4)二つの青い石
「ユリムさま。船乗りの話ですと、あと二日もすれば遠目に島影が見えるそうですよ」
大きく波に合わせて揺れる船の甲板の上、手すりに体をもたせかけながら、一人、青い波間に生まれる白い水飛沫を眺めていた若者の傍に静かに一人の男が並んだ。
度重なる航海を経た丈夫な白い帆は、良く見ると所々染みができてくすんではいるのだが、この時期特有の北風を受けて一杯に広がり、意気揚々と滑るように船を進ませていた。
「……そうか」
若者は目線を上げ、今度は遥か遠く、海と空の青が織りなす境目を見つめながら、言葉少なに答えた。関心のなさそうな反射的な声音だった。
海の青さと空の青さが異なることを初めて若者が知ったのは、三月ほど前のことだった。海が青いのは空の色をその水面に映しているからだとその昔、乳母の昔語りに聞いたことがあったが、実際に目にする滔々とした溢れんばかりの塩辛い水は、春の初めの日差しを浴びて燦々と輝き、ただそこにあるだけで青く神秘的な無数の煌めきを放っているように思えた。そう、まるでキコウ石のカローリを辺り一面にばら撒いたかのようだ。
かようにもふんだんにある海の水を人は飲むことができないというのは、一体、どんな因果だろうか。初めて見た海の青さに感じ入った後、若者が思ったことは後に残してきた故郷 のことだった。これだけの水があれば、どれだけ国が豊かになるか知れない。干ばつの時でも作物が枯れる心配をする必要もないし、気紛れな天に虚しく雨乞いをする必要も無くなるだろう。
若者は、自分の胸元にそっと指を添えた。無意識のことで若者自身、気が付いていない仕草だった。薄汚れた粗末な旅装束の長衣の下には、眼前に広がる青と同じ色を照り返す石が密やかにぶら下がっていた。そっとその輪郭を埃まみれの指が辿る。
若者の脳裏に衣擦れのような囁きがこだました。
―ユリム。あなたのウルが見つかりますように。
それは、道中の無事と恙無くお役目が果たせるようにと長く病床に就いていた若者の母が今回の一件を知った時にお守りとして持たせてくれたものだった。
―これは昔、あなたのお父さまから賜ったものなの。
現世を去る者特有の儚い微笑みを浮かべて、遠き在りし日を懐かしむように青白い顔に引かれた目を細めた母は、心なしか嬉しそうだった。
―よろしいのですか? そのような大事なものを。
母にとってそれは唯一手元に残った父との思い出だろう。躊躇した若者に対して、母はそれ以上の言葉を言わせずに骨張った青白い手を色艶の良い若者の掌の上に乗せた。微かな金属の鎖が擦れる音が、澄んだ花の匂いのする香が焚きしめられた静まり返った室内に響いた。
―持ってお行きなさい、ユリム。きっとあなたの道を照らす助けになるでしょう。
わたしがあなたにあげられるものはこれだけだから―そう言って母は若者の手に乗せた己が手に最後の力を込めた。
いまだ肌に残るその時の感触を思い出して若者は右の拳を握り締めた。
「いよいよでございますね」
従者と思しき男がかけた声に答えはなかった。だが、若者の冷淡な反応を意に介することなく、男も同じように波間に視線を落とすと、そこで小さく息を吐き出し感慨深げに微笑んだ。
ここまでの道程の何と長かったことか。弱音を吐く性質ではなかったが、そのような想いが憚らずも滲み出ているように思えた。
二人の男たちの衣服は随分とくたびれていた。所々埃まみれで皺が寄っている。それもこの長旅の過酷さを窺わせた。
だが、傍に立つ男の顔は実に生き生きとしていた。それもそうだろう。あと数日で二カ月近くに及んだ船旅が終わるのだ。お世辞にも広いとは言えない船室の中に押し込められて窮屈な思いをなんとか耐えしのいできた。それに四六時中ゆらゆらと時にのんびりと、時に立っていられない程に揺さぶられ続けた日々がもうすぐ終わる。果たして陸に上がった時、自分はまともに一歩が踏み出せるだろうかと心にもないことを男は考えた。長い間揺られ続けて、その揺れに慣れた体は、かつての平衡感覚をすぐに取り戻せるだろうか。地上を踏み締めた途端、酔っ払いのように千鳥足になるのは御免だ。
そのようなくだらない心配で持て余した暇を慰めていると甲板にもう一つの影が近づいてきた。
「こちらにおいででしたか」
若者を挟んで中肉中背の男の反対側にもう一人頑丈そうな身体つきの男が立った。
若者は今度もかけられた声に頓着せずに相変わらず海を眺めていたのが、不意に天を見上げ、眩しそうに目を細めた。名も知らぬ白い海鳥が甲高い声を上げながら気ままに隊列を組んで風に乗っていた。ここ二月余りですっかり耳に慣れた声だ。最初は耳について仕方がなかった音も不思議と気にならなくなっていた。この鼻の奥にツンと残る潮の香りもそうだ。
