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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第二章 まどろみの獅子
11/60

3)おおまがつ時の拾いもの

 瞬きに似たまどろみと覚醒を繰り返す浅い眠りの淵で、大きな影が忍び寄るように裾野を広げて行った。じわりじわりと。時に緩急を付けて滑らかに。そして、霧が立ち込めるように静かにそこにある全てを飲み込もうとする。

 銀色の(ゴブレット)から零れ落ちたのは、黒い水だった。萌黄色の丘を統べるように侵食してゆく黒い水。それは大地に吸い込まれることなく、一定の表面張力を保ちながら滑らかに、音もなく浸透して行った。

 その丘の狭間に生まれた窪みに(うずくま)る者がいた。まるでぼろをまとった巡礼のようだ。擦り切れて疲れ切った体を僅かな大地の隙間に横たえる。小刻みに体が震えているのは、明け方特有の寒さからか、それとも寄せては返す波のようにその者の眠りに侵入しようと企む魔法使いの呪い(スペル)の所為か。


 ―いいか。ウル =ユリム よ。お前の【(ウルyll)】を探すのだ。お前には、ジュゴル とは異なる定めがある。異端(傍系)であることを恥じることはない。お前にはお前にしか成すことのできない【道】があるのだ。導きの(ウル)を見つけよ。そして、清き心のままに従うのだ。


 吐き出された呼気は、風前の灯火の如く今にも消え入りそうだった。とぼった(残りわずかになった)蝋燭の火は、今、まさに尽きようとしていた。その紛れもない間際の時に自分は立ち合っていると幼さの殻から抜けだそうとしている少年は悟った。恐らく本能的に。

 整然と隙間なく並んだ石積みの壁に漁師が投網したかのように揺らめいていた影は、火影の陰影の魔力をたっぷりと吸い込んで、黄泉への旅立ちに歓喜の【トゥルーバ(ラッパ)】を吹き鳴らし、先導しているように思えた。


 少年の耳の奥に(あがな)いを欲する楽の音が響き始めた。細い鎖が軋む金属の擦れる音。ゆうらゆうらと振り子のように嘆きの調を歌う追悼者の歩みに合わせて香炉が揺れた。闇の中にぼんやりと浮かび上がった金と銀の丸い器の輪郭。空中に浮かんでいた器は、その場でゆっくりと二つに割れた。そして、その中から止めどなく溢れ出したのは赤い砂だった。


 どこからともなく甘い香の匂が漂ってきた。病床から漏れているであろう疑いようのない死臭を誤魔化し、少しでも和らげるようにする為だろうか。腐りかけた肉体が花の香をまとう。朽ちる前の精一杯のあがきであるかのように。

 それは、古くから伝わる秘伝の調合によって作られた(まじな)いの香りだった。その者の為だけに作られた生涯に一度こっきりの匂い。その禁忌に似た芳香が、秋の初めの露に濡れた草花のように湿り気を帯びて少年の鼻孔を擽った。

 少年はその香りを吸い込んだ。常世から離れようとする魂の欠片を喰らおうとでもするかのように。

 ジャリ…ジリと鎖が擦れる音がした。とても遠い所で。風を受けて膨らんだ帆布の向こうから聞こえてくるような柔らかさに包まれた、くぐもった硬い音。その音は何だっただろうか。知っている気がするのに具体的な形が思い浮かばない。その正体は分からないままに覚醒の時が刻々と迫っていた。


 そして少年は目覚めた。バネで小箱の蓋が開いたようにぱちりと開いた瞼は、ゆっくりと瞬きを繰り返した。夜空に浮かぶ星から発せられた古の信号を受けるように。

 少年は、小さく息を吐き出した。虫食いだらけの薄い板敷の隙間から漏れてくる藍色の光り。重みを増した金属の鎖が冷え切った肌にずっしりと圧し掛かる。


 ―ウル(星yll)を探せ。

 少年の脳裏に残影のように声が響いた。


 ―ウルを探せ。

 どん底で打ちひしがれた魂を鼓舞するように少年は心の中でその台詞を繰り返した。

 こんな所でくたばってたまるか。闇に埋もれた少年の瞳に小さな炎が灯った。緑色の炎は、青からやがて白銀に変わる。その小さな灯火は黒き眼の奥に吸い込まれるように沈んだ。

