夏のいき
コタローという猫がいた。
でもその猫が何故コタローと呼ばれているのかは誰も知らなかった。
小さな漁港のすぐ横に私の家はある。どの家も小さな舟を持っていて、近海でこまごまとした漁をしている。でもそれもみんな副業で、休みの日にタコやらワカサギやらを捕りにいくぐらいだ。
だから漁港というのとも違うのかもしれない。でも他になんといえばいいのかもわからない。本当に小さな、小さな堤防があって、大人が三人も乗ったらいっぱいになるような舟ばかりが並んでいる場所だ。
もちろん我が家にも舟はあった。屋号と同じ五兵丸という名前が付いている。ごひょう、というのはだいぶ昔のご先祖様の名前ならしい。
だから祖父も海によく出ていた。小さい頃は乗せてもらって海の上のドライブを楽しんだ。けして遠くまではいけないけれど、小さな舟でスピードを出すととても速く感じられる。
ゆっくり漂えば、海底が見える。ゆらゆらと揺れる海藻の合間を縫う魚、のそのそと海底を横切ってゆくカニ。海港の日以外には捕ってはいけないウニ。様々なものを眺めて記憶に留めた。
小さな小さな島。近所の人は誰もが顔見知りのような場所。
祖父は漁が終われば決まって我が家と港の間にある小さな漁師小屋で一杯引っかけてから帰ってきていた。
その、ボロボロになった漁師小屋のすぐ横に置かれた樽の上。
そこがコタローの居場所だった。
コタローは至ってどこにでもいる日本猫だ。こげ茶のトラ柄でどちらかと言えば丸っこく太っている。首輪はしてないから野良だったのだと思う。
堤防には猫が多い。漁から帰ってきた人たちがその場で魚の選別をすることがあるからだ。時折貰えるおこぼれを目指して、野良猫は集まってくる。
そういえば我が家もそうだった。捕ってきた魚を捌くのは祖父の仕事で、それは必ず外で行われた。外の水道に大きなまな板を置いて魚を載せると、どこからか野良猫が集まってくるのだ。いらない頭や内臓を貰う為に。
だからコタローもそういった類の野良猫だったんだろう。だったんだろう、というのは私が物心ついたときには既にコタローは樽の上にいたからだ。
そう、コタローは常に寝ていた。
もちろんそんなのはあり得ないと知っていた。きっと知らない内にご飯を食べたり縄張りを見まわったり、樽の上からいなくなることがある筈だと思っていた。
だけど私が見るとコタローは常に樽の上で寝ていた。身体を丸めて、顔をこちらに見せながら。
海から帰ってきたおじさんたちが声をかけても、私が目の前でじいっと見つめてもコタローは微動だにしなかった。不思議に思った私は幾度かおじさんたちに聞いてみた。
「コタローはいつも寝てるの?」
答えはいつも一緒。誰に聞いても同じ。
ちなみにコタローという名前も誰かがそう呼んでいたのを聞いて呼んでいただけ。かくいう私もそう、祖父がコタローと呼んでいたからそういう名前なのだと思っていた。
実際はなんていう名前なのか知らない。
でもそれも誰かの飼い猫だったらの話だ。野良に名前はつかないことがほとんど。
だからコタローはコタローでいいのだと思っていた。
そして近所の子どもたちもみんな私と一緒だった。
私が九歳になった頃、ひとつ年上のユウタが帰り道にこんなことを言い出した。
「猫は十年生きると猫又になるんだぜ」
ひとつ年下のスミレが不思議そうな顔をして「ねこまたって何?」と聞いてくる。
私もそんなの知らなくって、サダカツと首を傾げた。
「猫又はな、猫の妖怪だ。尻尾がふたつに割れて、でっかくて人間を食い殺すんだ」
誰も知らなかったのが心地よかったのか、ユウタは自慢げに話し出す。後から知ったがどうやら前の日にテレビで妖怪特集なるものをやっていたらしい。
「でもコタローはふたつになってないよ」
言われたとおりの猫を想像していた私の横でスミレがきょとんとしながら言った。
「コタローはまだ十歳じゃないんだろ」
「えー、だってスミレのおじいちゃんが言ってたよ。コタローはスミレが生まれる前からいるんだって」
