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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第二章 まどろみの獅子
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2)時脈に埋まる火種 後編


 その後、シーリスを講師にかつてのような臨時講義が始まった。ホールムスクの歴史的成り立ちから始めて、スタルゴラドの歴史とその関係についてだ。

「リョウ、古くからこの地に勢力を築いてきたこの国が分裂の危機を迎えたのはいつか覚えていますか?」

「確か、大体300年前のことですよね」

 リョウはシーリスの話を聞きながら、これまでに得たこの国の歴史を始めとする知識を反芻するように思い返していた。と同時にそれらはシーリスたちスタルゴラドの知識階級や民に共通の認識で、当然政権中枢―即ちツァーリ()―の意向が入っている見解であることを忘れてはならないだろうと頭の片隅で意識した。早い話が【勝者の歴史】である。


 約300年前、その頃、既に歴史ある大国として名を馳せていたスタルゴラドの宮廷内で後継者争いが起きた。それが王族と貴族達を巻き込む大規模な権力闘争に発展したのだ。亡き先王の後を継いで王座に立ったのは、まだ年若い皇太子だった。スタルゴラドは直系を重んじる伝統があり、叔父である先王の弟と後ろ盾に付いた大貴族が後見人として協力し、若き皇太子を補佐する形で(まつりごと)を行ったのだが、やがて王弟と後見人の大貴族の間で意見の食い違いが見られるようになった。そして、宮廷内には王弟派と旧皇太子の新王派との間で激しい対立が生まれ、それぞれ貴族の支持を取りつけ派閥を作り、宮廷は真二つに割れたのだ。

 その対立は、王弟派が正式な継承権は自分たちの方にあると主張し、王位を簒奪(さんだつ)しようとしたことで決定的となった。宮廷内では暗殺事件が未遂案件も含め多発し、貴族達の間で疑心暗鬼が生まれ、日に日に色濃くなった。煌びやかな宮殿は日夜欺瞞と駆け引きが繰り返されるおどろおどろしい世界へと変貌を遂げた。

 ある日、諸外国の使節を招いた晩餐会で王弟暗殺を企てた陰謀が失敗に終わるという事件が起きた。この時、負傷したものの命からがら国外へと出奔した王弟は、キルメクの北西に位置する大国【マグ・デェルジャーバ】に庇護を求めた。

 王弟は、元々人望が厚くその支持者も多かった。先の王がみまかった時、まだ年端の行かぬ皇太子ではなく、繋ぎの王として弟君に王位を譲るべしと考えた貴族も多かったのだ。

 そして、この事件を機に王弟派と呼ばれた勢力がスタルゴラドより袂を分かち、亡命した王弟の元へ駆け付けた。王弟は【マグ・デェルジャーバ】の庇護下で【新しい都】という名の【ノヴグラード】建立を宣言、スタルゴラドの北西、峻厳な山々を越えた先にある未開の地に封入し、そこを都と定めたのだ。

 こうしてスタルゴラドより袂を分かった王族の一派がノヴグラードを建国した。有力貴族や諸侯が分裂したスタルゴラドは、政情が不安定になり、宮廷内の立て直しと更なる政治的・軍事的引き締めを行うに至る。


 スタルゴラドが、ホールムスクに介入し始めたのは、その少し前、まだ先王が玉座に座っていた頃だった。当時ホールムスクは、商人たちが自治を貫く自由都市としてその名を広く轟かせていた。様々な国と船を通じて交易を行い、貿易の一大中継地となっていた。

 スタルゴラドのすぐ傍にある小さな瘤のような土地。広大な領土を持つスタルゴラドから見ればそれは本当に小さな領域だった。だが、そこにはスタルゴラドにはない海と港があった。方々から集まる珍しい品物の数々とそこで取引される巨万の富が。

 最初、宮廷は相互利益を追求する形でホールムスクと友好関係を深めようと特使を派遣し平和的に交渉を行っていたのだが、お家騒動が起きた後は、その方針が一変し、豊かなホールムスクとその幅広い交易網を手中に収めたいと考えるようになった。

 やがて強硬路線を唱える者が主流となり、何としてでもホールムスクをスタルゴラドの支配下に置き、その影響力を行使しようと考え始めた。海へと通じる港を手に入れ、多大な利益をもたらす交易網を手に入れる。そして傷ついた大国としての威信を取り戻すのだ。