 長い一日の幕開けだった。



 *****



 その日 、港の診療所での仕事を終えてから、街の中心に当たる広場へと続く細長い道を相棒の黒い犬イフィに伴われて歩いていた時のことだった。

 夕暮れ時の一時。この薄い微かな光状のような時間帯、世界は劇的に色を変える。日没前の茜色の空に石造りの街がひっそりと沈み始めていた。

 【夕日が背中を押してくる 】―子供の頃に口ずさんだとある有名な(うた)の一節が思い出されてならない。それは、どこか幻想的な光景だった。美しく真っ赤に染まる石壁は、温かな羊水の中に遊ぶよう。まるで柔らかな毛布にそっと包まれたみたいに。このように街全体がどこか物悲しくも穏やかな色合いに浸されるのは、一日の中でもほんの僅かな一時で、その日の気象条件や季節によっても目に映る色合いは微細に、かつ多彩に変化する。(ソンツェ)は山の端に沈むので、名残りを惜しむ橙色の(とき)は、最後、海の水面を金色の七色が【ズメーイ()】の鱗のように散らした後、山際を一瞬、ほの赤く染めてから静寂の闇に出番を譲る。


 表通りでは早々に店じまいを始め、バール(酒場)や宿屋の軒先に吊るされた発光石のカンテラ(街灯)からは弱々しい明かりが薄暗がりに白い光りを灯す。その只中、足早に家路を急ぐ仕事を終えた男たち。横町に軒を並べた食堂(スタローヴァヤ)や飯屋から漂う汁物(スープ)の温かそうな匂いは時に表通りまでたなびき、生唾を飲みそうになる肉の焼ける匂いに腹の虫が鳴る。高く並び立つ石壁の合間、色を濃くした影の溜まり場に家屋から漏れる控え目で穏やかな明かりが、一日の終わりを労うように優しく差し込む頃合いだった。

 山の向こうに日が沈むと瞬く間にこの界隈は夜の(ひずみ)に落ちる。束の間の青の劇場が美しくも儚い踊りを見せた後、黒い衣をまとった名もなき戦士たちが夜の女王の護衛に(はべ)る。


 リョウは一日の中で、この日没間近の一時が特に好きだった。港から見上げる街は、緩やかな山肌にへばりつくようにして石造りの建物が立ち並んでいた。この一時は西日が家々の壁に反射して街全体が真っ赤に染まるのだ。堅牢なはずの家々はどこか玩具のように脆くも見える。そして夜の帳が落ちようとする中、刻々と色を変えゆく美しい絵画のような景色につい我を忘れてぼんやりと立ち尽くしそうになる。そこには幻想的な世界がぽっかりと口を開けて、夢遊病者が罠に掛かるのを待っているのだ。


 だが、幸いリョウにはそんな余韻に浸っていると戒めてくれる相棒がいた。大型犬のイフィが尻尾をパタンと打ち付けて、鼻先を腰に押し当てるのだ。

『ほれ、リョウ』

「あ、うん」

 リョウは夢から覚めたように我に返り、気を取り直すと再び足を速めた。改めて気を引き締め、それとなく周囲に気を配る。トレヴァルにも日没前に「とっととけぇれ(帰れ)」と言われていたからだ。この辺りは、暗くなるとすぐに一杯引っ掛けた酔っ払いや柄の悪い連中が(たむろ)するから裏通りには近づくなと。


 ―おまん(お前)も一応、むすめっこ(娘・女)だすっけな。

 最初はどうも男だと思っていたようなのだが、手伝いに入るようになって早々、トレヴァルはリョウの性別に気が付いた。だが、別段、女であろうとも男であろうとも助手として仕事が出来れば、そこは構わないようだった。この街では女が働きに出ていても全くおかしくはない。市場に行けば店の売り子に立つ女たちも多いし、手に職を持つ女たちもいる。むしろ糊口をしのぐ為に働くのは当たり前のことだった。

