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泡沫亭のバヤーン 前編

こちらは完結済み長編ファンタジー「Messenger」の続編です。

前作と広義の番外編集である「糸遊つなぎ」をお読みいただいていることを前提でお話を進めております。ご了承ください。

「あ? んだと、ゴラァ! もういっぺん言ってみやがれ、こんのクソ野郎!」

 騒がしい店内に突如としてしわがれた男の咆哮が響いた。盃や杯が転ぶ金属の音、それからガタンと木製の椅子が倒れる乾いた殴打音に続いて、床板を踏み鳴らす長靴の重い底音が狭い店内の板壁を反響するように震わせた。

 よく日に焼けた浅黒い顔を真っ赤に火照らせた筋骨逞しい男が一人、粗末な木のテーブルの上に大きな拳を叩きつけていた。

 それまで陽気な話し声や調子の外れた笑い声で賑やかだった店内に沈黙が落ちた。全ての音が一瞬の内に失われて、例えばテーブルの上に置かれた首の長い酒瓶の中に吸い込まれてしまったかのように。


「うっせぇなぁ」

 落ちた静寂の辛うじて細くなった隙間にとある男の声が、放たれた矢の如く生温い空気をつんざいた。

 咆哮を上げた男の睨みつけるような視線の先にいた男は、気だるげでのんびりとした様子で口を開いた。指を片方の耳の中に入れて明らかに面倒くさそうな顔をしていた。

「んな、でけぇ声出さなくたって聞こえるぜ、おい。つんぼになるじゃねぇか」

 ―チョールト(チクショウ)・ヴァジミー

 最後に取って付けたように小さく悪態を吐いて。男は顔を僅かに顰めながら琥珀色の酒が入った盃をゆっくりと傾けた。

「あ? んだと?」

 立ち上がった男が前のめりになった。壁にぼんやりと浮かぶ大きな影も外套を膨らませたように揺らいだ。今にも飛びかかっていきそうな剣幕である。しかしながら、テーブルと椅子とそこにひしめく似たり寄ったりの大柄な男たちが、文字通り砦のようにその行く手を阻んでいた。

「静かにしろって言ってんだよ。あったまわりぃなぁ。ガキでも分かるこったぜ?」

 怒鳴った男の矛先は、カウンターに座る一人の男に向けられていた。その男は無精髭がまばらに伸びた顎をざらりと一撫でしてから、ゆっくりと店内に集う他の客たちを見渡した。

「なぁ、あんたらだって、あのバヤーンの歌を聴きに来てるんだろ?」

 男の問い掛けに店内にいる男たちが互いの顔を見交わせた。小さく頷きに揺れる頭部もちらほらある。

「俺だってそうさ。だから邪魔すんなって言ってんの。つべこべいちゃもんつけんなら出てけ。情緒のねぇ奴はお呼びでねぇよ」

 滔々と流れる男の辛辣な台詞に、立ち上がった男は拳を握り締めながら震えていた。勿論、怒りからである。男の口の上に生え揃う立派な黒々とした髭が、忌々しげに歪んだ。

「ざっけんな。あ? こっちが大人しく黙ってりゃぁ、べらべらとくだらねぇこと言いやがって。おめぇ、この俺に喧嘩売ってんのか? あ?」

「はあ? 喧嘩売ってんのはそっちの方だろが。勘違いすんなよ? この脳足りんが。折角のいいとこをぶち壊したのはおめぇの方だろうがよ。ガキみてぇなことしてちょっかい出しやがって。馬鹿くせぇ」

「んだとぉ!」

 拳をきつく握り締めた男は、行く手を塞ぐように座っている男たちをガタガタと椅子ごと強引に脇に寄せさせて、カウンターで寛ぐ男の傍にのっしのっしと歩み寄った。男はうんざりしたように肘を半分テーブルの板に突いたまま体を斜めに開いていた。

