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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第二章 まどろみの獅子
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5)幻の国から

 柔らかな春の日差しが、控え目な反射を返しながら室内をぼんやりと照らしていた。窓辺近くでは、小気味良く紙が擦れる音に捲られる音が定期的に生まれ、そこにシュッ、シュッ、シュッーとペンが文字を生み出す際の特徴的な連続音が加わる。その筆運びは、いつもより若干、几帳面さに欠け、微かな苛立ちが含まれているようなのだが、それを感じ取ることのできる者は、この場にはいなかった。


 淀みなく続いていたその一連の音が、ぴたりと止まった。大きな執務机には浅い箱が二つ置かれており、決裁待ちの所に入った書類を大きな手が取ると中身を確認した後、末端の然るべき位置に署名が施され、そして隣の決裁済みの方へ入れられる。保留、もしくは再考が必要だと判断された案件は、反対側の低い小机の上に置かれた箱の方へと入れられることになっていた。こちらの方は今の所、空っぽであった。


 そうこうするうちに長い指がペンを置き、一枚の書類が既に薄く積まれている箱の中へと入れられた。その動作は無駄がなく、実に手慣れたものだった。書類を仕分けている箱は、ベリョーザ(しらかば)の木の皮から作られた日用品でこの国ではありふれたものだ。この部屋で使われているのは、その中でも実用性を重視した飾り気のない代物だった。古いものなのか、所々傷が付き、人の手が触れる部分はやや黒ずんでいる。

 装飾が省かれた作りは、何もその書類箱だけではなく、室内の調度類にも共通していた。頑丈そうで、どこか無骨な机や椅子、そして棚の数々。全てが太い直線によって仕切られ、優美さを感じさせる滑らかな曲線はない。一口に言ってしまえば、殺風景な面白味のない部屋であるのだが、唯一の柄と言えば、前任者が張り変えたという白地に淡いクリーム色で草花を描いた壁紙位なもので、その中に時折、花弁として混じるぼやけた赤や青の色が精々だった。


 ああ、それから、この部屋を語るにその特徴として忘れてはならないものが一つある。室内の壁に張られた大きな地図がそれだ。こちらは繋ぎ合せた羊皮紙に描かれたかなり大ぶりのもので、様々な曲線が海に象られた大地を描き出し、そして街道と思われる道筋と様々な地名がこと細かに記されていた。


 その部屋の主は、朝から一人机に座り、大人しく日課となっている事務処理をこなしていたのだが、ふと深く腰掛けた椅子の肘かけに体をもたせかけると指の腹でトントンと机の表面を叩いた。

 机に座っているのは、酷薄そうな面をした男だった。ぞんざいに後ろに撫でつけられただけの明るい(にび)色にも暗い銀色にも見える髪が額際に零れ落ち、吊り上がった瞳の間にある眉間には深い皺が刻まれては消えた。


 その男の視線が不意に窓の外に向けられた。震える窓ガラスを通して室内に軽やかで高い人の声が切れ切れに聞こえてくるような気がしたからだ。

 部屋の主は、椅子から立ち上がると窓辺に歩み寄り、窓の下をそっと窺った。この部屋は三階の奥まった一角にあり、男が立った窓の向こうには中庭が広がっていた。石造りの堅牢な建物が中庭をぐるりと囲むような造りになっているので、そこでの物音―人の声を含む―は予想以上に石壁に反響し、大きく聞こえるのだ。外で話をしている人々は自分たちの会話が階上の部屋にまで筒抜けていると思わないかもしれない。


 男の視界に人影が二つ、映り込んでは消えた。同じような背格好の黒い頭部から伸びた同じような黒髪が歩みに合わせて揺れる。一人は洗濯ものが入っていると思われる大ぶりの籠を両腕に抱え、もう一人がそれを受け取ろうとしているようだった。高らかに弾む声が石壁に反響し、男の鼓膜にも届いた。その間、男の眉間にこれまで以上に深い皺が二本も現れ、今度は消えずにそのまま居座り続けた。


