好む者もいる。ぞんざいで荒々しい言葉使いや地域による訛りもある。それに若者風の口調や俗語などが混じるのだ。
リョウも初めて北の砦にやって来た時は、兵士たちの使う言葉が自分の知るガルーシャの言葉と余りにも違うので面食らったものだ。耳をそばだて神経を集中させて、色々な音や調子に慣れるまで時間がかかった。
ユリムは、勘が良いのか言葉をすぐに覚えた。砂が水を吸い込むように瞬く間に吸収してものにしている。若さもあるのだろうが、聡明で柔軟な頭脳を持つのだろう。
この日、リョウはユリムと共に厩舎で馬たちの世話をした。馬はユリムにとっても馴染みある動物らしく、リョウが色々と説明をしなくても困惑した様子もなく慣れた手付きで黙々と手伝った。馬に乗れるのかと訊けば、なぜそのような莫迦げたことを聞くのだとでも言うようにかえって訝しげな顔をされてしまった。
―乗馬は当然。馬の世話も慣れたもの。
リョウは名前と出身地以外は依然として謎に包まれたままの少年の断片的な情報を集めては、つぎはぎだらけのモンタージュ画像を脳内で組み立てていった。
素性に関して聞きたいことがあるのならば口に出して尋ねてみればよい。何をもたもたとまどろっこしいことをしているのだ。何を躊躇う必要がある。周囲にはそう思われているかもしれない。特にユリムを保護してから夫であるユルスナールの眉間には深い皺が刻まれ、不機嫌な膜が周囲を薄く覆っていた。
それでもリョウには、相手の過去へ一方的に土足で踏み入ることが出来なかった。ユリムはまだ子供で、話によるとサリダルムンドという国はここホールムスクからは途方もなく遠いという。どのような経緯でここまで来たのかは知れない。それでも両手両足に重い金属の枷を付けられて襤褸一枚を引っ掛けたようなありさまで怪我を負い衰弱していたことを考えても、単なる困窮とは異なる、かなり深刻な事情を抱えているだろうことが予想できた。
また、ユリムとの出会いは、想像以上にリョウの中に衝撃をもたらしていた。この国に骨を埋める覚悟したと言っても、ここでの現実が時に過酷なまでに非情であるという一面を知るとやはり動揺を隠せないのだ。甘い考えを捨てきれないリョウに警告する。そして、この揺さぶりは、きっとこれからも事あるごとに表面化し、続いて行くのだろう。
このままずるずるとあの子をここに置いていていいのか。どこかから逃げてきたのではないのか。もしかしたら誰かに追われているのかもしれない。その時は匿いきれるだろうか。本当は聞きたい問いの数々をぐっと喉元に押し止めて、リョウは明るい笑顔を作った。
ユリムの過去は分からない。それでも出会った当初の幽鬼のような顔色から少しずつ、ぎこちないながらも微笑みを見せるようになった。時には笑い声も立てる。年齢の割には自己抑制のきいた落ち着いた性格に思えるが、その心は傷ついていないわけはないだろう。体の傷はやがて癒えるが、心に負った傷は、目に見えない分その深さを測ることが難しい。その傷に徒に触れる権利は、リョウにはなかった。
リョウは新しい藁を厩舎に敷き直すと新鮮な飼い葉を桶に入れ、そこで穏やかな顔付きで馬たちを眺めているユリムを目の端に捕らえた。何かに怯えたり、精神的に追い詰められているようには見えない。回復したユリムを前に何を不安になることがあるのだとリョウは一時的な迷いを振り切るように額際にかかった髪を払った。
今後、どうするかはユリム自身が決めればいい。それまでの間、リョウはこの街に暮らす術師として、束の間の旅人が体を休めることのできる宿り木のようなものになろうと思った。助けてあげたい―そんな大それた望みはない。ただ、度重なる偶然と無償の愛から救われたかつての自分の恩を今度は同じような形で返していってもいいのではないか。出来ることは少ないが、それでも差し伸べることのできる手を、失ったフリをすることなど出来ない。自己満足かもしれない。偽善だと誹りを受けるかもしれない。でもリョウはこの時、まるで思春期にありがちな強い正義感に捕らわれていた。
「リョウ、隊長が呼んでる」
第七の兵士キリルが、宿舎の窓からリョウを呼んだのは、そのようなことを考えていた時だった。汚れた水の入った桶を手に水場へと歩いていた所、父親によく似た顔立ちの青年が初めて出会った三年前よりも男らしくなった顎を窓辺から突き出していた。