「ああ、ああ、嫌だねぇ、これだから血の気の多い単細胞は」

 頬杖を突いてニヤリと口の端を吊り上げた。

「あ? チクショウ。舐めた真似しやがって」

 酔っぱらっていたこともあるのだろうが、それを挑発だと受け取った、ある意味単純な大男は、益々逆上し、いきり立った。

 そして、剥き出しの太い腕が勢いよくカウンターの男目がけて繰り出された。それを相手の男は無駄のない身のこなしでさも簡単に避けてみせたではないか。ガタンと鈍い音がして、勢い余った巨漢がカウンターの出っ張りに拳をぶつけ呻き声を上げる。

「E×T×××M××× !! クソッタレ!」

 酒が回った男は、緩慢な動作で体を起こすと赤い顔を見事に禿げあがった頭のてっぺんまでカッカと燃え上がらせ、恫喝するように避けた男を高い位置から睨みつけた。

「なんだゴラァ、てめぇ、こんの腰抜けが。逃げんのか、あ?」

 男の太い二の腕に隆々とした力瘤が浮き出ていた。今にもはちきれんばかりである。男は、その場で腰を低く落として戦闘態勢に入り、拳を握り締めて構えて見せた。赤ら顔の大男は脂ぎった顔を皮肉に歪めながら、無言のまま片手をちょいちょいと手前に振った。「かかってこい」というあからさまな符丁(ジェスチャー)だ。

 カウンターへの先制攻撃を避けた男は、その場に気だるそうに立っていた。座っている時はよく分からなかったが、こちらも上背があり、ここに集う肉体労働者たちに負けず劣らず体格が良いようだ。だが、なんというか、見かけ以上に引き締まっていて敏捷な感じがした。

「あ? 誰が腰抜けだって?」

 男は手にしていた木を削り出した盃の中身を一息に呷ると、己が薄い唇をぺろりと舐めた。流れるような所作で盃をカウンターに置く。その視線は、獲物を狙う狼のように周到に相手を見据えていた。まるで仕掛ける間合いを計っているかのようだ。

 突如として始まった喧嘩の予兆に店内の客たちは一斉に壁の方へ避難しつつ、じりじりと向かい合う二人の男たちに興味津々、野次を飛ばし始めていた。ここに集まる男たちは誰ひとりとして蒼い顔をしたものはいない。寧ろ、皆回り始めた酒と持て余した熱い血に興奮気味だった。


 このまま狭い店内で始まるかと思われた拳同士の語り合いは、一人の男の低い、だが、迫力のある声に阻まれた。

「表へ出ろ。クソガキども。商売の邪魔だ」

 カウンターの奥にいたこの店の主が、大きな陶製の壺を片手に客から注文の入ったズブロフカを盃へ並々と注いでいた。

 店主は表情を変えないまま淡々とした態度でものの1サージェン(約2メートル)も離れていない男たちを見た。

「この俺の前で喧嘩なんざぁいい度胸じゃねぇか」

 そこで不意に口元を皮肉っぽく歪めた。もしかしたらそれは余裕ある笑みだったのかもしれない。ただ男の顔にはあちこちに細かい刃傷の痕が走り、特に左の頬に走る縦の傷痕が口元を引き攣らせていたので、それが正しい解釈かどうかはいまいち判断しかねた。

 客の誰かがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。

「ここで暴れるってんならそれはそれで構わねぇ。だがな、条件がある。お前らがぶっ壊したもの全部、弁償してもらうぜ。二割増しでな。そんで今後は出入り禁止だ」

 ―それでもいいってんなら、始めな。

 「どうする?」というように主が二人の男を順繰りに見た。

 暫し、沈黙が落ちた。

「おい」

 大柄な男は忌々しげに舌打ちして対峙する男に顎をしゃくった。「表に出ろ」という合図だ。

「へいへい」

 相手の男は肩を竦めた。そして先に戸口へ向かった大男に続いて、心底面倒臭そうな空気を駄々漏れにしながら背を向けた。

「あー、やってらんねぇ」

 だが、不意に思い出したように首だけ振り返った。

「あ、おっさん、ペリメニ(水餃子の一種)作っといてくれよ? マースラ(バター)たっぷり付けて。ちょっくら体動かしてくる」

 無精髭を生やした男は、そんなことを口にすると茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた。カウンター向こうの主は眉を微かに顰めて、だが、「分かった」という風に無言のまま片手を軽く振った。