 この部屋に新たな訪問者がやって来たのは、そんな時だった。軽やかに扉を叩く音がしたかと思うと相手の返事を待つ前に重そうな木の扉が滑るように開いた。

 廊下から室内に滑りこんできたのは、柔和な風貌の男だった。軽くうねりのある淡い色合いの髪を緩く束ね、脇に流している。

 窓辺に立つこの部屋の主の様子を見て、訪ねた男が意外そうな顔をした。

「おや、そんな所で何をやっているんです、ルスラン? 感傷とは程遠い所にいるようなあなたが、溜息なんか吐いたりしたら、気味が悪いじゃありませんか。ねぇ?」

 にこやかな笑顔のまま吐き出された毒のある台詞に、部屋の主は無言のまま、新たな訪問者を流し見た。その視線がつい相手を睨みつけるように剣呑さを増したというのは御愛嬌というところだろう。

 男は返事を返すことなく執務机に戻り、再び未決済の書類が入った箱の中に手を伸ばした。再び、紙が捲られる音にペンが擦れる音が、静まり返った室内に響き始めた。先程まで届いていた微かな笑い声は、もう聞こえない。


 男の筆運びに若干の苛立ちを感じ取った訪問者が小さく笑った。

「おやおや、今日は随分と御機嫌斜めですねぇ。いや、この所ずっとそうですかね。いい加減、すっぱりと割り切ればよいものを」

「シーリス」

「はいはい。このくらいにしておきますよ」

 静かに閉められた扉を背にこの部屋の主を遠巻きに観察していた男は、軽く肩をすくめると手にした書類を持ち上げるようにして、上司でもあり、友人でもある男に歩み寄った。




 第七師団副団長シーリス・レステナントは、気心が知れた仲間でもあり上司でもある男ユルスナール・シビリークスが、階下の方に気を取られていたことに気が付いた。だが、それを敢えて真正面から尋ねないのが、友人思いで心優しいと評判―ごく一部からは異なる見解もあるが、ここではそのことは加味しない―のシーリスの流儀でもある。


「それで、何か具体的なことは出てきましたか?」

 ユルスナールは、手を止めると真正面からシーリスを見上げた。生まれつき険のある眼差しが、ぎろりと対照的に柔和な面差しを睨みつけるように迫力を増したが、シーリスは元よりそのような無言の圧力に屈するような男ではない。

 微笑みを深くした相手にユルスナールは表面上、落ち着き払った声音で答えた。

「いや。今の所、分かっているのは、名前と出身地のみだ。それすらも本当かどうかは怪しいものだがな」

 ユルスナールは立ち上がると、壁一面に張られた大きな地図の前に歩み寄った。先程までペンを握っていた長い指が、地図の端に位置するとある一部分を軽く爪弾いた。

「サリダルムンド」


 彼らが住まうスタルゴラド本国より遥か遠く、数多もの国々を抜け、山々を越え、海を越えたその向こう。この大判の地図の端に辛うじて記載された山間の峡谷にその名が記されていた。その文字は、よく目を凝らさなければならない程の控え目さであったが、他の貿易が盛んな諸都市と同じように丁寧な筆運びで、名前が記されていた。古くから諸外国・諸都市との交易で発展してきたホールムスクの流通網は幅広く、多岐に渡る。王都(スタリーツァ)の貴族たちならば見向きもしないような地域も、ここでは取引先であれば、しっかりと記録として残され、交易を通じて集められたそれらの情報は系統立ててまとめられ、台帳共々、然るべき場所に保管されている。そうやって長い月日をかけて脈々と受け継がれて来た商人たちの情報網は、代々商業組合ミールが一元的に管理統括しているのだ。ミールは単に商売に長けた人々の組織ではない。商いを通じて様々な地域、人々と独自の繋がり、または利害関係を持ち、いざとなればその影響力は一国の政治を揺るがすほどの力を持ち得るのだ。