 野心を抱いたスタルゴラド中枢部は、再び特使を派遣し、ホールムスクに武力をちらつかせながら交渉を迫った。今後、スタルゴラド国内での取引に多額の税を支払うか、スタルゴラドの庇護下に入るか。後者であれば租税条件を軽くする用意がある。

 軍事力に物を言わせた大国特有の卑劣なやり口に誇り高きホールムスクの商人たちは、当然のことながら反発した。その後、度重なる説得も激しい抵抗に合い交渉は決裂、そして、軍部が派遣され、緊張状態が続く中、力づくで実効支配を目論んだスタルゴラド側と街の治安維持を担っていた自警団との間で武力衝突が起きた。それを皮切りに各地で蜂起が多発。全面戦争になった。

 当時、ホールムスクには自衛手段としての専門的な軍は組織されていなかった。自警団は街の青年たちが独自に組織した治安維持に毛が生えたような小さな部隊で、どちらかというと警察組織に近かった。それでも潤沢な資金を元手に各地から腕ききの傭兵を雇い入れ、戦闘に備えたのだ。そこに大国主義に反対した血気盛んな若者たちが賛同し、武器を手に取った。


 ―我々は誇り高き海の民(マリャーク)なり。何人(なんぴと)にも支配されず。自由を守れ―との声が各地で響き渡った。


 ホールムスクは、元々この地に流れ着いた異国の民が築いた街で、商才に長け造船や航海術を巧みに使って発展してきた。武力とは無縁だとその軍事力を侮っていたスタルゴラドは、ここで予想以上の反撃に苦戦を強いられた。戦闘は南北の街道から山間部に広がり、やがてゲリラ戦の様を呈してきた。

 しかしながら、総合的な軍事力には元々大きな隔たりがあり、最終的には圧倒的な武力差でスタルゴラドが各地の武装蜂起を鎮圧した。一年余り続いた戦いは、両者共に多大なる犠牲を払う形で収束し、講和条約締結に至ったという経緯がある。それ以後、ホールムスクはスタルゴラドの支配下に入った。


 リョウはこの街に入る途中に見た海岸線を囲むように残る古い土塁や石壁を思い出していた。場所によってはいまだ堂々と往時の外観を保ちながら高い壁がそそり立つ。ただ経年に朽ちるにまかせているのではなく、手入れが施されている箇所もあるように見受けられた。

 300年前というのはリョウにとっては実感の湧かない遥か昔の出来事に思えた。それでも、この場所は当時から変わらずにあり、北と南にある街道ではあちらこちらで激しい戦闘が繰り広げられたのだろう。そして数多もの血が流れた。そう言えば、犠牲者が眠るという墓地をまだ目にしたことがないとリョウは思った。


「この街が、武力を持って半ば強引にスタルゴラドに組み入れられたというのは分かりました」

 リョウは、シーリスの話をまとめるように自分の中で消化させると、真剣な顔をして俄か講師とブコバル、そして夫のユルスナールを見回した。三人の男たちは、静かな眼差しでリョウを見ていた。

「その時のわだかまりが今にも引き継がれている………というのですか?」


 300年も昔の話だ。歴史的な経緯は史実に悲劇として刻まれるものであっても、数百年単位で時が流れていれば、当然当時の様子を知る人々はこの世を去っている。それは過去の苦い屈辱の出来事としてこの街の歴史に記されるのかもしれないが、それらが【(セィチャース)】を生きる人々の日常に何らかの影響―たとえば深い憎しみや強い憤り―を与え得るものだろうか。

 身近に戦争というものを全く経験したことのないリョウにとっては、どうしても理解し難いことだった。この感覚はきっと常に戦時を意識するユルスナールたちには分からないに違いない。そしてまた、その逆もしかり。


 隙間を突くように暫し沈黙が落ちた。

 ユルスナールはリョウの膝に手を乗せると硬く握り込まれていた拳をそっと大きな手で覆った。無意識の不安がそこに表れているようだった。

「リョウ、お前は争いの無い穏やかな国で育ったのだろう? 戦を知らぬお前に全てを理解しろというのは難しいかもしれないが」

 ユルスナールが言葉を区切った所でその後をシーリスが引き継いだ。

「ええ。残念なことに、ここでは今でもその時の遺恨が脈々と受け継がれ残っているのですよ」

 ―――人々の心の中に。根を張るようにして。

 そしてそれは時折、思いも寄らないこと―たとえば一見関係のなさそうな出来事―を契機に表面に噴出するのだ。王都側の行政、方針への反感、もしくは不信と織り混じりながら。