「ルスランが?」
簡潔な問い掛けに小さな頷きが一つ。
「場所は?」
「団長室」
用件だけ告げると無駄口を叩かない若者は、そそくさと踵を返す。
その背中にリョウはのんびりと声をかけた。
「ああ、キリル、この間はありがとう。ナターシャさんは元気にしてるって?」
この国の南東の端にあるホールムスクから北の最果てに位置するスフミ村まではかなりの距離があるが、このように離れていても母親が子を想う気持ちに変わりはない。スフミ村に暮らすキリルの母ナターリアが王都経由で息子に宛てた小包の中に同じくスフミに暮らす術師のリューバとアクサーナからリョウに宛てた手紙が入っていたのだ。それを一昨日受け取ったばかりだった。
リューバからの手紙にはスフミ村の様子がまるで手に取るように表現豊かに描かれていた。歌うように言葉を紡ぐ柔らかな旋律が耳奥にこだまして、リョウの心は一瞬であの長閑な村の景色に飛び立った。アクサーナの所では二人目の子供が生まれて賑やかになったとあった。母親としても貫禄が出てきたらしい。スフミでは穏やかな日常が少しずつ変化しながらも着実に続いている。
独り村で暮らす母親の元から届いた小包。中には何が入っていたのだろうか。からかい半分、多少興味があったので尋ねてみれば、案の定、キリルは明らかに嫌な顔をした後、どこか尊大に鼻で笑ってふいと背中を向けてしまった。
―あんたにゃ教えねぇ。逞しさの増した背中が雄弁に語っていた。
リョウは表面上口の端を下げたが、別段気を悪くしたわけではなかった。いや、それどころか愉快ですらあった。キリルは馴れ合いを好まない。ただそれだけだ。
水を捨てた後、空になった桶を手に厩舎に戻れば、ユリムは柵の外に立ち、アッカの馬であるユベルの鼻先を撫でていた。ちょうど背格好が同じくらいだからということでユリムはリョウの服を着ていた。長い髪を後ろで一つに束ねているとアッカを伴い北の砦に初めてやって来た頃のリョウにどことなく似ていた。
その向こうでは古株のナハトが静かに佇んでいた。耳が時折動くので、こちらのことが気になっているのかもしれない。
近づいて来る足音にユリムがちらりと後ろへ視線を寄越した。
「その子は、ユベル。勇敢で心優しい子」
ユリムは微かに口元を緩めてそっとユベルの首の辺りを叩いた。その眼差しは静かで凪いでいた。
「ワタシ、向こうで呼ばれているみたいだから、ちょっと行って来るけれど」
リョウが親指で宿舎がある方を指示せば、
「ワカッタ。ノコリハ オレガ ヤル」
ユリムは小さく頷いた。
「ありがとう。じゃぁお願いね。先に終わったら、後は好きにしていて構わないから」
ユベルにブラッシングを始めたユリムの背中に声をかけるとリョウは一人踵を返した。
***
キリルに言われた通り、団長室を訪れると中にはユルスナールとシーリスが待っていた。室内は、いつになくひやりとした緊張感で満ちているように感じられた。
自分が呼ばれた用件はだいたい予想がついた。保護しているユリムのことを聞かれるのだろう。
大きな執務机の前に少し離れて置かれた応接用のソファにユルスナールが腰掛け、書類を手に何やら難しい顔をしていた。間が悪かったのかもしれない。機嫌はお世辞にもよくなさそうだ。小さな四角いテーブルを挟んで、その対面、やや斜めの場所にシーリスが座っていた。
「どうする積りだ?」
入室したリョウを認めるなり低く発せられたその一言は、余りにも多くの意味を含んでいた。ずしんと胃の腑に落ちてきたその重みをどうにか堪えようと小さく息を吸い込んでから、リョウは自分の夫であり、この第七師団を取り仕切る長でもある男を見返した。
「もう少し時間が必要です。今は、やっと体の傷が癒えたばかりですから」
どのような事情があろうとも今、ここで、あの少年を放りだすことはできない。
ユルスナールは小さく息を吐いた。
「―で、結局、詳しいことは分かったのか?」
ユリムがなぜ、あのような場所にあのような姿でいたのか。何者なのか。この街に暮らしているのならば心配する家族がいるだろう。
「それは………まだ」