「確か、良質なキコウ石が採れる地域だったか」

 ユルスナールの言葉にシーリスが頷いた。

「ええ。一般的には余り知られてはいませんが、あそこの鉱脈は特級品だと鉱石を生業にする者たちの間では評判ですね。我が国にも微量ながら取引先の一つとして入って来てはいますが、市場に出回る程ではありません。まぁ、無論、ここのミールが間に入る形で、我々もその恩恵に預かれているという訳ですが。値は目が眩むほどとか」


 スタルゴラド国内にもキコウ石が採取できる鉱脈は幾つかあるが、長年の採掘により資源は枯渇傾向にあった。特に20年前のノヴグラードとの戦の前後に需要が急激に増え、多くの原石が掘り出されていた。その後、中央は財政立て直しのために国内の地質調査と既存の鉱脈保全を行ったが、有力な新しい鉱脈は今の所、見つかるに至っていない。


 キコウ石(その原石も含む)というのは、世界的に見ても高値で取引される鉱石の一つである。深い神秘的な青さを持つことから宝飾品の飾りとして上流階級の貴族達の間で珍重されたりもしているが、主な需要は別の所にある。この地域では、古くから武具等、地金、金属の硬度補強に使われ、鍛冶職人が利用してきたが、それはごく一例に過ぎず、今も尚、その性質や他分野への転用の可能性については研究が重ねられており、未だ謎と多くの可能性を秘めた物質でもある。要するに現代の英知を持ってしてでもその用途の可能性を全て理解できている訳ではないのだ。


 そこで何かを思い出すように顎に手を当てながらユルスナールが目を細めた。

「リョウのやつが表で香水売りの口上を聞いたと言っていた」

 喉の奥を小さく鳴らしたユルスナールにシーリスがしたり顔で合槌を打った。

「ああ。【サリダルムンドのお姫さま】というやつですね。何分、遠い国ですからねぇ。ここではお伽噺と同じような意味合いの世界と言っても過言はないでしょう。庶民にとっては、どこか【神秘に満ちた謎の国】の代名詞みたいなものですから」

「ああ」

 ユルスナールでも滅多に耳にしないような地名であったので―その実、言われるまで存在をすっかり忘れていたほどだ―この世界のことに詳しくない己が(リョウ)は、当然のことながら知る由もないだろうと思って尋ねてみれば、意外なことに「ああ、それならば聞いたことがあります」という返事が返って来て、ユルスナールを驚かせたのだ。表通りを歩いて小耳に挟んだのだと言う。耳慣れない音だったので面白く思い、覚えていたらしい。


「サリダルムンドは、山間の峡谷にある小さな部落の集合体が緩やかな連携を作り、国として機能していると伝わっています。山間部に点々と暮らす有力部族の中から一部が勃興し、頂点に立つことで周辺部族をまとめ上げ成立した国ではありますが、その歴史は比較的浅く、代々、一族の中から世襲の【(カローリ)】が出て、その地を治めている」

 そこでシーリスは薄らと笑みを浮かべた。

「―というのが、外交上伝わる一般的な見解でしょうか」

 ユルスナールはそこで若干顔を顰めた。不服そうな色をその特徴的な瑠璃色の瞳に浮かべて友の明るい菫色の瞳を見た。

 シーリスは軽く肩を竦めた。

「ええ。ご存じの通り、この国の長い歴史を遡っても我が国の王族とは殆ど、いや、全くと言っていいかもしれませんね、関係を持たない地域ですから、具体的なことは何一つ分かっていないと言うのが実情でしょうね」


 一時期、良質の鉱石を求めてサリダルムンドを始めとする山間の周辺諸国と直接取引をしようと試みた者がスタルゴラド国内にもいたようだが、当時、未だ独立を謳歌していた貿易都市ホールムスクのミールから激しい反発を受け、取引(ルート)確保までには至らなかった。