 ここはとある場末の酒場(バール)である。日もとっぷり暮れた頃合いだ。小振りの簡素な木のテーブルが五つばかしと細長い(カウンター)に同じく五つ丸椅子があるだけの狭い店内に、マイカ(タンクトップ)一枚、日々の労働の賜物である逞しい肉体を惜しげもなく晒した大柄な男たちがひしめくようにくだを巻いていた。


 この場所は、この国スタルゴラドの中心である王都スタリーツァから遥か南東、低い山々を隔てた先にあるホールムスクと呼ばれる港町にあった。

 ホールムスクは、昔から貿易で栄えてきた商人の町である。遥か遠い昔、この地に流れ着いた異国の民が、ここに定住を決め、巧みであった船の技を生業に長い年月をかけて今日の繁栄と発展にまで導いてきた。

 背後を山に前方を海に囲まれた、エルドシア大陸の端に瘤のように付き出た場所だ。王都から伸びる街道は、南側から沿岸を回り込む道と北東から迂回する道、そして、これは滅多に使われないが、この瘤のような土地と大陸を分け隔てるように斜めに走る山々の峠を越える道があった。両脇の沿岸地域には周囲の防御を固めるように石壁が囲む。その昔、実際に防壁として使われていた砦は、長い年月を経てその意義を失い、風雨にさらされ半ば朽ちかけた状態ながらも、当時の面影を色濃く残していた。


 その小さな街は大陸の端に突き出た孤高の城塞のようにも見えた。海側には大きな港があり、大小様々な船が多種多様な積み荷と共にやってきては、その荷を下ろし、また新しい商品を積み込んで新たなる航海に出る。その移動は物に限らず、人や獣にも当てはまった。港は常に異国の珍しき品々や異国の民で賑わう国際色豊かな雑多で賑やかな街だった。往来に立てば、その喧騒と溢れんばかりの活気を肌で味わうことが出来るだろう。

 スタルゴラド国内に数ある他の街や村と比べても、ここホールムスクは些か特殊であった。その辺りの諸事情については追々明らかにするとして、今は、一先ず男たちの喧騒の方へ戻るとしよう。


 男たちが剣呑な声を上げているこの場所は、繁華街からは通りを三つばかり脇に逸れた一角で、港から程近く、街の中心からはやや離れた場末にある小さな酒場(バール)だった。花街からも比較的近く、通りをもう二本ほど南へと行けば赤っぽい特殊な花街仕様の発光石が複雑に入り組んだ小路を照らし、石造りの建物の窓からは客引きをする女たちのしどけない姿がぼんやりと闇の中に浮かび上がって、冷やかしがてら道を行く男たちに粉をかけている場面に出くわすことだろう。お白いと香水の甘ったるい匂いが漂うどこか退廃的な界隈だ。迷路のように複雑に交差する小路に淀んだ空気が停滞し、海から吹く清涼な風を閉じ込める。夜になれば、陽気で赤ら顔の男たちや悲壮感たっぷりに悲劇の主人公を演じる男たちがよろよろとよろめくように酒瓶片手に通り過る。そんな少し寂れた感のある古ぼけた酒場や飯屋が並ぶ一角にこのバールはあった。