 皮肉な具合に口元を歪めてそんなことを言いつつも、万が一、性質の悪い輩に絡まれた場合は、番犬がいるからそう面倒な具合にはならないだろうが―と前置きしながらも、「俺の名前をだせばいい」と言って手にしていた酒瓶をぐいと呷った。この辺りではトレヴァルの世話になった者がそこかしこにいるので悪いようにはならないだろうと。

 そのようなどこかひねくれた気遣いにリョウは擽ったそうに笑いを噛み締めながらも、笑顔で頷いた。まだ働き始めて(デェシャータク)を二つ過ぎたばかりだが、大体トレヴァルの性格というものが掴めてきた。口は滅法悪いが、妙な所で優しかったりするから、リョウはトレヴァルを憎めなかった。同じ術師としても経験豊富で手際が良いので学ぶべきことは多い。最初は驚きを隠せなかった酒の消費量もそういうものなのだろうかと思うくらいには気にならなくなった。と言っても、扉を開けた瞬間に鼻をつく酒の匂いには今でも閉口することしきりではあるので、にっこり笑顔で「おはようございます」と朝の挨拶をした後は、有無を言わさずに窓を全開にするという新しい習慣も出来た。トレヴァルは嫌そうに顔を顰めるが、文句を言う積りはないらしい。リョウが掃除をするようになって訪れる患者たちからは妙に小奇麗になったと主に女衆からは評判が良いのだ。



 そうして暗くなってきたので、心持ち急ごうと思った矢先のことだった。暗く闇に沈んだ脇の小路から黒い何かがこちらに向かって突進してきたと思ったら、ガシャンという重い金属が擦れてぶつかった音がした直後、大きな衝撃がリョウに走った。弾力のある【何か】と物凄い勢いでぶつかったようで、リョウは突然のことにその場に尻餅をついた。

 不規則に石畳を踏む足音と共に視界の隅に闇の中に溶け込むようにして走り去る衣の切れ端が翻った気がした。

『リョウ!』

 持ち前の瞬発力を活かしてひょいと反射的に避けたイフィが驚いたように振り返る。

『大事ないか?』

 リョウは、一体何が起きたのか分からずに唖然とその場に座り込んでいたのだが、我に返ると自分の持ち物を確認した。

 そこで、「やられた」と思った。肩から斜めにかけていた鞄は無事だったが、腰に佩いていたレントの短剣―ガルーシャが使っていた長い方ではなくて、レントから直々にもらった小振りの方の短剣が、鞘ごと無くなっているのに気が付いた。簡易的にベルトの輪の中に差していただけだったので、簡単に抜き取られてしまったらしい。

『無礼者め』

 イフィが一吠えして尻尾をピンと立ててから真っ暗な細い小路の向こうを睨みつけ、そのまま後を追おうとしたのだが、すぐさま思い直すとまだ座り込んだままのリョウの元に近寄った。

『リョウ、大事ないか?』

「う…うん」

 再び尋ねたイフィにリョウは立ち上がると付いた汚れを叩き落としながらも、その視線はあの何者かが消えた通りの向こうに向けられていた。そこでぽつりと気の抜けたような呟きが漏れた。

「……イフィ、さっきの誰かに短剣を取られたかも」

『なぬ?』

 ゆっくりと辺りを見回して、どこにも落ちていないことを再確認した後、リョウは困惑するように眉を下げたのだが、次の瞬間、顔付きを変えた。

「取り戻さないと! 大事なものなんだ」

 そう言って駆け出そうとしたリョウを『おい、待て!』とイフィが上着の裾を噛んで止め、リョウは勢いを殺せずにその場でけつまづいた。

『リョウ、待て。そう急くな。そなたが一人でどうにかできる問題ではなかろう。それこそ騎士団の領分だ。届を出してからでも遅くなかろうて』

 イフィの言い分は正論だった。

「でも」

『止めい。あの勢いだ。そなたが走ったとて追いつかぬ。仮に追いついたとて相手が盗人、もしくは武装した無頼漢だとしたらいかがいたす?』

「…だけど」

 うずうずと今にも駆け出したくて堪らないのだが、イフィががっしりと上着の端を口で銜えているので動きを封じられている。リョウの視線は依然として狼藉者が消えた小路の向こうに注がれていた。