 何よりも両者に横たわる純粋な距離の問題の方が大きいだろう。多大な労力を払って遥か彼方の僻地より手に入れるよりもまだ国内の鉱脈の確保と維持管理をしっかりとし、と同時に近隣諸国からより手軽な方法での入手方法を探る方がよほど建設的かつ現実的であったから。そもそもサリダルムンドとは正式に国交がある訳ではない。この国を代々治めてきたツァリョーフ一族が何らかの縁を持つような先ならいざ知らず、地理的に見ても遥か先、海を隔てた異なる大地の先にある途方もなく遠い国で、その存在は辛うじてミールの扱う地図に載るくらいという心もとなさだ。よって、スタルゴラド―もっと言ってしまえば王都―に住まう限り、微かにその噂の尻尾を掴むくらいが精々で、かの地にどのような民が暮らしているかなどという具体的な情報は皆無なのだ。


「そして、これは義兄(あにうえ) から聞いた話ですが」

 シーリスは手にしていた書類の中から一通の封書を取り出し、軽く横に振った。そこには王都にある神殿に暮らす義兄からの文が入っていた。

 シーリスはゆっくりと目配せをしてから一段と声量を抑えた。


 この大陸に古くから存在し、唯一国に縛られずに活動を続けている東の神殿に、諸国を放浪し、奉仕活動や啓蒙活動を通して彼らが信仰する女神リュークスを称える精神を伝えようとする神官たちがいて、日記のような形で各地の滞在記録を残しているのだが、その中にサリダルムンドを訪問した者が残した旅行記のようなものが残っているらしい。大きな戦の前のことなので、かれこれ三十年近くは前のことだ。


 それによるとサリド人―彼らは自らをサリドの民と名乗るらしい―は山深き谷合に暮らす素朴な人々で、その暮らしぶりも随分と質素なものであるとあった。狭い地形を最大限に活用した農業と紙漉きを主な生業にしている。中でも【御石使い】と呼ばれる職業の人々が山に入り、鉱石を採掘し、その加工を行っているようだ。その一連の作業は神聖視され、秘義として限られた人々の間でのみ伝えられているという。

 この地で産出される鉱石の中にキコウ石もあった。ここでは貴重な現金収入源として交易の重要な位置を占めている。サリダルムンドからの取引は少ないが、噂は評判を呼び、僻地の小国ながら利に敏い商人たちの間ではそこで生み出された鉱石は、一級品として高値で取引されるまでに至っている。そこには加工前の原石も含まれる場合があり、サリダルムンドと産地を偽って儲けを得ようとする不心得者が度々現れては物議を醸し出している。しかしながら全体の流通量から見れば、産出量自体はかなり少ないので、独占契約を結ぶホールムスクのミールが管理流通させる物以外は、全てが眉唾ものだと思った方がよい―というのがここの商人たちの常識でもある。


 今回、シーリスは義兄に頼んでその辺りのことを調べてもらった。そして高位神官であるレヌートから神殿の書庫で紐解いてもらったその滞在記によると、サリド人の身体的特徴は、スタルゴラド(エルドシア)の民とは幾分異なるようで、見事な漆黒の色をその髪と瞳に持つ者が多いということだった。自然環境が厳しい所為か、真面目で、皆、よく働く。その国の人々は殆ど一生を山間の峡谷で過ごす為、血族の団結が強く、他所者に対し非常に高い警戒心を持つのだが、同時に好奇心もあるようで、また基本的に素朴で人情に厚い善良な性質なのだろう、半ば山の中で遭難しかけたところを救われた形になった異国の神官とは、その後、少しずつ時間をかけて打ち解けて行ったようだ。そして一旦、懐に入れてもらえば、実に親切で色々と世話を焼いてもらったとあった。人々は人懐こい笑みを浮かべ、生活の水準は当時のスタルゴラドと比べるとずっと慎ましやかで貧しくとも、大人も子供も皆、いい笑顔をしていると記してあったことが強く印象に残っているとか。


 これらの記述にどこまで信憑性があるかは分からない。これを記した神官は、現時点ではその名が明らかにはなってはいないが、記述が三十年程前のものであるから、いまだ健在であるかどうかも怪しいところだろう。もし機会があれば実際に会って話を聞いてみたいと思うが、時間的にも物理的にもそのような余裕はなく難しいだろう。現時点ではその位しか神殿方にも情報はないらしい。