今の自分もあの海鳥と同じだろうか。その思い付きを次の瞬間には一蹴した。皮肉染みた嗤いが口元に薄らと乗る。
「もう少しの辛抱だな」
「ああ。いい加減体がなまりそうだ」
若者を挟んで二人の男たち は気の置けない様子で言葉を交わし始めた。
「はは、良く言う。日の出前から甲板でガタガタやっている癖に」
「馬鹿を言うな。ちっとも足りん。陸地と船の上ではまるで違うだろう。俺はお前みたいに本を読んだり、瞑想に耽るような高尚で文化人的な趣味はまるで持ち合せていないからな、体を動かしていないと駄目なんだ」
吹きつける風に男たちがまとっていた外套が捲り上がる。その度に浅黒い肌に硬く引き締まった組んだ腕の一部とその下の長剣の柄が覗いては隠れた。
「ああ、確かに。脳まで筋肉というお前にはじっとしていろというのは土台無理な話だ」
反対側の男が茶化すように口にした。
「馬鹿にする気か?」
見かけ上、気色ばんだ武人風の男に、
「いや、その潔さに敬意を表しているのだが?」
男はそう言って肩をすくめてみせた。暫し、沈黙が落ちた後、二人の男たちは喉の奥を鳴らして控え目に笑い始めた。二人の男たちを包んでいたのは、泡沫に似たふわふわとした高揚感だった。
「もうすぐさ」
「ああ、焦がれて仕方がないというのはこういうことを言うんだな」
「まるで長年離れていた恋人に逢うみたいだな」
「違いない」
二人の男たちの笑い声の中に男特有の下卑た色合いが混ざり合い、若者の耳にも否応なしにささめいた。すると若者の視界が急に白くなり、傍で繰り広げられているはずの二人の男たちの話声が、間延びして歪み始めた。遠く近く。そしてまた遠く。麺棒で引き伸ばされて、その後また捏ねるように再び丸く詰まる。視界がぐにゃりと歪み、見えていた青が所々色を変えて【ムラーモル】模様のように混ざり合った。全身の血液が一気に足元に落ちるような感覚が突如として若者を襲った。目眩がする。世界がぐらりと揺れていた。意識に黒い砂嵐が舞い降りたようだった。耳の奥にザァーザァーという不愉快な風が唸り声を上げる。空っぽに近い胃の腑から、苦い胃液がこみ上げるような吐き気に見舞われて、若者は船べりを掴んでいた指に力を入れるとぎゅっと目を閉じた。
そして、若者が再び瞼をそっと開いた時、その視界に映った景色は、それまでとはまるで違っていた。青白い光の中に白茶けた石壁の天井が見えた。濃い影が幾筋も帯のようになって四方に伸びていた。そこに白い網のような光りが不可思議な揺れを投げかけていた。それは、風に遊ぶ梢の木漏れ日のようでもあった。
若者は再び瞬きをした。目の前に滔々と波打っていた青い輝きはない。頬を打つ、まだ冷たい初春の北風も。けたたましい海鳥の鳴き声も。
ゆっくりと息を吸い込んで吐き出す。意識は靄がかかったように鈍く判然としなかった。
試しに起き上ろうとするが、何故か体が全く動かなかった。辛うじて指先が何か布のようなものを引っ掻いただけ。首を捻ってみようとして、こちらはなんとか成功したのだが、すぐに真っ白な何かで視界が覆われた。それが上等過ぎるほど柔らかな枕の一端であると思い至るのにもう少し時間がかかった。埋もれて半分になった視界の隅に扉のようなものが見えた。
そうしていると程なくして。コツコツとした微かな殴打音の後にゆっくりとその扉が内側に開いたのが分かった。石のようになった体にぼんやりとした頭では状況が掴めず、漫然と視界に映る景色を見つめる。そこで考えることを拒否するように若者は再び瞳を閉じた。
少しずつ鮮明になってくる耳に静かな衣ずれの音と床を踏み締める小さな足音が聞こえた。そっと何者かが近づいてくる。柔らかな花のような香りが鼻先を掠め、何故か胸が掻き毟られるように無性に切なくなった。
ああ、これは死者の使いに違いない。若者のおぼろげな脳裏に約半年前の先王の葬儀の景色が重なった。あの時と同じだ。ただ、あの時と異なるのは、儀式の傍観者が今度はその当事者になったということ。焚き染めた香の独特な匂いが辺りに漂ってくるのは、他でもない自分の為なのだ。
コトと耳元に硬い音が響いた。その後、水が滴るような音がした後、若者の顔にそっと生温かい布のようなものが当てられた気がした。このまま濡れた布で顔全体を覆われるのだろうか。それは実に賢い選択だ。一番消極的に暗殺をするには好都合だからだ。濡らした紙を寝ている者の顔に被せれば、その者は気がつかぬうちに鼻と口とをぴたりと塞がれて、夢うつつの中に呼吸が出来なくなり死に至る。眠りが深ければ自分が死んだことすら気が付かぬだろう。証拠も残り難い。木や草の繊維を煮詰めて紙漉きを行う故郷ではよく知られた暗殺方法の一つだった。