 言い淀んだリョウにイフィが鼻をひくりとさせた。

『……血の匂いがするな』

「え?」

 リョウはそのまま小さな発光石の街灯がある所まで出るとおぼろげな弱い明かりの下で衣類を(あらた)めた。どこにも痛みはないので、自分が怪我をしている訳ではなさそうだ。開いていた上着をさらに捲ると膝丈の長衣(チュニック)の裾に点々と小さな赤黒い染みのようなものが付いていることに気が付いた。イフィはその染みに鼻先を寄せるとひくひくとうごめかし、それから辺りを睨むように見渡した。その鼻が暗くなった細い小路の奥に向けられる。

『リョウ?』

「ワタシじゃないと思う。何ともないから」

『ふむ。では、あやつの血か』

「え? 怪我をしていたかもしれない……ってこと?」

『そうさな』

 そこでリョウは暗い中、目を凝らすように地面を見た。日が落ちて辺りはかなり暗くなっている。この辺りに遠く点々と灯されている街灯は、星の瞬きに似た弱さで、周囲を照らすには殆ど役に立たない。

 リョウは懐から簡易的な携帯用の発光石を取り出した。イオータの所でもらった小さな原石を加工したものなので懐中電灯のようにはいかないが、それでも十分手元を照らすことは出来た。


 ―アスヴェチーチィ(点灯) クレープチェ(強く)

 少し光りが強くなるように願いながら小さく呪いの文言を口にして表面を触り、歩いていた道を照らしてみた。地面にしゃがみ込んで調べてみると成る程、点々とした赤みを帯びたものが白っぽい石の上に付着している。リョウは指先に触れると指を擦り合わせて粘性を確かめた。感触としては血に近い。

「イフィ」

 リョウは相棒を呼ぶとその鼻先に指先を近づけた。

「これって……さっきの人の血だと思う?」

『どれ』

 イフィは一嗅ぎすると『ふむ』と肯定した。

「ねぇ、イフィ」

 立ち上がったリョウにイフィはやれやれと言うように声を掛けた相手をちらりと見上げた。リョウが何を考えているのか。まだ三週間にも満たない付き合いだが、人の心の機微に敏いイフィには相手の気持ちが何となく読めたからだ。

『これではあの男も気苦労が絶えまいて』

 思わず同情的な呟きが漏れた。

「ん?」

 笑顔で聞き返した相手にイフィは大げさに溜息を吐いてから尻尾を一振りした。

シャシリク(肉の串焼き)、一串だな』

 手を貸す為の条件が提示された。丘の上にある騎士団の宿舎から長い坂を下って広場へと抜ける途中、脇に逸れた所に串に刺した(ミャーサ)を炙って焼く屋台が出ていて、いつもいい匂いを漂わせているので、一度買って食べてみようかと話していたのだ。長い金属の串にこれまた大きな肉の塊が五つは付いている。肉に目がないイフィらしい選択だった。

ダガヴァリーリッシ(了解)!」

 リョウは喜色を浮かべて拳に親指を立てて暗くなった周囲に溶け込むイフィに突き出した。

『リョウ、だが、深追いは禁物ぞ』

 すかさず刺された釘に、

「うん。分かってる」

 リョウは小さく一つ頷いた。


 リョウは、ちらりと煌々とした明かりが見える広場の方を見た。騎士団の詰め所が並ぶ界隈は目と鼻の先だ。どこの誰かも分からない短剣を奪った相手をこんな日没後に探そうとするなんて無謀だということは頭では理解している。ユルスナールは真っ向から反対して絶対に止めろと言うだろう。馬鹿な真似をするなと。