 シーリスもユルスナールも実際にサリダルムンドから来たという人物を目にしたことはなかった。王都に暮らす神官たちも恐らくは同じようなものだろう。サリドの民というのは、それだけ遠く、スタルゴラドの人々にとって霞みの中にあるような存在に等しいのだ。


「まぁ、百歩譲って、あれの言うことが本当だとする。だが、あのような遠い果てからここまでやって来るというのは並大抵のことではあるまい」

 リョウが世話を焼いている子供は、その後、ユリムと名乗り、サリダルムンドの出であると語ったそうだ。

 ユルスナールはこれまで集めた断片的な情報を頭の中で整理しながら深い息を吐いた。瞳を閉じ、暫し沈思黙考する。

 国を離れて旅に出たと言うのか。何のために? どうやってこの地、海や山を幾つも隔てた先にあるホールムスクにまで流れ着いたのか。男子とはいえ、ややもすれば未だ親の庇護下にあるような子供が。


 先だって第七の詰所に運び込まれた時、件の少年の様相は酷い有り様だった。リョウが妙な親切心を出して、路地裏で行き倒れていたという怪我人か病人、もしくは酔っ払いを拾ってきたのだろうかと最初は軽く考えていたユルスナールであったが、「あれを外してやって欲しい」と低く、珍しく大抵のことでは動じないリョウが青い顔をして告げた台詞に、指し示されたものを目にした途端、同じ部屋にいたユルスナールとブコバル、そして、騒ぎを聞きつけたのか、ちょうどよくその場に顔を出したシーリスの間に言い知れぬ緊張が走った。

 やせ細り泥だらけになった子供のようにか細い手首と足首には頑丈な金属の枷がはめられていたからだ。しかもそれを外そうとして分かったことだが、通常の物よりも強度を補強された硬い金属によって特殊加工されたものだった。

 随分と手の込んだことをする。

 この時、ユルスナールの脳裏には、この街に赴任当初、引き継ぎと顔合わせを兼ねて対面したミールの長の言葉が過った。


 スタルゴラドは強固な身分制度を基盤とした王制を築いているが、奴隷は禁止されており、人身売買も公には御法度と定められていた。だが、外に目を向ければ、まだまだそのような悪しき慣習を保持している地域や法の目を掻い潜る地下組織はいくらでもある。昔から最先端の技術や思想を外部から一早く取り入れるとされているホールムスクにも、その大きな発展の影には、憂慮すべき内なる闇を抱えていた。それが、この港を経由して行われていると囁かれている人身売買である。この地には各地から様々な人や物が出入りする複雑な交易網がある。ここは様々な品が集まる拠点でもあり、それを方々に出荷する拠点でもあるのだ。その広大な網目の中を掻い潜って、どうやら闇に人買が暗躍しているようなのだ。


 ―我々、誇り高き海の民【マリャーク】は自由な交易により発展してきた。その拠点(ホーム)であるホールムスクは、我々が希求する【自由】を損なうものに真っ向から反対し、そしてそれを取り締まる用意がある。我々が最も重視すべき点は【人】との繋がりである。よって人身の売買は許すべからず。この姿勢はいついかなる時も変わることはない。


 淡々とした中にも語気の籠った長の言葉は、今でもユルスナールの脳内に刻まれていた。

 ―あの鎖は、そこへの繋がりを示す証拠となるのか。いや、だが。待て。


「我々も独自に取り締まりを続けてはいるが、この所、その影響力に限界を感じざるを得ない事態を経験しつつある。よって本件でも騎士団の諸君から協力を得られれば、力強いことこの上ない」

 一筋縄ではない巨大な組織ミールを束ねるだけの豪胆さと老獪さを持ちながらも海の男として一本筋の通った潔さ―それは武人に通じるものがあった―を長の力強い瞳の中に感じ取ったユルスナールは、その時の邂逅を反芻するように思い返していた。