「この街にとって、それは忘れ去られるべき【過去】ではないんです。今なお続く【現在】なんです」

 そこでシーリスはどこか困ったように眉を少し下げた。珍しく苦さの混じった微笑みを浮かべていた。

「遺恨……というのは、王都の宮廷、王族に対して…ですか?」

 武力を持って攻め入った当時の支配者とその後の政権に対して。いやスタルゴラドという国そのものに対しての拒絶反応だろうか。

「いや、王都からやってくる人間に対して…と言った方が早いか。特に宮廷と(ゆかり)の深い貴族に対して…だな」

 そこでそれまで黙っていたブコバルが口を挟んだ。

「ああ、特に俺たちみてぇなのは、宮廷の手先っつうか、番犬ってことで反感を持たれてるだろうな」

 中央から派遣される役人やその意向を受けた騎士団の兵士たちは、王都の政権を体現する最たるものである。

「この街の人々に良く思われていない……ということですか?」

「ああ。そういうことになる」

 その事実は、リョウに少なからず衝撃(ショック)を与えた。漠然とした不安のようなものが喉元にせり上がってくる。それを無意識に抑えるようにリョウは思わず口元に手を当てた。

「家名を伏せておけというのは、そういうことだったのですか?」

 それだけで反感を持たれるかもしれないから。面倒なことに巻き込まれないように。

「ああ」

 淡々と肯定したユルスナールにリョウは困惑した。胃の腑にもやもやとしたものが重く圧し掛かるようだ。これまでリョウが少なからず接してきた街の人々は、皆、朗らかで、たとえ一癖あっても、明らかな敵意を向けられたことはなかった。彼らに自分が王都から来た人間で、名立たる貴族に嫁いだということが知られたら、今の良好な関係は崩れ去ってしまうのだろうか。


 リョウは初めてこの街に入った時の様子を思い返してみた。街道の入り口には前任の第六師団の兵士たちが出迎えに来ていた。その時は繁華街を大きく迂回して宿舎の方に入ったのですれ違う人は疎らだった。それでも隊列の後方で相棒レーリに跨って遠目に見た初めての住人は、こちらを一瞥した後、興味を失くしたように顔を伏せた気がする。

 ―――その後はどうだった?

 少し前の記憶を思い返すように深く自分の思考に沈みこもうとしたリョウをユルスナールは引き止めた。その肩に腕を回し、そっと引き寄せた後、リョウの二の腕の辺りを摩った。

「リョウ、一応、お前にも心しておいてもらいたいというのは、このことだ。この宿舎に出入りし、ましてや俺の妻である以上、王都の人間を快く思わない輩に難癖を付けられる場合だって十分考えられる。ただ罵られるだけならまだしも直接危害を与えられる可能性もあるからな」

 ユルスナールの声はいつもと変わらず落ち着いていて、リョウの中に砂が水を透過するように淡々と吸い込まれて行った。

 ということはだ。騎士団の軍服を身にまといこの地を闊歩するユルスナールたち第七の兵士たちは、そのような敵意の格好の標的に成り得るということなのだ。そういう負の感情をぶつけられることを承知でここに詰めていることになる。

 予想以上の緊張に体を強張らせたリョウをユルスナールは軽く笑い飛ばした。

「そんなに青い顔をするな。もちろん、ここに住まう住人全員がすぐさま敵に回る訳ではない。その後、宮廷とホールムスクは共に関係改善に努め、現在に至っている。あれ以来、大規模な武力衝突は起きていない。昔と違って今はこの街をまとめる商業組合ミールとはかなり良好な関係を築いていると言っていいだろう」

 そこでリョウは無意識に詰めていた息を小さく吐き出した。

「ただな、ここに暮らす住人たちの中には、時を超えて語り継がれてきた過去の悲劇と政権に対する不信感、かつての憎しみを未だ心の中に抱いている者もいるんだ。その事実を王都から派遣され、この地で任務に当たる俺たちはちゃんと理解しておかなければならない。つまりはそういうことだ」