 だが、リョウにとってレントの短剣は非常に大事なものだった。先の冬に他界したレントの文字通り形見となった品だからだ。普段から使っているガルーシャの形見のものと対になっている短剣で元々レントがガルーシャの注文に応じて鍛えた物だ。柄拵えや鞘にも装飾の無い簡素(シンプル)な造りだが、そこには鍛冶師レントの魂が込められていた。そして、今は亡き二人の交誼(こうぎ)の切れ端が。この二振りが揃ってこそ意味がある。リョウにとってはかけがえのないものなのだ。そのような大事なものを自分の不注意で盗まれたとあっては、天界の時の狭間に居るであろう二人に申し訳が立たない。


 突然のことで何の為に相手がそのようなことをしたのか分からない。しかも普通の物盗りならば、金になりそうな鞄や腰の巾着を狙いそうなものだが、出会い頭にぶつかってそのまま掠め盗られたのは、一見、なんの変哲もない得物だ。

 イフィの勘が正しければ、少なくとも何者かは怪我をしていたようだ。それがどの程度のものかも分からなかったが、少し探してみるくらいなら構わないのではないか。たとえ見つからなくても―リョウ自身見つかるとは思っていなかったが、足跡を探すことが出来るかもしれない。ユルスナールに相談するにもある程度の目星を付けておきたいと思ってしまったのだ。

 そして、鼻の利くイフィを先頭にリョウは気持ちを引き締めると薄暗い小道へと入っていった。




 犯人が姿を消したと思われる細い小路には、よくよく見れば点々と小さな染みが付いていた。それを手元に翳した発光石の明かりで確認しながら、リョウとイフィは息を殺し、壁に体を寄せ足音を忍ばせつつ歩いた。時間帯と場所柄から言って面倒な相手に鉢合わせする可能性もあった。大きな表通りを繋ぐ細い道は、大人二人がやっとすれ違うことが出来るくらいの狭さで、所々屈折し、入り組んでいる為、日中でも方向感覚を失いそうになる。

 リョウは自分から何か手掛かりは掴めないかと探索に乗り出したものの、寸分先の深い闇に早々後悔し始めていた。人の気配は今の所分からなかったが、それも素人の感覚だ。騎士団にいる仲間たちのように訓練されている訳ではないので、気配を消したりも出来ないし、鋭い感覚を持っているわけでもない。途端に心細くなってくる。

「……イフィ」

 やっぱりもう戻ろうかと付かず離れず前で尻尾を揺らす相棒にそっと声を掛けようとした矢先、どこからともなく大人数の荒々しい声が反響するようにこだましてきた。

「アズ ウッツァ ヴェーゲン !」

「メェニィヤン ヴィギィ」

「おい!」

「いたか!」

「いや、いねぇ」

「そう遠くへは行ってねぇはずだ。根性入れて探しがやれ」

「あいあい」

「フォールドゥルヨォール ヨォーブラ 」

「ドゥラチョーク! チェプハー・カカーヤ!」

「クッソ、手間ぁかけさせやがって。見つけたらぼっこぼこにしてやるぜ。チクショウ」


 リョウは反射的に発光石をポケットに入れ、その場にしゃがみ込んだ。傍にいるイフィの首に手を置き、そこにある温かみに気を落ちつけようとした。

 少し先は、ちょうど細い通りが別の通りと三又に交差するような所で、聞こえてきたのは耳にしたことのないような異国の言葉とかなり訛りの強いこの国の言葉だった。複数の男たちが荒々しく踏み鳴らす足音が語気を強めた口汚い罵り言葉とともに消えた後、リョウは詰めていた息を小さく吐き出した。

「……びっくりした」

『なにやら嫌な匂いがするな』

「誰かを…探している風だったよね」

『裏稼業の者どもか。いずれにせよ碌な輩ではない』

 完全に人の気配が無くなったのを確認してからリョウはゆっくりと立ち上がった。妙な具合に鼓動が早鐘を打ち始める。自分が探されている訳ではないのだが、ああいうのは心臓に悪いことこの上ない。関わり合いがなくともこのような時間にこのような人気のない通りででくわしたら面倒なことになるに違いなかった。相手の機嫌次第で絡まれる可能性も高い。


 ―寄り道なんぞすんなや、大人しくけぇれ(帰れ)