スミレの反論にいささかユウタは機嫌を損ねたらしい。私はちょっとだけハラハラしながら二人を見ていた。
「そういや俺も、ばあちゃんにコタローはお前より長生きだって言われた」
でもサダカツは違った。素直に自分の意見を言っていた。それに対してユウタは更に口を尖らせる。サダカツより背が低いことがちょっとしたコンプレックスだった彼は、少しでも年上ぶりたかったのにそうはいかなかったからだと今ならわかる。
「じゃあコタローはいっつも寝てるからなんじゃないの!」
語気を荒げてユウタは言った。
それが私たちの中の何かに密かに火を点けたのだと思う。
「本当にいつも寝てるのかなぁ」
常々あった疑問をつい口にしてしまった私にユウタの鋭い視線が飛んでくる。
「それ俺も不思議だった。いつも寝てるなんてありえないだろ」
相変わらずユウタのプライドなんてお構いなしにサダカツは同意する。ただスミレはよくわからなかったみたいで、きゃっきゃと笑いながら「でもいつも寝てるよー」と言っていた。
季節はもう夏。暑い日差しが皆の肌を焦がす。あと数回登校すれば夏休みが待っていた。
「だったら確かめようぜ」
不機嫌の極みで言っただけの言葉ではなかった、と今でも思う。ユウタ自身も不思議に思っていたのだろう。変わらず口元は拗ねていたが、その瞳には若干楽しそうな光が宿っていた。
かくして私、ユウタ、サダカツ、スミレの四人は夏休みにコタローの実態を観察することになった。最初スミレには辛かろうとサダカツが気を利かせようとしたのだが、持ち前の頑固さを発揮して彼女も加わった。
尤も何か作戦があるわけでも行動を取るわけでもない。ただコタローの前に一日いるだけだ。それがまだ幼い私たちにはどんなに辛いことかも知らずに。
それでもユウタがお兄さんらしくきちんと家の人にどこに行くか言うこと、水筒を忘れないこと、五時には家に帰ることを決めてくれた為、なんだか秘密作戦を実行するようなわくわく感があったのを今でも覚えている。
そして作戦決行日。
夏休みに入って次の日だった。空はどこまでも青くて、真っ白な雲がところどころふわふわと浮いている。
八時集合だったにも関わらず、私は麦茶を入れてもらった水筒を片手に三十分前には漁師小屋の前に来ていた。家から三分とかからないのだからそのはしゃぎっぷりは遠足並だ。
だが皆同じだったのだろう。既にユウタは来ていたし、五分後にはサダカツも来た。スミレは時間きっかりに現れたが、遠足に持っていくピンクのリュックをいっぱいにして背負ってきたのを見て、やはり一緒だと感じていた。
海に出るおじさんたちは朝が早い。だから漁師小屋には誰もいない。
でもコタローはいた。しかも眠っていた。まだ朝の八時だというのに、私が来た三十分前もユウタがいたというその十五分前もコタローは寝ていたのだ。樽の上はほんの少し陰になっていた。
もちろん死んでいるわけではない。いつもと同じようにお腹のあたりが動いている。
そこから私たちは、ただコタローを観察するという作戦を開始した。
朝方は良かった。既に日差しはあったし、日向は暑いもののそれでもまだ日陰にいれば凌いでいられる。冷たい麦茶を時折飲んで、コタローから目を離さないように話をしながら時を過ごした。
コタローはやはり動かない。本当に時々、耳をぴくっと動かすだけだ。
だが太陽が真上に昇ればやはり違う。お昼ご飯は一番近い我が家で食べることになっていたが、それでも誰も見張りがいなくなるわけにはいかないと、二人ずつ交代で行くことになった。
一番年下だからということで先にスミレと面倒を見る為にユウタが私の家へと向かう。スミレはリュックの中に色んなものを持ってきていたが、さすがに飽きたし疲れたのだろう。ユウタに手を引かれ、赤い顔をして歩いて行った。
それもそうだ。漁師小屋から樽が見えない為、私たちはずっと炎天下の外にいる。かろうじて木陰があったが、それも太陽の動きに合わせて形を変え、今は本当に狭い場所しか残されていない。