諦観と共に何故か湧き上がる高揚感に若者は静かに自らの死を待ってみたが、温かな布は額から顔をそっと拭うように触れた後、首を辿り、それから腕に移った。
そこでやっと予想と異なる展開を訝しく思いながら若者は静かに瞼を開いた。
その瞬間、虚を突かれたように息を止めた。視界に入って来たのは自分に良く似た色をまとう者だった。顔立ちもどこか見慣れたような気がするのは何故だろう。
―故郷に戻ったのか。いや、そもそもまだ旅にさえ出ていないというのか。まさか全てが夢なのか。ここはどこだ。俺は今どこにある。俺がいる「時」はどこだ。
目まぐるしく動き、寄せ集められ始めた記憶の断片に若者の意識は混乱し始めた。自分が立っていた場所が音もなく崩落するような喪失感に体の芯が凍えるような絶望を味わう。
―俺は何をしている。俺は何者だ。俺は………。
困惑する若者の傍らで手早く清拭を行っていた者は、どこかの屋敷の使用人だろうか。伏せられていた瞳が若者に気付き、同じ色を宿した黒い瞳が柔らかく細められた。弧を描いた唇が何かの音を発しようとする。だが、その音の羅列は若者にとっては意味をなさないものだった。
―ああ、そう言えば。前にも同じようなことがあった。
ばらばらに散らばっていた断片が数編、的確に拾われて、そこで何らかの形を描き始めた。もう少しでそれが具体的な理解という像を結ぼうとした所で、若者の思考はぷっつりと操り人形が糸を断ち切られたように途切れてしまった。
再び、濁り始めた黒い瞳。そこに映る景色は歪み始めた。瞳孔が焦点を合わせるように収縮を繰り返してから止まった。
「ドォーブライェ・ウートラ。お加減はいかがにござりまするか」
男にしては高い、だが、女にしてはやや低いと思われる音域の声が若者の耳に届いた。顔を上げれば、飾り気のないシャツにズボン、その上から袖なしの長衣を身に着けた者が、微笑みを浮かべながら若者を見ていた。その手には盆が握られ、上には湯気を立てている丸い椀と匙、水差し一式が乗っていた。
粥の匂い―もっと言ってしまえば、溶けた【マースラ】の仄かな甘ったるい匂いが夢の狭間を漂っていた若者の意識を呼び覚ました。
「ああぁ」
若者は深く息を吐き出すとそっと両手で顔を覆った。ここでやっと若者は自分が【どこ】にいるのかを思い出した。ここ数日の、いや、ここ半年余りの混沌とした記憶が一斉に正しい隊列を組んで、脳内にある記録簿に太い確固たる線が引かれた所で若者は顔を覆っていた両手をずるりと下げて口の前で手を組むように合わせた。
「ご気分がすぐれませぬか?」
「いや、大事ない」
再びの問い掛けに先程よりもはっきりと否定の答えを返した。その声は乾きの為にか掠れていたが、きっぱりとしたものだった。
盆を手に入室をしたその者は、手にしていた物を傍の小さな卓の上に乗せると寝台の中で起き上った若者に水差しから注いだグラスを手渡した。
「どうぞ」
「かたじけない」
若者はどもるように呟いて差し出されたグラスを手にゆっくりと水を飲み干した。
水のありがたみと貴重さを感じるのは決まってこのような時だった。覚醒したばかりの体に、ひび割れた幾筋もの大地に恵みの雨が染み渡るように若者の体の隅々にも潤いが行き届いた気がした。
「お代りは?」
「いや。もう十分だ」
戻したグラスの代わりに今度は温かい湯で絞った布が若者に手渡された。それを受け取って若者は自分の顔を拭い、首回りの汗と皮脂を拭き取った。湯の中に香油を垂らしているのだろうか、薬草の如き清涼感ある香りが鼻に抜け、心地よさに思わず息が漏れた。昨日に引き続き拭いきれていない泥や埃が白い布を無様にも汚し、若者は無意識に顔を顰めていたらしい。
甲斐甲斐しく世話を焼いていた者は、汚れた布を盥の中で濯ぎながら穏やかに微笑んだ。
「お加減、よろしきようならば、後程、湯を持ち参らせむ。無論、足の傷に障りあらば、盥をもちて、この場にて髪を濯ぐが精一杯になりましょうが。爽快なること、相違ありますまい」
その者の言葉は、若者の耳には妙に古臭くそして異国風に聞こえた。言葉使いの端々にも若者がかつて学んだものとは違うおかしく思うような所があるのだが、それを今、ここで一々気にしてはいられなかった。何しろ、若者にとってもその言葉は母語とは異なる非常に古い形態のもので普段から口にする音ではない。今、この地でその言葉を「生きている言葉」として話す者は殆どいないと聞いていた。若者の国では主に宗教儀式に使われる神との対話の為の言葉として限られた民が学んでいた。