 脅かす積りはないのだが。これは避けては通れないことだ。そう付け加えてユルスナールは手にしていたグラスを一息に飲み干した。

 リョウもテーブルの上に置いていた自分のグラスに手を伸ばすと柔らかな飴色の液体が揺らぐ中身を一気に流し込んだ。焼けるような熱さが喉から胃の膜を刺激し、腹部がじわじわと温かくなる気がした。

 そこでリョウは伏せていた目を上げた。

「分かりました。ワタシは、ルスラン、あなたの妻です。そしてシビリークスの一員です。どんなことがあろうともここであなたと共にあること、第七の兵士たちと共にあることには変わりありません」

 リョウは自分なりの覚悟を言葉にした。自分の優先順位は夫であるユルスナールと第七の仲間たちだ。そこは譲ることのできないことだろう。

「そうか」

 リョウの気持ちを汲み取ったユルスナールは妻の手を取ると微かに微笑んだ。




「リョウ」

 そこでシーリスはブコバルが持ってきた炒り豆を摘みながら思案するように足を組み替えた。

「術師登録をした際の身分はどうしたのですか?」

 リョウはその問いに小さく苦笑に似た笑みを浮かべた。

「シビリークスの家名は伏せましたが、多分、身元は割れていると思います」

 スフミ村の先で育った孤児で夫の仕事の関係でこの度ホールムスクにやってきた―とかなり曖昧に濁して書類に記したのだが、事務方のミリュイやフェルケルはともかく、術師組合の(シェフ)リサルメフは、リョウのことを以前から知っているような口振りだった。この街で術師を束ねる男は、きっとリョウには想像のつかないような独自の情報網を持っているに違いない。あだ名の通りリースカ(きつね)に似たうすら寒い、取って付けたような笑みを思い出してリョウは無意識に身震いした。あの男は依然としてリョウには謎めいた存在だった。

「もしかしたら、王都の養成所の方から何がしかの連絡が入っていたのかもしれません。その辺りのことは聞いてみないと分かりませんが。でも今の所は何の問題もなく過ごせています。別段、王都(スタリーツァ)との関係を問い(ただ)されたり、それによって(そし)りを受けたりはしていませんから」

 だから大丈夫だ―そう言えば、シーリスとユルスナールは何かを確かめ合うように目を見交わせた。

「そうですか。それを聞いて安心しました」

 シーリスが微笑み、ユルスナールは小さく頷くと締めくくるように口を開いた。

「今の俺たちが、ミールを始めとする街の住人と敵対している訳ではない。まぁ、向こうにしてみれば厄介だと思われているかもしれないが」

 ユルスナールの言葉を受けてシーリスが小さく笑った。

「どうでしょうねぇ。現時点では歯牙にもかけていないかもしれませんよ」

 どこか自嘲気味な色合いが吐き出す息に滲んでいた。

「はは。そうだな」

 ユルスナールとシーリスの二人がグラスの中身を一息に呷る。

「つぅかさぁ、俺らは俺らの仕事をすればいいっつう話だろ? 探るような腹なんぞねぇだろ。そんでもしたいやつにやぁさせとけばいいんだ。だろ?」

 ブコバルが最後にらしい持論を持ち出して、その場はいつもの気の置けない仲間たちの弛緩した空気に落ち着いた。


 リョウも一時のひやりとした緊迫感を酒の香りが混じる呼気と共に吐き出したのだが、一つ気になったことがあった。彼ら三人には共通認識としてあるもので、リョウにはいまいちよく理解できなかったこと。

 それは………。

「ねぇ、ルスラン」

 リョウは隣に座るユスルナールの腕にそっと触れた。無意識に声を低くした。

「向こう…って?」

「ああ。ミールの長のことだ」

「ミールの?」

「いいか、リョウ。昔から名実ともにこの街を束ねているのは、商業組合ミールだ。中でもその頂点に立つのが長だ」

 その時、リョウの意識の中に未だ全貌の見えないミールという組織がおぼろげな亡霊のように立ち上がり、そこに長という名の稚拙な影が伸びあがるようにして浮かび上がった気がした。




 その後、他愛ない雑談を交わしてから、臨時勉強会はお開きになった。リョウは使われたグラスやら皿やらの後片付けを簡単に済ませてから、ユルスナールの待つ寝室に戻った。因みに残った物はブコバルが嬉々として持って帰った。