 だが、その思考は友の、ややもすれば気の抜けた発言に邪魔されることになった。

「それにしても良く似ていますよね。本当に。まるで実の姉弟のようではありませんか」

 ―世の中には時折不思議なことが起きるものですねぇ。

 いつの間にか窓辺に寄っていたシーリスが、階下をそっと覗きながらそんなことを漏らしていた。目を細めながら階下に向けてひらひらと手を振っている。

 するとユルスナールの鼻と眉間の間にまるで何かで吸引したかのように幾筋もの皺が寄った。

「ねぇ、ルスラン?」

 振り返ったシーリスは、友であり、上司である男の顔を見た途端、呆れたように手を一振りした。

「ああ、嫌ですねぇ。男の嫉妬ほど醜いものはこの世にはありませんよ。幾らリョウがあの子にご執心だからと言って、それは全く次元の違う話でしょう?」

 リョウは新米術師としての使命感に燃えているだけだ。その根底にあるのは善良な慈悲の心。そこにはもしかしたら、よく似た色合いを持つ相手を通して故郷への郷愁を刺激されることにも繋がるのかもしれないが。それだけのことだ。それ以下でもそれ以上でもないだろう。

 ユルスナールは不満げに無言のまま友人を睨みつけたが、そのようなことで怯むシーリスではなかった。王都に暮らす第三師団のゲオルグ辺りがここにいたらまた違うのかも知れないが、この第七師団内では誰よりも団長に対し、あけすけに、いや、的確に状況を提示し、相手を諭すことが出来る稀有な存在である。

「構ってもらえなくて拗ねているんですか? その顔で?」

 季節毎の新たな人員配置令の度に新米兵士にはきつい洗礼となる師団長の強面度が、ここで一気に跳ね上がった。噛み締められた奥歯がギリリと軋む音が聞こえそうだ。心なしか室内の気温が下がったかもしれない。凍てついた殺人光線が今にも発されそうだ。

 だが、そのようなことにまるで頓着することなく、シーリスは訳知り顔で続けた。どこか愉しそうでもある。

「そうと。そろそろ丘の上の宿舎に戻って来てもいいのではありませんか? ヒルデが張り合いないとぼやいていましたよ」

「ああ」

 リョウが怪我人の世話をする間、ずっと詰所の方に寝泊まりしていたので、ユルスナールも丘の上にある宿舎には戻らずに詰所の方で寝起きしていたのだ。


 結婚生活二年目に突入したというものの、子供がいないせいか、まだまだ所構わず新婚のような空気を醸し出す二人である。それは別段構わないとしても、新米術師として改めて修行を始め、騎士団内部よりも自然と街や外の様子に目が行くようになったリョウに、夫としては自分が一番でないようで、少々面白くないのだ。家に籠って夫の帰りを待つだけの貞淑な妻は昔からご免だと思っていたとしても、素直に喜べないのが男心の複雑な所である。同じ場所(フィールド)に立つ同志であることを強みに思いつつも、内に秘めた想い(愛情)への裏返しとして、妻を信じていない訳ではないが、お人好しで誰にでも親切な顔を見せるリョウが夫としては、心配で堪らないのである。端から見れば馬鹿らしいと思うかもしれないが、ユルスナールは大真面目だった。それに実年齢よりも若く見えることもあり、押しも押されぬ騎士団長の妻という肩書があったとしても、それはリョウ個人の箔付けにはならないし、リョウ自身はそれを嫌がるだろう。ただでさえ、港の診療所で荒くれ者たちの間に入り混じって働いているというのに、ここでまた妙な輩を引っ掛けでもしたらどうするというのだ。人には様々な嗜好や好みがあるとはいえども、なまじっか活動的な妻を持った夫の心配はちっとも減りそうにない。

 そして、ここに来てまたそのような心配の種が一つ芽生えたというわけだ。少なくともユルスナールにとっては。こちらは不安の大地に根を張り、小さな萌芽を出そうとしている。