 帰り際、ぞんざいに言われたトレヴァルの言葉を思い出して、リョウは内心苦笑した。今日は珍しくいつもより早めに上がるようにと言われたのだ。普段は患者との応対を考えながらリョウがある程度区切りが付いたと思った所で帰路に就いていた。妙なこともあるものだと思いつつもトレヴァルの気紛れは今に始まったことではないので別段、気にも留めなかった。

 (ポケット)の中からそっと発光石を取り出す。ぼんやりとしたヒカリゴケのような青白い光が辺りをやんわりと照らす。その時、少し離れた場所―他の脇道と交差する所だ―で何かが動く気配がした。イフィの耳がぴくりと動く。

「イフィ?」

『あそこ…だな』

「もしかして……?」

 声を潜めたリョウにイフィが肩越しに振り返り、そこで残忍に笑ったような気がした。特徴的な【ヤンターリ(琥珀)】のように黄みを帯びた瞳が仄かな光を集めて輝きを放った。


 目を凝らすと群青の闇の中、壁に擦り寄るようにふらふらと歩む何者かの姿が感知できた。辛うじて分かる濃淡の闇の中に暗い影がのっそりのっそりと揺れているかのようだ。

 リョウは再び発光石をポケットにしまった。追う相手に知られないようにということもあるが、目が闇に慣れてきたし、遠く大通りから漏れる明かりが反射して闇の密度を薄めていたからだ。

『リョウ、行くぞ』

 ゾクリとする低い声を出してイフィが言った。獰猛さを兼ね備えた獣の本性が垣間見えて、リョウは無意識に唾を飲み込んだ。

イェースチィ(ラジャー)

 軍部での習わしのように小さく頷いて、足音をたてないように気を付けながら先導するイフィの後に倣った。



 暫くして。軽い身のこなしで音もなく跳躍したイフィが壁際をつたう何者かに飛びかかった。相手は不意を突かれた所為か、抵抗する間もなく壁に打ちつけられて、その場に崩れ落ちた。その時、再び硬い金属が打ち鳴らされるような音が静まり返った周辺に響いた。リョウが慌てて近寄れば、倒れ込んだ何者かの上に大きな体で圧し掛かるようにイフィが両前足を乗せていた。


『動くな。動かば、うぬの喉笛、噛み切ってやろうぞ』

 低く唸ったイフィにリョウは背後から駆け寄った。リョウは追跡の途中、対となるガルーシャの短剣を使って封じの呪いをかけていた。レントが鍛えた二振りの短剣は、互いに響き合う特殊なものだった。正当な持ち主以外は、その鞘が抜けないような仕掛けが施されているのだが、そこを自らも補強したのだ。相手が術師であったら、相手との力量の差によりすぐに解除される恐れもあったが、駄目元でもやれることはやった。


「ワタシから短剣を奪ったのは、あなたですか?」

 リョウはポケットから先程の発光石を取り出すと倒れ込んだ者の姿をよく照らすように前に翳した。その者は、頭からすっぽりと被る頭巾(フード)のついた外套のようなものを着ていた。色は黒っぽい地味なもので闇に同化する。具合が悪いのか、大きく肩で息をしているようで荒い呼吸音が歯の隙間からヒューヒューと漏れていた。直ぐ傍の地面には点々と血痕のような赤黒い染みが落ちていた。


 何者かは這いつくばったまま小さく呻いた。獣の唸り声のように聞こえた。具体的に何を言われたのかは分からなかったが、リョウは、それを呪詛か悪態のようなものだと直感的に理解した。

 もしかしたら異国の言葉であったのかもしれない。と言ってもリョウ自身、この国の罵詈雑言の類に精通している訳ではない。騎士団の中には口の悪い連中も多いので若者特有の俗語や兵士たち特有の隠語のようなものは、それなりに知識として頭に入っているが、やはりそこには使用範囲の(カラー)があるのだ。この街の若者たち、例えばトレヴァルの所に出入りするような【マリャーク】たちの隠語や俗語は、リョウにも分からないことが多い。なので、耳慣れない言葉を聞いた時は、忘れない内にトレヴァルかユルスナールに聞くことにしていた。偶に言葉の種類や選択によっては―特にそれが卑猥な表現だったりすると―ユルスナールなんぞは、ぎょっとするように目を見開いた後、すぐにニヤリと意地の悪い顔をしたりもする。そして何故か、言葉の意味を聞いていたはずなのに寝台(ベッド)の中で妙な方向に話が流れたりするのだ。