だが、運がいいことにこの召使風の簡素な服を身に着けた者は、その言葉を理解し、非常にたどたどしくはあるが話すことができたのだ。若者が日常的に使っていた故郷の言葉はここでは全く理解されなかった。また、向こうが話す言葉―若者が現時点で滞在しているこの国の言葉だ―を若者はまだ片言しか使うことが出来なかった。そこで互いの知っている知識を総動員して、試しにどのような言葉が通じるかを探った所―と言っても主に若者が知っている言葉を順繰りに口にして行ったのだが―首を傾げ続ける相手に落胆を覚えながらも最後、藁をも掴む思いですっかり廃れたはずの古の言葉を話した所で相手が理解を示すように同じ言葉を返して来たのだ。
妙な因果があるものだと若者は思った。と同時に子供の頃、何度も逃げ出したくなりながらも化石のように干からびた古い伝説の言葉をなんとか理解し習得したことに初めて感謝の気持ちを抱いた。
そこで零れ落ちたのは、若者の本心だったのかもしれない。
「クッスゥヌゥム 」
「……ク…ス…ヌム?」
小さく漏れた言葉を相手が耳敏く拾い上げ、繰り返すように聞き返した。一昨日から若者を介抱してくれているこの者は、非常に耳がよかった。
「クッスゥヌゥム・シーペン」
若者はもう一度、はっきりと繰り返した。案の定、意味が通じなかったようで首を傾げられたのだが、そこで初めてぎこちないながらも小さな微笑みのようなものを口の端に浮かべて見せた。それは、若者としても無意識のことだったに違いない。
若者はふと己が両手首に回る白い包帯に視線を投げた。両足首と右の膝上にも同じように包帯が巻かれていた。
若者は顔を上げると世話になっている相手を真っ直ぐに見た。
「【かたじけない】、【有り難きこと】と同義。我が国の言葉なり」
幼き頃に習い覚えた音を思い出しながらそう話せば、通じたようで嬉しそうに口元を綻ばせた。若者と同じ色の瞳が嬉々として輝いた。
「クッスヌゥム。かたじけない。ズナーチット、スパァシーバ イーリ ブラガダリュー ターク?」
最後に加わった、恐らくこの国の言葉であろう音に今度は若者の方が首を傾げる羽目になったのだが、その者は更に笑みを深くした。
「こなたにての同義の言葉、こなたの流儀なり」
二人の理解に共通する古い言葉で説明を加えてから再び同じ単語を繰り返した。それを真似るように若者が何度か繰り返した。
「アリガ…トウ?」
「ありがとう。クッスヌム・シーペン。かたじけない」
「アリガトウ。クッスヌゥム・シーペン」
このような遠い異国の地で、再び故郷の言葉を耳にすることになろうとは思ってもみなかった。音としてはたどたどしく聞こえたが、それは紛れもない耳馴染んだ故郷の旋律に違いはなく、若者は思わず潤みそうになった目の端を誤魔化すように、手にしていた布でぞんざいに顔を拭ったのだった。
その後、朝餉として差し出された粥を若者は全て平らげた。怪我をしていた上に消耗が激しいようだったが、二晩明けて食欲が沸いたことに若者を助けた方は安堵したようだった。続いて飲めと出された薬湯は、見るからにドロドロと緑色に濁っており、つい顔を背けたくなるほど薬臭い酷い匂いを放っていたのだが、「そなたの傷の具合を鑑みて特別に調合せしものなり」と真剣な表情で言われてしまえば、世話になっている手前、嫌だと突き放すことは出来なかった。
若者は覚悟を決めて、そのおぞましい液体を一息に飲んだ。その途端、咽喉に絡まったえぐみにむせかえりそうになるとすぐさま水の入ったグラスを差し出されてそれを貪るように飲んだ。これまでに経験したことのない苦さに若者の目の淵には薄らと涙が滲んでいた。それを差しだした相手は、隠れるように顔を背けて笑いをかみ殺していた。その余裕ある態度が若者には妙に癪に障った。
「笑いたくば、笑えばよかろう」
ふてくされるように漏れた呟きにその者は含むように小さく喉を鳴らした後、春の陽だまりのような温かな笑顔でこう言った。
「これはまっこと苦きもの。大人とて飲み干すこと能わず。それをそなたは一息に。お見事なりと感じ入りさふらふ」
その言葉は恐ろしく苦い薬を飲み切った若者を褒めるような口振りでもあったが、素直に喜ぶには余りにも大業な言い回しの為か、逆にからかわれているようにも聞こえたから不思議なものだった。
簡単な朝食の後、若者は体のあちらこちらについた大小の傷の具合を診てもらった。これも昨日から続いていることだった。重い金属の枷で擦り剥けて痣になっていた箇所は、まだ赤黒く変色し、内出血の鈍痛があったが、これは日が経てば癒えるだろう。まだ切れた唇が痛かったが、昨日まで腫れて熱を持っていた顔も大分良くなっているようだった。心配していた膝上の金創 は、傷口が膿むことなく塞がり始めていた。若者は包帯を替えてもらった際にその傷口を覗きこんで驚愕したのだが、深かったはずの箇所には針と糸で縫合した様子もなかった。所が変われば、その傷の手当てについても随分とやり方が違うものだとまだ口内に残る薬草の苦みを舌先に感じながら思った。