 その名も「泡沫(うたかた)亭」―はかなくも泡と共に海の藻屑と消える―束の間の憂さ晴らしにはもってこいの名前だろう。店の軒先には、バールであることを示す大きな盃の紋様に短剣と長剣が交差する意匠が描かれていた。その小さな木の看板は、長年の潮風にさらされて赤茶け、彩色の色もぼやけたものになっている。

 ここに集まる男たちは、港の労働者が多かった。一日の仕事を終えた男たちが束の間の気晴らしに集まって来る。たかが知れた少ない稼ぎの中から酒手を捻り出して、ここで一杯の酒と多少のつまみを肴に仲間たちと語り合い、または一人でちびりちびりと好きな酒を舐めるのだ。明日への英気を養う為に。


 このバールは、今宵も早くから多くの客たちでごった返していた。

 ここの店主は元軍人だった。20年前、隣国ノヴグラードとの戦で大きな怪我を負った若き兵士は、その怪我の後遺症から兵役を続けることが敵わなかった為、郷里に戻り、それまでに貯めた恩給を(はた)いて小さなバールを始めたのだ。

 主はびっこを引いていた。だが、まだ足があり、自力で歩行可能というだけマシなのだろう。一時期はこの国を存亡の縁まで追いつめた大きな激しい戦だった。その中でも最も熾烈を極めたとされている西の砦に詰めていたかつての若者は、腕や足をもがれ、獣が食い散らかした肉の塊のように散らばるかつての仲間たちの変わり果てた姿を嫌と言うほど見てきた。あの激しい戦闘の中で負傷した男は、重傷であったにも関わらず奇跡的に一命を取り留めた。全身に大小様々な金創―刀剣による傷―を負い、足の筋が片方切れたが、しぶとくも命長らえたのだ。当時、男はまだ若く、体力があったということもあるが、同じく西の砦にいた軍医 が懸命に手当てを施し、看病をしてくれたお陰でもあった。数少ない生還者の未来を繋ぐ為に。今でもその時の傷は服の下、全身に刻まれている。引き攣れた皮膚は色を変えたまま忘却を拒む。そして、夏になると決まって足の大腿部に負った深い古傷が、思い出したように痛んだ。耳の奥にこびりついた負傷した仲間たちの呻き声を忘れまいとするかのように。


 軍人からバールの主になった男にとって勝手の違う分野での第二の人生は苦労の連続だった。それも当然だろう。15の歳に王都へ赴き、騎士団に入隊して以来、男はその手に長剣や槍しか握ったことがなかったのだから。兵士としての経験しかない男にとって飲食業であるバールは全くの畑違いの場で、慣れないことばかりだった。それに、たとえこの街の生まれであったとしても、郷里を離れ王都に上り、この国に忠誠を誓う騎士団に入隊した男は、この街の人々からは冷めた目で見られていたこともあるだろう。「裏切り者(プレダーテェリ)」が戻って来たと。

 かつて、この港町はどこの国にも属さず独立した自治を築いていたのだが、大国であったスタルゴラドに武力を持って取り込まれたという苦い歴史的経緯があった。今からざっと300年前の古い話だが、長い間自治を貫き、この地を治めてきた誇り高き街の民、海の男マリャークたちは、そのことを忘れずに記憶に刻んできた。決して消えることのない苦難の歴史の記憶である。そのような理由から街の住人たちは、未だに王都に対して燻るような不信感と反感を抱いていた。

 そのような歴史的軋轢もさることながら、ここで愛想がよければ客商売であるからバールの経営を軌道に乗せるのに少しは一役買ったのかもしれないが、生憎、男は寡黙な性質だった。顔の左半分、こめかみから頬にかけて長い刃傷痕が一本走っていて、顔面の筋肉が損傷の為に引き攣れ、表情が余り動かなかった。そして年を経て、若さの絶頂からは早々に転げ落ちたとはいえ、かつての訓練の賜物である屈強な肉体を持ち、体格には恵まれていた。刃傷痕の残るとてもじゃないが堅気とは思えない、にこりともしない無愛想な大男の店。そんな印象だったかもしれない。