リョウはそっと目を伏せた。中途半端なことをしているという自覚はあったので、後ろめたさに言葉を濁せば、肝心な部分をうやむやにしたままの相手にユルスナールは不満そうに鼻を鳴らした。
「あの少年には、特殊な枷がはめられていた。捕らわれていた―と考えるのが妥当だろう」
「少なくとも、この街の牢から脱走したという訳ではないようですね」
ひんやりと漂う不愉快な沈黙を破るようにシーリスが間に入った。
「我々の管轄下にある牢ではあのような枷は使用されていませんし、脱獄があったという報告も受けていません。同様のことを自警団の方にも問い合わせていますが、今の所、そのような連絡は入っていません」
―まぁ、我々の手前、あちらとしても都合の悪い事をそう簡単に認めるとも思えませんが。
最後、シーリスはうすら寒い微笑を湛えたまま、軽く突き放すようにそう付け加えた。
ここホールムスクには、治安維持組織として国の中央、行政を司る王都から派遣され駐屯する騎士団の他に商業組合ミールが中心となって組織する自警団があった。自警団成立の歴史は古く、約三〇〇年前、この街の独立を巡って争いが起きた時には、中心となって蜂起や武装闘争をした一団である。最終的に武力を持ってホールムスクをその影響下に取り込んだスタルゴラドであったが、その過程で予想外の痛手を受けた為に、この地を直轄地として吸収する目論見が外れ、最後には妥協を強いられた。
その最たるものが、連綿と続いてきた街の自治権の保証であり、自前の治安維持組織である自警団の存続だった。ホールムスクに騎士団が兵士を派遣するのだから、武装した自警団は今後の武力蜂起の火種になりかねない為、解体されるべきだという意見が当然のことながら多数を占めたのだが、スタルゴラド側に強硬路線を主張し続けるだけの余力が残っていなかった。
また、ホールムスクはその街の殆どを海に囲まれた港町であり、方々から様々な商船が入港する貿易港であるが故に海洋の安全を守る必要もあった。それまでのスタルゴラドは海に面した国土を持たないので騎士団の兵士たちは当然のことながら海に不慣れである。大きな川は流れているが、海とは比べ物にならないだろう。海を知らぬ、もっと言ってしまえば、船を知らぬ兵士たちに海賊が現れた場合、どう対処するのか。そのようなホールムスクの特殊事情を考慮して、自警団を残し、互いに不測の事態が起きた時には協力をして対処する方が賢明だろうという結論に至ったのだ。スタルゴラドが保有するのは、陸軍のみで海軍はない。こちらの世界には空を飛ぶ技術が発達していないので飛行機もないし、よって空軍もない。その背に翼を持ち、人を乗せられるような大きさの特殊な獣もいない。その昔、各地を放浪したガルーシャによれば気球に似たような空に浮かぶことが出来る代物があるということだったが、それはかなり特殊な事情であったようだ。
ホールムスクには、その歴史的経緯からいまだに王都の人間を快く思っていない空気があった。そしてその軋轢は、支配者である中央の力を体現する軍部の騎士団とこの街に古くから存在する自警団の間にもあるのだろう。自警団は、この街を守るのは、ここに暮らす自分たちであるという自負心を強く持ち、自ら武器を持つことを選び志願兵となったこの街の若者たちの集まりである。
自警団の男たちは街を歩いていればすぐに分かる。彼らは皆お揃いの青い上着を着ていたからだ。海と同じ鮮やかな青だ。【マルスコーイ・ツヴェット】と呼ぶその色は、特殊な染料を調合して作るのだという。その染料にはとある植物の茎と水溶性の鉱石の一種が原料として使われ、鉱石の方は【キコウ石】ではないかという噂もあったが、真相は分からない。この街にこの生地を染めることのできる染物屋は一軒しかなく、代々その調合は門外不出として秘密にされているらしいのだ。自警団の男たちは白い【マイカ】の上に目にも鮮やかな青い上着を着ている。その白と青の対比は、明るいホールムスクの陽気に映え、とても特徴的だった。