 少し度数の高い酒を口にした所為か、リョウは妙に目が冴えてしまった。いつもは酒が入れば眠くなるのが定法だったのだが、その前に少し考え事をして頭を使ったからだろう。血の巡りが良くなって隅々まで行き渡り神経が高ぶっている気がした。

 それから歯を磨いて―とある木の枝の先を細く砕き、繊維を柔らかく加工したものをこちらでは歯磨きに使っていた―大きな寝台に横になってみたのだが、ちっとも眠気がやって来ない。先程の講義の内容を消化したとは思っていたのだが、頭の中では整理した積りでも行き場を失った感情が重く胃の中で、曖昧模糊としながらも溜まっているような感じだった。


「どうした? 寝付けないのか?」

 何度目かの寝返りを打った時、ユルスナールがリョウを静かに見下ろした。そっと腕を伸ばし、リョウの頬桁の辺りを指の背で撫でたユルスナールにリョウは横から抱きつくように腕を回して剥き出しになった素肌に顔をすり寄せた。ユルスナールは就寝時、上半身裸が常だった。暑いといって薄い下ばきくらいしか穿かないのだ。本当は全裸で眠るのが一番と思っているようなのだが、そこはリョウがお願いして今のやり方(スタイル)に落ち着いている。

「なんだか目が冴えてしまって……」

 リョウはちらりと夫を見上げると誤魔化すように苦笑した。

「いつもはすぐ眠くなるんですけれどねぇ………」

 体がほかほかと温かいのに頭が妙に冴えてしまっている。明日の朝も早いと言うのに。このままでは余計なことを考えてしまいそうだ。

 ユルスナールは体をずり下げるとリョウの額に自分の額をそっと擦り合わせた。

「脅かす積りはなかったんだが、結果的に動揺させてしまったな」

 そっと降りてきた羽のような口付けをリョウは目を閉じて受け入れた後、瞼を開き、そっとユルスナールを見返した。

「どうしてルスランが謝るんですか?」

 リョウは小さく笑った。寧ろきちんと事実を隠さずに教えてくれてよかったと思う。中途半端に濁されるよりは格段も。ミールと騎士団―もしくは王都の役人―との関係については、リョウ自身、理解しておかなければならないことであったから。その傘下にある術師組合に登録してしまったのだから尚更だ。


「それよりもワタシの方こそ。登録して良かったんですか?」

 リョウはこれを機会にユルスナールの本心を尋ねてみた。

「ああ、それは問題ない。そもそもお前が術師として活動するには、登録が不可欠なんだろう?」

「ええ」

「ミールとて一枚岩ではないだろうし。数多もの組合が集う組織だからな。お前の話では術師組合は、かなりの癖者揃いだな。その立ち位置がミールの中でどの辺りなのかは分からないが」

 そう言って何かを思案するように深く息を吐き出したユルスナールに、リョウは何を思ったのか突然目を輝かせて身を乗り出した。

「もしかして…ルスランは、ワタシにミールの内情を探って欲しいとか思っています? 【シュピオン(スパイ)】みたいに?」

 予想外の返答だったのか、その切り返しにユルスナールは吹き出した。そして喉の奥を鳴らして笑った。

「リョウ…お前に【シュピオン(スパイ)】など務まらんだろう。考えていることがすぐ顔に出る癖に。嘘が吐けない奴は無理だ」

 一蹴されて、リョウはそこで不満そうにむくれて見せた。

「もう、分かってますよ。そのくらい。冗談ですってば」

 リョウもユルスナールに合わせるように笑ったのだが、そこでユルスナールは不意に真面目な顔をした。リョウも表情を改めた。

「だがな、リョウ。お前は俺に気兼ねすることなく術師としてやりたいことをすればいい。ただ、お前がシビリークスであるというだけで謂れのないやっかみや誹りを受けた時は必ず俺に言うんだぞ。いいな? お前が日頃接している相手は、ミールと関係の深い者たちばかりだろう? これでも心配しているんだぞ?」

「ありがとう。ルスラン」

 リョウはそう言って徐にユルスナールの上に乗り上げると高い鼻先にちゅっと戯れのような小さな口付けを落とした。ユルスナールが自分のことを心配していながらも自由にさせてくれる。信頼されていることが純粋に嬉しかったのだ。逆にリョウとしてもユルスナールたちが謂われの無い誹謗中傷を受けたりしたら黙ってはいないだろうと思った。自分はユルスナールの妻であり、第七師団の兵士たちの一員だ。たとえ組合に登録した術師であろうとも、そこは譲れない一線だった。