「リョウが妙なことに首を突っ込むのは今に始まったことではないでしょう?」

「まぁ…そうだ」

 本人がいないことをいいことに随分と赤裸々である。だが、これまでの経験上、リョウが「そんなことは…ない…はず!」と力強く拳を握り締めたとしても説得力に欠けるだけの材料は既に上がっているのだから仕方がない。気を付けているつもりでも面倒事が向こうからやって来るのだ。

「ならば、ルスランとしては、リョウが安全に、そして動きやすいように影ながら支えてあげればいいでしょう」

 重要なのは【影ながら】という言葉の解釈だが、そこには見解の相違が両者の間にありそうである。

「無論、そうするつもりであるし、そうしているつもりでもあるがな」

 椅子の背もたれにふんぞり返って、やや横柄な態度でユルスナールは窓辺から離れた友を見上げた。

「それは頼もしい」

 シーリスはやや白々しい笑みを浮かべたが、ユルスナールは何も言わなかった。


「問題が発生するならば、その前に然るべき対処するのみだ」

「ええ。でもその為には、もう少し情報が必要ですね」

「ああ」

 「分かっている」と言う風にユルスナールは大きな執務机の上に両手を組んだ。磨き上げられた机の表面に真剣な表情をした酷薄そうな男の面が歪んで映った。

「ブコバルからは?」

「今の所、目ぼしい収穫はないようですね。もう少し時間が必要かと」

「ふむ。ではこちらからも探りを入れてみるか。余りあからさまだと具合が悪いがな」

 少し考える風に目を細めたユルスナールにシーリスがさも愉快そうに微笑んだ。

「ああ、では例のお茶会の時にでも?」

 嬉々としたシーリスの声にユルスナールの口元が若干下がった。

「まぁ、そこまで延ばしたくはないというのが本音だが。仕方あるまいか」

「では、リョウの方はこのままということで」

「ああ、泳がせておけ。刺激は不要だ」

「おやおや」

 上司の腹積りを確認した部下は、この国で信仰されている慈愛の女神リュークスの如き優しい面に、一瞬だけ底冷えするような策士の笑みを浮かべたのだが、内心、古い友人の言葉が単なるやせ我慢で終わらなければいいのだがとも考えていた。

「ではご随意に」

 そうして手にしていた書類の一部を上司に渡し終えると、シーリスは用件は済んだとばかりに踵を返した。


「ああ、そう言えば」

 帰りしな扉のノブに手をかけた所で、シーリスがにこやかな笑みを浮かべて振り返った。

 小さく動いたユルスナールの眉毛が、ぴくりと痙攣する。それは無意識の条件反射かもしれない。

「ユリムは14歳だそうですよ。リョウの遠い親戚としておきましたから」

 騎士団の詰所内に突如として現れた得体のしれない客人への説明として、リョウとあの少年の顔立ちや色彩が民俗学的に似ていることは今の所、好都合だった。シーリスとしては無論、それを利用する積りでいた。ここで騒ぎになって痛みもしない腹を探られては敵わない。現時点ではこの客人の存在が騎士団にとってどう転ぶか分からない。単なる怪我を負った迷子や浮浪児とするには不確定要素が多い。それにシーリスとしては、この一件がすんなりとは行かないだろうという予感があった。

 淡々としたシーリスの視界に苦虫を噛み潰したような友の顔が現れたが、すぐに自ら遮断した扉の向こうに消えた。

 言いたいことを言ってすっきりしたのか、シーリスは来た時と同様晴れやかな表情で団長室を後にした。

 だが、やり残した折衝業務に戻る為、廊下を歩いて暫く、影が差す中、その穏やかな表情がすっと色を失くし、引き締まった。

 細められた菫色の瞳が何かを見透かすように鋭さを増した。

「さてさて、これが吉と出るか凶と出るか」

 そこで薄い唇が艶やかに上がり弧を描いた。

「いずれにせよ。抜かりなきよう」

 小さく漏れた笑い声は、すぐさま静寂の中に消えた。


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