その者は、てきぱきと実に手際よく薬を塗り、汚れた部分を取り換え、呪いのような文言を小さく呟きながら再び包帯を巻いて行く。それは会話に使っている古代エルドシア語に似ているように思えたが、音の響きは違うようにも聞こえた。そこに何らかの秘密があるのかとも思ったが、若者には詳しいことはよく分からなかった。ただ素人目にも分かったことは、無駄のない動きで処置を施すその者の手が骨張ってかさついているものの、男にしては小さなものということだった。そして、右の手の薬指には小さな青い石が埋め込まれた指輪があり、仄かな冷たさと光りを放っていた。
若者は半ば無意識にその者の横顔を探るように眺めていた。彫の浅い顔立ちに後ろで一つに束ねた黒髪は真っ直ぐで、まるで馬の尻尾のように垂れ下がっていた。
若者の視線に気が付いた相手は、その意味を尋ねるように見返した。まだ所々痣が残り青白い顔をしている男を映すその瞳の色も若者にとっては馴染み深い色合いだった。
そう。それは後にしてきた故郷の民の色に似ていた。若者と同じ一族の色。
「そなたはどこの生まれだ?」
「何ゆえかようなことをお尋ねに?」
質問に質問で返されて若者は答えに詰まった。何気なく訊いた積りであったが、それは向こうにとっては、もしかしたら歓迎すべき問いではなかったのかもしれない。
若者は、自分を助けてくれた相手が、何者であるのかを知らなかった。完全に相手を信用し、心を開いた訳でもない。少し前に大いなる裏切りから地獄を経験した若者にとって、他人は最早信ずるには足らぬ存在だった。見返りを求めない親切心などあるはずがないと。心のどこかで冷めた警鐘が鳴り響く。絆されてはいけないと。
相手の腹の内を探るように若者は言葉を選んだ。こうして手当てをしていることの理由を暴く為に。
「そなたは我が故郷の民に…どことなく…似ておる。ゆえに、もしや同じ故郷の生まれかと思うたまでのこと」
若者の言葉にその者はどこか困ったような曖昧な笑みを浮かべた。その表情は、急に齢にして十は老けこんだように色濃い影を落とした。
「左様でござりましたか。わたくしは、貴殿の国の民に似ておりますか」
だが、静かに紡がれた声はどこか嬉しそうにも聞こえた。
「諾。そが髪。そが瞳」
「貴殿の国ではこの色は馴染み深きものと?」
「諾。それがしと同じ」
二人は無言のまま、暫し顔を見交わせた。若者はひょっとしてその者の口から懐かしき故郷の名前が出てはこまいかと期待したのが、欲しい答えは返ってこなかった。たとえこの街が交易で栄え、諸外国から珍しきものが集まる一大拠点であろうとも、遠く離れたかの国から、ここまで流れてくるというのは余程のことでもあろう。もしかしたら故郷を捨てたのかもしれない。
視線を先に反らしたのは向こうの方だった。
すぐに何かを思い出すようにその者は微笑んだ。
「湯をもて参りつかわさむ。御髪を洗いさふらむ」
―よろしいか。
両者が相互理解に使う古代エルドシア語の中でも黴の生えた古文書の中に記されているような非常に古めかしい言い回しを選んで、その者が立ち上がった。まるで先程の問いから逃げるかのように。
呆けたように目を瞬かせた若者を余所に、その者は何事もなかったかのように青色の長衣を颯爽と翻して次の間に消えた。その時になって若者は世話になっている相手の名前すら訊いていないことに気が付いた。
宣言通り、脂と泥、埃で固まった髪を次の間で洗ってもらった。膝上の傷は硬く包帯で結ばれており、歩行の際には引き攣れて痛んだが、肩を貸して貰ってなんとか簡素な洗面所のような板敷の場所まで歩いた。体がふらつくのは仕方がない。すっかり足が萎えてしまったようだ。
大きな盥の中にたっぷりと温かな湯が張ってあり、床の上に敷かれた板敷に寝そべるような形で頭を桶の中に仰向けに入れられた。
世話をしてくれている者がどうやら女であるらしいことを悟ったのもその時だった。濡れない為にか長衣を脱いでシャツとズボン姿で腕まくりをして膝を着いた相手に、若者はその膝の上に体を預ける形になったのだが、その時の感触が男にしてはやけに柔らかいことに気が付いたのだ。背丈は若者の方がやや高いくらいで元より肉付きの薄い若者と似たような身体つきであったので、一見、自分と同じくらいの年若き男のように思えなくもないが、筋肉の硬さが違った。
