0. プロローグ
――ロートン侯爵令息の第一夫人が、病気療養のため領地へ居を移すらしい。
その噂は、瞬く間に社交界へ広まった。
数週間前には夜会へその麗しい姿を見せていた夫人が、本当に療養が必要なほどの病気なわけもなく。
「要するに、本邸から追放したということでしょう?いずれこうなると思っていましたわ」
「あの方のお振る舞いはとても次期侯爵夫人としては……ねえ?」
「5年なら良く保った方ではないか」
口さがない貴族たちはここぞとばかりに言い放った。夫人に対して同情的な意見を述べる者はほぼ皆無だ。尤も、夫のロートン侯爵令息に対しても、彼らは批判的であったが。
7年前。ロートン侯爵家の嫡男アレックスは、莫大な違約金を支払って自身の婚約を解消し、レスター男爵家の娘シェリルを新たな伴侶として選んだ。
これぞ『真実の愛』。
彼らのストーリーは平民を中心に熱狂的に支持された。彼らをモデルにした演劇まで上映されるほどに。
では貴族たちも喜んで受け入れたか?――勿論、否である。
特に高位貴族はロートン侯爵家へあからさまに嫌悪を示した。格差婚は、貴族制度そのものを揺るがしかねない愚行であるのだから。
実際、「自分も玉の輿に乗れるかもしれない」と考えた下位貴族の令嬢が侯爵家の令息に付きまとい、トラブルを起こした事例もあった。
身の程知らずな野望を抱いた彼女が実家ごと潰されるという顛末を迎えたことで、そのような真似をする令嬢はいなくなったが。
まだシェリルが優秀な人材であったならば、擁護する向きもあったかもしれない。
しかし貴族学院での成績は下から数えた方が早いと言うレベルで。令息たちを篭絡し侍らせる才能だけは恵まれているくらいだ。
つまり、侯爵家の正妻となるには色々と足りない。
この結婚が上手くいくわけはないだろう。
貴族たちはそう思っていた。
しかし予想に反して、二人は結婚してから常に仲睦まじい様子を見せていたのである。
社交場においてアレックスは常にシェリルを伴い、妻の側から離れなかった。良からぬ思惑を持った男や、あるいはシェリルを貶めようとする貴婦人は、アレックスに睨まれて近づくことすらできなかった。
だからこそ。
シェリルが事実上、王都から追放されたという事件が醜聞を好む貴族たちの興味を惹いたのは当然の仕儀。
中にはロートン家の使用人や出入りする商人に金を積み、内情を探ろうとする者もいたが、望む情報は引き出せなかった。
歴史ある侯爵家に何があったのか。真相は知られることなく、忘れ去れていくことになる。
渦中の人であるシェリルは、ロートン侯爵領へと向かう馬車に揺られていた。
家紋の入った豪奢な馬車ではあるが、乗っているのは彼女と専属侍女一人のみ。次期侯爵夫人の道行きとしては質素なものである。
「カーラ。貴方は知っていたの?」
「はい」
主語が無くとも、この忠実な侍女はシェリルの言わんとしていることを察して答える。
「……そう」と興味なさげに応えた彼女は、窓へと虚ろな目を向けた。
「どうして誰も、私に教えてくれなかったのかしら」