時折吹きぬけてゆく潮風だけが気持ち良かった。蝉が無き続け、日光が肌を焦がしてゆく。麦茶は底をつき、早く家に帰ってまた冷たいのを注いできたかった。
「なあ」
首から下げたタオルで額の汗を拭きながら、不意にサダカツが口を開く。
「猫又なんて、いると思うか?」
麦わら帽子を脱いで顔を煽いでいた私は、思わずその手を止めてしまった。
サダカツは私と同い年のくせに妙に大人っぽかった。クラスの男子なんてみんなまだまだ子どもっぽくて悪ガキで、いつも女子に怒られている。
なのに彼はどこか違った。きっと年の離れたお兄さんがいたせいなのかもしれない。人よりちょっと勉強が出来て、涼しげな声で話して。いつもひとつ離れた場所から意見を言う。運動だけが得意なユウタとは大違い。
そんなサダカツに憧れている女子は多かった。
「うーん、どうなんだろう。だけど十年も生きてる猫なんていっぱいいる気がするな」
私はただ思ったことを答えていた。実際犬や猫がどれだけ生きるのかをこのときは知らなかった。近所の野良猫はずっと前からいる奴もいた気がしたし、つい最近見るようになった奴もいる気がした。
「そうだよな。飼い主を食い殺すなんてそんな恩知らずなこと、なあ」
恩知らず、そんな言葉をさらりと使うことに思わずドキッとしてしまった。クラスの女子と違って幼馴染とも言えるサダカツに好意を抱いている自覚はなかった。ただ純粋に耳に馴染まない、特に同年代の男子からは、言葉に驚いたのだ。
「尻尾がない猫だっているしね」
その気持ちを隠そうと慌てて口にした的外れな台詞。だけどサダカツは眉を上げて目をパチパチさせてから「そういや、そうだよな」と笑っていてくれた。
その後特に会話は続かなかった。疲れていたのもあるし、会話がないからといって気まずいこともなかったのもある。ただなんとなく、私は自分がサダカツと会話をするには少し不釣り合いなんじゃなかろうかと感じていたりもした。
その間も、コタローは静かに眠り続けていた。
三十分程してスミレとユウタは帰ってきた。だいぶ回復したのかスミレは嬉しそうに水筒を抱えて走ってくる。
「走ったら疲れるだろ!」
だけどすぐにユウタの喝が飛んできて、スミレは口を尖らせながら「はーい」と返事をしていた。
てくてくと歩いてくるスミレ。その後ろを大きな水筒を持って追うユウタ。
「お昼ごはんね、そうめんだったよ! アイスももらったの。ごちそうさまでした」
私のもとに辿り着いたスミレはそう言いながら頭をぺこっと下げた。私の家で食べたからそうしたのだろうけれど、この行儀の良さはユウタの仕込みだったと思う。ユウタはお兄さんぶるけれど、その分誰よりも面倒見が良かった。
「おう、ごちそうさま。お前らも食ってこいよ」
本人は素っ気なく言うくせに。
よく見たら大きな水筒は我が家のもので、一緒に持っていた袋にプラスチックのコップも入っていた。これで午後は乗り切れるかもという思いとようやく扇風機にあたれるという喜びにテンションが上がる。
ユウタにコタローは寝てたと報告してから、私とサダカツは我が家に向かった。たった三分の道のりを少し長く感じながら。
開け放たれた玄関を入り、すぐに居間に乗り込む。サダカツが「お邪魔します」と言ってくれたおかげですぐに母が顔を出してきた。
「暑かったでしょう。今冷たい麦茶持ってくるからね」
そう言いつつ台所に引っ込んだ母にお構いなしに、私はガラスの器をサダカツに私、麺つゆを注いだ。
大きな桶に氷と一緒に盛られた素麺。母のことだからスミレとユウタが出てから茹でたのだろう。氷はまだ溶けておらず、素麺ものびてはいなかった。シソの香りとつるっとした喉越しが、一気に涼しさを与えてくれる。
扇風機だけの我が家だったけれど、今まで外にいた分充分に気持ちが良かった。運んできてくれた冷たい麦茶を一気に飲み干しながら二人で黙々と素麺を食べてゆく。
大量にあった気がしたのに、すぐに桶の底が見えてくる。
「あらあら、足りなかったかしら」
そう笑いながら母はイチゴアイスとサイダーを持ってきてくれた。
「いえ、ごちそうさまです」