「おなご……か」
思わず漏れた小さな呟きは、微笑み一つで流されてしまった。
「気が付きませなんだか」
これまで散々世話になっていたはずであるのに、急にどうしたのだと言わんばかりの声音で肯定されて、若者は決まり悪そうに視線を逸らした。
「構いませぬ」
首を宛がった盥の縁には折り畳んだ布が置かれていた。温かい湯の中で髪を濯がれ、こびりついた汚れを揉むように洗うとたちまち湯が濁り真っ黒になった。一度頭を脇に退けて湯を取り換える。それをあと二回も繰り返した。中々の重労働である。
女の手は実に器用に動いた。そして細やかな気遣いをみせた。洗い粉を使い頭皮を揉むように指で地肌を梳かれて、余りの心地よさに若者は目を閉じた。すると傍に跪く女から仄かに花のような匂いが香った。それが女の体臭なのか、それとも香を焚き染めているのかは分からないが、不思議と心を落ち着かせる香りだった。骨張った指が若者の長い髪を洗う。凝り固まった脂や汚れを揉みだすように頭皮を強弱をつけてなぞられて、思わず漏れた深い溜息に女が微かに笑ったような気がした。
「手慣れておるな」
ぽつりと漏れた呟きに女が微かに笑った。
「さようでございますか」
「諾」
「まぁ、かような勤めをたまさかに言いつかることもございますゆえ」
その言葉に若者はやはりこの女はどこかの使用人であろうかと思った。だが、単なる召使にしては傷の手当てに長けているようであるし、古代エルドシア語を知っているのは妙だ。黙したままであったが、若者の思考は目まぐるしく動いていた。
髪が洗い終わるとそれを器用に布でひとつにまとめて頭の上に括りつけた。
「お体も少し流しませむ」
続いて女はそう言うと、なんの躊躇いもなく若者の寝間着の袷を寛げ、上半身を露わにした。それから浅い盥に再び湯を入れるとその中に足を外に出す形で腰を下ろして浸かるように言った。怪我の部分に注意をしながら若者が腕を使って盥の中に入った。
「もう少し温めまするか?」
湯の温度を気にした女に「いや、ちょうどよい」と答える。
女は手にしていた洗い布に石鹸をつけて手早く若者の背中を洗い始めた。思った通り盥の湯は直ぐに汚れて黒ずんだ。背中を流し終えた女に続きは自分でやると言って石鹸と洗い布を受け取った。代わりに女は盥の外に出ている若者の足の方に回り、残る傷に注意しながら薄汚れたままの足元を丹念に洗った。
「げに…すさまじ」
浸かった湯がみるみるうちに汚れたのを見てとって、これまで身なりには頓着する余裕がなかった若者も余りの汚さに顔を顰めたのが、世話を焼く女は何も訊かなかった。
最後に湯浴みをしたのはいつだったか。若者はふとそのようなことを思った。故郷を出てからおよそ三月。船旅を終えて陸に上がってすぐの辺りか。最初にとった宿屋の傍に川があってそこで簡単に行水をしたのだ。水はまだかなり冷たかったが、火照った体には心地が良かったのをよく覚えている。何よりも心が洗われるようだった。若者の故郷では水は貴重で、湯浴みをするのは神へ祈りを捧げる前の斎戒、大禊の時くらいなものだった。それから更に一月。この街に辿りついてからは……………。
若者はそれ以上思い返すのを止めた。まともに湯を使ったのは四月ぶりになるやもしれない。どうりで臭うわけだ。自らのことであるのにどこか他人事のように思う。
「さて、湯を替えませむ」
女は若者の前に来ると両脇に腕を差し込んで若者が盥の中から這い出す手助けをした。濡れた肌が薄いシャツ越しに密着する。その時にやはり相手は女なのだと他愛ない再確認をした。
―ヨォーィショ。
若者の耳元で小さく、これまた不思議な音が聞こえた。掛け声か何かだろうか。女は若者と似たような背格好だがシャツを捲り上げた腕はやはり細かった。力があるとは思えない。若者はなるべく女の負担にならないようにと己が腕に力を込めた。
そんなこんなで久し振りの湯浴みをした後は、世話をした女は無論のこと、若者の方もくたくたになっていた。女は若者を板敷の上の小さな椅子に座らせると持ってきた大判の布でその体を手早く包んだ。次に濡れた寝間着を剥ぎ、体の水分を取ってから新しいものを着せた。
ふと女が身を屈めた時、シャツの前に深く入った切り込みを留める釦の隙間からきらりと反射した青い光が若者の目を捕らえた。洗面所の高い位置に設けられた明かりとりの窓から差し込む日差しに青い火花のような光りが散った。
「それは…何だ?」
胸元に注がれた若者の視線に気が付いた女は、首から細長い鎖を取り出した。白いシャツの上に青い光が厳かな色を一条放っていた。
その首飾りについた青い石を見た瞬間、若者の顔色ががらりと変わった。