騎士団の兵士たちは、柿渋色に近い平時用の地味な色合いの軍服を乱れなく着用しているが―一部の例外があることは確かだ―自警団の男たちの着こなしは、それに比べるとおおざっぱだった。日々の労働によって鍛えられた見事な肉体と海の男【マリャーク】であることを表わす二の腕に彫られた刺青を誇るように見せつける為…かは知れないが、上着のボタンを全開にしたり、肩の上に引っ掛けたりしている者が多い。単に代謝が良くて暑がりなのかも知れないが、この国の軍事工業都市であるプラミィーシュレの通りを大股で闊歩していた傭兵たちのような匂いがした。
上半身は揃いのものを身に着けているが、ズボンの方は別段決まりはないようで、生成り色やくすんだ茶色に近いものをよく穿いているのを見かける。折角上着を作ったのならば、どうしてズボンもお対にしないのだろうかと思い、ミールの術師組合の事務所を訪れた際に御洒落通・事情通のミリュイにその辺りのことを尋ねてみれば、「ここだけの話なんだけどね」と前置きをしてから、ミリュイは丁寧に化粧の施された顔を寄せ、声を潜めてこう言った。
―あの生地は量が染められないの。
染料の調合が難しくが中々手に入らないので染められる生地の量が限られており、自警団の男たち全員に支給するには、上着分しか作れないのだそうだ。
リョウの勤め先である港の診療所、トレヴァルの所にも自警団の連中はやってくるのだが、彼らの印象は総じて荒っぽくて豪快な男たちという感じであったから、身なりにそれだけの労力とお金を注いでいるというのは、リョウにとっては少々意外に思えたのだった。
そのようなことはさておき。
「リョウ、ユリムの処遇を判断するには、まず情報が必要ですよ」
「ええ。分かっています」
シーリスからの尤もな台詞にリョウが大人しく頷けば、対面のソファに座ったユルスナールがちらりとこちらを見た。その眼差しは、「本当に分かっているのか」とでも言いたげな不審そうなもので、リョウは無意識に唇を引き結んでいた。
「あの子をここに置くことが、ここにいるみんなにもしかしたら迷惑をかける事態になるかもしれないという可能性があることは理解しているつもりです」
ユリムの存在をユルスナールが余り快く思っていないだろうことをリョウは薄々感じていた。ここは騎士団管轄の宿舎であり軍事的拠点で、この中にユリムを置くことは騎士団が保護していると見なされても仕方がない。もし、あの子が何らかの事件に巻き込まれて、どこかから逃げて来たとして、その相手が騎士団にとっては余り事を荒立てたくないような微妙な立場の人間であったら。騎士団内に不要な争いの火種、もしくは不利益をもたらしてしまうかもしれない。ユリムを保護した時はこの子を助けなくてはという気持ちで頭が一杯だったが、一段落した後、冷静になってみれば、そのような可能性をリョウとて考えなかった訳ではない。
「ユリムの傷はかなり良くなってきました。体力も日常生活を問題なく送れるまでに回復しています。素性に関しては、ワタシが責任を持って事情を聞きましょう。あの子にとっては辛いことかもしれませんが……」
あまり気が進まないのか、同情するように眉を下げたリョウを横目にユルスナールは、淡々と釘を刺した。
「リョウ、お前が術師として、病人や怪我人を放っておけないと思う気持ちは分からなくもない。だが、単なる人助けや親切心だけで、他人の問題にそこまで深入りする必要はない」
事務報告のように客観的なユルスナールの指摘は、リョウの心に小さな波風を立たせた。目に見えない棘が心に刺さる。そして、無意識に防衛本能が働いたのかもしれない。
「ワタシの行いが度を越していると言いたいんですか? ユリムを拾ったことはワタシの自己満足、もしくは偽善だと? でも、目の前に困っている人がいたら、ワタシは術師として、いや、人として、素通りすることが出来なかった。ここでは具合が悪いようならば、はっきりとそう言ってください。診療所の方かミールの方をあたってみますから。あの子のことは、最後までワタシが責任を持って対処します。生半可な気持ちで助けた訳ではありません」
この国の言葉もまだままならない状態で傷が癒えたからと異国の少年をこの場で突き放すような非情なことはできなかった。
言外に含まれた否定的感情を敏感に感じ取ったのか、ユルスナールは片方の眉をひょいと上げた。薄く眉間に皺が寄る。そこに現れたのは微かな苛立ちだった。