 そう考えたら急に心が軽くなった。自分の優先順位と立場を見失わなければいいのだ。それにこれまでトレヴァルの下で過ごしていても第七との関係が問題になるような空気は出て来なかった。成り行きでヴァトスに騎士団への使いを頼んだ時も、「面倒くせぇ」などと文句を言われたが、その事で険悪な空気になることもなかった。この分ならば大丈夫だとリョウは心の中で独りごちた。

 リョウはなんだか嬉しくなって、逞しいユルスナールの首に齧りつくとぎゅうっと抱き締めた。心がふわふわとして擽ったそうに「ふふふ」と小さく笑う。

 自分の体の上に乗り上げた妻をユルスナールは引き寄せると己が腕で囲いこむように抱き締め返した。

「リョウ、まだ眠くないんだろう?」

「そうですねぇ」

「なら…少し付き合え」

 いつの間にか寝間着の中に入り込んでいた大きな手が意味深に肌の柔らかな部分を撫でた。その手がさわさわと目的を持って彷徨い始める。

「ん?」

 問い掛けるように小さく突き出された薄い唇にリョウは同じように妖艶に微笑むと自分から強請るように口付けを与えた。そうして暫し、子犬がじゃれ合うように唇を重ね合う。やがて穏やかで夜露にひんやりとしていたはずの吐息が、次第に熱を持って荒くなった。

「やけに乗り気だな」

 耳に吹き込まれた囁きにはからかうような色合いが滲んでいた。

「偶には……ね」

 挑発するように囁き返せば、

「そうか? いつものことじゃないのか?」

 寝台の中での主導権は、最初はリョウが持っていたとしても最後は結局ユルスナールに渡る。そして相手の有り余る体力に翻弄されるのはリョウの方なのだ。

「……んもう」

 でも、それで良かった。

 声を低く掠れさせて熱に潤んだ瑠璃色の瞳を細めたユルスナールにリョウも同じように溶けた表情をして微笑んでいた。それからは、例の如く愉しい一時がリョウに程良い眠気をもたらすのだ。




 この間の臨時講義のことを思い出しながら、治療院での仕事を終え、暮れかかる街中を広場の方へと歩いていたリョウだったが、あの日の夜の濃厚な一夜思い出して、一人訳もなく赤面しそうになった。

 こんな時に何を思い出しているのだ―と慌てて脳内にチラついたあれやこれやの断片を消し去った。

『リョウ?』

 隣を歩いていた黒い毛むくじゃらの犬、イフィが胡乱な顔をしてリョウを見上げていた。

『なんだ? 顔が赤いぞ?』

「え? い、いや、そ…そんなことないよ?」

 急に話しかけられてリョウは動揺のままに目の前で両手を振った。

「ほら、夕日が見事だからね、きっと…そ、その所為だよ…うん」

『…ほう?』

 実際、(ソンツェ)が沈む西側には山があり、橙色の西日は山の端に姿を消してから大分経っている。海の表面が僅かに届く名残りの日を受けて反射するように紫色と茜色に波打って輝いていた。

「あ、ほら、イフィ、広場が見えてきた」

 リョウは話を誤魔化すように前方を指で差すと隣を歩くイフィの背を撫でた。

『寄るのか?』

「うん」

 二つの影がでこぼこの石畳の上に長く伸びる中、一人と一頭のでこぼこ組み(コンビ)が、街灯の明かりが照らされ始めた細長い通りを同じように帰宅を急ぐ者たちに紛れるようにして通り過ぎて行った。


スタルゴラドがノヴグラードと分裂した辺りの歴史的経緯とホールムスクを支配下に入れた辺りの話を取り上げました。どこかで似たような話が…と思われた方も多いかもしれませんね。ロシアは現在進行形で戦争をしている国ですし(チェチェン紛争も元を正せばエカテリーナ2世の治世に遡ります)、旧ソ連時代の民族紛争の火種をその内に数多く抱えています。今回はそのようなことを思い出しつつ。


飴と鞭ではありませんが、久しぶりにリョウとユルスナールの話を挿入出来ました。微妙にムーンのMr.Rusi~を引きずっている感がありますが(笑)

それではまた次回に。ありがとうございました。

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