 それはともかく。

「怪我をしているのですか?」

 顔色を確かめようと頭巾(フード)に手を伸ばそうとした所、思いがけない程の俊敏さでぴしゃりと手を跳ねのけられた。打ち付けられた指先に痺れが走る。

「エラ ケゼッケイ 」

 食いしばった歯の間から鋭く発せられた声は意外に若く、しかもリョウの聞いたことのない言葉だった。

『大人しくしておれ』

 背中側からイフィが更に圧し掛かるように低く唸り、再びその者が地面に這いつくばった。だが、その拍子に被っていた頭巾(フード)が取れて、青白い明かりの中でその者の顔が露わになった。

「サワ、ルナ」

 片言で紡がれたこの国の言葉。だが、そのことよりもリョウの意識は目の前の風貌に釘づけになった。

 頭巾の下から現れたのは、まだ子供のような少年かと思われる幼い顔立ちだった。しかも埃まみれになった頬の右半分は赤く腫れ上がり、口の端は切れて痣になっていた。何よりも強い光りを湛えた手負いの獣のような厳しい眼差しに気圧されるように息を飲んだ。その少年は更にもがいてイフィの拘束を逃れようとしたのだが、不意に呻いて顔を苦渋に歪めると再びその場に倒れ込んだ。そこで苦しそうに大きく息を吐き出した。

「イフィ、もういいからどいてあげて」

『だが』

「大丈夫」

 渋ったイフィにリョウは先程までの蒼白な顔を改め、術師の顔をして力強く頷いた。

「この子、怪我をしていると思う。診てみないと。必要なら手当をしなくちゃ」

 そう言って鞄を脇に置くと倒れ込んだ少年の傍に近寄った。

「あなたは怪我をしているのね? 大丈夫、悪いようにはしないから、傷を見せて。手当をしよう」

 リョウは静かな声で含めるようにゆっくりと口を開いた。

「どこが痛むの?」

 横になり体を丸めた少年の埃まみれの外套に慎重に手を掛けた。

「大丈夫だから。痛い所を見せて」

 そこで少年が足を抱えるように体を更に縮こまらせた。だが、抵抗をする気力は残っていないらしい。痛みを堪えるように瞼をきつく閉じ、浅い呼吸を繰り返す。

「イフィ、見張りをお願いしても?」

『承知』

 どうやら訳ありのようだと悟ったリョウは、人気のない内に応急手当をして、この少年をどこか安全な場所―たとえば騎士団の詰所まで連れていかなければと思った。


 相棒の黒い尻尾が揺れて警戒態勢に入ったのを見て取ってから、リョウはそっと少年が身に着けていた外套を捲った。そこで思わず手を止めたのだが、すぐに真剣な顔をすると手早くやるべきことに手を付けた。

 少年は袖なしの貫頭衣(かんとうい)のようなものを身に着けていた。所々が切れてほつれかかった粗末なものだった。その裾が赤黒く変色していた。静かに(あらた)めると膝の上に金創のような割れた切り傷があった。そこから膝を伝って赤黒い筋が流れていた。出血の原因はここのようだ。リョウは消毒用の高濃度の酒が入った小瓶を取り出して、中身を口に含むと霧吹きのように傷口目がけて吹き出した。下から小さな呻き声が漏れるが、動いた足を掴んで止める。そして手早く空いた手で鞄を漁ると化膿止めと傷を塞ぐ為の薬を取り出し油紙に塗り付けてから患部に当て、止血の呪いを唱えながら包帯を巻いた。

「他に怪我は?」

 ゆっくりと訊いたリョウに少年が力なく首を振った。力なく崩れ落ちている少年を抱き寄せるように膝の上に抱えた。

「もう大丈夫」

 触れた少年の体はとても熱かった。それに酷く消耗しているようだ。少年の手には、リョウの探していた短剣がきつく両手で握り締められていた。鞘が付いたまま、刃先を下にして柄を握り締めている。それはまるで弔いを待つ、棺の中に納められた正装騎士のようだと思った。