「お前は俺が冷酷だと言いたいのか? 心の狭い男だと?」
「そういうわけではありません。ルスランはここの責任者ですから軍部の師団長としての優先順位があります。あなたには兵士としての任務がある。ただワタシの優先順位は少し異なるんです。ワタシはあなたの妻ではありますが、兵士ではありませんし、部下でもありません。もちろんワタシにとって第七のみんなは家族のような大切な仲間です」
そこでリョウは一呼吸置くと真剣な眼差しでユルスナールを見た。
「でも、ワタシは術師です。ワタシには術師としての役割と行動指針があります。そしてワタシはそれを果たさなければ…いえ、果たしたいのです」
この時、両者の間には立場の違いからくる意見の相違が表面化した。珍しくリョウは語気を強めていてその言葉の端々には確固たる決意と迸るような激情がちらちらと覗いていた。
一方、ユルスナールは、面白味のない澄ました顔を変えることなく、生粋の軍人らしく実に冷静で合理的な判断の下に言葉を発している。応接間の小さなテーブルを隔てた二人の間に横たわる温度差は、妙な具合に部屋の空気を二分していた。
リョウは気が高ぶったのか、勢い余ってその場に立ち上がっていた。下ろしたままの拳がきつく握り締められている。
己の感情をなんとか抑えながらも言い募ったリョウにユルスナールは動じることなく尚も諭すように言葉を継いでいた。
「リョウ、勘違いするな。別にお前を責めている訳ではない。ただな、お前にも出来ることと出来ないことがある。安請け合いをすることは相手にも過度な期待を生む。それが上手く行かなかった時、残るのは遺恨の種かもしれない。お前はまだこの国の事情を全て理解した訳ではないだろう? その線引きを間違えるなと言っているんだ」
ユルスナールの言葉は実に合理的で理知的だった。そして、第三者的立場からすれば、それが正しいということも頭では理解できる。それなのに、いつもなら有益な参考意見、従うべき意見として耳に入る言葉も、この時のリョウにはなぜかもどかしく、また神経を逆撫でするようなものに聞こえてしまった。
リョウ自身どうしてそこまで必死なのかは分からなかった。ただ自分の庇護下に置いた少年を案じる気持ちが訳もなく膨らんでいた。
ユルスナールはリョウのお人好し過ぎる所が心配であったのかもしれない。ここには自らの野望の為には笑顔で相手を裏切る者がいる。誰も彼もが人の為に心を砕ける訳ではない。自分がのし上がる為には平気で人を、たとえそれが友人であろうとも踏み台に使おうとする者だっている。誰もが心優しい善人でいられはしないのだ。この世界の厳しい現実を知っているユルスナールの目から見るとリョウは余りにも甘過ぎるのだ。
「むやみやたらに深入りするな。痛い目をみる」
だが、ユルスナールの気持ちは、この時、リョウには上手く伝わらなかった。それどころが逆に苛立ちの火に油を注いだ形となった。
「あの子がここにいることは不都合なんですね? だったら、はっきりとそう言って…」
「まだそう結論付けた訳ではない。判断するには情報が足りないと言っているんだ。不明な点が多過ぎるからな。だから不確定要素を一つずつ取り除くためにも知るべきことを知っておく必要がある。傷が癒えているのならば何を躊躇う必要がある? お前の気が進まないのならば、こちらで事情を聞くこともできるが」
軍部の長としての毅然たる態度にリョウは焦りを覚えた。
「待ってください。やっと落ち着いてきたばかりなんです。あの子のことはワタシがちゃんとしますから。ワタシに任せてください」
ソファの端に肘をついて考えるような素振りをしていたユルスナールは、組んだ足の上に置いたもう片方の手から伸びる人差し指でトントンと自分の膝小僧を叩いていた。そうやって指を叩く仕草はユルスナールの中で燻っている苛立ちを伝えていた。伏せられていた視線が上がり、いまだ正面で立ち上がったままのリョウを捕らえた。
暫しの沈黙の後、小さく鼻で息を吐き出してから。
「リョウ、なぜ、そこまで肩入れする?」
落ち着いた低い声が、ユルスナールの率直な問いを投げかけていた。