「なにゆえそなたがこれを持つ? これをどうしたのだ!? なぜ!」
若者は突然、吃驚するくらいの大声を上げた。女の首に下がっている青い石に手を伸ばし、鎖ごと引き千切らんばかりの勢いでひったくるように掴んだ。女は前のめりになって勢いのままに若者の肩に頭をぶつけた。
女は呆気にとられて声を失ったのだが、すぐに若者が何を言っているのかに気が付いた。
「これは我がものにございます」
「なんだと!?」
これまでの疲弊し、どこか覇気に欠けた大人しさからは一転、女の目と鼻の先、睨みつけるような形相で若者が低く唸った。
だが、女は動揺した様子を見せなかった。
「これは貴殿のものにあらず。そなたのものは、あなたに。寝台脇の小卓の上。気付きませなんだか」
激昂せんばかりの若者に怯まず静かに言葉を継いだ女に若者は目を眇めた。射るような鋭い光りが黒い瞳に宿る。言葉にならない怒りと絶望が緑の炎を燃やした。
「まことか? 偽りではあるまいか」
「これは我がもの。貴殿のものにあらず。とくと検めてみられよ」
女は屈んだまま首から鎖を外すと若者に渡した。
「暫し待たれよ」
そのまま静かに踵を返す。若者は手の中にある青い石のついた首飾りを食い入るように見つめた。しかし、突発的な怒りに燃えていた炎が急速に鎮火し、弱々しい灰色の塵となり積り始めた。
「…ネェム 。エスト ……ネェム」
小さく漏れた若者の呟きは、悲しい響きの中に掻き消えた。
戻って来た女はその手に別の青い石の付いた首飾りを持っていた。
「これがそなたのもの」
女は小さく微笑んで若者に手渡した。これは若者が身に着けていた粗末な服の内側の隠しポケットの中に縫い付けられていたものだった。女が若者から服を脱がせた時に引っ掛かって、糸がほつれたのだ。中から薄汚れた石が出てきたのだが、試しに布巾で拭ってみると見事な輝きを放つ貴石であることが知れた。
それは女が持っているものと同じ種類の石だった。若者のものは縦に長い楕円形をした女のものとは異なり、下の方が丸く膨れたように加工されたものだった。完全な球体とは違うころんとした面白い形だ。
手の中に渡された石を見た途端、若者の瞳に再び生気が戻った。大きく見開かれた目が次に糸のように細められ、くしゃりと顔が歪んで今にも泣き出してしまいそうな情けない感じで―笑った。
「良かった。かたじけない。クッスゥヌム・シーペン。アリガトウ」
ぎゅっと石を握り締めて覚えたばかりの言葉を繰り返した。
「ニィチィヴォー」
柔らかな声に顔を上げれば、女は微笑んでいた。その言葉は若者には分からなかったが、「気にするな」と言われているような気がした。
若者は手の中にある二つの形状の異なる青い石を見比べてから、片方を正当な持ち主である女に返した。
「あい済まぬ」
小さく謝罪の言葉を口にした若者に女は否定の意味を込めるように首を横に振って、それを受け取ると首に下げた。
「大事なものならば、貴殿も首から下げるがよろしかろう」
若者の青い石にはまだ真新しい黒い革紐が通してあった。若者は自らそれを首にかけた。二人の胸元に形は異なれども同じ色合いの石が目にも眩しく柔らかな光を吸い込んでいた。
「これで元通り」
そう言って柔らかく微笑んだ女に若者も頷いてからぎこちない笑みを浮かべたのだった。
「それにしても良く似ておる。偶々かもしれぬが」
湯浴みを終えた若者は、久方ぶりにさっぱりとした心持で再び寝台の中にいた。そうして顔や体中の汚れを落としてみると最初に運び込まれて来た時とは見違えるようになった。
濡れた髪を乾かす為に女が傍に立ち、長い髪を布で挟み軽く叩くように水分と取って行く。実に手慣れた様子だ。
不思議なことに若者はこの女に世話を焼かれることを受け入れ始めていた。完全に心を許した訳ではないが、全くの他人とは思えない何か―おぼろげな勘のようなものだ―を感じていた。
女に身をまかせながら若者は不思議そうに呟いていた。その手の中には首からぶら下がる青い石が艶やかな丸みを惜しげもなく晒していた。そして、すぐ傍の女の胸にもシャツの上に同じような青い石の首飾りがあった。
「この石は我が国の産物なり。一族の者は皆、一つはこの石を持つ。邪気を払う魔除けとして」
「キコウ石の産地であられるか」
「キコウ石?」
若者は初めて耳にする言葉に怪訝そうな顔をした。
「げに。この石のこなたでの呼び名なれば」
若者は黒い革紐を摘んで指先でふっくらとした不思議と愛嬌のある青い石を揺らした。
「わが国では【ヘェバヒール】と呼ぶ」
「フェバキール?」
「ニェム。ヘェバヒィール」
「ヘェバヒィール」
「諾。【貴き石】という意味だ」