イチゴアイスを受け取りながらサダカツは丁寧に礼を言う。母親は笑顔で器を片付けてまた台所へと戻っていった。
「扇風機の前から離れたくなくなるね」
余りにも無言の時間が長くて気持ち悪くなった為、差し障りのない話題を口にしてみた。
「うん。だけど夏って感じがするよな」
サダカツは余り気にしてもなかったのかもしれない。イチゴアイスを食べながらさらりと答える。
「まあ、夏だしね」
「ああ、夏だしな」
口の中で溶けてゆくイチゴアイスが、妙に甘酸っぱかったのを忘れないと思う。
私たちも三十分ぐらいを家の中で過ごし、水筒に麦茶を詰めてもらってまた漁師小屋へと戻った。母が勝手に喋っていたが、スミレは麦茶ではなくサイダーを水筒に入れていったらしい。あの笑顔の理由がなんとなくわかって、その単純さが微笑ましかった。
コタローはやっぱり寝ていた。だが寝ている位置が樽の上でも微妙に変わっている。ユウタに聞いたところ、ついさっき少しだけ動いたのだという。だけど目も開けず起きた様子もなく、いわば寝返りのようなものだったそうだ。近づいて、コタローが樽の上でも日陰の方に移動したのだということに気がついた。
こんな炎天下で一日中寝ていて、干からびたりしないのだろうか。
はじめは純粋な興味だった。絶対起きて動いたりご飯を食べたりしているのだと思っていた。それがいつの間にか不安に変わっていた。大丈夫なのだろうか、本当は具合が悪いんじゃないんだろうか。
私以外にこんなことを考えているのか、それはわからなかった。コタローを観察する作戦は続行される。
お昼ご飯を食べて気力を補って、最初のうちはみんな元気だった。でもやっぱり段々と疲れてきてしまう。
お昼を過ぎたら海に行っていたおじさんたちも徐々に帰ってきていた。ただ漁師小屋まで帰ってくるのはまだ先だ。みんな舟をつけて堤防で今日捕ってきたものを選別してゆく。
だから道を時折野良猫が通っていっていた。今日のご飯の時間なのだろう。その誰もが私たちに一瞥をくれて、もしくは隠れるようにこそこそと通っていくのに、コタローは一向に目を開けることがなかった。
やがてぽつぽつと道をおじさんたちや車が通り出した。漁師小屋へと帰ってきた人たちは皆一様に「何してんだ?」と聞き、ユウタが答えれば笑っていった。
夏の太陽は長生きだ。まだ明るいけれどもう夕方になってきたのを私たちは肌で感じていた。そしてもう作戦の終わりが近いこともわかっていた。
青い空に雲が増えだし、黙ってしまった私たちの顔に明らかな疲れが見えたときサダカツが「あ」と口を開けた。
その声と同時に私の目がコタローをとらえる。
コタローの瞳は、金色だった。
声を上げたサダカツも、私もユウタもスミレも誰も言葉が出なかった。ただ樽の上に座るコタローを見ていた。
私たちに気づいたコタローが「にゃあ」と鳴く。鳴き声を聞いたのも初めてだった。
「お、おい」
しばらく時が止まったかのようだった。あのときの静かな興奮は忘れられない。だがユウタが絞り出した声にコタローはもう一度「にゃあ」と鳴き、すくっと立ち上がった。
少し太っていると思っていた身体は案外細かった。猫らしいしなやかな背中をしていて、毛並みがボロボロでも綺麗に見えた。
「にゃあ」
もう一度、コタローが鳴く。
そしてコタローはぴょんと樽の向こう側に飛び降りてしまった。
「あ、コタロー!」
ユウタの声に私たちの身体が動く。捕まえたかったわけでも餌をあげたかったわけでもない。ただ身体が勝手に動いていた。
樽の向こうに見たコタローは、長い一本の尻尾をピッと立てながらゆっくりを歩いていた。あちらの方には何もない。ただ林があるだけだ。私たちの声に反応することなく、真っ直ぐと林の中に消えていった。
そして私たちも樽から向こうへは行かなかった。
いや、行けなかった。
その後、コタローが樽の上で眠ることはなくなった。
あれから十五年、今私は一匹の猫と暮らしている。
名前はキネコ。お腹が白く、背中や足が黒い猫をタキシード猫と言うらしい。通称タキ猫。それを友人から聞いてキネコという名前がついた。