見ず知らずの相手だ。しかもよくよく話を聞いてみればリョウの短剣を奪ったという少年にどうしてそこまで情けをかけるのだ。あの少年が何らかの事情を抱えていようとも、元よりそれに無関係のリョウが自発的に首を突っ込む必要性は全くないのだ。そして、ここに来て自らあの少年の盾となるように立ちはだかっている。なぜそこまでする。
「放っておけないだけです。だって、あの子はまだ子供じゃありませんか!」
最初は静かに答えたものの最後、思わず声を高めたリョウにすかさず冷たい声が切り込んだ。
「それがもし、向こうの思うつぼだったらどうする?」
「どういうことですか?」
目を見開いたリョウにユルスナールは畳みかけた。
「あれが目的を持ってお前に接触したとしたら?」
「そんな! 一体何のために?」
「さぁな。それは聞いてみなければ分からないが。そういう可能性も現時点では捨てきれないということだ」
ユルスナールの辛辣な声音にリョウの心はささくれだっていった。生来の頑固者同士。互いに一歩も譲らない攻防は、歩み寄りを見せることなく平行線をたどったまま。そして、無意識にか、意図的にか、ユルスナールは、リョウにとっては触れてはいけない禁域、越えてはいけない一線を侵してしまったようだ。
「アレがお前に似た姿形をしているからか? アレがお前に故郷を思い出させるからか?」
そこで、リョウは傷ついたように息を飲んだ。
「……どうでしょう。それは…分かりません。ただ…………」
震えた言葉を飲み込んでそのまま口を噤んでしまった。
「なんだ?」
「いえ」
「言いたいことがあるならはっきりしろ」
「なんでもありません」
棘を含んだユルスナールの口調は威圧的で横柄な感さえあった。その態度が益々リョウの心を頑なにしてゆく。
「リョウ、ルスラン、二人とも論点がずれていることに気がつきませんか?」
噛み合っているようで噛み合っていない、議論というよりも寧ろ口論になった二人の空気―少なくともリョウの方はやけに感情的だ―に傍観者を貫いていたシーリスが口を挟んだ。穏やかなシーリスの声は、凍てついた寒気とふつふつと煮えたぎった熱気の境に入り込み、二つの流れを混ぜ、中和するように作用した。
「リョウ、落ち着きなさい。なにもあなたを責めているわけではありませんから。ルスランも私も、あなたが情に厚い優しい人であることはよく知っています。何より困っている人を放っておけない性質だと」
その優しさとまっすぐな正義感は美徳でもあるが、時にそれが両刃の剣となり害となすこともある。ただその最後の文言をシーリスは胸内に留めた。
その代わり、斜め前にいるユルスナールを咎めるように見た。
「ルスランも、いくらこの所リョウに構ってもらえないからってここで八つ当たりすることはないでしょう? みっともない」
図星を突かれた所為か、ユルスナールは反射的にシーリスをギロリと睨んだが、付き合いの長い年上の友は、薄い唇に冷ややかな笑みを浮かべて大人げない振る舞いをしている男を見返した。
だが、それも束の間、すぐにソファの隣をポンポンと軽く叩いた。
「リョウ、あなたにはルスランが過剰反応をしているように見えるかもしれません。ですがね。正直なことを話せば、この地で我々はそれなりに対処しなければならない課題を抱えているのですよ。ましてや赴任してまだ日が浅いのですから慎重にならざるを得ません」
「では…やはり」
これまで繰り返されて来た台詞―ユリムをここに置くことは第七の皆に迷惑をかけるのではないか―をもう一度口にしようとしたリョウをシーリスは片手で制した。
「現時点ではあくまでも可能性を捨てきれないというだけです。その他にも例をあげたらきりがありませんが、我々は常に最悪の事態を想定して行動しなければなりませんから」
そこでシーリスはリョウを見上げると静かに微笑んだ。
「ですが、ここでこれ以上議論をしても収穫はありません。そのことはリョウもよく分かっているでしょう?」
「はい」
淡々としたシーリスの声にリョウは体の力を抜いた。「お座りなさい」と手で隣を指示されて、すとんとその場に腰を下ろした。