 最初の頃は、「こんな愛想のねぇしけた店で酒が飲めるかよ! 金をどぶにすてるようなもんだぜ」などと口さがない悪口を言われたり、酔った客に怒鳴られたりしたことも多々あった。持ち合せがないからと言って代金を取り損ねたことも。万事そのような調子で、一時期は真剣に店を畳んで別のたつき を探さなければなるまいかと思い悩んだこともあった。

 だが、不思議なこともあるもので、ひょんなことからこの店に客が集まるようになったのだ。それから店の経営は少しずつ軌道に乗り始めた。人が集い、付き合いが長くなれば、この界隈の男たちも口数の少ない主の性格を次第に理解し、受け入れるようになった。そして今では主自身がこのバールに無くてはならない名物男になっていた。

 さて、この店の経営が上手くった契機となる出来事とは………




 バール「泡沫(うたかた)亭」の主イルムークは、定位置であるカウンターの後ろの椅子に腰掛けながら―怪我の後遺症で長い間立つことができないのだ。今は歩行にも杖を使う―狭い店内を支配する独特な静かなる熱気に、その発生源である箇所へと視線を流した。店内はお世辞にも広いとは言えない。5人も並べば一杯になるカウンターと粗末な木のテーブルが五つばかり、20人も入れば満杯だ。ここにやって来る男たちは、海の男マリャークや漁師であるリィバークが殆どで、大柄な者が多いから余計に窮屈に感じられるかもしれない。

 入り口から一番離れた奥、窓際のカウンターの隣に一段周囲より高くなった板敷の場所があり、そこに流しのバヤーンが座っていた。

 バヤーンというのは、元々、この地域で持て囃された竪琴の一種なのだが、それを弾く楽師のことをバヤーンと呼び、時代が下った今では、楽器に関わらず楽師の総称として使われる場合が多くなっている。楽を奏でるだけの者もいれば、歌を歌い弾き語りをする者もいる。後者の方が、人気が高く、楽師の比率としても高いだろう。

 楽師は、この辺りでは珍しく透き通るような白い肌に癖の無い亜麻色の髪を伸ばしたまだ若い女だった。女が奏でているのは琴の一種であるグースリだ。大きな丸みを帯びた三角形の平たい琴を膝の上に乗せて、そこに張られた複数の弦を上に向かって爪弾くようにして奏でる楽器である。

 目を伏せ、白いしなやかな指で弦を弾きながら、女性にしては少し低めの、だが、艶やかではりのある声で歌っていた。遠い異国の物語や英雄譚、武勇伝、悲恋の物語などその題材は様々だが、その地域によって人気のある楽曲はあった。ここで歌われているのは、遥か昔、この大陸がエルドシアと呼ばれていた頃の神々の伝説を取り上げた一節だった。


 ぬばたまの髪 なびくにまかせ 今宵一人 気ままに闇をたゆたふ 

 気高き風の王の娘 夜露の申し子 星々の瞬きを衣に 徒に下界を遊ぶ

 ああ いかでか その美しき(かんばせ)に口づけを落とさむ

 いかでか そが瞳に 我を映さむ………


 夜に相応しいしっとりとした旋律(メロディー)。深みのある哀愁漂う歌声。掻き鳴らされる弦の音に合わせて夜霧のように控え目でそれでいて体全体を包み込むような浮遊感が、じっと聞き耳をたてる男たちを包んだ。優しくも物悲しい音色だった。柔らかく聴く者の心を伸びやかな歌声が別世界へと(いざな)う。

 店に集う男たちはじっとその歌声に耳を傾けていた。賑やかで喧しいほどのおしゃべりも、がなりたてるようなだみ声も、この時ばかりはぴたりと止む。それは、この小さなバールでもはや恒例となっている一時だった。