何度か正しい発音を繰り返してから。故郷での意味を教えた若者に女は器用に手を動かしながら鷹揚に頷いた。
「けだし、我がものはこの国で採れしもの。我が手によりて原石を加工せしものなり」
「そなたが精錬を?」
若者は驚いた顔をした。
「そなたは鍛冶の心得があるのか?」
「鍛冶の心得?」
女は若者の言葉の意味が良く理解できなかったようで不思議そうな顔をしたのだが、若者の国で同じ石をどのように生み出しているのかは分からないが―と前置きしてから、再度、それが自らの手で原石を加工したものだと言った。
「そなたは石使いか? いや、妖術使いなのか?」
女は、古の言葉で【術を使う者】―つまり施術者だと答えた。昨今では【術師】と呼ばれている者だと。
「ジュツ…シ」
若者は舌の上で味わうように耳慣れない言葉を転がした。
「奇跡を起こす者?」
不意に色を変えた若者の問いに、
「非。さにあらず」
女は苦笑を返した。
現在とは異なる古い言葉を使っている為、現在にある全ての事象をその古語で表わせる訳ではない。其々が限られた知識の中から、もっとも上手く言い表していると思う表現を探って行くのだが、土台となる知識や常識が違えば、そのすり寄せは予想以上に難しい。
両者は互いの理解が上手く噛み合っていないことを感じたが、ここでその齟齬をどうにかしようとは思わなかった。
「さて、このくらいでしょうか」
髪を乾かした後、女は平たい櫛で若者の長い髪を梳っていた。全ての作業が終わったようだ。
「かたじけない。アリガトウ」
癖の無い黒髪が若者をどこか神秘的に見せていた。顔立ちにはまだどこかあどけなさが残るが、口の端と目の周りに薄らと残る痣が年相応のやんちゃさを表わしているようにも思える。若者の首には丸みを帯びた青いキコウ石―【ヘェバヒィール】―が控え目ながらもその存在を無視できない程に輝きを放っていた。
女は使っていた道具を手早く片付けた。最後に新しい水差しとグラスを寝台脇の小卓に置いた。
「お疲れになりましたでしょう。おやすみ下され。温かいお茶をお持ちいたしましょうか」
そう言って部屋を後にしようとした女を若者は呼び止めた。
盆を手にしたまま振り返った女に若者は寝台の上で居住いを正すと膝の上に乗せていた両手を持ち上げて不思議な形に交差させた。
「このままで許されよ」
そう言って、若者は右腕の肘に指先を向けて横にした左手の開いた掌の上に十字に交わるように指先をピンと伸ばした右手を宛がい、右手で小さく左手を切るような所作をした。
「申し遅れた。我が名は、ウル=ユリム・バノイ。国はサリダルムンドの出なり。かような仕儀に相成りながらも、それがしに寛大なる御心を持ち救いの手を差し伸べられたこと、誠に感謝いたす」
まだどこか幼さの残る若者の顔が引き締まり、その身にまとう空気に厳かさが増した。
女は虚を突かれたように立ち尽くしていたのだが、若者の礼に失しないようにと扉前の棚に盆を置くと再びゆっくりと若者の傍に歩み寄った。そして寝台の傍に置かれていた丸椅子に腰を下ろし、目線を合わせた上で不思議な形に腕を交差させたままの若者の肩にそっと触れた。
「どうぞ面をお上げくだされ」
女は、優しい眼差しで囁くように言った。
「我が名は、リョウ・サクマ・シビリークス。これも何かの縁でございましょう。ここでのことはお気になさらずに、まずは養生が肝要でございます。よろしいか、ウル=ユリム・バノイ殿?」
「ユリムでよい」
「では、ユリム殿」
「【殿】はいらぬ」
「では、ユリムと」
小さく砕けた笑みを口の端に浮かべた若者に女も頷いた。
それから女は、自分のことはリョウと呼んでくれと囁いた。
「ルィョーウ?」
「リョウ」
「ル…リィ…リォ……リョウ」
若者にとって余程耳慣れない音であったのか、確かめるように何度も口の中で転がした。その様子を女は微笑ましく思いながら見守った。
「さぁ、暫しおやすみなされ」
リョウと名乗った女は、まだ湿ったユリムの長い髪を脇に寄せて、若者を寝台の中に横たわらせた。若者が大人しく横になったのを確認すると上掛けの端に出ていたその手にそっと触れた。
そのまま立ち去ろうとしたリョウに同じ色を宿したユリムの瞳が揺れた。保護してから初めて現れた心細さの切れ端のようなものに、女は心配はいらないと言うように微笑み、お呪いに似た囁きを節に付けて歌うように口にした。
「大丈夫。大事ありませぬ。全てはリュークスの御心のままに」
―おやすみなされ。
それは心地よい疲労感を覚えていたユリムの脳に染み渡るように入り込んだ。まるで催眠術か魔法使いの呪文が眠りの世界への扉を開けたように。
こうして、柔らかな声に促されるようにして若者は瞳を閉じた。