9三人
「いってきます。」
「ええ、先生。いってらっしゃいませ。」
先生が学校へ向かった時、お兄様が起きてきた。
「おはようございます。朝食は机の上に置いていますから、いつでも食べてくださいね。」
お兄様は頭をぽりぽりとかいている。わたしは昨日の事があったので、少し警戒していた。
「……あいつは、毎朝母さんへ線香を焚いとるんか。」
「ええ……。」
「……そうか。」
そうしてお兄様は熊のように歩き去った。
朝食をお召し上がりになっている時、わたしは隣で小説を読んでいた。
「弟は……東京にいる時、母さんやら、父さんやら、俺らのことは言ってたか。」
「え、」
「…………、」
私の方は見ず、飯を見ておられました。口を豪快に開けてかき込む。先生とは真逆の食べ方でした。
「言ってません……」
「……そうか。」
お兄様はまた静かに口を開いた。
「弟は……まだ小説を読んでるんか。」
「はい、お読みに……」
お兄様はまたもや「……そうか。」とおっしゃった。小説を書いているなどは、お聞きにならなかった。きっとお兄様は先生が小説をお書きになっている事を知らない。
「じゃあ、いってくる。」
「はい、気をつけてお帰りください。」
お兄様は一寸の間、わたしを凝視しガラガラと静かに格子を開けて出て行った。
「よし、わたしは買い物にでも出かけようかしら。」
ガヤガヤ
今日は、駅前近くの商店街で買い物です。たくさんの黒いチョンチョンで、昼からでも賑わっている。
「あ、今日はライスカレーにでもしようかしら。作ったことはないけれど、雑誌で調理の仕方も書いてあったし、まぁ大丈夫でしょう。」
と、にんじんとじゃがいも、玉ねぎなどを買って、風呂敷に詰めた。
「重い……あら、お兄様だわ。」
頑張ってらっしゃるのね。一寸、声をかけようかしら。
「……!女の人……?」
お兄様は綺麗な女性の隣を歩いていて、鼻の下を伸ばしていた。黒曜石のように黒い、乱れた髪の毛が印象に残った。
「……いいえ、きっと仕事を見つけるために、一緒にいるのだわ。きっとそうよ。」
わたしは声をかけずに商店街を後にした。
「うん!いい感じ!」
ぐつぐつと煮えたぎる鍋の前で呟いた。カレーのいい香り。きっとこの匂いは、外にも伝わっているはずだ。
ガラガラガラ
「……あ、誰かお帰りになったみたい。」
「おう、なんやここまで来てくれたんか。」
お兄様だった。行く前と全く表情が同じなので、良い仕事先が見つかったか、それだけでは分からなかった。
「お帰りなさい。今日はライスカレーですよ。」
「ふぅん……そうか……うん。」
と、またもやわたしを凝視した。
夜。先生も帰って、三人で夕食を食べることになった。一寸、気まずい。
「「「いただきます。」」」
ご飯を食べていく。みんな、無言だから、話題を吹きかけないと、と言う使命感にわたしは囚われた。
「お兄様、仕事の方はどうです?」
「……あぁ、土木作業が一つと、新聞会社が一つやな。俺は文字とか分からへんし、土木にしようかと思っちょる。」
「いいじゃありませんか。素敵な仕事ですね。」
「あぁ。」
先生は会話に入って来ず、一人で黙々とスプウンでカレーを頬張っていた。
「味はどうです。先生。」
「うん、美味しいよ。」
いつものように、今日あった出来事を話さないので心配になった。
「お兄様は?」
「うまい、うまい。ろくに良いもんを食ってへんかったから、ちゃんとした食事が出来て良かったわ。」
「それは良かった。」
わたしが笑顔で二人を見つめると、お兄様はまた唖然とわたしを見つめ返し、先生はカレーを食していた。
すると、今度はお兄様の方から先生に喋りかけた。
「お前は母さんに線香焚いとるんか。」
「……うん。」
「なんでや。なんでそんなに母さんのことを。お前、いつも当たり障りのない返事しとったやんけ。」
「母さんだから。」
先生は無機質に笑った。
お兄様は先生のことを少し見てから、
「……そう。」
と、下を向きました。
わたしは、二人の間に長い長い距離を感じた。
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翌日。今日は曇りでした。ぶどうの皮のようにどんよりとした天気です。
「あぁ……!無理やった……駄目やった……なんでや……」
「大丈夫ですか……?」
お兄様の仕事はうまくいってない様子です。
「大丈夫もなにも……」
「他の仕事はあるのですか?」
「……ある、あるけど新聞は俺には無理や…………!」
お兄様は畳の上で四つん這いになっている。
「なら、大丈夫です!わたしなんて最初はだめだめで、皿を何枚割ったやら……」
「……ほんまけ?」
「はい、ほんとです。」
お兄様の中にふと先生がいた。気が弱くなる所がそっくりだ。
「じ、じゃあやってみる。お前、よもぎ言ったか。ほんま堪忍な。」
「いいえ。」
次にお兄様は、机の上に置いていた茶をぐいっと飲み干した。
「なぁ、よもぎはんは弟の何なんや。」
「わたしは先生に居候させてもらっているんです。わたしが丁度、困っていた時に先生が助けてくだすったの。」
「なら、女中とちゃうんけ。」
「わたしも女中として名乗っても良いのですが……先生が私のこと、居候と呼ぶもんで。」
「……ふぅん、そうか。」
昼が終わった狭間の、何とも言えない時刻。風が涼しく吹くようになった。
「弟を"先生"と言うのは何でなんや。確かにあいつは教師やけど、貴女の教師やないやろ。」
「はい……そうなんですけれども、名前で呼ぶのはちぃっと恥ずかしいと言いますか……恐れ多いと言いますか……」
「好きなんか。」
「いえ!そんな滅相もない……!」
また、お兄様はわたしをじっと見つめた。




