第6話
声がした。
耳の奥で遠く鳴っていた音が次第に輪郭を持つ。息を吸うと土と木の匂いが鼻についた。
ゆっくりと瞼を上げる。夜空ではない。
淡い光――朝だろうか。木々の隙間はなく、低い屋根が視界に入った。
「……っ」
身体を起こそうとして違和感に手が止まる。
落ちたはずだ。崖の縁で足を取られ、宙に投げ出されて、ぶつかって――激痛で意識が飛んだ。
それなのに身体が痛む気配すらない。
「嬢ちゃん!気が付いたか!」
声の主はすぐ近くにいた。
若い男が覗き込んでくる。
日に焼けた顔。見慣れない服。
けれど言葉は間違いなく日本語だった。
嬢ちゃん――その呼び方に胸がざわつく。
視線を落とす。
白い布。細い腕。
長い髪が肩に落ちている。
(そうだ。今の俺は……)
息を呑む間もなく、男が安心したように肩を落とした。
「大丈夫か?どこか痛むか?」
「痛く……ない……」
小さく響く声はどうしても自分のものとは思えない。
「なぜ倒れてたか思い出せるか?」
視線を巡らせる。
木立の奥に粗い板壁の家が点々と見えた。煙が細く立ち上っている。人の気配に犬の鳴き声。
森の中ではない。
辺りに崖はない、集落のようだ。
状況が繋がらない。
「嬢ちゃん、名前は?」
問いかけは優しい。だが警戒心が先に立つ。
誘拐?悪戯?そんなわけがない。
何でもいい。とにかく帰らないと。
「あの……ここ、どこですか。俺、東京から来たんですけど。」
ゆっくりと、確実に言葉を伝える。
男の眉がぴくりと動く。
「トーキョー?初めて聞く場所だな。」
噛み合わない。
冗談に見えない。真顔だ。
「え?……ここ日本ですよね?」
「ニホン……?も聞いたことないな。」
一拍置いて、男は訝しげな顔をする。
「ここはフツイだ。嬢ちゃん……まさか流されて来たのか?」
フツイ。
知らない地名。日本じゃない……?
なのに言葉は通じている。
頭の中で最悪の推測が渦を巻く。
あり得ない。そんなものが――
足元で何かが動いた。
小さな影が視界に入る。
茶色い毛並み。鼻先を器用に動かしている。
こちらを見るその目は――妙に人のそれのように見えた。
「……ウリ坊?」
男が指差した。
「そいつ嬢ちゃんの連れか?えらく懐いてるようだが。」
連れなわけがない。
そう言おうとするがウリ坊がこちらの膝に鼻先を押しつけた。小突くというより催促するように。
まるで“言え”と言っている。
(……なんだこいつ)
言葉がわかるような。
男の視線が待っている。ここで否定して面倒が増えるのは避けたい。
帰り道も連絡手段も不明。まずは情報を得るべきだ。
「……はい。そうです。」
言った瞬間、ウリ坊が満足したように鼻を鳴らした。
男は笑う。
「可愛いやつだな。とにかく話せるならよかった。少し待っとけ。こういうのに詳しいやつを呼んでくる。」
立ち上がり、家の並ぶ方へ歩いていく背中を見送る。
一人になった途端、膝が震えた。
壁に背を預けて座り直す。ウリ坊が当然のように隣に座り、こちらを見上げてくる。
撫でる気にはならない。
けれど追い払うのも忍びない。
(どこなんだ……)
落下の記憶は確かにある。痛みも、恐怖も。
夢でないのなら誰が?
ウリ坊の目が、瞬きもせずこちらを見ていた。
「まさかね。」
答えが欲しいのに何も出てこない。
ただ、胸の奥に冷たい確信が沈む。
集落のほうから人の声がした。
男が戻ってくる――その前に嘘を用意しなければならない。
無意識に、小さな手は白い衣を握っていた。




