8兄
蝉はもう、鳴かなくなりました。
「おい、どうなんや。これやから都会の奴は。」
「えぇっと、」
昨晩、先生に「お兄様から手紙です。」と渡すと、また怪訝な顔をしてらっしゃった。
その人が今、わたしの目の前にいる。
「なぁ、弟の家なんやろ?お前はあいつの女中か?また金の無駄遣いをしおって。」
「違います。」
「違いますもなにも、弟の友人が言ってたわ。ここに住んどるってな。」
「弟様は先日、お亡くなりになってわたしが今家を持っているんです。」
先生の言われた通り、噓を言った。心臓がとくんとくんと鳴っている。
「あぁ?そんなわけあるかろう。邪魔やどけ。」
「あ、待って!」
すると、壊れるほど豪快に格子を開けなすって、
「おい!俺や!!庄一や!!いるんやろ!」
と叫びました。
「何遍も無視しやがって!!」
お兄様は下駄を乱暴に脱ぎながら、廊下をドスンドスンと歩きました。
「勝手に入らないでください!警察呼びますよ!」
「あゝ?俺が実の弟の家に入って何か悪いことでもあるんか。家族やぞ?」
わたしは何とも言えませんでした。一度も先生のご家族に会ったことなんてないから、先生の最善が分からなかったんです。
そしてお兄様は、居間や、台所、洗面所まで隅々と散策した挙句、「なんや、俺よりいいとこ住みやがって。」と小言を申し上げていらっしゃいます。わたしは為す術もなくただ、後ろを心配してついて行くだけでしか出来ませんでした。
「あ、そこは……!」
「ここか!」
ピシャ
「やぁ。」
とうとう先生の部屋が見つかってしまいました。
先生は机に向かって何やらお書きになっているご様子で、お兄様の顔を見、淡々と清々しく笑っていました。
「お前!俺の手紙を何度も無視しやがって!」
「まぁ、一旦座わりやしませんか。」
「……ん、あぁ。」
相手も先生が突拍子もない、落ち着きを払っているので驚いているようだった。
「よもぎさん、お茶をお願い。兄さん、客間に案内するよ。」
「いい!早う話しつけたいからここでいい。」
「分かりました。」
大丈夫かしら。先生。
――――――――――――
わたしは居間で羽織りのお直しをしていた。一階にいるのに、話し声が筒抜けに聞こえて来た。随分と話が長くなっているようだ。
「……聞いちゃ駄目なのに、聞こえてくるわ…………。」
文章自体は聞こえてこないけれども、単語単語では聞き取れるので、話の内容は大体理解できた。
二人は金の話をしていた。
ツー、ツー、と糸を通していく。
「そう言えば、近所の大きな家の人手が足りないって言ってたわね。丁度、全盛期で忙しくなるとか……」
わたし、昼は暇だから先生に話でもつけて少しでもこの家を支えられるよう、仕事をしてみようかしら。
するといきなり、
バンっ!!
「……?!先生の方からだわ……!何かいけない事でもあったのかしら。」
わたしは急いで部屋へ向かい、襖を開けました。
「先生……!!」
「お前は……いつもいつも……!」
「……。」
先生はお兄様に殴られていました。
お兄様が先生の胸ぐらを掴み、息を荒く、顔も赤く染め上がっていました。
一方、先生は真反対に冷静で、殴られた頬を赤くしながら相手をよく観察するような目で見ていらっしゃいました。けど、一寸だけ子供が反省しないで、くずるような仕草もあったように思われます。
「俺が、俺が今切羽詰まってるって言うのに……お前は助けてくれへんのやな……!この薄情者が!」
「…………。」
――――――――――
俺の弟はいつも成績優秀やった。
「すごいなぁ……!君の弟さん、賢いんやってね。」
近所の奴らに会うと、話はいつも弟の出来のいい話をされた。ずっといつも必ず弟の話ばかり。もううんざりしとった。いや、自然に聞き流す癖ができたからそこまではうんざりしていない。
その点、俺は、
「お前、また馬鹿やっとるん?お前はあの子を見習ったらどうや?」
友から言われた辛い言葉は俺の幼い心を傷つけた。
「ねぇ、あすこの長男、また縁談破棄になったらしいよ……」
この町は異常や。異常なほどに狂っとる。何か善い事をすると噂され、また、何か悪い事をすると噂される。馬鹿や。馬鹿すぎる。腐った鰯の目でも喰っとけ。
そして弟は、いつの間にかこの町を引っ越した。何も言わずに、急にお國を捨ておった。
怒りと屈辱が腹ん奧からふつふつと噴き上がって来たが、宅の物が次々と壊れていくだけやった。けど、やめられへんかった。
「……俺も出てこうかな。」
いや、俺のような馬鹿は一生ここにいた方がましか。
そう思っていた矢先、俺の勤めている会社が倒産した。
「ど、どうすれば……」
頼る奴もおらん、親ももう一人の妹も頼れん。俺は妻も子もいない。長男やのにこの性格やからか、縁談は全部台無しになった。家族の中で唯一、結婚しとるのは一番下の妹だけ。あいつはなんやら見返りを求めてきそうや。だから、一番下の妹にも頼れん。
そうか、賢い奴にせがめればいい。
そう思い立った俺は、事情を話して弟の友人に住所を聞き出した。どうやら、えらい都会に住んどるらしい。
何通も何通も手紙を東京へと送った。送ったけど、返事は一通も来んかった。
「あいつ……もしかして……死んだんか……?」
違った。弟の友が教えてくれた。ついさっき東京から帰ってきた弟の友が。あいつは噓を吐きやがった。男と言うものは噓を吐かないものだ。
俺は藁にもすがる思いで、残りの全財産を持ってあの家へと向かった。
金がないと、俺の命もない。
――――――――――――
「おい、何でくれんのや。なんで……!なんで、借してくれんのや。なあ……!」
「どうしても貸せない。」
「なんで……俺、お前になんかしたか…………」
「……、」
先生は前髪を垂らしながら、目を逸らす。そして、わたしは何故か先生が飴のようにころころと笑っている姿を思い出した。
「分かった……すまん、俺はもう死ぬわ。」
「そ、れは……駄目だ。仕事が見つかるまでここに泊まらせるから、それは止めよう。」
それからお兄様は胸ぐらを離し、正座をし、お天道様に向かって、手を合わせました。
「ありがとうございます……、ありがとうございます……」
先生はただそれを見ていた。
お天道様への感謝は忘れぬ。己へ感謝は一向に向けられない、天に拝む男は人の果たすべき事を忘れたのだ。人としてのやり方を忘れたのだ。
――――――――――
夜、お兄様は空いている部屋でゆっくり寝ていらした。大事にならなくて良かったです。
「ごめんね、よもぎさん。」
「いいえ、わたしの腕の見せ所です……!ご飯や洗濯、頑張りますよ〜!」
「あはは、ありがとう。」
先生は手当した頬で、虚ろにわたしへと微笑みかけた。
働く事は、お兄様が職が見つかった時に話そう。
「賑やかになりますね。」
先生はわたしの言葉に返事をしなかった。けれど、代わりにこう言った。
「もし…もし兄さんに嫌な事をされたら僕に知らせて。隠さないでね。」
先生は遠い過去に何があったのだろうか。
兄→荒っぽい