「ですから、我々としては出来るだけ早く、具体的な事情を輪郭だけでも知りたいのです。事態が明らかになれば、対処のしようがありますし、こうして生まれてしまう不安を少しずつ取り除いて行くことができますからね。まぁ、あの年頃の子にしてみれば、余計なことはするなと煙たがられるかもしれませんが、それはまた別の話です。どのみちリョウが面倒を見ると決めたのなら、それはそれでいいんですよ。もちろん、我々はあなたを突き放したりはしませんよ?」
そこでシーリスは隣に座るリョウの方へ少し体を傾けた。
「リョウ、あなたがどういう訳か、癖のある人物をつい引っ掛けてみたり、面倒事を拾ってきたりしてしまうことは、今更ですからねぇ。ねぇ、ルスラン」
「ああ」
「………シーリスまで」
飄々と独自の軽口―と言ってもシーリスは半分以上本気であったのだが―を加えて、懐の深さを見せたシーリスにリョウは安堵しつつも微妙な顔をしてソファの背凭れに寄りかかった。
だが、すぐに姿勢を正すと顔付きを改めて二人に向き直った。
「分かりました。ユリムも少しずつこちらの言葉を覚え始めています。話にくいこともあるでしょうし、全てを打ち明けてもらえるとも思いませんが、このままではワタシも落ち着きませんし、みんなにも心配をかけるでしょうから。ちゃんと聞いてみます」
「ええ、でもあまり刺激しないようにですよ」
「はい。分かっています」
シーリスがその返答に頷けば、
「ではワタシはこれで。もう行きますね」
リョウは、むっすりと黙ったままのユルスナールには目もくれず、理解を示してくれたシーリスにぎこちなさが残るものの微笑みかけると、威嚇する【ヨージィク】のように逆立っていた毛をしまって団長室を後にした。
リョウが去った後、シーリスはソファの背凭れに背中を預けて長い脚を持て余すように組み替えると呆れた色をその菫色の瞳に乗せてユルスナールを流し見た。
ユルスナールは眉間に深い皺を寄せて、考え込むように腕組みをしている。渋い顔だ。元々の造作が強面なので機嫌が悪い時は酷くピリピリと迫力を増して見えるのだが、付き合いの長いシーリスにしてみれば、癇癪を起した幼子を見ているようなものだった。
「そっとしておいてあげるんじゃなかったんですか?」
ついこの間、リョウのことは好きにさせて見守ろうと寛大な所を見せていたのはどこの誰であったのか。あの時の言葉は所詮、強がりでしかなかったのだろうか。
「心配ならば心配だと言えばいいじゃありませんか。なにもあんな風に遠まわしに突かなくても」
ユルスナールとしても大人げないことをしている自覚があるのかもしれないが、それを素直に認めるのはどうにも癪なようでふいと視線を逸らした。
「分かっている」
ぼそりと漏れた一言にシーリスは「本当に?」とでも言わんばかりの疑わしそうな視線を投げたのだが、これ以上向こうにへそを曲げられても敵わないので、精々勿体ぶったように肩をすくめただけだった。
「ならいいのですけれど。では、後はリョウに任せるとして、我々は我々の仕事をするとしましょう。枷の方から当たってみるのも一つの手ですし」
そこでやおらシーリスは立ち上がった。
「もちろん。リョウは俺の大事な妻だからな。何かあったらただではおかない」
「おお、おお、おっかない。後でブコバルと剣の稽古でもしたらどうです。煩悩や欲求不満は運動で解消するのが一番てっとり早いですからね。いつまでもそんな怖い顔をしていたら、さすがのリョウも愛想をつかしてしまいます」
「この顔は昔からだ」
用件は済んだのか、これ以上友人を刺激するのは得策ではないと判断したのか、シーリスは全く世話の焼ける男―この場合は夫婦か―と思いながらもさっさと団長室を後にしたのだった。
だが、その前に用件を付け加えることも忘れない。
「ああ、そちらに目を通しておいてください。後でブコバルから報告も行くと思いますが、念の為」
「ああ」
そして団長室には、よれた書類を手に、一人むっすりと黙り込んだままの男が残されたのだった。
中世ヨーロッパ(特に12世紀から15世紀)ごろの色とイメージに関する本読んでから、どうも服飾関連のお話が気になっています。どんな色の服を着ていたとか、どうやって染めていたとか。そういう類の諸々が。
さて、今回は、かなり大人げないユルスナールとやっぱりお母さんなシーリスをお伝えしました。案の定(?)「捨ててこい」「いやです」問題が発生。