 客たちのお目当てはこのバヤーン(楽師)の歌を聴くことだった。この店の主が軍人時代の伝手を使って―騎士団は国内全域から若者を募り、見習い時代は全員が王都で過ごすのだ―方々から集めたとっておきの酒の為でも、厨房に立つ雇いの料理人のどこにでもあるようなつまみを食べる為でもなかった。はたまた無口な男の代表とでも言うべきこの主と人生の喜びについて語り合う為でもない。料理人も主も店で提供する料理や酒に手を抜いている訳ではないのだが、かといって特別褒めるようなものでもなかった。要するにありふれたものだった。

 皆、一日の終わりにこの楽師の歌を聴く為にこのバールに立ち寄った。日々の稼ぎの中からなけなしの小銭を(はた)いて。

 そして、このグースリ弾きであるバヤーンとの出会いが、男がこの店を続けて行く切掛けであった。無論、今、膝の上で平たい琴グースリを掻き鳴らす若い娘が、かつての若き主の救世主であったわけではない。


 約20年前、男を救ったのは、この娘の母親に当たる女だった。ある時、ふらりとやってきた流しのバヤーン(楽師)。街から見て北東にある隣国セルツェーリの出だという美しい娘が、この店の片隅でいいから弾かせてくれないかとこの店を訪ねたことから始まったのだ。


 当時、バールを始めたばかりの男の店は閑古鳥(かんこどり)が鳴いていて、こんな客のこないしけた場所で弾いても商売にならないとその申し出を断ったのだが、女楽師は諦めず、客が無ければそれでいいから試しに弾かせてもらえないかと言い募った為、面倒になった男は好きにすればいいと折れたのだ。

 だが、蓋を開けてみればどうだ。開店と同時に人気のない店内で流しのグースリ弾きであるバヤーンが、己が愛器と共に歌を口ずさめば、開け放たれた扉から漏れたその音色に惹かれるようにして、ぽつりぽつりと客が集まり出した。そして、主の男が気付いた時には、小さな店内は身動きの取れないくらいの客でごった返すまでになっていた。


 その日は、本当に目の回るような忙しさだった。店を開けてから初めてのことだった。暇を持て余していた料理人はそれまでの気だるさが嘘だったように動き出し、厨房は慌ただしくも活気に満ちた。一方、主はびっこを引いた足で料理を運ぶためにテーブルの間を休みなく行き来し、そして客の求めに応じて揃えていた様々な酒を注いで行った。

 そうして一日が終わると、心地よい疲労感と妙な興奮がまだ若かった主を捕らえていた。すっかり客がはけて乱雑なテーブルと椅子、片付けきれていない汚れた皿や盃の点々と散らばる狭い店内で、カウンター奥の一段高くなった場所に闇に潜むように若い楽師の女が大きなグースリを抱えひっそりと佇んでいた。

 壁にある発光石の抑えられた明かりの影で女は微笑んでいるように見えた。その瞬間、主は急に我に返り、長時間、立ちっぱなしで痛みを訴え始めた足の古傷を敢えて意識の外に追い出すようにしながら、ゆっくりとびっこを引いて女の傍に向かった。

「助かった」

 声音には男の正直な心情が吐露されていた。まるで夢を見ているかのような心持だった。

「いいえ。こちらこそ、ありがとうございました」

 女は楽師の倣い通りに―それは淑女の礼に似ていた―その場で膝を軽く折った。

「明日も頼めるか」

 その台詞が口を付いて出てきたことに声を発した男自身が、内心驚いていた。

「はい。よろしくお願い致します」

 女は、心得たように柔らかな笑みを浮かべた。


 不意に落ちた沈黙に、男は所在なさげに酒の余韻と出されたつまみの匂いが漂う店内を見渡した。変わり映えのない狭い店内が網膜に反射する。そこで今夜の分の報酬を楽師に渡していないことに気が付いた。と同時にその相場を知らないことに気付き、今更ながらに愕然とした。