 この少年は奪った短剣で何をする積りだったのか。細い両手首と両足首に重々しく垂れ下がる金属の鎖を見て、リョウはその目的を予想して顔を歪めた。

 ―なんてことを。

 リョウは少年の手から短剣を取ろうとしたのだが、余りにも硬く握り締められている為、その目的が果たせなかった。辛うじて片手は外せたのが、もう片方の手はずっと柄を掴んだままだ。仕方がないので取り敢えずは諦めた。

 それからゆっくりと声をかけながら、鞄の中に入れていた水筒から水を少し飲ませた。どうしようかと思ったが、帰る前にトレヴァルの所で水を補充しておいて良かったと思った。

 そのままぐったりとした少年をリョウは粗末な外套に包んだ。手早く手荷物をまとめる。準備が整ったことを感じ取ったイフィが歩哨から戻って来た。

『連れ帰るのか』

「うん、このまま放ってはおけないから」

『広場の方にか?』

「うん。その方がいいと思う。そんなに離れていないよね?」

 ここからだと騎士団の詰所の方が港の診療所よりも断然近いだろう。

『そなた一人ならばな。人を呼ばるか?』

 イフィはぐったりとした少年とリョウを比べた。

「ううん。このままおぶっていこうと思う」

 いつまでもこのような場所にぐずぐずしている訳にはいかないだろう。早く安全な場所に移した方がいい。

『そなたがか? 大丈夫か?』

 相手は線が細い少年のようだといえども背格好は恐らくリョウと同じくらいはあっただろう。心配そうな顔をしたイフィに大丈夫だと小さく頷いて見せた。

「やってみる」

 自分と同じくらいの、ましてや気を失った人間を背負うことが出来るかはやってみないと分からない。それにこのままこの子を放って置くことは出来ないし、騎士団の方から兵士を呼んで待つという悠長なことも言っていられないとその時、リョウは何故か強く思ったのだ。


「イフィ、先導をお願い」

『承知』

 リョウは気合を入れると朦朧とした少年の腕をなんとか自分の首に回して背負う体勢を整えた。足の裏と腰に力を入れて踏ん張ってから、ゆっくりと立ち上がった。その時、錆ついた鎖がガチャガチャと非情な音を立てて揺れた。それを耳に聞いて、リョウは改めて口を引き結ぶと気を引き締めた。

 それから、ゆっくりと一歩を踏み出す。意識の無い人間の体は想像以上に重たかったが、なんとしてもこの子を連れて帰らなければという思いの方が強かった。そして、このように切羽詰まった時、人というものは思いも寄らない力を発揮する生き物でもある。

 その足取りは頼りないものでもあったが、意外にしっかりしていた。


 こうして人気のない裏道を戻りながら、予想外の拾いものをしたリョウは、相棒に伴われて先程よりも色濃くなった夜の闇の中に消えたのだった。


文中に引用した一節は、阪田憲夫氏の詩「夕日が背中をおしてくる」から。小学校の時に教科書に掲載されていたもので、なんだか面白いなぁと子供心に思ったものでした。個人的には印象深いものです。曲がついて歌にもなっていますね。みんなの歌に出ていたかと記憶しています。


耳慣れないカタカナ表記の言葉は、今回、ロシア語でないものが混じっています。異国の言葉をどうやって表すかと悩んだのですが、○×△□等の記号を使うのはなんだか味気なかったので。

星を意味する「ウル(yll)」はアルバニア語から。

会話文の中に使われた言葉はハンガリー語から。

アズ ウッツァ ヴェーゲン:az utca végén 通りの突きあたりで。

メェニィヤン ヴィギィ:Menjen végig! 突きあたりまで行け!

フォールドゥルヨォール ヨォーブラ :Forduljon jobbra! 右に曲がれ

音は私が耳から拾ったものなので、正しいかは不明です(笑)


ドゥラチョーク! チェプハー・カカーヤ! はロシア語の悪態。バカ野郎的な。


それではまた次回に。

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