彼女は今日もそこにいる
俺、こと秋元未来は、地味で根暗な学生時代を過ごしていた。
だが今は――美人の妻と結婚し、子どもにも恵まれ、穏やかな毎日を送っている。
話せば長くなるのだが、妻である門倉琴音との出会いは、高校時代にまで遡る。
当時の門倉は、クラスでもトップ5に入るほどの容姿を誇っていた。当然、男子からの人気も抜群だった。一方の俺は、存在感の薄さならクラスでも随一で、例えるならダンゴムシ。目立たず、誰の記憶にも残らないタイプの人間だ。
そんな俺が彼女と距離を縮めることができた理由。
それは、とある秘密を知ってしまったからに他ならない。
その秘密は、少なくとも俺たちがこの時代を生きている間、決して他人に話してはいけないものだ。だからこうして、気晴らしに日記として書き残しておくことにする。
――あれは、高校で席替えが行われた日のことだった。
席替えの最中、俺は自分の机を押しながら、何度も足を止めていた。
理由ははっきりしている。
通路が、妙に歩きやすいのだ。
机を詰めたはずなのに、肩がぶつからない。
すれ違うときに、誰にも気を遣わなくていい。
「……こんなに広かったっけ?」
独り言のつもりだったが、近くにいた門倉がこちらを見た。
好きな子と突然話せる状況に、内心では飛び上がるほど嬉しく、同時に心臓が潰れそうなほど緊張していたが、なんとか平静を装って問い返す。
「広い?」
「いや、気のせいか。」
そう言いながら、俺は彼女の机の位置を確認した。
ちゃんと、ある。
彼女も、そこに座る予定の席だ。
教師の合図で、全員が一斉に腰を下ろす。
教室は、いつもの騒がしさを取り戻した。
それでも、違和感だけは消えなかった。
俺はノートを机に置き、門倉に小声で話しかける。
「なあ、席替えってさ。前より机の間隔、変わった?」
「変わってないと思うけど。」
即答だった。
少しも考えた様子がない。
「じゃあ、なんで今日はこんなに歩きやすいんだろ。」
「人が少ないからじゃない?」
「減ってないだろ。転校生もいないし。」
門倉は一瞬、言葉に詰まった。
だがすぐに、曖昧な笑みを浮かべる。
「……そうだね。不思議だね。」
その返事が、妙に引っかかった。
否定もしないし、理由も説明しない。
俺はもう一度、机の列を目で追った。
前から後ろまで、きっちり並んでいる。
数も配置も、いつも通りのはずだ。
「なあ、門倉。」
「なに?」
「もしさ。一人分いなくても、教室って成立すると思う?」
半分は冗談のつもりだった。
だが、彼女は答えなかった。
視線を逸らし、指先で机の縁をなぞっている。
「……成立するよ。」
「え?」
「誰も困らないなら。」
その言い方が、妙に具体的だった。
「門倉、それどういう意味だよ。」
「ただの仮定。」
そう言って彼女は笑ったが、その笑顔はどこか疲れて見えた。
そのとき俺は、ようやく気づき始めていた。
違和感の正体は、空間じゃない。
――最初から、足りないものがない。
普通なら、この事実に衝撃を受け、真相を知ろうとするのかもしれない。
だが俺は、違った。
これは――大チャンスだ、と思った。
門倉が存在しなくても世界が成り立つなら、彼女は誰のものでもない。
そして俺は、その弱みを握っている。
だから、俺は彼女に言った。
「このことは、決して周りに言わない。その代わり、条件がある。」
「……何よ?」
「俺と付き合ってください。」
脅すような形で関係を迫るのが良くないことだとは分かっていた。
それでも、この機会を逃したら、二度とチャンスは来ない――そんな感情が、俺の中を支配していた。
「はぁ? なんで私が……」
「みんなに言ってもいいのか?」
彼女は言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。
「……分かったわよ。付き合えばいいんでしょ、付き合えば。」
伏せた目に、長い睫が影を落としていた。
これが、俺たちの始まりだ。
最初、彼女は俺と付き合うことを嫌がっていたかもしれない。
だが紆余曲折を経て、俺たちは結婚し、子どもにも恵まれた。
今は、幸せだ。
半ば強引に始めてしまった関係への、せめてもの償いとして。
そして、この幸せを守るために。
俺たちは今日も、あの秘密を貫き通している。
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