数年前の雨の日、弱っているのを発見し、ペット可のアパートだった故に我が家へ迎え入れられたキネコ。
とても単純な理由で可笑しな名前をつけられた私の家族は最近寝ていることが多くなった。
中学生の頃だったと思う、猫は自分の死期が近付くと姿を消すことがあるのだ、ということを知ったのは。
それが本当のことなのかどうかはわからない。調べようという気も起らなかった。
ただ、あの後コタローは二度とあの場所には戻って来なかったし、その姿を見たという人もひとりもいなかった。似たような猫が堤防に現れても、誰もコタローとは呼ばなかった。
私たちは成長していくにつれて、自分の居場所というものを確立していった。それが必ずしも重なるわけではない。
ユウタはあの後野球に熱中し、高校はなんと私立の有名校からスカウトがきていた。小さな島では大騒ぎになったものの、最後の夏休み、甲子園一歩手前でその夢を終えていた。
いつも私たちの後をついてきていたスミレは、小学校の高学年になった頃、離婚した母親について行って島を離れた。だからそれ以降の彼女は知らない。最後に見たスミレは、簡単な化粧をして少し背伸びした、やんちゃな女の子に育っていた。
サダカツはずっと普通だった。地元の高校を出て関西の大学へ進学して。時折島に戻っては、父親の手伝いで海に出ていたらしい。
かくいう私は絵を描くことが好きで東京の専門学校へと進んだ。周りの子は同人活動をしていたけれど、私はあまり二次創作には興味が出ず、オリジナルの一枚絵を描き続けていた。
専門学校に入った頃にはネットで作品を公開するのも気軽に出来てきていて、友人にサイトを作ってもらってそこでずっと活動をしていた。今ではそこそこアクセス数のある創作サイトに成長したと思う。
卒業して、恩師から小さな絵を描く仕事をもらいながら暮らす私の家族、キネコ。絵を描いたところでお給料なんか対してもらえず、アルバイトにも必死にならなきゃいけない日々。
だけどキネコはいつも私の側にいてくれた。対して甘えてくるわけでもなく、かといって素っ気ないわけでもなく、ただただ私を見ていてくれる。
「ただいま」
パソコンの横で静かに眠っているキネコを見つめていたら玄関から声が聞こえてくる。
「おかえりー」
そう答えながらそっと、キネコの側を離れた。
「絵、進んだ?」
ネクタイを緩めながらの質問に「ぼちぼちかな」と答えると笑ってくれる。外は暑かったのだろう、額に汗が滲んでいる。
「ああ、本当だ」
そのまま私の部屋に入ってパソコンを見る。扇風機がからからと周り、その横で寝ているキネコの毛を揺らしていた。
「暑くないのかな、キネコはこんなとこで寝てて」
「暑いと思うよ。だけど最近は専らそこだよね」
近くにあったタオルを手渡すと、額の汗を拭いながら目を細めた。
「まあ、夏だしな」
「うん、夏だしね」
開け放たれた窓から、夏の匂いが舞い込んでくる。ちりん、と風鈴が涼しさを運んできてくれる。
「晩ご飯は?」
「焼き茄子と素麺でございます」
「おお、さすが」
あの夏の日、私たちはひとつの命に触れた。
コタローは一体どこから来て、どこに行ったのか。それを知るのはきっと誰もいないけれど。いつも寝ていたコタローの姿は今も忘れない。
「貞勝ー、脱いだスーツはちゃんとハンガーにかけてよ」
一足先に別の部屋へと向かった後ろ姿に声をかけると、右手を上げて返事をしてくれた。でもきちんとかかっている保証はどこにもない。
猫は十年生きると猫又になる。
だけどうちのキネコは年齢がわからない。拾ってきたときは既に大人だった。まだ尾はふたつになっていないのだから、猫又にはならないのだろう。
でも、いつか。
いつかキネコも私の元から去る日が来るのだろうか。
麺を茹でるか、とパソコンの前から離れようとしたとき、静かに眠っていたキネコが「にゃあ」と鳴いた。
《了》
この小説は自サイトと純文学小説投稿サイト-jyunbunにも掲載しております。なお、自サイトの方は加筆修正してあります。