 男は些か気まり悪げに女の方を斜交いに見た。

「その……だな」

「はい」

「俺はこの店を始めたばかりで、こう言うのもなんだが、この手の商売にはまだ慣れていない」

 自分が酷く情けないことを言っているという自覚が、当時まだ若かった男にはあった。

「ええ」

「楽師を受けいれたのもあんたが初めてだ」

 男の話に女は静かに合槌を打つ。

「だからだな……。その……」

「ええ」

「その………相場を知らんのだ。情けない話だが、幾ら払えばいいんだ?」

 その心底弱り切った男の声に女は小さく喉の奥を震わせた。

「今夜は、わたくしが半ば押しかけたようなものですから、代価は要りません。ですが、その代わり…………」

 楽師の女は、袋にしまったグースリを腕に抱えたまま立ち上がると、静かに男の方に歩み寄った。

「今晩、そちらに泊めていただけませんか?」

 男は女の口から紡がれた科白に耳を疑った。

「………俺の部屋に?」

「はい」

「狭くて汚い男の一人所帯だぞ?」

 男の引き攣れた眉が訝しげに上がった。

「構いません。片隅に身を寄せられるだけで結構です。今宵、夜露が凌げれば」

 女は主のすぐ傍まで来るとその傷だらけの逞しい腕にそっと手を滑らせた。

「勿論、タダでとは申しません。お望みとあらば、無聊をお慰めすることも」

 その時、女からは匂い立つような色気が滲み出ていた。まるで性質の悪い幻惑を見ているようだった。楽を奏でていた時は、どこか孤高で近寄りがたかったはずなのに、それがこのように堕ちた表情をしてみせるとは。

 男は女の意図が読めずに顔を顰めた。顔面に走る大小の古傷が男の顔に複雑な痙攣の跡を残していた。

「何が望みだ?」

 体に染み付いた軍人の鋭さで男は剣呑に問うたが、女は怯んだ様子を見せなかった。相も変わらず柔らかな笑みを浮かべていた。

「今宵、一夜の宿を」

 暫し、男は楽師と見つめ合った。淡い亜麻色の髪を結い上げた女。ただそこにいても華のある女だと男は思った。あからさまではないひっそりとした類の。器量の良し悪しは分からなかったが、男を引きつける魅力を兼ね備えていると思った。それが楽師特有のものなのか、それともその女に起因するものなのかは、分からなかった。薄いベールから覗く耳元には、赤い石が三つ、合わさった輪の中に連なって揺れていた。過去・現在・未来――三つの時を封じ込めたその耳飾りはこの辺りでは人気の意匠(デザイン)だ。そこから男が視線を横にずらせば、孔雀石のように濃い緑色の瞳が煌めく貴石のように男を見つめていた。


 抑えられた発光石の明かりが辛うじて届くか届かないかのぼんやりと薄暗い室内。そこらには膨れ上がった闇が点々と色濃い影を落としている。女の姿も半ば闇に沈んでいた。

 そのような中で、妙な胸騒ぎが男を捕らえた。意味もなく焦燥感に似た感情が男の鼓膜の奥にざわめきを残した。まるで潮騒のように。

 たとえようのない居心地の悪さに蓋をして。男は女から視線を逸らすとぶっきら棒に息を吐き出した。

「好きにすればいい」

「ありがとうございます」

 残っている後片付けを済ませる為、背を向けた主に楽師の女は微笑んでいた。


 その後、約束通りに男は女を部屋に泊めた。そして翌日も、その翌日も。流れの女楽師は男の店でグースリを掻き鳴らしながら歌を歌い、そして仕事が終わると男と共にその家に帰った。男の店は、その女楽師の演奏のお陰で、連日多くの客で賑わっていた。

 こうして、かつて兵士であった男のバールの主としての第二の人生は、この流れの女楽師との出会いをきっかけに産声を上げたと言っても過言ではないだろう。


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